ハイデガーは絶え間なく死について語ったが、それは他人の死についてではなく、常に自分の死についてのみである。
岩田靖夫 『神の痕跡』


ある女性が亡くなった。むごい死だった。死後、もっとひどいことをされた。あまりのことに私はショックを受けた。そして空しさが込み上げてきた。やりきれなさに打ちひしがれた。生きることと死ぬことについて考えた。そして思いあふれてきた。戯れ言とはわかっているが、書き付けさせてほしい。順番も何もない。思った順に記す。言うまでもないが私は汚い人間だ。


「神のいない、この空しい世界では、他人のために犠牲になることのみが、意味のある行為なのだ。」

先日私はこのように述べた。他の人のために自らを犠牲とすることのみが、これだけが意味ある行為だと言いたい。これだけなのだ。他にはない。これのみが世界と人生を意味あるものとするのだ。世界と人生を意味あるものとする諸々のうちの一つなのではなく、ただ一つのことなのだ。これ以外にはない。

人生の意味とは、意味ある人生とは、他人のために犠牲になる人生である。それだけが人生を意味あるものとするのだ。

私たちが死すべき存在であることを自覚することは、他人のためにできることが限られているということを自覚することに他ならないのだ。

この世の意味を、あなたの人生の意味を、担保するのは、他の人である。

神のいない、この空しい世界では、他人のために犠牲になることのみが、意味のある行為なのだということ、このことに根拠はあるのか? もしもあるとするならば、その根拠を示さなければならないが、そうやって示された根拠の、そのまた根拠は何か。根拠の根拠が示されたならば、根拠の根拠の根拠が示されねばならないのではないか。だが、このまま行くと、根拠を示す正当化のプロセスは、始点となる根拠への背進を引き起こし、無限に背進して行くか、どこかで循環するか、どこかで背進を断念せねばならなくなる。もしもこれ以上遡れないとする始点へと到達できたとしても、そのような始点がこれ以上遡れないとする根拠は何なのか。どのような始点なら、それが本当に始点だと言えるのか。そもそも私たちはいつまで始点の探究に拘泥していなければならないのか。必要なのは基礎へと遡り時間を無駄にし、ぐずぐずしていることではなく、神のいない、この空しい世界では、他人のために犠牲になることのみが、意味のある行為なのだということ、このことをこの世の真理と信じて賭けることではないのか。基礎に遡るのではなく、実践ではないのか。誰かのために何かをしてあげること、これを実際に行うことで、自分の人生とこの世に意味をもたらすこと、幸せをもたらすことが、考え込んでいるより重要なのではないのか。

生きて出ることのできる可能性が極めて低い強制収容所の暗がりの中で、打ちひしがれている同じ境遇の被収容者を前に

 わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、天と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことを欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。*1


もしも私の人生とこの世に意味をもたらすことができた時、このような人生と世界の素晴らしさをもたらしたのは誰なのか。人に何かをなした私が私の人生とこの世界に意味をもたらし、それらを素晴らしいものとしたのか。そのようにも見えるがしかし、私の人生とこの世の素晴らしい意味をもたらしたのは私であると言うことは、独善的ではないだろうか。お前がこの世界に意味をもたらし素晴らしさを生み出したのか。それほどお前は偉いのか。では誰が人生と世界の意味をもたらし素晴らしさを教えてくれたのか。これは誰からの贈り物なのか。この世界の素晴らしさを教えてくれる者は、私が何事かをなした相手であり、ことによるとそれはその相手を通じて神が贈り物を届けてくれたのではないだろうか。とするとひょっとして神は存在するのではなかろうか。先ほど「神のいない、この空しい世界では」と述べた。しかし、もしかすると、神はいるかもしれない。今しがた述べたようにして存在するかもしれない。そのように感じ始めてきた。


どうすれば彼女を弔ってやれるのか。

私たちが生きているのは、亡くなった者の悲しみを引き受けるためではないだろうか。亡くなった者の悲しみを引き受けるために、私たちは生きているのではないだろうか。亡くなった者がもう悲しむことができないところを、身代わりになって悲しんであげるために生きているのではなかろうか。生きることの意味とは、亡くなった者の悲しみを引き受けるというところにあるのではないだろうか。このことこそが亡くなった者の真の弔いとなるのではないだろうか。


亡くなったあなたに感謝したい。ありがとう。私は私の人生と私の生きているこの世界について、あなたのおかげで今までになく深く考えることができました。その深さは大した深さではないでしょうが、それでも私が自分の力で深めてみたものです。生きる意味やこの世の意味について、今までにない思いを抱くことができましたが、悲しみは消え去りません。亡くなったあなたは今どこにいるのですか。私たちはどこに行くのですか。私たちもいずれあなたに続きます。今の私にはどうすればいいのかわかりません。


どうか私の妄言を許してください。

*1:ヴィクトール E. フランクル、『夜と霧 新版』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、139-140ページ。下線は引用者による。