How Does Dagfinn Føllesdal Block Quine's Slingshot Argument?

Dagffin Føllesdal さんが、Quine's Slingshot Argument を、どのように block するのか、そのことを詳しく説明しようと、先日長い文章を書いたのですが、どうも納得がいかないので、申し訳ありませんが、この日記に up することは止めにします。ただ、結論のようなものだけを、手短に書いてみようと思います。ごく手短に書きますので、詳しい説明と、以下の主張を正当化するための論拠や論証は一切省きます。すみません。お許しください。今回の日記を読まれる前に、当日記、2013年3月24日、''Føllesdal and Quine's Slingshot Argument at a Glance'' と、2013年3月31日、''Quine’s Slingshot Argument Reconstructed by Dagfinn Føllesdal'' を前もってお読みください。Quine's Slingshot Argument や the new theory of reference に詳しい方なら*1、そうされなくても大丈夫ですが、詳しくないようでしたら、まったく何の話かわからないと思いますので。また、以下の話は、Føllesdal さんの Quine's Slingshot に対する評価を記しているだけで、Føllesdal さんのお考えの正否は論じておりません。加えて、私の話は、絶対に正しいと思って書いている訳ではありません。たぶんこのような感じではなかろうか、というつもりで書いています。よくよく勉強してから書いているのではありません。ですから、まったく間違っているかもしれません。見当違いや完全な誤りを述べているかもしれません。前もって、含まれているであろう間違いに対し、ここでお詫びしておきます。そして、話を始める前に、今回私が参考にした Føllesdal さんの文献を、刊行年代順に掲げておきます。


Dagfinn Føllesdal

    • Føllesdal [1961],  Referencial Opacity and Modal Logic, Routledge, Studies in Philosophy Series, 1961/2004,
    • Føllesdal [1968],  ''Quine on Modality,'' in: Synthese, vol. 19, nos. 1-2, 1968,
    • Føllesdal [1983],  ''Situation Semantics and the ''Slingshot'' Argument,'' in: Erkenntnis, vol. 19, nos. 1-3, 1983,
    • Føllesdal [2004],  ''Quine on Modality,'' in Roger F. Gibson Jr. ed., The Cambridge Companion to Quine, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2004,
    • Føllesdal [2005],  ''[Short Interview Based on 5 Questions],'' in Vincent F. Hendricks and John Symons eds., Formal Philosophy, Automatic Press, 2005,

and

    • Michael Frauchiger [2013],   ''Interview with Dagfinn Føllesdal'' in Michael Frauchiger ed., Reference, Rationality, and Phenomenology: Themes from Føllesdal, Ontos Verlag, Lauener Foundation for Analytical Philosophy, vol. 2, 2013.


さて、Føllesdal さんから見た Quine's Slingshot Argument ですが、簡単に言うと、Føllesdal さんは Quine の Slingshot を、あまりに破壊的な帰結を招くので、それが故に背理法を取って、この論証が間違っているに違いないとお考えです*2。Quine の Slingshot を受け入れてしまえば、真理様相のみならず、義務様相や、認識の様相、信念様相も崩壊し、おそらく知的な営みのすべてが崩壊するのではないかと、予想されます*3


このように、その論証は間違っているに違いないと予想されますが、一方で Føllesdal さんは Quine の Slingshot を妥当な論証と見なしているようです。しかし妥当としながらも、Føllesdal さんは、この論証を健全ではないとお考えのようです*4。だとすると、この論証には、少なくとも一つ、実際には偽である前提が紛れ込んでいると考えられます。例えば、次のような論証を考えてみましょう。サメは人間である。故に、サメか、またはカメは人間である。この論証は妥当です。しかし、この論証の結論を本気で受け入れる人はいないでしょう。この論証の結論を見て、本当に驚いたり、おののいたりする人はいないでしょう。この妥当な論証から、この地球上のサメか、カメは、本当は人間なのかもしれない、と思い込んだりする人はいないと思います。というのも、この論証は妥当ですが、健全ではないので、結論が実際に真であるとは認められないからです。健全でない論証は、前提の少なくとも一つは、実際には真でなく、それ故、結論も実際には真ではないのが普通です。このように、Quine の Slingshot も、妥当な論証であったとしても、健全な論証ではないとするならば、その結論が本当に真であると、認める必要はないという訳です。こうして Quine の Slingshot は、実際上の効力を失い、事実上、 block できたものと考えられます。


では、詳しい話は一切省略して、すぐさま結論に向かいますと、Føllesdal さんは Quine の Slingshot の、どの前提が実際には偽であるとお考えなのでしょうか。この日記上では、Quine の異なる Slingshot を二つ、提示しました。一つは、2013年3月31日、項目 ''Quine's Slingshot Argument Reconstructed by D. Føllesdal'' におけるものです。もう一つは、2011年8月15日、項目 ''Quine's Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic'' におけるものです。前者の Slingshot で Føllesdal さんが、おそらく偽であると見なす前提は、たぶん

    • *(3')  (iy)( y = x . p ) = x   ['i' is a definite description operator.]

です*5。'(3')' は、この式の便宜的な名前で、その前の '*' は、この式が仮定として立てられていることを表します。さて、この式では、任意の対象 x を、ある確定記述 (iy)( y = x . p ) に等しいものとしています。そしてこの式について、いわゆる substitutional な観点から見てみますと、その右辺にどのような名前がきても、それに対応する記述句が左辺にある、ということを言っているものと理解できると思います。例えば、右辺に名前 'Pegasus' を置くと、左辺として、確定記述句 '(iy)( y は、Perseus が Medusa を殺した時に、その血から生まれた翼を持った馬である。)' を考えることができます。この左辺に対しては、さらに trivial に、'(iy)( y は pegasize するものである。)' を考えることもできます。この trivial な technique は、Quine の有名な論文 ''On What There Is'' の中で、名前 'Pegasus' を trivial に述語化して、'pegasize' という動詞を作る話がありましたが、あれのことです*6。このように、式 *(3') を substitutional に見るならば、そこで言われていることは、x に任意の名前が入ると、いつでもそれを、ある確定記述句に書き換えることができる、ということだと思われます。もう一度言いますと、どんな名前も、必ず確定記述句に書き換えることができる、ということです。これは Quine の the primacy of predicates という有名なテーゼです*7。どんな名前も記述句に変換することができて、名前をすべて、変項と述語と量化子などの、量化の道具立てで済ましてしまうことができ、したがって、名前は実は要らないのである、名前は理論的には一切不要なのだ、という例の話のことです。


Quine が主唱するこの the primacy of predicates は、名前が端的にその対象を指しているとするのではなく、どの名前も、その名前に対応する述語があって、その述語により、この述語に当てはまる対象が一つに特定されると考える立場です。そうすると、名前は何も介さず、端的に対象を指し示すのみ、というのではなく、名前は、いわば述語を介して対象を特定化するのだ、ということになります。これは実質的に、名前は記述を介して対象を指示している、あるいは、名前は Frege の Sinn のようなものを介して対象を指示している、ということになるでしょう*8。名前はすべて、記述を介して対象を特定する、または、対象は、特定されるのに、その対象が当てはまるような特徴をもってなされるのだ、とするならば、任意の対象もしくはその名前は、必ず記述を持つもしくは記述句に書き換えることができる、としてよいと思われます。そして実際にこのことを体現し、それを暗に示しているのが、上記の式 *(3') だと言えます。


Føllesdal さんは、おそらくこの *(3') を偽と見なすのです。これが偽であるならば、どのような名前も、必ずしも確定記述句に書き換えられる訳ではない、ということになります。実際、今の結論をさらに一歩進めて、Føllesdal さんの取っていると思われる立場を鮮明にすれば、名前には、確定記述句に書き換えられるものと書き換えられないものとがある、とするのではなく、そもそも「すべての本物の名前 (rigid designators, genuine singlar terms) は、またはすべての本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないのだ」ということになると思われます。名前はすべて、確定記述句ではなく、確定記述句はどれも、名前ではないと考えておられるのです。実際、確定記述句を、いわば展開してやると、文になります。文は、通常名前ではありません。ですから、確定記述句は名前ではありません。一方、正真正銘の名前は、確定記述句ではなく、それに書き換えることはできず、単なる tag であり、記述を介して対象を指示するものではない、とされているものと考えられます。


はたして、名前を一切確定記述句に書き換えることができないというのは、本当か否か、このことについて、今は詳しい検討を控えます。ただ、少し考えてみるだけで、いくばくかの疑問がわいてくるのは確かです。例えば、数詞 '3' ですが、これは、'the positive square root of nine' というように、確定記述句に書き換えることができると思います*9。しかもこの確定記述句は、どのような場合においても、つまり、どのような可能世界においても、同じ対象である 3 を指示します*10。したがって、正真正銘の名前だけが、どのような場合においても、同じ対象を指示し続けると言うのならば、それは間違いであって、確定記述句 'the positive square root of nine' も、あらゆる場合を通じて、3 を指し続けるのだ、と言えます。しかし、3 は必然的に存在する対象だから、それが備えている特徴を表した確定記述句によっても、常にいかなる可能世界においても、同じ対象として指示され続けるのかもしれません。そこで、偶然的に存在する対象ならば、それを特徴付ける記述は、時と場合に応じて、その対象を指示したり指示しなかったりするのでしょうか。偶然的な対象が持っている特徴のなかには、その対象をどのような場合にも、つまりその対象が存在するどのような可能世界においても、その対象を特定化できるような特徴は、一つもないのでしょうか。そのような特徴はあるように思われます*11。例えば、Ludwig Wittgenstein は、数の 3 のように、必然的に存在するような対象ではないと思われますが、その彼は1889年4月26日午後8時半に、父 Karl と母 Leopoldine の9番目の子として Wien の Alleegasse に生まれました。Ludwig に関するこの属性は、彼を、かつ彼だけを特定化する特徴の一つだと思われます。しかも、彼が存在する場合はいかなる場合でも、この特徴を彼は有しているように思われます。というのも、彼が彼である所以は、父 Karl と母 Leopoldine という両親から生まれたことにあり、この両親以外から生まれながら、それでも Ludwig が以前と変わらぬ Ludwig であり続けたということは、ありそうにないからです。以上のように、必然的対象であれ偶然的対象であれ、そのそれぞれを特定化する確定記述の実例があり得るのであり、しかも、それぞれの記述は、それに対応する対象が存在する可能世界では、いつでもその同じ対象を指し続けるように思われます。名前を一切確定記述句に書き換えることができないということは、本当に正しいことなのかどうか、このように疑問なしとはしません。この点については、色々と論じられているようで、これ以上は何も言いません。


また、上記の式 *(3') について、今までその式を、いわば substitutional に読んできましたが、いわゆる referential に読んだ場合には Føllesdal さんの「名前は確定記述句に書き換えることはできない」という見解はどうなるでしょうか。おそらく referential に件の式を読むならば、それは次のような感じになるものと思われます。すなわち、任意の対象 x には、それを、かつそれのみを特定化する特徴がある、と。このようなことを式の *(3') が referential には述べているものとするならば、この式を偽とする Føllesdal さんは、どのような対象であれ、各対象は、自身を、かつそれのみを、特定化するような特徴を必ずしも備えているとは限らない、と主張していることになります。対象によっては、それを特定化できるような特徴を持ち合せていないものがある、ということです。これが事実であるかどうかは、私にはよくわかりません。物理的な対象の場合には、それを、かつそれのみを特定化できるような特徴を、もしかすると、どの対象も持ち合せているかもしれません。例えば、ガンジス川の川岸の砂粒も、一つ一つ、その物理的特徴を精査すれば、分子の配列の違いや、その粒が地球上のどの時空間を占めているかを明らかにすることによって、それぞれを特定できるかもしれません。このような作業はものすごく大変であり、実際にやってみることなど、できはしませんが、理屈の上では可能であるように思われます。一方で、物理的な対象ではなく、抽象的な対象が存在する場合には、そのそれぞれを特定化できるのかどうか、これも私にはわかりません。例えば、個々の自然数ならば特定化することは可能かもしれません。具体的には、自然数の 0 は、いかなる自然数の後続者とはなっていない自然数であり、自然数の 1 は、自然数 0 に一つだけ後続する抽象的対象であり、自然数 2 は自然数 1 に一つだけ後続する抽象的対象であり、以下同様にして行けば、自然数という抽象的対象は、各々特定化することができるかもしれません。しかし、あらゆる抽象的対象がこのように整然と特定化されるものかどうかは、明らかではありません。このことについてもこれ以上述べることは、やめにしておきます。


何にせよ、Føllesdal さんは、ここまで論じてきた式 *(3') を偽と見なすだろうと思われます。この式は、当日記の2013年3月31日、項目 ''Quine's Slingshot Argument Reconstructed by D. Føllesdal'' において示されている Slingshot に現われています。この Slingshot は Føllesdal さんが Quine の Slingshot を再構成したものです。この再構成された Slingshot とは別に、当日記の2011年8月15日、項目 ''Quine's Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic'' においても、Quine の Slingshot が記されており、こちらの方は、Quine の Word and Object で出てくる Slingshot により近いものになっています。ではこの後者の Slingshot においては、どの式を Føllesdal さんは偽と見なすのでしょうか。それは、2011年8月15日の日記で、

    • (g)  ∀y( p ∧ y = w .≡. y = x )
    • (h)  ∀y( y = w .≡. y = x )

と記した式だろうと推測されます。Quine は Word and Object で、これらの式に相当する式がどちらも成り立つものと考えていますが*12、おそらく Føllesdal さんは、これらの式について、実際には偽であると踏んでいるものと思われます。というのは、これらの式は、いわゆる展開された確定記述句に他ならないからです。これらの式に出ている x を一意に定める記述的条件になっているからです。任意の x について、それをただ一つに特定化する条件を述べていることになっているからです。式中の x に名前を入れてやると、その名前の指示する対象を一つに定める条件が述べられていることになっているからです。つまり、簡単に言えば、事実上、確定記述句の代理をしているのです。そしてこのことは、今まで述べてきたように、Føllesdal さんの反対することでした。したがって、今上げた二つの式が、いつも成り立つと考えるのは間違っている、これらの式は実際は偽なのだ、と Føllesdal さんは考えているものと思われます。


ここでの私の話の目的は、Føllesdal さんが Quine の Slingshot を、どのように block するのか、ということを、詳細な論証抜きで示してみることでした。不十分ながら、ここまでで示されたことをまとめてみますならば、どのように Føllesdal さんが Quine の Slingshot を block するのかというと、その Slingshot は健全な論証ではないだろうから、前提に少なくとも一つは偽であることが含まれているはずで、二つ提示した Quine の Slingshot のうち、一つ目では、前提となっている式の

    • *(3')  (iy)( y = x . p ) = x   ['i' is a definite description operator.]

を Føllesdal さんは、おそらく偽とするであろうということと、二つ目では、前提となっている式の

    • (g)  ∀y( p ∧ y = w .≡. y = x )
    • (h)  ∀y( y = w .≡. y = x )

を Føllesdal さんは、おそらく偽とするであろうということを記しました。名前と確定記述句との異同については、詳しく論じている暇も能力もないため、上記の私の話では、表面を軽く引っ掻いた程度のことしか語られていません。きちんと論じようと思えば、the new theory of reference を本格的に検討してみなければなりませんが、今は時間もなく能力も欠けていますので、差し控えます。この種の話題は、しばしば論じられていると思いますから、私の出る幕ではないので、これで話は終わりにしますが、最後に一つだけ、記しておきたいことがあります。


Føllesdal さんの話を読んでいて気が付いたのですが、Føllesdal さんによると、いわば本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないという立場を取っておられると思います。ところで、話は飛ぶようですが、「存在論的 commitment の基準として、あなたはどのような基準を採用されますか?」と聞かれれば、何と答えますでしょうか? 私は the new theory of reference をよく知らないこともあり、何となく漠然と、「たぶん束縛変項の値であることじゃないだろうか」と答えるように思います。Quine と同じですね。存在論的 commitment の基準として Quine が採用していると思われるのは、非常に有名なことですが、有意味な名前のいみや指示対象であることではなく、束縛変項の値であること、です。ひょっとしてひょっとすると、私と同じように、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用しようとする人は、他にもいらっしゃるかもしれません。しかし、Føllesdal さんが言うように、本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないということが正しいとするならば、つまり、the new theory of reference が正しいとするならば、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であること、という基準を採用することはできなくなってしまうと思います。名前が必ずしも確定記述句に書き換えることができる訳ではないとするならば、存在論的 commitment の基準として、Quine と同様に、束縛変項の値であること、というよく知られた基準を採用することは、おそらく不可能になるということです。このことに気が付いて、私はちょっと驚きました。気が付くのが、ものすごく遅いとは思いますが…。今さら仕方がないですよね。気が付かなかったものは気が付かなかったのだから、もうどうしようもない。なぜ今まで気が付かなかったのか、不思議と言えば不思議だし、私の能力では当然と言えば当然ですが…*13。まあ、それはさておき、どうして名前を確定記述句に書き換えることができなければ、存在論的 commitment の基準として、Quine 同様、束縛変項の値であることを採用できないのかというと、Quine にとり、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用できるのは、名前がすべて例外なく確定記述句に書き換えることができるということを根拠にしているからです*14。あらゆる名前が確定記述句に書き換えることが可能であるということを理由として、束縛変項の値であることを、存在論的 commitment の基準に採用できるのです。名前を確定記述句に書き換えることができるから、有意味な名前のいみや指示対象であることを存在論的 commitment の基準に据えるのではなく、束縛変項の値であることに、その基準を据えることができるのです。これは Quine の ''On What There Is'' を読めば、文字通り、そう書いてあります*15。異なる解釈が出てくる余地はないと思います。それぐらい明白に書いてあります。断言してしまいますが…。ということで、名前を必ず確定記述句に書き換えることができるから、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用すべきだ、ということが Quine の主張ですが、上記の Føllesdal さんのお考えによると、Quine's Slingshot Argument を阻止するには、上で提示した *(3') などの三つの式を偽とすべきであり、このことがいみしているのは、substitutional には、本物の名前は確定記述句に書き換えることができないということでしたから、これは Quine の主張と真っ向からぶつかります。Føllesdal さんが正しいとすると、本物の名前は確定記述句に書き換えることはできませんので、そうすると、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用すべき根拠が失われてしまうように思われます。ですから、「あなたの存在論的 commitment の基準は何ですか?」と聞かれれば、名前をいつでも確定記述句に書き換えることができると考えるなら、「束縛変項の値であることです」と答えることはできるでしょうが、名前を単なる tag 以上のものではないと考えているならば、その場合、「束縛変項の値であることです」と答えることはできないと思われます。それでは筋が通らないからです。何となく、教科書的に、「存在論的 commitment の基準は、束縛変項の値であることなんだろうな」と、ぼんやり思っていましたが、rigid designator や genuine singular term などを、本気で受け入れる人は、おそらく存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを、採用することはできないだろうと思います。とすると、その基準として、何を採用すればよいのだろう? それこそ、the new theory of reference をよくよく勉強してみないと答えは出ないように思われます。という訳で、それについては、また今度勉強することにしよう。ただし、また今度というのが、いつのことになるのかは、わかりませんが…。


以上の話には、間違いが含まれているかもしれません。不十分な考察が見受けられるかもしれません。Føllesdal さんのお考えや、the new theory of reference, 可能世界に関することについては、私は詳しくありませんので、見当違いなことを述べておりましたら謝ります。大変すみません。暫定的な私見を記したまでですので、どうかお許しいただければと思います。

*1:私は 'the new theory of reference' という言葉を、漠然と使っています。Ruth Barcan Marcus, Saul Kripke, Dagffin Føllesdal さんたちの、名前に関する所説を大づかみに指しています。

*2:Føllesdal さんは、このようなことを、あちらこちらで繰り返し述べておられます。一つだけ、該当箇所を明記しておきますと、Føllesdal [1961], pp. x-xi.

*3:これも一ヶ所だけ、該当箇所を記しておきますと、Føllesdal [1961], pp. x-xi.

*4:Frauchiger [2013], p. 351. ここで、interviewer の Michael Frauchiger さんは、interviewee の Føllesdal さんに、「あなたが明らかにしたのは、Quine の Slingshot が、妥当ではあるが健全ではない、ということでした」との主旨のことを語りかけ、これに対し、Føllesdal さんは特に否定されていません。この interview の様子は、当日記、2013年3月24日、''Føllesdal and Quine's Slingshot Argument at a Glance'' に記されています。

*5:Føllesdal [1983], p. 95.

*6:Willard Van Orman Quine, ''On What There Is,'' in his From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays, Second Edition, Revised, Harvard University Press, 1953/1980, pp. 7-8, 邦訳、クワイン、「何が存在するかについて」、『論理学的観点から 9つの論理・哲学的小論』、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1972年、21ページ、クワイン、「なにがあるのかについて」、『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』、飯田隆訳、双書プロブレーマタ II-7, 1992年、10-11ページ。

*7:W. V. Quine, Methods of Logic, Fourth Edition, Harvard Univesity Press, 1982, p. 276. ここで Quine は、'the primacy of general terms' という言葉を使っています。邦訳、W. V. O. クワイン、『論理学の方法』、中村秀吉、大森荘蔵訳、岩波書店、1961年、216ページ、クワイン、『論理学の方法』、原書第3版、中村秀吉、大森荘蔵、藤村龍雄訳、岩波書店、1978年、246ページ。Føllesdal さんは、Quine の the primacy of predicates について、次の箇所で言及されています。Føllesdal [1961], pp. 75-76.

*8:Frege の Sinn は、Russell の確定記述に他ならないと、ここで言いたいのではありません。両者が同じか否かは、検討する必要があります。たぶん両者は、正確には異なったものです。

*9:この事例は、次に上がっているものです。W. G. ライカン、『言語哲学 入門から中級まで』、荒磯敏文、川口由起子、鈴木生郎、峯島宏次訳、勁草書房、2005年、80-81ページ。同種の話は次にも見られます。飯田隆、『言語哲学大全 III 意味と様相 (下)』、1995年、278-279ページ、および、八木沢敬、『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』、講談社選書メチエ 544, 2013年、190-191ページ。

*10:ここでは個々の数を対象であると見なしています。数学的な構造主義の場合は、数を対象とは見なさないかもしれません。

*11:以下の例は、次を参考にしています。飯田、『言語哲学大全 III』、278-280ページ。ここで述べる特徴は、'individual essence', 'haecceity', 'thisness' などと呼ばれているものです。

*12:Willard Van Orman Quine, Word and Object, The MIT Press, 1960, §41, p. 198, formulae (5) and (6), Quine, Word and Object, New Edition, The MIT Press, 2013, §41, p. 181, formulae (5) and (6), W. V. O. クワイン、『ことばと対象』、大出晁、宮館恵訳、双書プロブレーマタ 3, 勁草書房1984年、第41節、332ページ、式 (五), (六).

*13:名前を確定記述句に書き換えることが必ずしもできないとするならば、存在論的 commitment の基準として、Quine のように、束縛変項の値であることを、その基準に採用することはできないだろう、という話は、先日、次の文献該当箇所で言及されているのに気が付きました。八木沢、『意味・真理・存在』、180ページ以下を参照。八木沢先生が、このように入門書で今問題にしていることを述べておられることから、the new theory of reference を信奉している人々にとっては、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であること、という基準をたぶん採用できないことは、おそらくよく知られていることなのでしょう。私は最近まで知りませんでしたが…。

*14:Quine, ''On What There Is,'' pp. 12-13, クワイン、「何が存在するかについて」、26-27ページ、「なにがあるのかについて」、18-19ページ。

*15:Quine, ''On What There Is,'' pp. 12-13, クワイン、「何が存在するかについて」、26-27ページ、「なにがあるのかについて」、18-19ページ。