Russell's Simple Proof of the Class Not Being Individuals

Class は個体 (individual) ではないとする興味深い論証が Bertrand Russell の著作にあったので、以下にそれを引用します。

Class や個体が正確に言って何であるかは、重要な問いではあるものの、それを検討している時間もなく、私の手に余る問いでもあるので、今は問わないことにさせていただきます。

Class が個体であるかどうかなど、どうでもよいと思われるかもしれません。どちらでもいいような気もします。しかし、class が個体であるかどうかということは、先日の日記でも少し触れましたが*1、Comprehension Principle と密接な関係にあります。そして Comprehension Principle が重大な principle であることは、一般に認められていると思います。という訳で、以下に引用する、class は個体ではないとする Russell の論証が、非の打ちどころのないものであれば、その論証は Comprehension Principle の理解に大きな影響を与えるものと思われます。

それでは問題の箇所を引用してみます。英語原文を引用した後、幸い邦訳が出版されていますので、その邦訳も引用しておきます。なお以下の引用文中で、Russell は 'individuals' という言葉を使わずに 'particulars' という言葉を使っています。Russell の哲学において、individuals と particulars は、厳密には異なるものなのかもしれません。しかし以下の論証では、あまり strict に話を展開しているようではないと思われますので、individuals と particulars は、大体のところ同じものとして理解しておきます。また以下では、class と集合 (set) を区別せずに扱うことにします。

 You can start with the question whether or not there is a greatest cardinal number. Every class of things that you can choose to mention has some cardinal number. That follows very easily from the definition of cardinal numbers as classes of similar classes, and you would be inclined to suppose that the class of all things there are in the world would have about as many members as a class could be reasonably expected to have. The plain man would suppose you could not get a larger class than the class of all the things there are in the world. On the other hand, it is very easy to prove that if you take selections of some of the members of a class, making those selections in every conceivable way that you can, the number of different selections that you can make is greater than the original number of terms. That is easy to see with small numbers. Suppose you have a class with just three numbers, a, b, c. The first selection that you can make is the selection of no terms. The next of a alone, b alone, c alone. Then bc, ca, ab, abc, which makes in all 8 (i.e., 2^{\scriptsize3}) selections. Generally speaking, if you have n terms, you can make 2^{\scriptsize n}) selections. It is very easy to prove that 2^{\scriptsize n} is always greater than n, whether n happens to be finite or not. So you find that the total number of things in the world is not so great as the number of classes that can be made up out of those things. I am asking you to take all these propositions for granted, because there is not time to go into the proofs, but they are all in Cantor's work. Therefore you will find that the total number of things in the world is by no means the greatest number. On the contrary, there is a hierarchy of numbers greater than that. That, on the face of it, seems to land you in a contradiction. You have, in fact, a perfectly precise arithmetical proof that there are fewer things in heaven or earth than are dreamt of in our philosophy. That shows how philosophy advances.
 You are met with the necessity, therefore, of distinguishing between classes and particulars. You are met with the necessity of saying that a class consisting of two particulars is not itself in turn a fresh particular, and that has to be expanded in all sorts of ways;*2

 最大の基数 cardinal number は存在するかという問題から始めましょう。基数は、類似したクラスからなるクラスとして定義されますが、ここからすぐに「私たちが取り上げうるものからなるクラスは、すべて何らかの基数を持つ」ということが出てきます。そこで、この世のすべてのものからなるクラスは非常に多くの要素を持ち、その数たるや、それ以上多い数の要素を持つクラスがあると考えるのは不合理なくらいだと、こう想定したくなるかもしれません。この世にあるすべてのもののクラスよりも大きいクラスなどありえないと思ったとしても、それは人としてごく普通のことでしょう。その一方で、次のことがごく簡単に証明できます。すなわち、一つのクラスからその要素をいくつか選び出すとします。そのとき、考えられる限りすべての組み合わせで選び出すとすると、その選び方の数は、もともとの要素の数よりも多くなる、ということです。これは小さな数を例にすれば簡単に分かります。a, b, c の三つしか要素がないクラスがあるとすると、まず、どの項も選び出さないというやり方が可能です。つぎに a だけ、b だけ、c だけというやり方。それから bc, ca, ab, abc と、合計で 8 (つまり 2^{\scriptsize3}) 通りの選び方があります。これを一般化して、n 個の項があるとき、2^{\scriptsize n} 通りの選び方があると言えます。2^{\scriptsize n} が n よりも大きいことは簡単に証明できますし、 n がたまたま有限であろうと無限であろうとかわりません。してみると、この世にあるものの総数は、そうしたものから作りうるクラスの数ほどは大きくないことがわかります。これらの命題を証明する時間がありませんから、今はとにかく受け入れてくださるようお願いします。証明なら、すべてカントールの著作で与えられています。以上のことから、この世にあるものの総数はけっして最大の数ではないことがお分かりでしょう。それどころか、さらに大きな数がさらに先へと続いているのです。これは一見したところ矛盾を招き寄せるように思えますが、しかし実際、この世にあるものの数は私たちが哲学するときに思い描くものの数よりもはるかに少ないという、厳密な数学的証明まであるのです。これは哲学にとって進歩とはどういうものなのかを示しています。
 かくして、個物とクラスを区別しなければならなくなりました。あるクラスが二つの個物からなるにせよ、そのクラス自体は新たな個物にはならないとすべきであり、そしてこれは二つ以上のいかなる数についてもそうすべきです。*3


Class は個体ではないとする Russell のここでの論証を、補足を入れながら、簡潔な形で再構成してみましょう。Russell はここで、次のようなことを言おうとしているのではないかと思われます。

今、この世におけるすべての個体を集めて class を作ります。その class を C とします。C には、ありとあらゆる個体が入っています。入っていない個体はありません。

次に、C に含まれている個体の数を n としましょう。n は個体のすべてを表す数です。ありとあらゆる個体の数が n によって表されているので、個体すべての数が n を超えることはなく、n より大きい数は個体の数を表していません。

ところで Cantor's Theorem (Cantor's Diagonalization Theorem) によると、ある集合が持っている数 (cardinal number / cardinality) を m とすると、その集合の冪集合が含んでいる部分集合の数は 2^{\scriptsize m} となって、必ず冪集合の数の方が大きくなります。

そうすると、C に含まれているものの数 n に対し、C の冪集合 P(C) が含む部分集合の数は 2^{\scriptsize n} となって、2^{\scriptsize n} > n が常に成り立ちます。

さて、n は個体すべての数を表していました。そしてこれを超える数は個体を表す数ではありませんでした。したがって、P(C) の含む部分集合すべてを表す 2^{\scriptsize n} は n よりも大きい数なので、個体を表す数ではありません。よって class は個体ではありません。Q.E.D.


上で引用した Russell の論証を、class は個体ではないことを論証しているものとして理解するならば、今再構成したような論証が上記引用文の背後にあるのではないかと推測します。

さて、以上のような Russell の論証は説得力があるでしょうか。Class は個体ではないとする、非の打ちどころのない論証でしょうか。私はと言うと、この論証にはあまり説得されないでいます。Russell ほどの偉大な論理学者が述べていることなので、本当は非常に説得力のある論証なのかもしれませんが、能力の欠けている私には、簡単にいなせてしまう論証のように感じます。しかし、この論証に対する可能な反証を熟慮できていないので、今ここでその反証を提示することは控えます (ちょっと卑怯な言い方ですみません、Russell 先生。) Class は個体ではないとする論証としては、上記の論証ではなく、むしろ Russell Paradox によって生じる矛盾に着目し、この矛盾故に class を個体とは見なせないという形で論証を展開する方が、まだしもましだと思われます。(そのような論証を支持するにしろしないにしろ。) 実際に Russell は、今言った矛盾に着目することによっても class を個体ではないと考えていたのですが*4、その際には、私の理解では、the theory of types の力を借りて、class を個体ではないと主張していたように思われます。つまり、Russell Paradox によって現に矛盾が生じ、かつこの矛盾回避には the theory of types に援助を求める以外になく、かつ the theory of types が正しいとするならば、その時、class を個体と見なすことはできない、という筋道で論証を展開していたように思われます。

しかしながらそうすると、今回、上で引いた引用文中に見られる単純な論証によっては class を個体ではないと主張することはできなくなります。もっと複雑で大がかりな理屈を持ち出さなければならなくなるということです。できるだけ simple に class は個体ではないと論証できれば、その場合、そのような論証に魅力を感じることはありますが、the theory of types を持ち出してこなければならないような論証ならば、そのような論証にはあまり魅力を感じられないというのが、私個人の印象です。


最後に。
上では邦訳も引用しました。その邦訳を読んでいて、簡単な表現で書かれていながら、よくわからない部分があったのではないかと思います。その部分を少し解説してみます。
その部分とは、邦訳の引用文後半、一つの段落が終わる部分がありますが、その終わりで次のようにありました。

しかし実際、この世にあるものの数は私たちが哲学するときに思い描くものの数よりもはるかに少ないという、厳密な数学的証明まであるのです。これは哲学にとって進歩とはどういうものなのかを示しています。


実は言うと、私は最初、邦訳を読み、それから英語原文を読んだのですが、邦訳を読んだ時に、今引用したばかりの数行が理解できませんでした。ここでは何も難しい哲学用語が出てきていませんし、文章の構造も何ら入り組んでもいません。まったく平易な訳文ですが、私はこれを読んで、「何だか今一つよくわからない、Russell は一体ここで何が言いたいのだろう?」と思いました。そもそもなぜ邦訳の「私たち」と「少ない」の部分が太字になっているのか、よくわかりません*5。原註も、訳註も、何も示唆してくれません。しかし英語原文を読んでみて、初めて理解できました。英語原文をもう一度上げてみましょう。

You have, in fact, a perfectly precise arithmetical proof that there are fewer things in heaven or earth than are dreamt of in our philosophy. That shows how philosophy advances.


私はこの原文を読んで、「あっ、これはもしかして、あれではないか?」と思いました。英語でも邦訳でも何も触れられていませんが、Russell はここで、ある文豪の作品から、有名な文章をもじって利用しているのです。そして、そうすることによって、その作品のよく知られたある登場人物をあてこすっているのだと思います。お気付きの方もおられるかもしれませんが、その文豪と、その作品の名前とは、William ShakespeareHamlet です。


念のために確認してみました。Shakespeare を研究されている方は、多くの場合、何事か確認する場合にはとりあえず Arden 版を頼りにされているでしょうから、私もすぐにひも解くことのできた以下の Arden 版を開いてみました。

この本の p. 225, 第1幕第5場165-166行目に、Hamlet のせりふとして、以下のようにあります。うまい訳ではないと思いますが、試訳も付します。

There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.


天地の間のこの世にはな、ホレイショよ、いわゆる哲学なんぞには夢にも思わぬものが、たくさんあるのだ。


ここで Hamlet は、頭でっかちの Horatio に、「世の中には哲学なんかには捉えられない神秘が、たくさんあるのだ」と言っています*6。そうすることで、Hamlet はちょっと哲学を小ばかにしているとも受け取れます。


今度は、改行を入れつつ、Russell の問題の文章を引用してみます。

You have, in fact, a perfectly precise arithmetical proof that


there are fewer things in heaven or earth
than are dreamt of in our philosophy.


That shows how philosophy advances.


Shakespeare の文章で、'in heaven and earth' となっていたところが、Russell の方では、'in heaven or earth' となっていますが、それを別にすれば、Russell が italics にしたところで Shakespeare の文章と異なっています。つまり Russell はここで Shakespeare のせりふをもじって引用しているのです。


Hamlet は Horatio に、我々の言ういわゆる哲学 (your philosophy) なんぞというつまらぬものでは捉えられないことが、世の中にはたくさん (more) あるのだと言いました。一方 Russell は、'perfectly precise arithmetical proof' を伴った当代の Cantor's Theorem によって、世界に存在するものの数が class の数よりも、ずっと少ない (fewer) ということが、哲学的教訓として明らかになったのだとし、Hamlet が念頭に置いて小ばかにしていたその哲学 (our philosophy) によって、重要な知見に進歩がみられたのだ (philosophy advances) と述べているものと思われます。


もう少し敷衍してみましょう。

Russell 「Hamlet 君が言う、我われの普段思い浮かべる、つまらぬものとされている哲学 (our philosophy)、そんな哲学では夢にも思わなかっただろうが、我らの哲学では、厳密な数学的証明に基付いて、この世のものの数の相対的な大小が、以前の哲学では想像もしなかったような哲学的結論として引き出し得るようになったのだ、これを哲学的進歩と言わずして、何と言えばよい? Hamlet 君が言う哲学は、無益でも停滞しているのでもないのだ。」

こんな感じでしょうか。


そうしますと Russell の問題の文章は、うまい訳ではありませんが、思い切って次のように意訳できるかもしれません。

天地の間のこの世にはな、君の言う哲学なんぞでは夢にも思わぬほど、わずかなものしかないのだ。
事実、このことの完全に厳密な数学的証明を我々は今、手にしているのであって、我らの哲学も実に進歩したものだ。


思うに、Russell という人は、文学的素養の豊かな人であって、論理式だらけの Principia においても、Laurence Sterne の The Life and Opinions of Tristram Shandy から、黙って引用していましたし*7、the theory of descriptions が出ている ''On Denoting'' においても、有名な the Gray's Elegy Argument がありました*8。Russell 読みの人は、「英文学読み」でもなければならないようですね。


本日の私の話に、誤解や誤訳、見当違いや牽強付会の論などがございましたら謝ります。大変すみません。今後も勉強に精進致します。

*1:2012年9月15日、'Supplements to the item 'Who Was the First to Formulate Comprehension Principles as an Axiom?''

*2:Bertrand Russell, ''The Philosophy of Logical Atomism,'' in his Logic and Knowledge, Robert Charles Marsh ed., Routledge, 1956/1992, pp. 259-260.

*3:バートランド・ラッセル、『論理的原子論の哲学』、高村夏輝訳、ちくま学芸文庫筑摩書房、2007年、166-168ページ。引用文中の太字の部分は、邦訳原文では傍点です。このちくま学芸文庫版は、先に引用した Marsh 版からの和訳ではなく、The Collected Papers of Bertrand Russell, Volume 8: The Philosophy of Logical Atomism and Other Essays 1914-19 からの訳です。和訳の引用に際しては、原註、訳註ともに割愛しました。

*4:Bertrand Russell, Introduction to Mathematical Philosophy, Routledge, 1993 (first published in 1919), pp. 135-137, 183, ラッセル、『數理哲學序説』、岩波文庫岩波書店、1954年、178-180, 239ページ。Alfred North Whitehead and Bertrand Russell, Principia Mathematica to *56, Cambridge University Press, Cambridge Mathematical Library, 1997, p. 166.

*5:邦訳原文では太字ではなく、傍点です。

*6:安西徹雄、『英和対訳 シェイクスピアの名せりふ100』、丸善ライブラリー 348, 2001年、178ページ。

*7:当日記、2011年8月16日、'Russell on Slawkenburgius' をご覧ください。

*8:当日記では、たびたび the Gray's Elegy Argument に触れていますが、今日の話の流れからは、当日記、2006年6月3日、「Russell と グレイ『墓畔の哀歌』」をご覧ください。(そう言えば、記述の理論に出てくる例文は、W. Scott でしたね。2012年10月13日 追記。)