Why Can't There be any Empty Classes in Leśniewskian Perspective? Why Does Leśniewskian Unit Class Coincide with its only Element?

Leśniewski またはその解説者によると、空集合 (空クラス) は存在しないという*1。さらに、単元集合 (一点集合、単元クラス、singleton) は、そこに含まれるただ一つの要素に一致するという*2。これは通常私たちが勉強する集合論の常識とは、大きく異なっている。そこで Leśniewski からすると、なぜ空集合がなく、単元クラスの要素がそれを含むクラスに一致するというのか、その理由を以下に記してみます。
なお、私は Leśniewski の専門家ではありませんし、それを長年に渡って詳しく研究しているわけでもありません。Leśniewski の著作を、英訳によってであれ、全部読んだというわけでもありませんし、Leśniewski に関する二次文献を全部読んだというのでもありません。私自身、Leśniewski について、勉強の途上にあります。そのため、以下に記されていることには間違いが含まれるかもしれません。そのようなことがないように努めますが、私の記述に疑問が生じましたら、ご自分で推考していただき、私が言及している文献に当たって間違っているかどうか、お手数ですがお確かめください。含まれているであろう間違いに対し、あらかじめお詫び申し上げます。
以下の話の流れを述べておきます。初めに空集合について復習します。次に、単元クラスとそこに含まれる要素が一致しないこと、言い換えますと、同じことですが、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とは異なることを確かめます。そして、空集合が存在し、単元クラスとその要素とが異なることを擁護する Russell の発言を引きます。その後で、空クラスは存在しないという Leśniewski の見解を記し、最後に単元クラスがその要素に一致するという Leśniewski あるいはその解説者の見解を見てみます。


空集合の存在:

今、1 と 2 と 3 を含んだ集合 { 1, 2, 3 } があるとします。これは「x は整数で、かつ 1 ≦ x ≦ 3 である」というような条件を満たすものから成る集合と言えます。次に { 1, 2, 3 } から最大の数を抜き取ると { 1, 2 } という集合になります。これは「x は整数で、かつ 1 ≦ x ≦ 2 である」というような条件を満たすものから成る集合と言えます。続いて { 1, 2 } から最大の数を抜き取ると { 1 } という集合になります。これは「x は整数で、かつ 1 ≦ x ≦ 1 である」というような条件を満たすものから成る集合と言えます。さらに { 1 } から最大の数を抜き取ると、{ } となり、このようなものも集合と考えることにしますと、これは「x は整数で、かつ 1 ≦ x ≦ 0 である」という条件を満たすものから成る集合だと言えます。この最後に挙げた集合は、何も含まない集合で、「空集合」と呼び、'ø' と書きます。集合 { 1, 2, 3 } は、1, 2, 3 から成るものでしたが、空集合は、言ってみれば、何ものでもないのものから成る集合です。

ところで、「集合論で扱われる対象を集合 (set) と呼」びますが、「集合とは、以下に […] 述べる集合論の公理 S1) - S10) を満たすような対象で」す。ここでは公理 S1) の説明を飛ばし、S3) -S10) の説明を省きます。さて「つぎの公理は、集合が (少なくとも一つ) 存在することを主張するもので」す。 「

 S2) (空集合の存在公理)   ∃a∀x [ ¬( x ∈ a ) ].

'普通のことば' で述べれば、この公理は ''どのような元も含まない集合 a が存在する'' ということを主張している。」*3 この公理を立てるならば、空集合が存在していることになります。


ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とは異なること。あるいは、a ≠ { a }:

今 a は集合で、∀x ¬( x ∈ a ) のことだと定義します*4。そしてこの a だけを要素として含む集合 { a } があるとします。すると a ≠ { a } です。なぜなら、集合 A, B 同士が等しいというのは、

1)  ∀x ( x ∈ A → x ∈ B .∧. x ∈ B → x ∈ A)

が成り立つということであり、この式の A に a を、B に { a } を入れると、

2)  ∀x ( x ∈ a → x ∈ { a } .∧. x ∈ { a } → x ∈ a)

となりますが、この式の x を a でさらに例化すると、

3)  a ∈ a → a ∈ { a } .∧. a ∈ { a } → a ∈ a

となるものの、(この左辺は trivial に成り立つが) この右辺が成り立ちません。実際、

4)  a ∈ { a } → a ∈ a

5)  a ∈ { a }

は、確かに成り立ちますが、

6)  a ∈ a

は a の定義からいって成り立ちません。a にはそもそも何も含まれなかったからです。よって a と { a } に関し、2) は成り立たないので、a = { a } ではありません。つまり、a ≠ { a } です。これはすなわち、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とは異なる、ということです。


Russell による空クラスの擁護と、a ≠ { a } の擁護:

次は Russell の言葉です。

 We cannot take classes in the pure extensional way as simply heaps or conglomerations. If we were to attempt to do that, we should find it impossible to understand how there can be such a class as the null-class, which has no members at all and cannot be regarded as a ''heap''; we should also find it very hard to understand how it comes about that a class which has only one member is not identical with that one member.*5

 吾々は集合を、なる物の塊とか物の集團とかいうように、純粹に外延的なものとして考えることはできない。もしそうした考え方をすべきであるならば、全然要素をもたない、從って物の集りとはみなされない空集合を理解することもできないし、ただ一つの要素をもつ集合とその要素自身とが違ったものであるということも理解できない。*6

Russell は言います。集合とは、そこに含まれる要素がまずあって、それから集合ができるとするならば、そもそも集合を成すはずの要素がなければ空集合もあり得ないし、ただ一つの要素から成る集合は、そこにあるのはただその要素のみだから、その要素から成るとされる集合とその要素は区別できなくなるが、実際には空集合はあり、ただ一つの要素から成る集合もあるのだから、集合とは、単にそこに含まれる要素から成ると言うだけでは、捉え切ることができないのだ、と。

しかし、Leśniewski の見解は、Russell と異なります。Leśniewski は、Russell の考えを否定します。それは私たちの集合論に対する常識を否定することでもあります。Leśniewski によると、正しいのは、今 Russell が言ったことの前半分です。すなわち、「集合とは、そこに含まれる要素がまずあって、それから集合ができるとするならば、そもそも集合を成すはずの要素がなければ空集合もあり得ないし、ただ一つの要素から成る集合は、そこにあるのはただその要素のみだから、その要素から成るとされる集合とその要素は区別できなくなる」ということです。Leśniewski によると、これは不合理ではありません。Leśniewski の考えでは、実際に空集合はないし、一つの要素だけから成る集合は、その要素と同一のものであるとわかるのです。

Russell にとってもそうであるし、私たちにとってもそうですが、空集合は存在し、{ a } が a と同一となる、つまり { a } = a となる、などということはないと私たちは考えます。しかし Leśniewski は私たちと異なり、そのようには考えません。なぜなのでしょう? 空集合は存在しないという理由、および a ≠ { a } とはならない、つまり a = { a } となる理由を、ごくごく簡単にですが、Leśniewski に、あるいは Leśniewski の解説者に、聞いてみます。


Why Can't There be any Empty Classes in Leśniewskian Perspective?

Leśniewski's theory of collective classes には、通常の集合論には見られない独特な特徴がいくつかあると思われます。一見したところ、それらの特徴には首肯し得ないものがあるように感じられます。例えば、にわかには首肯しかねるそのような特徴に、「空集合または空クラスというものはない」という Leśniewski の見解があります。それにしても、なぜ Leśniewski は空クラスはないなどと言うのでしょうか。ここで当人のその理由を挙げてみますが、Leśniewski 本人の理由を挙げるだけで、差し当たり、論評は一切加えません。しかもその理由を、微に入り細を穿って提示するということも致しません。なお、私は Leśniewski に詳しくないので、以下に挙げる理由が、挙げるのに最もふさわしいものであるのかどうかは、定かではございません。たまたま気が付いたところを挙げているのみです。見当違いの箇所を挙げているようでしたら、お詫び致します。すみません。以下の引用文内の '〚 〛' は、引用者によるもの、'[ ]' と '( )' は英語原文にあるものです。

He〚Leśniewski〛reported in [27] that "The problem of 'empty classes' did not constitute a subject of my investigations on this occasion, since I treated the concept of 'empty classes' from the very first time when I encountered it as a 'mythological' concept, taking without any hesitation the position that if some object is the class of objects α, then some object is α." *7

[27] Leśniewski, Stanisław, "O podstawach matematyki" (On the foundations of mathematics), Przegląd Filozoficzny, vol. XXX (1927), pp. 164-206.

この引用文中で引用されている Leśniewski のセリフは、

  • Stanisław Leśniewski  ''On the Foundations of Mathematics,'' translated by D. I. Barnett, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett ed., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume I, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1992, pp. 201-202,

に出てきます。上で引用した Sinisi さんの英訳と、Collected Works 版での英訳とでは、少し異同があります。しかもその異同は無視し得ないものかもしれず、Sinisi 版または Collected Works 版のどちらかに、重大な誤訳が含まれている可能性を抱かせるものがありますが、Poland 語原文を持っておらず確認ができないので、この点をここで追及することは当座のところ控えることにし、ただ Sinisi 版に従って上の引用文を訳し出してみると、大体のところなら、次のようにでもなるでしょうか。引用文中、最後の条件文の前件と後件の中は、ひっくり返すように訳してみます。加えて、その条件文中における 'some object' の 'some' を、存在のいみで訳してみます。Leśniewski の場合、このように訳すことが、いつでもどこでも正しいとは限らないかもしれませんが*8

彼は「数学の基礎について」において、以下のように伝えていた。「「空クラス」の問題は、その時、私の研究の主題を成してはいなかった。「空クラス」という概念は、私がそれに最初に出会ったまさにその時から、「神話的な」概念として私は見なしていたのであり、何らの躊躇もなく、次の立場を私は取っていた。すなわち、諸対象 a から成るクラスが、何らかの対象としてあるならば、その時、a であるような何らかの対象があるのだ、と。」

翻訳文最後の、Leśniewski の立場を伝える条件文の対偶を取ると、「a であるような何らかの対象がないならば、その時、諸対象 a から成るクラスも、何らかの対象としてはないのだ」となります。このことをたとえ話で説明すると、以下のようになります。個々の木々から成る集まりが、森というものとしてあるならば、その時、木々であるような何らかのものがあるのである。この対偶を取ると、木々であるような何らかのものがないならば、その時、木々から成る森もないのである。木々から成る森の、その木々をすべて焼き払ってしまうならば、それら木々とともに森もなくなってしまうのである。部分から成る全体の、その部分をすべて無きものとしてしまえば、全体も無きものとなるのである。ここでの木と森のたとえは Frege に依ります。Leśniewski は Frege によるこのたとえ話を知っていました。詳しくは当日記、2011年7月17日、項目 'Frege, Leśniewski and Chwistek on Empty Class: Can There Be No Empty Class?' を参照ください。


次の文も掲げておきます。

As indicated earlier, Leśniewski repudiated the existence of those (as he called them) "theoretical monsters" such as the class of square circles, since, as he maintained, he was well aware that nothing can consist of what does not exist.*9

ありもしないものから、何も成りはしない。

Leśniewski にとって、どうして空集合/空クラスがないと言えるのか、これで一応その理由がわかったと思います。


Why Does Leśniewskian Unit Class Coincide with its only Element?

ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とが等しくなるということは、Leśniewski についての専門家である Sinisi さんの論文を読むと、証明されることのようです。そこでその Sinisi さんの論文から、件の証明を提示します。その後に、より簡単な証明を示します。そして最後に、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とが等しくなることの直観的ないみを考えてみます。

まず、件の証明の形式的なものを端的に記します*10。記号ばかりで書かれた式が出てきますが、細かいところまで入り込まなければ、以下の証明の各 step を追うことは、まったく簡単です。以下の各式の先頭にある '(a')' などは、Sinisi 論文でのそれぞれの式の名前です。式中の各記号の大よそのいみするところを述べておきます。引用符は省いて記しますと、式の名前の次にある (P) などの ( ) は普遍量化子です。A ε B は A は B である、ということです。A ε V は A は対象である、ということ。 A ⊃ B は A ならば B である、ということ。Kl(x) は x のクラス、またはクラス x のいみです*11。A ≡ B は、A ならば B かつ B ならば A のことです。ex{x} は少なくとも一つの x があるということ、−{x} は高々一つの x があるということ、言い換えると x はあるとしても、一つまでしかないということ*12、ex{x} . −{x} の真ん中にある . は連言のかつ、el(x) は x の要素であるということ、A ε UKl は A は単元クラスである、ということ、以上です。とりあえず各式のいみしていることは脇に置いておいて、結論である最後の式 (E') が確かに出てくることを実際に確認してみてください。式の右にある [ ] は各式が何に依存しているのか、どのように出てくるのかを記しています。

(a')  (P)(P ε V . ⊃ . P ε Kl(P))   [Mereology の定理]
(b)  (x)(x ε V . ≡ . ex{x} . −{x})   [Ontology の定理]
(1')  (P)(ex{P} . −{P} . ⊃ . P ε Kl(P))   [(a'), (b) から。つまり (b) の x を P で例化して、その右辺を仮定すると、(b) の左辺が出て、それは (a') の左辺となり、そこから (a') の右辺が出るので。]
(A')  ex{el(Kl(K))} . −{el(Kl(K))} . ⊃ . el(Kl(K)) ε Kl(el(Kl(K)))   [(1') から。つまり (1') の P を el(Kl(K)) で例化。]
(B')  (X)(X ε Kl(el(Kl(K))) . ⊃ . Kl(K) = X)   [仮定]
(C')  ex{el(Kl(K))}. −{el(Kl(K))} . ⊃ . Kl(K) = el(Kl(K))   [(A'), (B') から。つまり (B') の X を el(Kl(K)) で例化し、そうした式と (A') から。]
(D')  K ε UKl . ≡ . ex{el(Kl(K))} . −{el(Kl(K))}   [単元クラス UKl の文脈的定義。]
(E')  K ε UKl . ⊃ . Kl(K) = el(Kl(K))   [(C'), (D') から。つまり (D') の左辺を仮定すると、その右辺が出て、その右辺と (C') の左辺とで (C') の右辺が出るので。]

最後の結論である式のいみしているところは、Sinisi さんによると次のことです*13

(E)   If a class is a unit class, then it is the same object as its only element. (クラスが単元クラスならば、それはそのただ一つの要素と同じものである。)

(E') により即して読むならば、K が単元クラスならば、クラス K はクラス K の要素に等しい、となります*14。これで一応、Mereology の定理である (a') と Ontology の定理である (b) と、仮定 (B') から、(E') が出てきて、この (E') は (E) のいみを持つとされているので、Leśniewski においては、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とが等しくなるということが証明されました。


ところで、Leśniewski のやり方に、それほどこだわらなければ、もっと簡単に、あっけないくらい手短に、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とが等しくなるということを証明できますので、それを次に記してみます*15

Leśniewski にとってのクラスの理論は 'Mereology' と呼ばれますが、Mereology においては、クラス間の包含関係 / 部分関係には推移律が成り立ちます*16。クラス A における関係 R が次の条件を満たす時、R は A において「推移的 (transitive)」であると言います。

    • A の要素 a, b, c に対し、( aRb かつ bRc ) ならば aRc.

このように定式化された式のことを「推移律」と言います。Mereology において、この式が成り立つことを認めれば、単元クラスとその要素とが等しくなることを簡単に示すことができます。

今、Leśniewski のクラスの間では推移律が成り立つとします。さて、

(1) ø ⊂ {ø}

が成り立ちます。また、

(2) {ø} ⊂ {{ø}}

も成り立ちます。推移律が成り立つとしましたので、(1), (2) から、

(3) ø ⊂ {{ø}}

が成り立ちます。ところで (3) の右辺のクラス {{ø}} に含まれているのは {ø} だけです。そして {{ø}} には、(3) により ø が含まれているのでした。したがって ø = {ø} です。この式がいみしているのは、単元クラス {ø} がその要素である ø と等しいこと、つまり、ただ一つの要素だけを含む集合と、その要素とが等しい、ということです。


以上により、とりあえず Leśniewski においては、一定の仮定を認めさえすれば、単元クラスとその要素とが等しくなることを証明できたのですが、証明できたのだから Leśniewski においては単元クラスとその要素とが等しくなるのはその通りであるとしても、そのことのいわゆる実感が何かわいてこないのも事実かもしれません。どうもピンとこない、単元クラスとその要素とが一致するという具体的なイメージがわかない、ということもあるかと思います。そこで、単元クラスとその要素とが一致するというのは、具体的にはどのような状況のことなのか、その直観的なイメージを述べてみたいと思います。なお、このイメージは Leśniewski の著作や Sinisi さんの論文のどこかに書いてあるということではございません。私自身が考えたものです。もしかすると今述べたお二人の著作のどこかに似たようなことが既に書かれているのかもしれませんが、私自身で単元クラスとその要素が一致するとはどのようなことを言うのかを考えてみました。ですので、私が記す具体的イメージは正しいものではないかもしれません。いずれにせよ直観的イメージなので、厳密に正しいかどうかには、今の場合、それほど固執しなくても大丈夫かもしれません。というわけで、とりあえず、そのイメージを述べてみましょう。


まず、代表的な事例として、例えば、天体である地球とその部分、地図に描かれた日本とその地図上の日本の領土の一部分、一つのリンゴとその部分、一人の人間とその人の頭部などを思い浮かべてください。そして、地球がクラスに相当し、地球の中心である核 (core) がその部分/要素に当たり、地図上の日本がクラスで、本州がその部分/要素、リンゴがクラスでその芯が部分/要素、一人の人間がクラスでその頭部が部分/要素に当たります*17

これらのような具体的事例を典型例として念頭に置きつつ、単元クラス、すなわち一つのものから成るクラスが、その要素、つまりその部分と一致するのはどのような状況かを考えてみます。ここで少し形式的に考えてみます。今、何らかのもの A, B について、

    • A は B の部分である。

としましょう。この時、もしも B の部分が A しかないならば、B は A と一致します。B の部分が A 以外になく、唯一 A だけが B の部分で、A しか B の部分がないならば、B と A は一致します。少し言い方を変えてみましょう。B の部分が A しかないことはないとします。つまり、B の部分が A だけでなく、例えば A' も B の部分だとしましょう (A ≠ A')。こうして B の部分として、二つの異なる部分 A, A' がある時、B と A, A' は一致しません。つまり、B ≠ A, B ≠ A' です。しかし B の部分として、異なるような複数の部分があるのではなく、唯一 A だけがあり、A 以外に B の部分がないならば、B は A と一致します。この時、B は単元クラスで、この B はその部分/要素である A と一致します。つまり、単元クラス B とその要素 A とが等しいということです。

ピンとこない場合には、B を理論的にも物理的にも、これ以上分割できないとても小さなものとして考えてみてください。その上で、今までの A と B の話を振り返ってみてください。そうすれば、言っていることがわかると思います。つまり、この場合、B の部分は B しかない、ということです。B の部分でありうるのは B (= A) しかない、ということです*18。そうすると、単元クラスである B が、その唯一の部分である A と一致するということは、B が B 自身に一致していると言うことにすぎないことがわかると思います。この時、単元クラス B とその部分 A とは等しいということになります。


これで Leśniewski の単元クラスがその要素と等しくなることが、直観的にわかるようになったと思います (そう思っているのが私だけでしたら大変すみません)。しかし、注意しなければならないのは、これまでに「要素」だとか「部分」というような言葉で語ってきた事柄を、Leśniewski は、Mereology を初めて提案した論文、

  • Stanisław Leśniewski  ''Foundations of the General Theory of Sets. I,'' translated by D. I. Barnett, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett ed., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume I, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1916/1992

において、多数のそれぞれ異なるいみを持った、しかし類似したいみを持つ言葉で分析しているということです。Leśniewski が上記の論文中で検討している類似したいみを持つその言葉には、英語では、(引用符を省いて記すと) part, ingredient, element, subset, proper subset, object exterior to object P, complement of object P1 with respect to P があります。これらの言葉のいみが、すべてどのように異なるのか、この点を理解した上でないと、Leśniewski にとってのクラスの部分だとか要素だとかいうものが何であるのかは、正確にはわかったことにはなりません。したがって、その理解を待ってからでないと、Leśniewski の単元クラスがその要素と等しくなることも、正確にはわかっていないということになります。それ故、Leśniewski の単元クラスがその要素と等しくなることを、直観的にではあれ、詳しく理解するには今挙げた類似語同士の異同を把握しなければならないということになります。しかし、その試みは、もはやここでの仕事ではなく、別の機会に譲らねばなりません。それに、Leśniewski の単元クラスがその要素と等しくなることが、直観的にわかるようになるという所期の目的は、ここまでで一応達成されたと思われます。そのため、以上で今回の話を終え、ここまでで達成したことを足掛かりとして類似語の異同を把握するという次の step に今後進んで行ければと思います。


最後に。改めて申し添えておきますと、私は Leśniewski の専門家ではございません。Leśniewski のなしたことに詳しいわけではございません。現在勉強中の身の上です。上述の事柄は、私が理解したことを (私が理解したと思っていることを) 記しているだけです。そのため、激しい間違いが含まれているかもしれません。そのまますんなりと信じてしまわず、吟味しつつお読みいただければと存じます。間違っていましたら、大変すみません。さらに勉強することに致します。

*1:ここでは「集合」と「クラス」という言葉を、区別せずに用います。

*2:ここでは「単元集合」、「一点集合」、「単元クラス」、'singleton' という言葉を、区別せずに用います。その中でも主に「単元クラス」という言葉を用います。この言葉を他の言葉よりも用いるのには、深いいみはございません。

*3:「ところで、」以下、ここまでの説明で、鍵かっこにくくられた表現は、次の文献からの引用です。彌永昌吉、彌永健一、『集合と位相 I』、岩波講座 基礎数学 解析学 (I) i, 岩波書店、1976年、16, 17ページ。

*4:これは a が空集合 ø だとすることです。

*5:Bertrand Russell, Introduction to Mathematical Philosophy, Routledge, 1919/1993, p. 183.

*6:ラッセル、『数理哲学序説』、平野智治訳、岩波文庫岩波書店、1954年、239ページ。引用の際には傍点を太字に改めています。

*7:Vito F. Sinisi, ''Leśniewski's Analysis of Russell's Antinomy,'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 17, no. 1, 1976, p. 20.

*8:前件と後件の中をひっくり返して訳したり、'some' を存在のいみで訳すことは、単なる思い付きに過ぎない、というわけでもありません。Leśniewski 研究の専門家 Sinisi さんの言葉を引きます。'If a class consists of those objects of which it is a class, then (according to Leśniewski) there cannot be an empty class; if some object is the class of objects a, then some object is a, i.e., (P,a)( P ε Kl(a) ⊃ (EQ)(Q ε a) )'. See Vito F. Sinisi, ''Leśniewski and Frege on Collective Classes,'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 10, no. 3, 1969, p. 242. この直前の式 '(P,a)( P ε Kl(a) ⊃ (EQ)(Q ε a) )' は次のように読まれます。「任意の P と a について、P が a のクラスならば、a であるようなもの Q が少なくとも一つある。」 See ibid., p. 241.

*9:Ibid., p. 243.

*10:Ibid., pp. 243-244.

*11:Snisi さんは、Kl(x) を x のクラスのことだと言っています。Ibid., p. 241. しかし、それとともに、論文中では実際には Kl(x) に対し、何も明示せず断ることなく後者の読み、つまり クラス x であるという読みも許しています。See ibid., p. 243, formulae (B) and (B'). Kl(x) について、x のクラス、およびクラス x と、二通りに読んでも問題がないのか、大丈夫なのか、残念ながら今の私には力不足でわかりません。私は暗黙のうちに二通りに読み分けることに不安を感じているのですが、とりあえず Sinisi さんが実際に行っていることに現時点ではそのまま従っておくことにします。

*12:−{x} の − を Sinisi さんは矢印のような記号で記しておられますが、それと同じ font がないので、ここでは単なる横棒で記しておきます。

*13:Ibid., p. 244.

*14:念のため、このように読むことについては、三つ前の註を参照ください。

*15:以下の証明は、次の文献の該当 page から hint を得ています。J. Słupecki and L. Borkowski, Elements of Mathematical Logic and Set Theory, translated by O. Wojtasiewicz, Pergamon Press / PWN-Polish Scientific Publishers, International Series of Monographs on Pure and Applied Mathematics, vol. 96, 1963/1967, p. 320. ただし、その該当 page に証明が書かれているわけではありませんし、著者の Słupecki and Borkowski 先生は、その page でその証明を試みようとされているのでもございません。関連することを語っておられるだけです。しかし、私にとって hint にはなっておりますので、一応注記しておきます。なお、ついでに述べておきますと、しばらく前の方で Russell の言葉を引用しましたが、そのような言葉があることも今の Słupecki and Borkowski 先生の本から教えられました (pp. 320-321.)。ただし、Russell の言葉の引用は、Słupecki and Borkowski 先生の本からの孫引きではなく、私の所有している Russell の本から直接行っております。

*16:Leśniewski において推移律が成り立つということについては、Sinisi, ''Leśniewski and Frege on Collective Classes,'' p. 242, 現代の Mereology において推移律が成り立つということについては、Achille Varzi, ''Mereology'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, First published May 13, 2003, Substantive Revision May 14, 2009, '2.1 Parthood as a Partial Ordering,' http://plato.stanford.edu/entries/mereology/#ParParOrd を参照。

*17:地球がクラスで、核と地表の中間にあるマントルを部分と見なしても構いません。地図の日本をクラスとし、四国を部分としても構いません。リンゴをクラスとし、リンゴの皮をその部分としても構いません。人間についても、右眼を部分としても構いません。

*18:A が B の部分で、B の部分が A しかないとしても、B の部分が B (= A) しかない、とは言えない、という意見もありうると思います。つまり、B がこれ以上分割できないようなものである時、「B の部分はどれか?」という質問の答えには、少なくとも二つ候補がありえます。一つは「B がこれ以上分割できないものである場合、B の部分は B 全体である。」という今私が行っている答えです。もう一つは「B がこれ以上分割できないものである場合、B の部分はない。B に部分はない。」という答えです。この後者の答えを現在排除しているのは、今行っていることが、たとえ話であるからです。現にある事実を厳密に記述しようとしているのではないからです。わかりやすさを優先させているからです。