先日、PR誌の
を購入した。これらにはそれぞれ次の論考が収められていた*1。
- 野口雅弘 「フォン・トロッタの映画『ハンナ・アーレント』」、『みすず』、みすず書房、no. 618, 2013年8月号
- 野口雅弘 「50年後の『イェルサレムのアイヒマン』」、『みすず』、みすず書房、no. 619, 2013年9月号
拝読させていただくと、興味深いことを教えられたので記してみます。
私は Hannah Arendt の文章を読んだことがたぶんない。1ページぐらいは邦訳で読んだかもしれないが、覚えていない。読んだとしても、たったそれぐらいしか読んでいない。Arendt に関する解説書や研究論文もまったく読んだことがない。なぜか特に興味がわいてこない。嫌いなわけではありません。好きか嫌いか判断しようにも、彼女のことはまったくと言ってよいほど知らないので、特に深い理由があって意図的に彼女の文献を遠ざけているわけではありません*2。とはいえ近頃、Arendt が結構人気だと思います。ですから、重要な思想家なのだろうと思っておりました。野口先生の一つ目の論考を見ると、次のようにあります。
ベルリンの壁が崩壊して20年以上が経つなかで、ハンナ・アーレントはとても学生受けのよい思想家の1人になっている。大学の講義でも、わかってもらうためにかなりの工夫を要するようなタイプの思想家では、少なくともない。そして「活動 Handeln」「仕事 Herstellen」「労働 Arbeit」という三つの概念や全体主義理解、あるいはアイヒマン評価などは、政治学の基礎概念として定着しているし、昨年度のセンター試験 (倫理) では彼女についての問題が出されてもいる。このため、アーレント自身がその時代に [彼女が戦後に生きた時代に] どれほど心もとないところでものを考え、そして書いてきたのかを忘れてしまいがちだ。*3
実際、昔からいつでも Arendt は重要視されていたわけではないようで、西ドイツでは大抵の場合、評価が低かったみたいです。右からも左からもあまり評価されず、Fascism と Communism を十把一絡げに全体主義としてくくってしまっていると非難されており、西ドイツのころに全体主義を批判することは、取りも直さず反共イデオロギーと考えられて *4、怪しく扇情的なものと映っていたのかもしれません。これは現代の日本に住まう私には意外でした。
さらに現代においても、Arendt の全体主義批判は、そのほころびが指摘されているようです。そのことが上記野口先生の二つ目の論考からわかります。先生の論考を引用します。
周知のようにアーレントは、600万人ものユダヤ人の大量虐殺が行われたのは「怪物 Ungeheuer」のような悪魔的な人物によってではなく、自分はただ命令にしたがっただけだと言い張る、思考能力の欠如した「道化 Hanswurst」 によってだったと述べた。*5
この「悪の陳腐さ」というアーレントのテーゼは、発表当時は多くの反発を受けたが、今日では広く受け入れられている。少なくとも、日本ではそうだろう。*6
ところが今ドイツでは、[…] こうしたアーレントのアイヒマン理解が大きく揺らいでいる。それどころか覆されていると言ったほうがよいかもしれない。*7
その [ような評価の] きっかけを作ったのは、2年前に刊行され、注目を浴びたベッティーナ・シュタングネトによる研究『イェルサレム以前のアイヒマン』 (Bettina Stangneth, Eichmann vor Jerusalem. Das unbehelligte Leben eines Massenmörders, Zürich: Arche, 2011) だった。シュタングネトは、[…] いわゆる「アルゼンチン文書 Argentinien-Papiere」と呼ばれる膨大な資料を渉猟し、アイヒマンが筋金入りの反ユダヤ主義者で、官僚的というよりクリエイティブな殺戮者だったこと、そしてイェルサレムで見せたのは「仮面劇 Maskenspiel」だったことを明らかにしている。[アーレントがアイヒマンの本を執筆した] 当時とは比べものにならないくらいに膨大な資料が今日では読めるようになっており、シュタングネトはこれを徹底的に調べあげ、650頁を超える大著として提示したのだ。この研究が出たあと、ドイツでアイヒマンに言及したもので、これを意識しないでいるものは一つとしてない。*9
こうした [シュタングネトの明らかにした] 資料から浮かび上がってくるアイヒマンはたんなる組織の「歯車」ではない。主体的な判断を持ち合わせないグロテスクな「役人」でもない。彼は自発的、自覚的、確信犯的な国民社会主義者だったのだ。となると、イェルサレムの裁判のなかでの「アイヒマン」は死刑を免れるための演技が作り出したもので、それ自体が裁判戦術だったということになる。[…] こうなると、歯車、ハンスヴルスト、「悪の陳腐さ」というアーレントのアイヒマン・レポートを無批判になぞることはできなくなるし、それが今日の状況なのだ。*10
Eichmann は、単なる官僚主義的で杓子定規で小心者の小役人だとばかり何となく思っておりましたが、どうやらかなり腹黒い悪知恵の働く男だったようですね。
Arendt の全体主義批判に関する研究者には Stangneth さんの本は既によく知られているのかもしれませんが、私は全然知りませんでした。Arendt を今までどおりに読むわけにはいかないとなると、さらに彼女の読み直しが進むかもしれませんね。
PS
Stangneth さんは Arendt を単に切って捨てようとされているのではありません。きちんと respect されておられます。
以上の記述に関し、誤解や無理解、誤字脱字などがありましたら謝ります。お許しください。
*1:追記2018年12月31日: 以下の二つの論考は、最近出版された野口先生のご高著に再録されています。野口雅弘、『忖度と官僚制の政治学』、青土社、2018年、「第6章 フォン・トロッタの映画『ハンナ・アーレント』―ドイツの文脈」、「第7章 50年後の『エルサレムのアイヒマン』―ベッティーナ・シュタングネトとアイヒマン研究の現在」。今「再録」と書きましたが、たぶん増補されています。店頭で本書を手に取って、中を少し眺めてみると、刊行済みの論考は、刊行時に削除した分を元通りに戻している、というようなことが、前書きだったか後書きだったかに書いてありました。ただし、実際に増補されているのか否か、されているならどの部分が増補されているのか、私はまだ確認しておりませんが。追記終り。
*2:精神分析家が私を分析すれば、「あなたは無意識の中で、彼女の著作を忌避しているのです。その理由はずばり、かくかくしかじかです。それがあなたをそうさせているのです。」と指摘されるかもしれませんが、その指摘は当たっているかもしれませんし、当たっていないと思うかもしれません。しかしいずれにせよ、なぜ Arendt の著作を読んでこなかったのか、私にはよくわかりません。個人的には偶然そうなったのだろうと思っているのですが…。
*3:野口、「フォン・トロッタ」、47ページ。
*4:野口、「フォン・トロッタ」、46ページ。
*5:野口、「50年後」、53ページ。
*6:野口、「50年後」、53ページ。
*7:野口、「50年後」、53ページ。
*8:野口、「50年後」、52ページ。
*9:野口、「50年後」、53ページ。
*10:野口、「50年後」、54ページ。