Neurath's Boat, and His Discussion with Carnap

先日、次の文献を入手し、拝読させていただきました。

そこで興味を覚えたことを二つ、記します。

(1)

上記文献から引用します。

 ノイラートは、[…] ドイツ歴史学派の経済学をその中心地で学んでいた。あらゆる要素が関連しあっていることの認識はまさしく歴史学派の伝統のコアにあったのであり、ノイラートはこの点を理解していた。このことを補助線の一本に加えることで、ノイラート読解のキーワードと思われる Ballung (包括性 ! ) と「船」の比喩も少しは分かりやすくなるのではないか。*1

Neurath's boat の比喩は、分析哲学や科学哲学を学ぶものなら皆知っている比喩だと思いますが、科学理論に関し、その基礎付けを徹底して行うことはできないことを示唆するための比喩でした。この比喩について、Neurath 本人の言葉を交え、一つ引用します。

Neurath captured the main features of his doctrine of scientific knowledge in the image of a boat:

‘There is no way to establish fully secured, neat protocol statements as starting points of the sciences. There is no tabula rasa. We are like sailors who have to rebuild their ship on the open sea, without ever being able to dismantle it in dry-dock and reconstructed from its best components. Only metaphysics can disappear without a trace. Imprecise ‘verbal clusters’ [Ballungen] are somehow always part of the ship. If imprecision is diminished at one place, it may well re-appear at another place to a stronger degree’(Neurath 1932/1983 ['Protocol Statements', in his Philosophical Papers 1913-1946, 1983, 91–99.], 92).*2

この比喩の背景には、単に科学哲学があるのみでなく、経済学のドイツ歴史学派の考えが控えているという小林先生の指摘は、興味深く、私たちの視野を広げてくれるように感じました。Neurath's boat の比喩は、科学哲学の文脈のみで理解しているのでは、どうも不十分なようです。


(2)

後に Neurath の妻となる Marie Reidemeister の回想から、一部引用します。回想に付されている註は省きます。代わりに引用者の事項註を加えておきます。有名な人名などには註は加えないことにします。引用者が註を付す際には、

  • Friedrich Stadler  The Vienna Circle: Studies in the Origins, Development, and Influence of Logical Empiricism, Springer, Veröffentlichungen des Instituts Wiener Kreis, 2001

と、当日記2012年5月6日、項目 'How Did the Production Processes of the Vienna Circle Manifesto Look Like?' を参考にしています。

 1929年はまた、ヴィーン学団宣言の年、そしてプラハで第1回大会 (厳密科学の認識論について) が開かれた年でもあった。オルガ*3と私は大会に参加した。そこで私はクルト*4とも再会した。彼は、私の記憶する限りでは、ヴィーン学団の議論に積極的には参加していなかったけれども、同時にドイツ数学者協会もそこで開かれていた。私はまたゲッティンゲンから来た知人にも再会した。「科学的世界観」の講演で学問世界における再登場の初回を迎えたオットー*5は、いささか緊張ぎみだった。会場の後部で私は数学者がこう言っているのを聞いた。「まあ聞けよ、こりゃサーカスだ。」 ヴァイスマンのことを思い出すと恐ろしくなる。自分の講演の最中に脈絡を失ったのだ*6。司会をしていたフィリップ・フランクは、なんとか話がつながって先に進むまで、何分も待った。
 私がオットーの家で一緒に聞いた議論の方がずっと密度が高く、生産的だったように思う。カルナップはヴィーン時代の最初からシュロスガッセ*7をよく訪れていた。彼は緑のソファーに横たわり、オットーはその足下に座った。はじめは世界の論理的構成がテーマだった。話はねばりこく、少しずつ進んだ。オットーは懐疑と困難の予測からすすめたのに対し、カルナップは定式化の厳密さを言った。対話はこの二人にとって、とても生産的だったに違いない。それを私がここで再現できないのは残念だ。私が彼の定式化から、秘書には期待してもいいはずのものをなにも受け止めたり収集したりしなかったのは、オットーにはやはり失望だった、と私は思う。彼はよく、タイプライターを前にして座っているときよりも、自由に話しているときの方が、もっとたくさん良いことが頭に浮かんだのだ。カルナップはしばしば、ナイダー*8、ヴァイスマン、ローゼ・ラント*9、ファイグルといった人と一緒に来た。そのうち何人かは一人で来たこともあった。フェリックス・カオフマンは、しばしば妻と一緒に来た、愛すべき人たちだった。しかし実りある対話となるためには、意見の一致という基礎はあまりに少なかった。ヴィーン学団宣言の議論が始まったとき、ノイラート夫妻は、アルントシュトラーセ1番の公営住宅*10に引っ越していた。そこにハンス・ハーン*11とカルナップが訪問したことを覚えている。そこでは、タイトルをどうつけるか、とか、ヴィトゲンシュタインと統一科学が話題になった。民主的な妥協がなった。「君たちはヴィトゲンシュタインの方を望むんだな、よろしい。なら僕には統一科学を譲ってくれなくちゃ。」*12 *13

Carnap が sofa に横になり、その足元に Neurath が座って、Carnap の考える世界の論理的構成について議論している様は、目に浮かんでくるようですね。

今回の小林先生の文献を拝読していて感じたのは、Neurath というのは、ちょっと Leibniz にどこか似ているということです。文理どちらもいけて、色々な project にかかわり (博物館/学会設立)、あちこちに出かけて行って話をし、具体的に何かを作り出そうとし、新しい言語を考え出そうとする (Isotype/Combinatorics)。そして、世界の平和、人類の福利増進を願っていたと思われます。違いももちろんあるでしょうが、どちらも versatile な promoter という感じがしました。

*1:小林、67ページ。

*2:Jordi Cat, ''Otto Neurath,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2010, '3. Neurath's place in logical empiricism: physicalism, anti-foundationalism, holism, naturalism, externalism, pragmatism,' http://plato.stanford.edu/entries/neurath/#NeuPlaLogEmpPhyAntFouHolNatExtPra.

*3:おそらく Olga-Hahn Neurath のこと。Otto Neurath の妻。たぶん Olga Taussky-Todd のことではない。Olga-Hahn Neurath が夫とともにこの大会に出向いたことは、Carnap の日記から確認できます。当日記2012年5月6日、項目 'How Did the Production Processes of the Vienna Circle Manifesto Look Like?' に記されている Carnap の日記1929年9月14日(土)の欄を参照。

*4:おそらく Kurt Reidemeister のこと。Marie の兄。

*5:Otto Neurath

*6:Weismann の演題は、英語で書くと、''A Logical Analysis of the Concept of Probability.''

*7:Neurath 家の住所か?

*8:Heinrich Neider (1907-1990). Physicalism の創案者と言われている。

*9:Rose Rand (1903-1980). Ukraine 生まれの女性哲学者。Schlick とともに哲学を研究。Kotarbinski の哲学に関する論文で学位を取る。ユダヤ人のため、イギリスに渡る。Wittegenstein の講義に出る。その後、アメリカに移り、Princeton N.J. で死去。Frege の論文に慣性法則に関する論文があるが、この論文を英訳し、Synthese 誌に載せている。

*10:Wien の地図を調べれば、今でもこの住宅の位置が特定できるかもしれない。そうできれば、例の小冊子の誕生に関与した場所として、興味深い。とはいえ、私は位置をまだ確認していません。

*11:ちなみに Hahn は Olga-Hahn Neurath の兄でもある。

*12:Otto の発言か? 「君たち」とは Carnap と Hahn か? Carnap は間違いないだろう。「僕に統一科学を譲ってくれ」というのは、例の小冊子に盛り込む統一科学の話には、Otto の見解を反映させてくれ、ということだろう。

*13:小林、88-89ページ。