Journal の

  • Logica Universalis, Special Issue: Perspectives on the History and Philosophy of Modern Logic: Van Heijenoort Centenary, vol. 6, nos. 3-4, 2012

から、次の論文を入手。

  • Claus-Peter Wirth  ''HERBRAND’s Fundamental Theorem in the Eyes of JEAN VAN HEIJENOORT''
  • Francine F. Abeles  ''Toward A Visual Proof System: Lewis Carroll’s Method of Trees''


和書では次を入手。


また、次の PR 誌を例年通り入手。2012年に諸家が読まれて印象に残った本を紹介している号です。

  • 『みすず』、読書アンケート特集、no. 612, 2013年 1・2月合併号

私自身が2012年に拝見した文献で印象に残ったものは、2013年1月1日の日記で記しています。


最後に、次の雑誌を購入。

  • 『at プラス 思想と行動』、特集 『哲学の起源』を読む、太田出版、vol. 15, 2013年

元々この雑誌を購入するつもりはありませんでした。この号には次の論文が収録されています。

この論文がただ読みたかっただけで、論文だけを図書室などで copy して済まそうとも思っていたのですが、書店店頭でこの論文を少し読んでいると、とてもおもしろく、copy するのも面倒になってきたので、そのまま購入し、近くの café に入って、論文を一通り読み終えました。すごく興味深いものでした。この論文は、柄谷行人さんの新刊『哲学の起源』を論評したものですが、そのことを通じて古代ギリシア哲学の重要性を指摘している論文です。納富先生によると、柄谷さんの『哲学の起源』には、「専門研究の立場から見ると、史実の誤解や不十分な内容理解も少なくない」ようです(納富、62ページ。)。納富先生は柄谷さんの所説を感情的に否定されている訳ではありませんが、「古代ギリシアに由来する様々な制約 −自由と平等をめぐる「民主主義」の矛盾を含む− を乗り越えるヒントは、[柄谷さんが探求されているように] 実在しない歴史の蜃気楼の中にではなく、初期ギリシアの哲学者たちやプラトンの言葉そのものにおいて、批判的に見出されなければならない」と(納富、74ページ。)、納富先生はされておられます。
思うに、当方の興味を持っている分析哲学は専門化が非常に進んで来ておりますが、たぶん、古代ギリシア哲学研究も、専門化が進んでいるのかもしれないと思います。もしそうだとすると、専門家でない人間が、古代ギリシア哲学について、突っ込んだことを述べようとすると、古代ギリシアに関する体系的で系統的な学習が必要なのだろうと思います。きちんと一次文献を読み、きちんと二次文献を follow して、事実と推測を峻別し、何を取って何を捨てるのかを、吟味した上でないと、何か立派なことを述べたとしても、すべて砂上の楼閣として早晩倒壊の憂き目に会うことになると思われます。ずっと昔ならば専門家でない人間も、学問として勉強せぬまま、古代ギリシア哲学について何事かを述べ、教養を深めるということも可能だったかもしれませんが、今では古代ギリシア哲学の本を読んで、ごく個人的な教訓を引き出して、自身の教養に資するということは可能であっても、新たな学説の提示は専門研究を経ずしては、もはや不可能なのかもしれません。(日本の例で言えば、たぶんですが、古代の日本史を専門的に勉強、研究せずに、卑弥呼について何事か新説を唱えることと似ているのかもしれません。) Idea としては面白いがひどい不正確に陥るか、正確で厳密であるが面白い idea が欠如しているか、多くの場合、このどちらかしか選択できないのかもしれません。面白くかつ正確であるような主張を展開することは、難しそうですね。
これ以外に、納富先生の論文を読んでいて教えられたのは、Socrates の哲学の重要性は、彼において、Sophia が私たちの普段の互酬性 (give and take) を越えたところに見定められている、という指摘です (納富、73-74ページ。)。先生はこれを Nazareth の Jesus を例に説明されておられますが (納富、73ページ。)、これは私にとっては非常に興味深い話です。私個人にとって Christianity の重要性とは、大変大まかに言いますと、give and take を越えたところに、逆説的ながら人生の真理があるとしているように感じられるところです。先生のご指摘によると、Socrates も同種のことを哲学において実践していた、ということになります。これが正しいとすると、私個人としては大変興味深いです。今回の納富先生の論文を読んでの一番の収穫は、Socrates が Jesus らと同様に、互酬性を越えた営みをもって人生の真理を明かそうとしていたのだ、という知見を得られたことです。この点について、今後理解を深めて行きたいと思います。大変ありがとうございました。

PS 上記の雑誌『at プラス 思想と行動』、vol. 15 を購入してよかったことがあります。この雑誌をパラパラめくっていると、後ろの方に Kolbe 神父の写真が載っています。私は Kolbe 神父については詳しくありませんが、他の人の身代わりになって強制収容所で亡くなった立派な方であると存じておりました。しかし、その写真周辺を読むと、Kolbe 神父は anti-Semite であったことが記されています(大澤真幸、「倫理的/政治的行為の二つのチャンネル」、131-133ページ。)。ちょっと驚いた。これは全然知らなかった。たぶん、Kolbe 神父に詳しい方は、みな知っている事実のようです。私は知らなかった。先日、この日記で Łukasiewicz が露骨に anti-Semitic であったことを記しましたが、Kolbe 神父までもそうだった訳だ。*1
ついでに言い添えますと、先日刊行されたばかりの

を開いてみると、Cioran が昔は激しい anti-Semite であったことがわかる。ひどい言葉が書き連ねられている。このことは非常に有名なようですが、私はまったく知らなかった。実に気が滅入りますね。(ただし、Cioran は、後に心を入れ替えて反省しているみたいです。この点、Heidegger と違いますね。)


以上の感想文に何か間違いがございましたら謝ります。誠にすみません。

*1:追記 2013年2月11日: Kolbe 神父に関するここでの話は、上記大澤先生の論文に依っておりますが、先生はこの話について、川島勝、『コルベ』、人と思想シリーズ、清水書院、1994年と Slavoj Žižek, Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, Verso, 2012, pp. 121-122 を参照しておられるようです (p. 131, n. 2, p. 133, n. 3.)。そこで、前者の『コルベ』を開いて該当しそうなページで、ここでの話のようなことを記しているところを探したのですが、見つかりませんでした。私が見落としているのかもしれません。あるいは、ここでのような話はもっぱら Žižek さんの本の該当ページに書かれているのかもしれませんが、その本については現在私は未確認です。