Does Professor Marco Ruffino's Paper ''Why Frege Would Not Be a Neo-Fregean'' Has a Weakness with an Argument concerning Frege's Reasons for the Acceptance of the Definition of Cardinal Numbers by Means of the Extensions of Concepts?

  • Marco Ruffino  ''Why Frege Would Not Be a Neo-Fregean,'' in: Mind, vol. 112, no. 445, 2003.*1


この論文では、論文表題から推測されるように、Frege が Hume's Principle を公理として受け入れられなかった理由が述べられています。その理由を述べ、根拠付けることが、この論文の主な狙いの一つとなっています。ここでは、その理由と根拠付けに関し、個人的に疑問に感じることが一つありますので、それを記してみようと思います。なお、この私の疑問は、単なる純粋な疑問であって、論文著者である Ruffino 先生に対し、問責しているのではございません。「おや、これはどういうことだろう? ちょっとよくわからないので、またおいおい考えてみたいな」というような、素朴な疑問のことです。ですので、これから記すことは、よくよく考えられたことではなく、何となく感じたことを記しただけですので、ひどい見当違い、勘違いをしている可能性があります。ですから、下記の話をそのまま信じてしまわないようにしてください。読まれる場合は、批判的な姿勢を堅持してください。私の以下の話は間違っている可能性が極めて高いので、それらの誤りに対し、前もってお詫び申し上げます。


それではまず最初に、Frege が Hume's Principle を公理として受け入れなかったとされる理由が明示されている個所を、引用してみましょう。

If extensions are the paradigmatic case of logical objects, and if the recognition of the logicality of an object is conditioned for Frege on its reducibility to extensions, then we can see why he could not have adopted the way out suggested by Wright and Boolos. Adopting Hume's Principle as axiom would be efficient from a technical point of view, but would be incompatible with Frege's concern to make evident the logical nature of arithmetic. A system composed of second-order logic plus Hume's Principle would be consistent and would also yield all the relevant results of arithmetic, including the infinity of the series of natural numbers. But the recognition of arithmetic as part of logic in this case would depend on blindly accepting numbers as logical objects, without any reduction to entities that were referred to in an essential way in logical theory as it is the case with extensions (or value-ranges). In Frege's eyes, this would not be a convincing strategy at all, and would amount to giving up logicism.*2

外延が論理的対象の典型例であり、かつ、Frege にとって対象が論理的なものだと認められるのは、それが外延に還元可能な場合にかかっているのだとすれば、なぜ Frege が Hume's Principle を公理として認めなかったのかがわかる、と言われています。今、外延が論理的対象の典型例だとしましょう。そして対象が論理的なものだと認められるためには、それが外延に還元できねばならないとしましょう。そして概念の外延に訴えることを一切拒否して、ただ Hume's Principle を公理として認めるだけにしましょう。その時、通常、Hume's Principle の左辺に配される基数 operator が表す対象は、今、概念の外延を持ち出すことは禁じられているのだから、概念の外延であったり、概念の外延に還元できるようなものではない、ということになります。すると、Hume's Principle の基数 operator が表す対象は、論理的な対象ではない、ということになります。これでは論理主義を完遂できません。だから Frege は Hume's Principle にとどまることができなかったのだ、という訳です。

上の引用文中で最も重要なことは、数という対象が論理的な対象であるためには、外延が論理的な対象の典型例であり、かつ、対象が外延に還元可能でなければならない、ということだと思います。これが言えるためには、外延が論理的な対象の典型例であるということが確かに立証できねばならず、かつ、対象が論理的なものであるのは、それが外延に還元可能でなければならない、ということが確かに立証できねばなりません。

では、外延が論理的な対象の典型例であると言われるのは、なぜなのでしょうか。この論文では、論理的対象の例として、三つのものが上げられています。一つは数であり、一つは概念の外延であり、一つは真理値です*3。これら三つの中でも概念の外延が論理的対象の典型例であると言われるのは、次のような事情によります。Frege によると、論理学は概念を扱います。概念を扱わずして、論理学を行うことはできません。論理学の核心にあるのは概念です。しかし概念について述べようとすると、不整合に陥ります *4。そのため、直接概念について述べるのではなく、その概念に常時相伴っている概念の外延について述べる必要が出てきます。したがって、概念の外延は、概念に相即しているので、論理学が扱う典型的な対象であると言えるのです*5。 大まかではありますが、一応、今の論証は、妥当性を有するものとして認めることにします。

では次に、なぜ、Frege にとり、対象が外延に還元可能なら、それは論理的な対象だ、と言われるのでしょうか。Frege は論理的対象を概念の外延として把握して (apprehend) いました。彼にとり、論理的対象とは何かと言われれば、それは概念の外延だ、と答えたでしょう。さらに Frege は、数を論理的対象として把握しなければ、数学に論理的な基礎を与えることはできないと考えていました。繰り返すと、Frege は論理的対象を概念の外延として把握しました。そして、彼は数を論理的対象として把握しました。この把握するという関係が推移律を満たすなら、Frege は、数を概念の外延として把握すべきだ、と考えていたことがわかります。今、何度も「把握する」という言葉を使いましたが、Frege にとって把握するとはいかなることだったのでしょうか。数を概念の外延として把握するとは、いかなることだったのでしょうか。Grundgesetze の第1巻を見ると、数と概念の外延の間に成立すると Frege が考えていた唯一の関係は、同一視する (identify) または還元する (reduce) というものでしかありませんでした*6。したがって、Frege が数を概念の外延として把握すると言う時、前者が後者と同一視される、または前者が後者に何らかの形で還元される、ということを言っていたのです。よって、数を概念の外延として把握すべきだと Frege が言っている時、彼が言っているのは数を概念の外延と同一視すべき、または数を概念の外延に還元しなければならないと言っているのです。ところで数を概念の外延に還元できない場合には、数学に論理的な基礎を与えることはできないと、Frege は考えていました。数を、論理的な対象である概念の外延に還元できることが、唯一、数学に論理的基礎を与える道であると、彼は考えていました。つまり概念の外延が数学に対する唯一の論理的基盤をなしていたのです。したがって、この唯一の基盤である概念の外延に数という対象を還元することが、数という対象の論理性を保証する唯一の道であり、数のみならず、対象一般の論理性をも保証する唯一の道なのです。このような訳で、Frege は、対象が外延に還元可能な場合には、それを論理的な対象と見なしてよいと考えたのです。*7

正直に言えば、今述べた論証が、本当に成り立つのか、私は確信を持てないでいます。Frege にとって対象が論理的なものだと認められるのは、それが外延に還元可能な場合なのだ、ということが論証されているのは、脚註部分も含め、この論文の p. 56 の中盤から、p. 57 の冒頭部分にかけてのみです。しかし、この部分を詳しく読んでも、すっきりとした論証になっていないように見えます。何となくわかるが、何となくしかわかりません。最初に読んだ時にはわかったと思いましたが、そこで展開されている論証の詳しい構造を明らかにしようと、二度、三度、読み直してみると、何だかわからなくなってきました。明快で、simple で、一部の隙もない論駁不可能な論証、とはなっていないように思われます*8。今述べた論証は、この論文の p. 56 中盤から、p. 57 冒頭部分にかけての話を、できるかぎり好意的に解して提示したものです。Cool な性格の人なら、もっと厳しい解釈を示し、場合によっては、この問題の部分の論証は成立していない、実のところ、破たんしている、とまで言うかもしれないと感じます。

という訳で、本音のところでは、この論文の p. 56 中盤から、p. 57 冒頭部分にかけての論証を、私の能力不足により、はっきりと理解できないので、この論証が本当に成立しているか否かを追及することはやめます。差し当たり、問題の論証は成立するものとして認めることにしましょう。

ここでの Ruffino さんの結論をまとめると、次のようになると思います。外延が論理的対象の典型例であり、かつ、Frege にとって対象が論理的なものだと認められるのは、それが外延に還元可能な場合にかかっているのだとすれば、概念の外延による、数の明示的な定義がないところでは、Hume's Principle の左辺の基数 operator が表す対象は、概念の外延に還元される対象を表しはしないので *9、Hume's Principle を最終的な数の定義式だとする場合、数はその論理性を保証されず、論理的対象としては認められないことになります。だから Frege は Hume's Principle を数の定義式であることは捨て、あるいは文脈的な定義を行っている公理であることは拒絶し、概念の外延による明示的定義を採用して、自ら Neo-Fregean であることをやめたのです。こうして、Hume's Principle でなされているように、その右辺でその左辺の基数 operator を定義したとしても、数を論理的に定義したことにはならない、という訳なのです。


さて、今まで何度も Hume's Principle に言及してきましたが、ここでもう少し詳しく Hume's Principle のことを思い出してみましょう。どのように定式化しても差し当たり問題はないのですが、仮に以下のようにその原理を書くとしましょう。

    • N(F) = N(G) .⇔. ∀x ( Fx ~ Gx ) *10


'=' は等号、'⇔' は双条件法記号、'~' は等数である (gleichzahlig) ことを示す記号です。この式では一般に、左辺の基数 operator N を右辺でもって、implicit に定義していると見なされています。Implicit な定義を Frege は認めませんでしたが、今はそのことは問わないことにします。Implicit であれ何であれ、上記の Hume's Principle では、左辺の基数 operator N を右辺で定義していると考えられます。右辺を見るならば、そこで鍵となっている特別なものと言えば、等数関係だけです。等数関係は今で言うところの全単射写像です*11。この写像は、特別な考えを持ち込まずとも、ただの論理的な関係として定めることができると考えられています。Frege 自身、Grundlagen で、それを行ってみせ*12、それは純粋に論理的な関係だ (rein logische Verhältnisse) と彼は言っています*13。Neo-Fregean の two top である Hale and Wright さんは、Hume's Principle を、論理的な語彙からなる implicit definition だと言っています*14。Ruffino さんも、Frege の考えに言及しつつ、等数関係には純粋に論理的な定義 (a purely logical definition) があると言っています*15

このようにして、Frege も、Hale and Wright さんも、Ruffino さんも、Hume's Principle では、その右辺で左辺の基数 operator N を論理的に定義している、と考えているものと思われます。とすると、つまり、Hume's Principle では、左辺の基数 operator N を、implicit ではありますが、右辺の論理的な言葉 (と現代の記法ではカッコなどの補助記号) だけで定義できていることになるのではないでしょうか。ここでは、Frege も、Hale and Wright さんも、そして Ruffino さんも認めるように、数が論理的に定義できているのではないでしょうか。Ruffino さんは、Frege にとり、数は Hume's Principle によるのではなく、概念の外延で定義されねばならなかったのだ、と主張されています。しかし、今確認したように、Hume's Principle で数は論理的に定義できているように見えます。だとすると、既に論理的なものとして定義し終えているのに、なぜまた新たに論理的とされる概念の外延で数を定義し直す必要があるのでしょうか。Implict であることを除外したとしても、そして Caesar Problems を除外したとしても、Hume's Principle では駄目なのでしょうか*16。Hume's Principle では盲目的に数を論理的対象として認めてしまうことになる (blindly accepting numbers as logical objects) と Ruffino さんはおっしゃいますが*17、real definition でもない限り、定義とはそもそも「盲目的」なものです。Hume's Principle が implicit な定義であることや、Caesar Problems を招き寄せてしまうことを別にして、その原理ではいけない理由は、Ruffino さんによると、概念の外延に還元できないなら、数を論理的に定義したことにはならないからということですが、Hume's Principle の右辺で左辺の基数 operator が実際に論理的に定義できているとされているのに、なぜ再び概念の外延に還元されねばならないのでしょうか。一旦論理的に定義されたものを、さらに再び論理的に定義し直すということは、いかにも不自然ではないでしょうか。Hume's Principle による論理的定義では不十分なので、論理的対象の論理性をより高めるために、数を再び概念の外延によって定義し直しているのでしょうか。しかし Frege は論理性にそのような程度の差を認めていたでしょうか。そもそもこれは程度の問題なのでしょうか。Ruffino さんの説明によると、Hume's Principle を定義としては捨て、概念の外延による定義へと、Frege が定義を乗り換えたのは、論理性の程度を考慮してのことという、いわば単なる程度の問題になりかねない危うさをはらんでいることになるのではないでしょうか。


Hume's Principle の右辺で左辺が本当に論理的に定義できているのか、定義できている場合、さらに概念の外延による論理的定義をなすことは、論理性の程度を高めるためなのか、その場合、それは程度の問題に堕してしまいはしないか、それとも、そもそも私が何か決定的な誤解をしてしまっているのか、これらの疑問について、今は十分な答えを用意できないでいます。


なお、上記の話題について、関連してくる話を Ruffino さんは、次の論文で考察しているようです。

  • Marco Ruffino  ''Logical Objects in Frege's Grundgesetze, Section 10,'' in Erich H. Reck ed., From Frege to Wittgenstein: Perspectives on Early Analytic Philosophy, Oxford University Press, 2001,

In this paper, I discuss three main issues concerning Frege's arguments in Grundgesetze, Section 10. (1) I argue against the view according to which Frege's procedure is insufficient to guarantee that names of extensions (or, more generally, names of value‐ranges) are really referential. (2) I discuss whether Frege meant to include other kinds of objects besides truth‐values and value‐ranges in the range of first‐order variables of his logical system. Finally, (3) I challenge the view according to which Frege's decision to make some stipulations concerning the identity of value‐ranges is incompatible with his alleged Platonism. Central to my approach is an elucidation of Frege's views on logical objects.

幸い、この論文が収録されている本を持っており、この論文のなかをちらっと見てみたことはありますが、まだちゃんと読んでおりません。今まで記してきた今回の私の疑問について、この未読の論文を読むならば、私の疑問が氷解するかもしれません。この未読の論文を読んで初めて、今回記してきた Ruffino 論文に対する公正な評価が可能になるかもしれません。という訳で、未読論文を読むまでは、今回の Ruffino 論文についての最終的評価は、保留にしておきたいと思います。


以上の記述で、誤解、無理解、浅薄な考えが見られましたらお詫び致します。誤字、脱字の類いにもお詫び申し上げます。誠に申し訳ございません。

*1:この論文には邦訳がありますが、英語原文の細かな nuance にかかわってくる話を以下では記述しますので、ここでは邦訳には触れません。どうかお許しください。邦訳に対して他意はまったくございません。この点、強調しておきます。

*2:Ruffino, pp. 70-71.

*3:Ruffino, p. 56.

*4:The Concept Horse Paradox. See Ruffino, Section 3.

*5:この paragraph については、see Ruffino, Section 5.

*6:Grundgesetze の第1巻のどこを見ると、Frege にとって、数と概念の外延の間に成立する唯一の関係が、同一視する、または還元するというもののみだったと言えるのか、その典拠先の情報が、この論文には全くありません。おそらく、数と概念の外延の間に成立する唯一の関係は、Ruffino さんの言う通り、確かに同一視または還元の関係しかなかったのだろうと当方も想像しますが、大切な論証を根拠付けるに当たって、きちんとした出典情報を欠いているのは、ちょっとまずいのではないかと思います。

*7:この paragraph は、Ruffino, p. 56 の中盤から後半部分の内容をまとめたものです。

*8:関連することですが、問題の論証のp. 56 の終わり辺りにおいて、結論に相当する文がいくつかありますが、その文中では 'seems' という法を表わす動詞が二回出てきます。例えば、'Reducibility to extensions seems to be the ultimate criterion of logicality for objects, […]' と書かれているところがあります。これらの事実は、Ruffino さんがこれらの結論を議論の余地なく確実に引き出せるとは見ていない証拠とも受け取れます。

*9:Ruffino, p. 52.

*10:これは 'N(F) ≡ N(G) .≡. ∀x ( Fx ~ Gx )' と書いた方が、まだよいかもしれない。'≡' は、1879年の Begriffsschrift における内容の相等性を表す記号です。'~' は等数である (gleichzahlig) ことを表す記号です。Hume's Principle をどのように書き表すべきかについては、今は論じないことにします。

*11:等数関係については、それは一対一関係のことだとしばしば言われますが、個人的には「一対一関係」という言葉を使わず、「全単射写像」と言っておきます。というのは、全単射ではなく、単射のことを「一対一関係」と言うこともあり、紛らわしいからです。以前に「一対一関係」という言葉で、あることを論じている文章を読んだことがありました。その時、その言葉のいみを全単射とばかり思って読んでいたのですが、どうにも話が理解できず困惑してしまいました。しかしよく考え直してみると、そこでは単射のことを「一対一関係」と呼んでいることがわかり、ようやくその文章の内容が了解できましたが、随分疲れてしまったことがあります。そのような訳で、個人的には「一対一関係」という言葉は、避けたいと思っています。

*12:Grundlagen, §§71-72, 特に§72.

*13:Grundlagen, §72.

*14:Bob Hale and Crispin Wright, ''Introduction,'' in their The Reason's Proper Study: Essays towards a Neo-Fregean Philosophy of Mathematics, Oxford University Press, 2001, p. 4. 果たして彼らの主張が本当に成り立つのか、そのことはここでは問わないことにします。

*15:Ruffino, p. 52.

*16:Ruffino さんは、Frege が Hume's Principle を定義として捨て、概念の外延による定義を採用したのは、Hume's Principle が implicit な定義だからだとか、Caesar Problems を招来するからだとは述べておられません。それらの問題から Hume's Principle が捨てられ、概念の外延による定義が採用されたのだとは、Ruffino さんは述べていません。特に、Caesar Problems が原因となって、Hume's Principle が捨てられ、概念の外延による定義が採用されたのだとは、Ruffino さんは主張しておられません。Caesar Problems は副次的な要因でしかないと Ruffino さんはおっしゃっておられます。See Ruffino, p. 52, n. 3, p. 55, n. 6.

*17:Ruffino, p. 71.