Quine's Word and Object Provokes Much Controversy in Pitts.

先日、次の本を購入した。

  • Willard Van Orman Quine  Word and Object, New Edition, Foreword by Patricia Smith Churchland, Preface and the New Edition by Dagfinn Føllesdal, The MIT Press, 1960 / 2013.

この本の 1st ed. については、次のような話があります。

第二次大戦の直後から現在に至るまでのアメリカの哲学のなかでクワインの占める位置は、圧倒的に他を抜きん出ている。(アメリカのさる大学には次のような伝説が伝わっているという。クワインの『ことばと対象 Word and Object』 (一九六〇) が出版された翌年、この大学の哲学科のゼミは、美学から宗教学に至るまで (!)、すべて同一のテキストを取り上げたために、学生のストライキが起こったという。このテキストが何であったかは言うまでもない。) […]
ところで、クワインが、戦後のアメリカ哲学、ひいては、分析哲学全般に圧倒的な影響を与えているとしても、それは、クワインの説が哲学者のあいだで広く受け入れられているということを意味しない。むしろ、事実は、その正反対である。クワインの哲学の、いまでは「古典的」とも言うべき解説 […] を書いたギルバート・ハーマンによれば、「クワインが正しいとするならば、かれ以外の言語的哲学者が意味について言ってきたこと、言っていることのほとんど全部が間違っていることになる」のである。ハーマンのこの評価は、二十年ほども前のものであるが、現在でも、ほぼそのまま通用すると思われる。つまり、意味についてクワインが言うことのほとんどすべてが、職業柄 (?) 極端に走ることをそれほど嫌わない哲学者にとってすら、あまりに極端に過ぎるものと映る、というのが事実なのである。だが、まさに、クワインの説のこの極端さこそが、無数の議論を呼び起こし、大小とりまぜ応接にいとまのないほど多くの論文が専門雑誌に現われるという事態を引き起こしたのである。*1


今回購入した上記 Quine の 2nd ed. に収録されている以下の文章を読んでいると、

  • Patricia Smith Churchland  ''Foreword''

上で引用した飯田先生のお話を髣髴とさせる思い出話が語られていたので、それを下に引いてみます。深いいみはありません。何となく面白く思ったから、引いてみるだけです。英語原文とともに、試訳も付しておきます。私による試訳は、もちろん間違っているところが含まれているでしょうから、参考程度にしてください。誤訳や拙劣な訳文が見られると思います。決して真に受けないようにしてください。あらかじめお詫び申し上げます。大変すみません。引用は p. xi からのものです。引用文中の '[Jan. 1951]' は、原文にあるものです。それ以外の、'[…]' は、引用者のものです。

In the winter of 1966 the Philosophy Department at the University of Pittsburgh ran a graduate seminar on a controversial book, Word and Object, by W. V. O. Quine. Already contentious for having melted down the profession's favorite tool −the analytic-synthetic distinction− in his much-ballyhooed paper ''Two Dogmas of Empiricism'' (Philosophical Review 60, no. 1 [Jan. 1951]), Quine now went further.
 The Pittsburgh seminar divided along these lines: those who adhered to idea that conceptual analysis revealed necessary truths about the way things are and the way the mind works, and those who, siding with Quine, did not. The weekly meetings were scenes of fiercely fought battles, led mainly by the more senior graduate students who well understood the stakes in the debate and who could draw deeply on the history of science and philosophy. Wilfrid Sellars was a powerful figure at Pittsburgh, and though he was dubious about many claims of necessary truth, some still seemed defensible, and Sellars's students mounted a spirited defense.
 It was a melee, a rhubarb, a brawl where no holds were barred. And the discussion was not confined to the seminar, but raged all week, over coffee, over beer, and in the common room. Are there any a priori truths, or just highly probable, very strongly held beliefs? Is language essentially just a communicative tool, not a repository of conceptual truths? If concepts change as empirical discoveries are made by the developing sciences, does that hold also for deeply personal concepts like knowledge, free will, and consciousness? Is metaphysics just a batch of questions not yet answered by science? And likewise, for epistemology and philosophy of mind?
 For all of us in that memorable seminar, these were questions at the heart of philosophy as practiced in the twentieth century. […]


1966年の冬、ピッツバーグ大学哲学部は、議論を呼んでいた Quine の本『ことばと対象』に関する大学院セミナーを開催した。ひどく騒がれた彼の論文「経験主義の二つのドグマ」 (Philosophical Review 60, no. 1 [Jan. 1951]) において、研究者愛用の道具立て、分析と総合の区別を無に帰せしめたことにより、既に物議を醸していた Quine だったが、彼はそれで終わりはしなかった。
 そのピッツバーグセミナーは、次のような二つの陣営に分かれた。概念分析は、ものごとのあり方や心のはたらき方について、必然的な真理を明らかにするのだ、という考えを支持する者と、Quine の側に付きながら、そうではないとする者とである。毎週のセミナーは、討論の論点がよくわかっていて、科学と哲学の歴史を頻繁に引き合いに出すことのできた、より上級の院生によって主にリードされながら、激しい戦闘のような状況を呈した。Wilfrid Sellars は、ピッツバーグにおいて影響力のある人物で、必然的真理に関する多くの主張について、疑念を持っていたが、それらの主張のいくつかは、擁護可能と思っていたようであり、Sellars の教え子たちは、敢然と弁護を開始した。
 セミナーは、侃々諤々、喧々囂々、やいのやいので、遠慮会釈なしだった。それに議論はそのセミナーにとどまらず、コーヒーを飲みながら、ビールを酌み交わしながら、週を通して激しく続き、休憩室でも行われた。ア・プリオリな真理は少しでもあるのか、それともただ確度の高い、とても強固に抱かれた信念があるだけなのか。言語は、概念的真理が蓄えられているところではなく、本質的に言って、単なるコミュニケーションの道具なのか。成長途上の諸科学により、経験的な発見がなされるにつれ、概念が変化するのならば、そのことはまた、知識自由意志意識のような、深く個人に根差した諸概念にも当てはまるのか。形而上学とは、科学によってまだ答えの与えられていない一群の問題にすぎないのか。それは同様に、認識論と心の哲学についても言えるのか。
 私たちすべてにとって、あの印象深いセミナーで、これらのことが、二十世紀になされた哲学の中心に位置する問題だった。[…]

皆が熱くなれる哲学の本って、最近あるのかな? ちょっとすぐには思い出せない。あるのかもしれないけれど…。


改めて、最後に。誤訳がありましたら、お詫び致します。どうかお許しください。また勉強致します。

*1:飯田隆、『言語哲学大全 II 意味と様相 (上) 』、勁草書房、1989年、283-284ページ。