近頃、ニュースを見ると、悲しい出来事が立て続けに起こっている。
あまりのことに、とても空しい。
私は報道にあまり感化されないようにしているのですが、今回の件に関してはとても空しさが込み上げてくる。
深くは知りえないし、それほど詳しく知ろうとは試みていないのですが、それでも気になって少し調べてみると、何が真実で何が虚偽なのか、わからなくなってきた。
事柄を見て行くと、事態がそれほど単純ではないような気がしてきた。どのように感じ、どのように考えればよいのか、わからなくなってきた。
どうしてこんなことになってしまったのか。事情がよくわからない。色々あったのだろうが、あれこれあったのだろうが、それでも、それでもやはり、あまりにかわいそうで空しくなる。まるで身内が亡くなった気分だ。
この世が空しいことはわかっていたけれど、改めてそのことを見せつけられると本当にやりきれなくなる。
何が悪かったのか。どうすればよかったのか。何も考えられないし、何も手につかない。いつものように書店に行って、多数新刊書を購入したが、まったく読む気がしない。意欲がわいてこない。
ここ数日、何だか呆然としている。頭の中で Paul Desmond の Autumn Leaves がひたすら旋回している。一日中旋回している。昨日もずっと旋回していたし、今日もずっと旋回している。今もだ。
何を見ても、今回の件の映像がダブって見える。それでも空はどこまでも青く、白くて柔らかい雲がゆったりと浮かんでいて、気持ちのよいゆるやかな風が流れているけれど、すべてが空しさに包まれている。
何事もなかったように車が通りすぎ、人々が行きかっているけれど、すべてははかないように感じられる。
この世で生きることの意味は一体何なのか。この世に何の意味があり、人生に何の意味があるのか。
本当にかわいそうだ。あまりにも空しく、まったくやりきれない。何があったにせよ、あまりにひどすぎる。
今回の件に触れて、私は思った。この世にどんな意味があって、人生に何の意味があるのか、はっきりとはわからないけれど、誰かのために何かをしてあげることが、そしてそれのみが、この世に意味を与え、人生を意味あるものとするのだろう、と。私はそのように感じる。神のいない、この空しい世界では、自分のことは後にして、誰かのために何かを気遣いながらしてあげること、これだけが、ただこれだけが、世界と人生に意味を与えるのだと私は思う。こう言ってもいい。神のいない、この空しい世界では、他人のために犠牲になることのみが、意味のある行為なのだ。人生の意味とは、意味ある人生とは、他人のために犠牲になる人生である。それだけが人生を意味あるものとするのだ。ただし、このことに特別深い根拠はない。だから間違っているかもしれない。実際にこの私の考えには問題があると私自身感じる*1。それにもかかわらず私は経験上、今述べたように感じる。ただ、いつでも必ず誰かのために何かをしてあげることができるとは限らない。むしろ、正直に言って、私はあまりできていない。だからいつも自分が嫌になる。
今回の件で、亡くなられた方に感謝させてください。私は自分の人生の意味を見つけた気がします。あなたはこの世から消えてしまったけれど、そのことによって、私の人生の意味とこの世の意味が少しわかったような気がしました。ありがとう。痛かったろうけれど、ゆっくり休んでください。私たちもいずれあなたのもとに参ります。

*1:2013年10月28日追記: もしも Hitler が次のように述べたとしたら、どうだろう。「あなたは我々のために犠牲となるべきだ。他の人のために犠牲になることが、人生の意味だとするならば、我々のために犠牲になればよい。そうすればあなたはハッピーだし、我々もハッピーだ。こんなによいことはない。それに我々もあなたのために犠牲を払おう。大枚はたいてあなたのために大きな葬儀施設をドイツ各地、ポーランド各地に作ってあげよう。そこであなたは我々のために犠牲になればよい。あなただけではなく、あなた方みんながそこで犠牲になればよい。みんなでそこに入れば怖くないからね。そうだと我々もとても助かる。我々も、もっと犠牲を払うべきだって? それには及ばないよ。我々はあなた方ユダヤ教徒と違って、キリスト教徒だ。キリスト教においてはイエスが十字架上で我々の罪を贖ってくれた。我々の代りに犠牲になってくれたのだよ。これによって我々は既に代償を払い、神から許されているんだ。だから我々は十分犠牲を払った。今度はあなた方の番だ。」 他人のために犠牲になること、そのことが贖罪となるとする考えの、以上の問題点については、次の文献から示唆を受けている。関根清三、『倫理の探索 聖書からのアプローチ』、中公新書 1663, 中央公論新社、2002年、45-50, 92-96ページ。ただし、関根先生は、先生のご高著の該当箇所で、今述べたような Hitler による架空の発言を記しておられるわけではない。