What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? More Precisely, What Problem Is a Great Part of his Most Famous Paper Devoted to? Part 3

以下の内容目次

 1. ''Über Sinn und Bedeutung'' の構成面からわかること: 「宵の明星」や「明けの明星」などの単称名の Sinn と Bedeutung の話は、論文全体に対する序論にすぎず、論文の本論は文の分析にある。
 2. "Über Sinn und Bedeutung" の本論で行われていることは何か?: 単文と複合文を含む文一般の Bedeutung が真理値であることの確認
 3. 文一般の Bedeutung が真理値であることの論証
  3.1 単文の Bedeutung が真理値であることの論証
  3.2 副文の分析による、複合文の Bedeutung が真理値であることの論証
 4. おさらい


3. 文一般の Bedeutung が真理値であることの論証
3.1 単文の Bedeutung が真理値であることの論証

ここから以下では非常に多数の原理、原則の類いが出てきます。数が多くて、恐縮です。そこで、読者の参照の便のために、ここに前もって一括してそれらを掲げておきます。以下を読み進む際に、何らかの原理、原則に出会った場合は、ここに戻って確認していただくことができます。

    • 文の Bedeutung の合成性: 文の部分表現がすべて Bedeutung を持つならば、その文も Bedeutung を持つ。あるいは文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung によって決まる / 依存する / 従属する。
    • Bedeutung の代入則: 文の部分表現の Bedeutung が互いに同じである言語表現同士は、その表現同士を入れ替えても、結果となる文の Bedeutung は同じままに保たれる。あるいは文の部分表現の Bedeutung が同じなら、それら部分表現同士を入れ替えても、文の Bedeutung は同じである。
    • 文の Bedeutung の合成原理: 文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung の関数(値)である。
    • Conjecture V: 文の Bedeutung は真理値に等しい。(文の Bedeutung は真理値と同一である。)
    • (0): 文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つ。
    • (I): 文が Bedeutung を持つならば、その文の部分表現も Bedeutung を持つ。
    • (II): 文の部分表現が Bedeutung を持つならば、その文も Bedeutung を持つ。
    • (III): 文が Bedeutung を持つ時、かつその時に限り、文の部分表現も Bedeutung を持つ。
    • (IV): 文が真理値を持っていれば、その文の部分表現は Bedeutung を持つ。
    • (V): 文の部分表現が Bedeutung を持つならば、その文は真理値を持つ。
    • (VI): 文が真理値を持っている時、かつその時に限り、文の部分表現は Bedeutung を持つ。
    • Bedeutung の合成性 真理値版: 文の真理値は、その文の部分表現の Bedeutung によって決まる / 依存する / 従属する。あるいは文の部分表現がすべて Bedeutung を持つならば、その文は真理値を持つ。
    • Bedeutung の代入則 真理値版: 文の部分表現の Bedeutung が同じなら、それら部分表現同士を入れ替えても、文の真理値は同じである。あるいは文の部分表現の Bedeutung が互いに同じである言語表現同士は、その表現同士を入れ替えても、結果となる文の真理値は同じままに保たれる。
    • 文の真理値に関する合成原理: 文の真理値は、その文の部分表現の Bedeutung の関数(値)である。
    • 複合文の真理値に関する合成原理: 複合文の真理値は、その文の部分表現である副文の真理値の関数(値)である。
    • 複合文の Bedeutung の代入則 真理値版: 複合文の部分表現である副文の真理値が同じなら、それら副文同士を入れ替えても、複合文の真理値は同じである。


それでは次に具体的にはどのように Frege は単文の Bedeutung が真理値であると主張し、副文の Bedeutung が真理値であって、かつ複合文全体の Bedeutung も真理値とすることに、ほとんど異論を差し挟み得ないと考えるのでしょうか。どのように単文と複合文を含む文一般の Bedeutung が真理値であると主張しているのでしょうか。

まず、単文の Bedeutung が真理値であると主張している Frege の論証を確認してみましょう*1
繰り返しますが、単文の分析は、論文32ページ目の冒頭近く (32ページ目の上から5行目) から36ページ目の中ほど辺りまででした。この部分での Frege による主な主張は、先ほども見たように、単文の Bedeutung が真理値であると推測することが成り立つ、ということでした。どうしてこのような推測が成り立つ言えるのか、そのことを単文分析部分の論証を再構成することで確認してみます*2 *3


件の分析部分の大前提となっている事柄は、まず、次のことであろうと思われます。

Daß wir uns überhaupt um die Bedeutung eines Satzteils bemühen, ist ein Zeichen dafür, daß wir auch für den Satz selbst eine Bedeutung im allgemeinen anerkennen und fordern.*4


いずれにせよ文成分の意味を求めて努力するということは、文そのものに対してもまた一般に意味を認め、それを求めていることの証しである。*5


これは次のように解することができるのではないかと思われます。すなわち、文に Bedeutung があると考えるから、文の部分表現の Bedeutung を求めているのであり、あるいは文に Bedeutung があることを確かめたいから、文の部分表現の Bedeutung を求めているのである、と。つまり、文の Bedeutung は、文の部分表現の Bedeutung 如何にかかっているのだ、という訳です。すると、文の部分表現のすべてに Bedeutung があるのなら、その文自身にも Bedeutung があることになるだろうと思われます。これを簡潔に表すと、

    • 文の部分表現がすべて Bedeutung を持つならば、その文も Bedeutung を持つ。

となるでしょう。また、今しがた記した「文の Bedeutung は、文の部分表現の Bedeutung 如何にかかっているのだ」という文章を言い換えるなら、次のようになるでしょう。

    • 文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung によって決まる / 依存する / 従属する。(そして、これ以外の要因が文の Bedeutung の決定に関与して来ることは、原則的には、ない。あるいは少なくとも差し当たりは、部分表現の Bedeutung 以外の要因を考慮する必要はない。)

これらをこの場では「文の Bedeutung の合成性 (the Compositionality of Bedeutung)」と呼ぶことにします。
念のために申しますと、ここでは次のことに注意していただきたいと思います。すなわち、この合成性を、いわゆる Bedeutung の合成原理 (Composition Principle / Compositionality Principle / Principle of Compositionality) と捉えることはできません。これをそのままでは Bedeutung の合成原理と捉えることはできません。一般に Bedeutung の合成原理は、関数の一種として考えられています*6。独立変数が与えられると、従属変数が一意的に定まる関数の一種と考えられています。しかし今の合成性は、まだその一意性を満たすようには要請されていません。文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung によって、定まるとは言われているものの、一意的に定まるとは言われていません。一意性が全く保証されていませんので、この合成性は、Bedeutung の合成原理だとは言うことができません。今挙げたばかりの Frege の引用文をご確認下さい。そこには何も一意性を示すような文言は現れてはいません。ですのでここでの文の Bedeutung の合成性を、いわゆる一般に言われている Bedeutung の合成原理と混同してはなりません。


もう一つ、大前提となっていると考えられる事柄を挙げます。

単文が Bedeutung を持つものと仮定した上で Frege は言います。

Ersetzen wir nun in ihm ein Wort durch ein anderes von derselben Bedeutung, aber anderm Sinne, so kann dies auf die Bedeutung des Satzes keinen Einfluß haben.*7


さて、その文の中の一つの語を、それと同じ意味をもちながら意義は異なる別の語によって置き換えよう。この場合、このような操作は文の意味に対しては何の影響も与ええない。*8


これは次のように解することができるのではないかと思われます。

    • 文の部分表現の Bedeutung が互いに同じである言語表現同士は、その表現同士を入れ替えても、結果となる文の Bedeutung は同じままに保たれる。

少し手短に言い換えると、

    • 文の部分表現の Bedeutung が同じなら、それら部分表現同士を入れ替えても、文の Bedeutung は同じである。

これらをここでは「Bedeutung の代入則 (the Principle of Substitutivity of Bedeutung)」と呼ぶことにします*9
この代入則に関して、注意していただきたい点が二つあります。一つ目として、この代入則は Bedeutung に関する代入則であって、真理だとか真理値に関する代入則ではないということです。この代入則においては、真理や真理値の観念 (notion) は全く前提されていません。ですから、この代入則は、真理や真理値を前提にして一般的に語られる Leibniz の原理 ( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) )*10だとか、同じことですが同一者不可識別の原理 ( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) ) なのではありません。Leibniz の原理や同一者不可識別の原理は、一般には真理や真理値の観念を伴う言葉使いでもって語られるのが普通だと思われますが、今の Bedeutung の代入則は、ただ Bedeutung に関する代入則であって、それ以上のものではありません。現に Frege の発言は、もう一度引用しますと、

Ersetzen wir nun in ihm ein Wort durch ein anderes von derselben Bedeutung, aber anderm Sinne, so kann dies auf die Bedeutung des Satzes keinen Einfluß haben.*11


さて、その文の中の一つの語を、それと同じ意味をもちながら意義は異なる別の語によって置き換えよう。この場合、このような操作は文の意味に対しては何の影響も与ええない。*12


でした。ここでは真理や真理値の観念が全く出てきていない、全く前提されていないことがおわかりだと思います。ですからこの Bedeutung の代入則 を、一般に言われるところの Leibniz の原理や同一者不可識別の原理などと混同してはなりません。混同することは、Frege の単文の分析部分の論証を見誤ることになります。


Bedeutung の代入則に関して注意していただきたい二つ目の点は、この代入則自身は、合成性なり合成原理なりを、そのままでは必ずしも表している訳ではないということです。今挙げたばかりの Frege の文を、先入観を交えずにご覧いただければわかるかと思うのですが、そこでは合成性なり合成原理の特徴は明示されてはいません。もしも今の Frege の文を 'a = b → ( Fa = Fb )' とでも定式化し、この式の 'F' を関数を表すものと解すれば、今の Frege の文は、事実上、合成性はもとより合成原理をも含意することになるでしょう。というのもその場合、'Fa' や 'Fb' はそれぞれ文だと見なされ、これらの文の Bedeutung は 'y = Fa' だとか 'z = Fb' などの従属変数 y, z となり、これらの従属変数は、独立変数 a, b と関数 F だけにより一意に定まるものとなりますから、合成原理を満たし、よって合成性も満たします。ですから先ほどの Frege の文を 'a = b → ( Fa = Fb )' と定式化し、 'F' を関数を表すものとして読み込めば、Bedeutung の代入則は合成性なり合成原理なりを含意します。しかし、先の Frege の文には、そのままではそのように読み込まねばならないような指示はありません。 'a = b → ( Fa = Fb )' のように定式化して、F を関数とするのは、あくまでも私たちの側からの読み込みがあってこそです。厳密には、この読み込みは、私たちの側からの読み込みを入れてのことなのです。このような読み込みを入れた場合、合成性は Bedeutung の代入則を含意しませんが、Bedeutung の代入則は合成性を含意することになります。しかし繰り返しますが、Bedeutung の代入則が合成性を含意するのは、その代入則を 'a = b → ( Fa = Fb )' と定式化し、'F' を関数を表すものとして読み込めばの話です。先ほどからの Bedeutung の代入則を即座に 'a = b → ( Fa = Fb )' とでも定式化し、この式の 'F' を関数を表すものと解したくなりますが、この解釈には私たちの読みが入っているということに、注意しなければなりません。


さて、以上の二つの大前提、つまり文の Bedeutung の合成性と Bedeutung の代入則から、次が帰結するものと思われます。

    • 文の Bedeutung の合成原理 (the Composition Principle of Sentence Bedeutung): 文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung の関数(値)である。

この原理は、文の Bedeutung が、その文の部分表現の Bedeutung から一意的に定まると述べています。文の Bedeutung の合成原理は、文の Bedeutung が、その文の部分表現の Bedeutung から、ある関数によって、一意的に定まると述べています。ある関数とは、その文の、いわゆる論理形式、その文の構造に相当すると考えられます。したがって、文の Bedeutung は、その文の部分表現の Bedeutung と、関数を表す論理形式とから、一意的に定まるということです。文の部分表現の Bedeutung が入力されると、その文の論理形式によって mapping されて、文の Bedeutung が出力値として出てくるという訳です。文の Bedeutung の合成性だけでは、まだそれは関数ではありませんでした。Bedeutung の代入則が加わることにより、文の Bedeutung の合成性に一意性が保証されることで、文の Bedeutung の合成原理という関数の原理が帰結するものと考えられるのです。
ここでも注意していただきたいのは、上に言う文の Bedeutung の合成原理は、やはり真理や真理値に関する原理ではないということです。真理や真理値を写像したり出力したりすることが言われている原理ではないということです。まだただの Bedeutung の原理です。これを真理や真理値の原理と捉えてしまうと、Frege の "Über Sinn und Bedeutung" が全く読めていないことになってしまいます。文の Bedeutung の合成原理では、真理や真理値の観念は少しも前提されていません。


さて、今まで Frege の単文分析部分の論証における二大前提を述べてきました。これら二大前提から帰結する文の Bedeutung の合成原理に対し、 Frege が立てる一つの大きな推測があります。それが以下です。

So werden wir dahin gedrängt, den Wahrheitswert eines Satzes als seine Bedeutung anzuerkennen.*13


このように考えるならば、我々としては、文の真理値をその文の意味として認めざるをえなくなるであろう。*14


あるいは、次の引用文中の条件法の前件がそうです。

Wenn unsere Vermutung richtig ist, daß die Bedeutung eines Satzes sein Wahrheitswert ist, so muß dieser unverändert bleiben, wenn ein Satzteil durch einen Ausdruck von derselben Bedeutung, aber anderm Sinne ersetzt wird.*15


もし、文の意味が真理値であるという我々の推測が正しいならば、一つの文の真理値は、別の意義をもちつつも同じ意味をもつ表現で、その文の一部を置き換えたときも不変でなければならないはずである。*16


これらの推測 (Vermutung) は、次のように簡潔に言い表すことができると思われます。

    • Conjecture V: 文の Bedeutung は真理値に等しい。(文の Bedeutung は真理値と同一である。)

Frege は、文の Bedeutung は真理値に等しいと推測しています。仮定しているのでもなく、根拠も示さずに断定しているのでもなく、推測であると表明しています。直前の引用文中の条件法前件で、「推測 (Vermutung)」という言葉を Frege は使っています。同様に、邦訳81, 82ページでも「推測」と言っています。ではなぜ Frege はそのように推測しているのでしょうか。どのような論拠をもってそう推測できるというのでしょうか。Frege がそのように推測する論証を彼の論述から以下で再構成してみましょう*17


Frege による、単文の分析部分から次の主張を取り出すことができます。文が Bedeutung を持っているならば、その文は真理値を持っており、かつ文が真理値を持っているならば、その文は Bedeutung を持っている、すなわち、

    • (0): 文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つ。

ここから、文が Bedeutung を持っていることと、文が真理値を持っていることを同じことと見なしてよく、したがって、端的に言って、文の Bedeutung は文の真理値に他ならないのである。このように Frege は考えているようです。では次にこの主張を再構成してみますが、再構成の方針を最初に説明しておきますと、次の通りです。まずは、文が Bedeutung を持つ時、かつその時に限り、文の部分表現も Bedeutung を持つと述べている様を Frege の論述から再構成します (III)。続いて、文が真理値を持っている時、かつその時に限り、文の部分表現は Bedeutung を持つと述べている所を Frege の論述から再構成します (VI)。そしてこれら (III), (VI) はその右辺が同じ文であることから、(III), (VI) をつづめ合わせて (0) を得ます。それではまず、文が Bedeutung を持つ時、かつその時に限り、文の部分表現も Bedeutung を持つという主張 (III) を再構成してみましょう。

Frege は単文の分析部分で次のように述べています。

Der Satz 》Odysseus wurde tief schlafend in Ithaka ans Land gesetzt《 hat offenbar einen Sinn. Da es aber zweifelhaft ist, ob der darin vorkommende Name 》Odysseus《 eine Bedeutung habe, so ist es damit auch zweifelhaft, ob der ganze Satz eine habe.*18


オデュッセウスは深くねむったまま、イタカの砂浜におろし置かれた」は明らかに意義をもっているが、そこに現われる「オデュッセウス」という名が意味をもつかどうかは疑わしいので、この文が意味をもつかどうかということも同時に疑わしい。*19


これは次のように解することができるのではないかと思います。つまり、文の部分表現が Bedeutung を持たないならば、その文自身も Bedeutung を持たない。これは対偶を取れば、以下のようになります。

    • (I): 文が Bedeutung を持つならば、その文の部分表現も Bedeutung を持つ。

また、Frege は次のようにも述べています。

Wir haben gesehen, daß zu einem Satze immer dann eine Bedeutung zu suchen ist, wenn es auf die Bedeutung der Bestandteile ankommt;*20


以上で見たように、構成部分の意味が問題となるときは、常に、文に対して意味が求められる。*21


これは次のように解することができるのではないかと思います。つまり、

    • (II): 文の部分表現が Bedeutung を持つならば、その文も Bedeutung を持つ。

さて、これら (I), (II) から以下が得られます。

    • (III): 文が Bedeutung を持つ時、かつその時に限り、文の部分表現も Bedeutung を持つ。

こうして (III) が再構成できました。次に文が真理値を持っている時、かつその時に限り、文の部分表現は Bedeutung を持つという主張 (VI) を再構成してみます。


Frege は、「オデュッセウスは深くねむったまま、イタカの砂浜におろし置かれた」という文について、次のように述べています。

Aber sicher ist doch, daß jemand, der im Ernste den Satz für wahr oder für falsch hält, auch dem Namen 》Odysseus《 eine Bedeutung zuerkennt, nicht nur einen Sinn;*22


本気でその文が真であるとか、偽であると見なす人が「オデュッセウス」という名前に対して意義のみならず意味さえ認めているということを疑うことはできない。*23


これはつまり、次のことを言っているのではないかと思われます。すなわち、

    • (IV): 文が真理値を持っていれば、その文の部分表現は Bedeutung を持つ。

また Frege はこうも言っています。

Daher ist es uns auch gleichgültig, ob der Name 》Odysseus《 z. B. eine Bedeutung habe, solange wir das Gedicht als Kunstwerk aufnehmen.*24


例のホメロスの韻文を芸術作品として理解している限りは、例えば「オデュッセウス」という名が意味をもつか否かということはどうでもよいことですらある。*25


これは次のように解することができるのではないかと考えられます。すなわち、文が (例えば虚構上のもので) 真理値を持たないならば、その文の部分表現は Bedeutung を持たない。この対偶は端的に以下のようになります。

    • (V): 文の部分表現が Bedeutung を持つならば、その文は真理値を持つ。


以上により (IV), (V) から次が得られます。

    • (VI): 文が真理値を持っている時、かつその時に限り、文の部分表現は Bedeutung を持つ。

この (VI) に相当する文章が Frege の論述の中に、ほとんどそのままの形で見られます。先ほど (II) を説明する際に引用した文章を一部に含む以下の文がそうです。

Wir haben gesehen, daß zu einem Satze immer dann eine Bedeutung zu suchen ist, wenn es auf die Bedeutung der Bestandteile ankommt; und das ist immer dann und nur dann der Fall, wenn wir nach dem Wahrheitswerte fragen.*26


以上で見たように、構成部分の意味が問題となるときは、常に、文に対して意味が求められる。そして、このことは真理値を求めるときは常に、そしてそのときに限ってのことである。*27


つまり、文の部分表現に Bedeutung がある時は、文は真理値を持つのであり、そしてその時に限って真理値を持つのである、と。こうして今しがたの (VI) が再構成できました。


最後に (0): 文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つ、を再構成します。
少し前に得られた (III) と、今しがたの (VI) を併記してみましょう。

    • (III): 文が Bedeutung を持つ時、かつその時に限り、文の部分表現も Bedeutung を持つ。
    • (VI): 文が真理値を持っている時、かつその時に限り、文の部分表現は Bedeutung を持つ。

これら (III), (VI) の右辺は同じ文です。したがって、(III), (VI) はつづめて表現すれば、以下のようになり、求めていた (0) が得られます。

    • (0): 文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つ。


以上により、Frege は単文の分析部分で、文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つのであり、よって、文の Bedeutung を文の真理値と同一視してよいだろうと判断します。但し、このような判断は、今のところ、差し当たって、単文についてだけ、成り立つであろう事柄です。今までの (0) の論証は、単文に関してのことでした。

    • (0): 文が Bedeutung を持っている時、かつその時に限って、文は真理値を持つ。

における「文」とは、単文のことです。複合文のことについてもこのことが成り立つかどうかは、単文の分析部分の時点では、まだ何とも言えません。したがって Frege は、しばらく前に触れた

    • Conjecture V: 文の Bedeutung は真理値に等しい。(文の Bedeutung は真理値と同一である。)

を、この時点では「推測」と言っているのです。これ故に、単文と複合文の両方を含んだ文一般において、文の Bedeutung がその文の真理値に他ならないことを立証する必要が出てきます。それをするために、Frege は "Über Sinn und Bedeutung" の後半ほぼすべてを使って、副文を従える複合文の分析を長々と展開しているのです*28


続く。

*1:"Über Sinn und Bedeutung" では、単文の Bedeutung が真理値であると Frege が主張していることに注目すべきであることを教えてくれた文献は、以下の二つです。Ignacio Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' in L. Jonathan Cohen, Jerzy Los, Helmut Pfeiffer, Klaus-Peter Podewski ed., Logic, Methodology, and Philosophy of Science VI: Proceedings of the Sixth International Congress of Logic, Methodology, and Philosophy of Science, Hannover, 1979, North-Holland, Studies in Logic and the Foundations of Mathematics, vol. 104, 1982, Ignacio Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," in: Revista Patagónica de Filosofía (Patagonian Journal of Philosophy), vol. 2, no. 1, 2000. 特に前者には、単文の Bedeutung が真理値であると主張している Frege の論証について、多くを学ぶことができました。また、この同じ論証に関しては、野本和幸、『フレーゲ言語哲学』、勁草書房、1986年、92-103ページからもたくさんの事柄を学ぶことができました。以下での Frege による単文の分析に関しては、これら三つの文献から学んだことが含まれています。但し、これらの文献の内容をそっくりそのまま以下で繰り返している訳ではありません。私なりに事柄を取捨選択し、かつ私の考えを優先させている部分もあり、Angelelli, 野本両先生のお考えとは、ずれている部分もあります。Frege による単文に関する論証の、以下での私による再構成も、両先生方の説明の構成とは趣が大きく異なっていると思います。その再構成の際に、どこが先生方のお考えであり、どこが私の考えであるのかを、逐一明示してはいませんが、いずれにしても両先生のお考えを多数参考にさせていただいております。

*2:但し、以下での再構成が、考えられうる唯一の再構成だ、と言いたい訳ではありません。Frege の問題の論証は、完璧なまでに明瞭で、かつ誤解の余地なく整序されて提示されている、というものではないと思われますので、複数の再構成が提起可能であろうと思います。

*3:また以下では文の Bedeutung が何であるかについての少し細かい話が出てきますが、"Über Sinn und Bedeutung" を読んでいると、Angelelli さんも同種の指摘をされているように、文の Bedeutung が論文の読者に自明であるかのごとく Frege によって語られていて、いささか困惑してしまいます。というのも文の Bedeutung が何であるのかはっきりしない故に、今それが論文中で論じられているのであり、読者もそれが何であるかをよく知りたいために Frege の論述を追っているにもかかわらず、初めからそれがあたかもわかり切ったことであるかのように書かれているからです。Angelelli さんによる、このことと同種の指摘については、Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' p. 739, Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," Section 2: The complex obscurity of the Fregean presentation of the ''Bedeutung'' of sentences の前半をご覧下さい。なお、"Über Sinn und Bedeutung" に明示されている訳ではありませんが、恐らく Frege にとって、文の Bedeutung にしろ文の部分表現の Bedeutung にしろ、Bedeutung とは一般的に言って、本当か否か、事実か否か、正しいか否か、真理であるか否かなどが問題となってくる時に問題となる当のもののこと、真理を決する際にかかわってくる当のもののことであると、私には思われます。文の Bedeutung についての次の Frege の説明をご覧下さい。'Und diese Bedeutung wird etwas sein, was grade dann Werth für uns hat, wenn es uns interessirt, ob die Worte bedeutungsvoll sind; also wenn wir nach der Wahrheit fragen. 「ここにいう意味とは、語に意味があるかに関心をもったまさにそのとき、したがって真理であるかどうかを問うているときに、われわれにとって価値をもってくるものでしょう。」' Frege an Russell, 28. 12. 1902, in Wissenschaftlicher Briefwechsel, Hrsg. von G. Gabriel, H. Hermes, F. Kambartel, C. Thiel und A. Veraart, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Zweiter Band, 1976, S. 235, G. Frege より B. Russell 宛書簡、1902年12月28日、邦訳、G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、148ページ。いずれにせよ、文の Bedeutung が何であるか明記されないまま自明であるかのように Frege は語っているということはさておいて、これからの私の記述をお読みいただいて構わないのですが、文の Bedeutung を最初から真理値であると決め込んで読むのは避けていただければと思います。というのも、この後の記述からわかるように、それは論点先取を犯すことになるからです。

*4:S. 149.

*5:邦訳、79-80ページ。

*6:そのことがわかる Bedeutung の合成原理の表現を一つだけ挙げておきます。'The denotation [= Bedeutung] of a complex expression is functionally dependent only on the denotatons of its logically relevant component expressions.' Tyler Burge, ''Frege on Truth,'' in his Truth, Thought, Reason: Essays on Frege, Oxford University Press, 2005, p. 85.

*7:S. 148.

*8:邦訳、78ページ。

*9:先ほどの註で、文の Bedeutung が自明でないのに Frege はそれを自明であるかのような顔をして論じていると記しましたが、この Bedeutung の代入則についても、Angelelli さんも指摘するごとく、自明でないにもかかわらず、あるいは詳しい説明や根拠を示す必要があるにもかかわらず、Frege は当然成り立つという顔をしてこの原則をここに、唐突に書き付けています。これにも正直に言って困惑してしまいます。Angelelli さんの指摘については、やはり Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' p. 739, Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," Section 2 の前半をご覧下さい。

*10:但し、「Leibniz の原理」だとか「Leibniz の法則」と人々が呼ぶものの間にはばらつきがあるため、誰もが「Leibniz の原理」の名によって ( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) ) のことをいみしているとは限りません。( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) ) の逆を言うこともありますし、真理保存的置換の原理 (Leibniz によるいわゆる salva veritate の文言): 「真理に影響することなく、一方を他方で置換し得るものは同じものである。」のことを言う場合もありますが、この真理保存的置換の原理も正しくは ( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) ) やその逆とも異なるものです。いずれにせよ、ここでは ( a = b → ∀F ( Fa ⇔ Fb ) ) を「Leibniz の原理」と呼んでおきます。詳しくは次の四つの文献を参照して下さい。Alonzo Church, Introduction to Mathematical Logic, revised and enlarged edition, Princeton University Press, Princeton Landmarks in Mathematics Series, 1956/1996, p. 300, n. 502, 石黒ひで、『増補改訂版 ライプニッツの哲学 ―論理と言語を中心に― 』 岩波書店、1983/2003年、19-49ページ、Benson Mates, The Philosophy of Leibniz: Metaphysics and Language, Oxford University Press, 1986, pp.122-136. Richard L. Mendelsohn, The Philosophy of Gottlob Frege, Cambridge University Press, 2005/2010, pp. 19-20.

*11:S. 148.

*12:邦訳、78ページ。

*13:S. 149.

*14:邦訳、80ページ。

*15:S. 150.

*16:邦訳、81ページ。

*17:この再構成に際しては、特に次の文献に多くを負っています。Angelelli, ''Frege's Notion of ''Bedeutung'','' pp. 735-42, especially pp. 740-41.

*18:S. 148.

*19:邦訳、79ページ。

*20:S. 149.

*21:邦訳、80ページ。

*22:S. 148.

*23:邦訳、79ページ。

*24:S. 149.

*25:邦訳、80ページ。

*26:S. 149.

*27:邦訳、80ページ。

*28:しかし、そもそも、以上により (0) が論証に基付いて結論されたとしても、(0) に依拠して文の Bedeutung を文の真理値と同一視してよいということには、異論があり得ます。例えば、(0) に似せた次のような文を考えてみましょう。(00): 哺乳類が心臓を持っている時、かつその時に限って、その哺乳類は腎臓を持つ。Quine さんに由来するこの例文は、私は動物学に詳しくないので断言はできませんが、恐らく現在のところ経験的に成り立つのではないかと思われます。その場合、しかしその場合でも、この (00) から心臓と腎臓が同一物であるとは、私たちは考えません。そのように考えることはとんでもないことでしょう。このような例文からわかるように、(0) が成り立つとしても、いつでも文の Bedeutung を文の真理値と同一視してよいとはならないと思われます。Angelelli, "The Mystery of Frege's "Bedeutung"," の Section 2: The complex obscurity of the Fregean presentation of the ''Bedeutung'' of sentences の後半を参照下さい。いずれにせよ、今は Conjecture V の妥当性を検討する場ではないので、この V に対する批判は、また機会を改めて考えてみたいと思います。