Why Do I Read the Philosophy of Lévinas?

(以下の記述では、個人的な心境を吐露している部分がある。ここに掲載することにためらいはあるが、記しておきたいという気持ちもあるので、あまり気が進まないが、記してみます。)

先日、ある女性が亡くなった。その後、彼女はひどい仕打ちを受けた。それに対し、私は非常にショックを受けた。あまりのショックで、何だか世界が違って見えた。そのとき以降、もう世界が違ってしまっているように感じられる。人は、9.11以降、それと3.11以降、世界が変わってしまったとお感じになったと思う。彼女が亡くなったあと、私には何だか世界が変わってしまったように感じられる。そのことを前回と、前々回の日記に記した。そのあと、Lévinas を久しぶりに読み返した。少しずつ、こころが落ち着いてきた。ただしまだ動揺している。何だか落ち着かない。かすかにこころが震えている。でもましになってきた。それで Lévinas を読み返していて、なぜ今私は Lévinas を読み返しているのだろうと思った。なぜ私は Lévinas を読むのか?

私は分析系の哲学に興味がある人間です。Frege, Russell, Wittgenstein, and Quine らの論理学の哲学や数学の哲学、言語哲学に興味があります。彼らの文を読むだけでなく、二次文献である journal の研究論文も読みます。Journal でよく check したり読んだりするのは、Philosophia Mathematica, History and Philosophy of Logic などなどです。今では分析哲学もだんだん「何でもあり」という状態に近づいてきていますが、私自身は1960年代から1970年代によく見られたような、典型的な分析哲学の研究が性に合っています。そのような私ですが、いわゆる大陸系の哲学では、Lévinas の文は読むことがあります。その他の現代における大陸系の哲学は、まず読みません。それでも哲学を学び始めたころは、主に翻訳を通して、現代のものも、それ以前のものも、大陸系の哲学をあれこれと多数つまみ食いしました。そうやって色々な大陸系哲学を拾い読みして行くなかで、「どうもこれは自分向きではない、自分が求めているような哲学ではない」と気が付きました。大陸系の哲学をあちこちのぞき見るとともに、いわゆる英米系の分析哲学も拾い読みしていたところ、Frege と Quine のやっていることに強く魅かれるようになりました。そして今でははっきりと典型的な分析哲学が自分の進む方向だと考えています。そんな私でも、先ほど述べたように、Lévinas の文は読むことがあります。厳密さを追究し、徹底的に論証を繰り出すことを信条とする分析系の人間が、なぜ Lévinas を読めるのでしょうか? 自分でもちょっと不思議だと感じていました。しかし特にこのことの理由を考えてみたことはありませんでした。最近、Lévinas の文を読み返すことがあり、ぼんやりと考えてみたところ、理由がわかりました。まず私の興味のある Lévinas は、他者について論じる Lévinas, 神について論じる Lévinas, そのような Lévinas に限定されていることに気が付きました。それ以外の Lévinas にはなぜか興味がまったくないのです。私は他の人についてや神について、緊張感を持って論じている Lévinas の文章に魅かれます。また、岩田靖夫先生が論じられる Lévinas に興味があります。岩田先生も Lévinas を論じるときには、他者や神について論じている Lévinas を取り上げています。Lévinas が他の人についてや神について論じているとき、そこに私は何を求めているのか、自省してみると気が付いたのは、私は Lévinas の他者論や神についての話に救いを求めているのだ、ということでした。

私は今まで必死になって生きてきました。なかなかつらいこともありました。正直に言うと、泣いたこともあります。しかし、そこで得たものはとても大きなものでした。また、女性を愛しました。結婚を約束して一緒に暮らしていました。けれどもぐずぐずしているあいだに逃げられてしまい、愛にやぶれました。茫然自失といった感じになりました。でも、やはりそこでも、とてもとても大きなものを得ることができました。ありがとう。今でも感謝しています。私がこれらの経験をするなかで、身をもって学んだことは、身を切って人に与えることの大切さでした。これは本当に本当に大切なことです。ずっと以前はこのことがわかりませんでした。もちろん、それは頭ではわかっていました。言葉としてはわかっていました。しかしそれが本当のところはどういうことなのか、全然わかっていなかったのです。すべて、相手を優先し、自分を後回しにすること、取り分は、自分の方が少なく、相手の方が多くすること、相手の苦しみは私の苦しみであること、相手がしでかした失敗は私の失敗であり、相手が犯した罪は私の責任であること、自分が相手の代りに苦しむこと、自分を開いて相手に差し出すこと、このことの、言葉に尽くしがたいほどの重要さは、泣いたり、愛したり、夢破れることによって、得たものです。

その後、私はこの私の得たこの世の真理と似たことを、あるいはその突き詰めた姿を、旧約聖書イザヤ書の第二イザヤが述べていることに気が付きました。また Viktor Frankl の『夜と霧』の後半部分にも、似たような考えが現れていることに気が付きました。また、Weber の苦難の神義論にも似た考えが出ていることに気が付きました。また、M. Scott Peck という心理療法家の著書『愛と心理療法』(『愛すること、生きること』) の前半にも似た話があることに気が付きました。私はとても驚いて、これらの文献を読みました。自分が経験上、得た真理を、より詳しく、より深く追究しているらしいと知って、ただ驚きました。そのようななか、岩田先生の Lévinas に関する論文を読みました*1。すると、Lévinas も似たようなことを論じており、しかも非常に徹底的に、極端に論点を追い詰めているらしいと知って、本当に驚きました。岩田先生を通して見た Lévinas は、まさに私が求めていたような事柄でした。それにしても私が Lévinas を理解できるとは、以前はまったく思ってもいませんでした。「ユダヤ教やタルムードなどなどをちゃんと勉強したあとでなければ、そんなのわかるはずがない」と思っていたのです。しかしユダヤ教もタルムードもよく知らないまま、岩田先生によって教えられた Lévinas は、自分が人生で得た真理を突き詰めているということで、とてもよくわかりました。Lévinas の考えのその部分だけは、その部分に限って、痛切にわかりました。わかるはずもないと考えていたものが、思いもかけずわかったのです。私の見た Lévinas は、他の人についての考えを、非常に極端に押し進めているようでした。倫理的に徹底しているようでした。自分が Lévinas を読むのは、人生とこの世のことをもっと知りたいと思っているからだろうと思います。自分が信じていることのよすがを得たいと思っているのだと感じます。私が Lévinas を読むのは、一言で言えば、信仰からなのだと思います。Lévinas の書は、私にとって、信仰の書なのだろうと思います。この点、Lévinas を論じている岩田先生の本も同様です。岩田先生の本を読むのも、救いを求め、信じるものを目指して私は読んでいるのだと思います。(私はキリスト教徒やユダヤ教徒ではありませんが…。)

私はいわゆる分析系の哲学を志向している人間ですが、分析系の哲学は、私にとってはよいいみでの勉強です。一方、Lévinas を読むことは、あるいは岩田先生の Lévinas 論を読むことは、あるいみで、私にとって信仰なのです。分析系の哲学者のなかには敬虔なユダヤ系の方がいると思います。おそらくそのような方々は、logical に哲学を行いながら、その一方で、トーラーなどを熱心に読むということもあると思います(Kripke 先生などは、そうではありませんでしたか? Putnam 先生もそうかもしれない。)。私もそのように読み分けているのかもしれません(もちろん、Kripke, Putnam 両先生の足下にも及びませんが。)。今回、「自分は分析系の人間なのに、なぜまた大陸系の典型とも思える Lévinas を読むのだろう?」と思い返してみて、以上のことに初めて気が付きました。私のこの日記を読まれている方で、大抵の場合、分析哲学関連の話が書かれているのに、たまに Lévinas が出てくるのはなぜだろうと思われた方も、もしかしたらおられるかもしれませんが、以上のような理由だったわけです。私も今回初めて気が付いたのですが…。


PS
自分が Lévinas を読むのは、彼の他者論や神についての話であり、しかもそこに私は何らかの切迫感や緊張感、切実さや、必死さを求めていることがわかったので、この種の要素がなかったり稀薄であるような、Lévinas に関する入門書や研究書は、私には興味がないことに気が付きました。Lévinas を日本で勉強している人は、合田先生、熊野先生、斎藤先生、内田先生などによる Lévinas の入門書を読まれていると思うのですが、私は今まで、そして今も、これら諸先生方の入門書を手に取ってなかをパラパラめくってみても、読みたいと思ったことがなかった理由がわかった気がします。他の人や神に対する考察に切迫感が、私が期待するほどにはあまりないように感じたからだと思います。少なくとも私の印象ではそのように感じたのです。もちろんこれら諸先生方のご高著が、内容的によくないと言っているのではございません。単に目指しているものや、強調したいポイントが異なっているだけだと思います。先日、

という対談を拝読させてもらったのですが、そこで合田先生は、もともと自分は Lévinas の他者論に魅かれて Lévinas に入って行ったのではない、他者論とは違うトピックに興味があった、と述べておられます(38ページ)。この話を聞いて、なぜ私は先生の入門書を読もうという気が起きなかったのか、わかりました。(繰り返しますが、先生の入門書がよくないと言っているのではございません。そもそも読んだことがありませんので、よいのかよくないのか、判断できないのです。)


本日の記述に関し、誤解や無理解や、誤字、脱字などがございましたら謝ります。お許しください。


2013年10月28日追記:

今日、次のような文章があるのに気が付く。

 こうした主題的研究とは別に、レヴィナスの思想をキリスト教に引きつけて解釈する試みもある。たとえばレヴィナスの言う身代わりはキリスト教神学の概念であるとし、レヴィナスはキリストの機能をあらゆる人間に適用しているとする J-L・クレティアンがその典型である[…]。このことはレヴィナスにおけるメシアニズムや「イザヤ書」第五三章の「苦しむしもべ」の解釈の問題とも関わってくるが、こうした議論の是非は措くとしても、G・プチドゥマンジュが指摘するように[…]、フランスの言説空間では通常避けられる神学的語彙 (啓示、典礼、訪問、贖い、ケノーシス、さらには公現など) を思想の表現のうちに戻したレヴィナスの著作が、信と知のはざまで思考する者を魅了していることは間違いない。*2

「神学的語彙 […] を思想の表現のうちに戻したレヴィナスの著作が、信と知のはざまで思考する者を魅了していることは間違いない。」 まさに間違いないと思います。私がまさしくその通りに魅了されている者ですから。

*1:岩田靖夫、「レヴィナス哲学における「苦しみ」の意味 レヴィナスの「神」再論」、『思想』、岩波書店、2006年9月号。

*2:藤岡俊博、小手川正二郎、渡名喜庸哲、「新しくレヴィナスを読むために 研究・文献ガイド」、『現代思想』、2012年3月臨時増刊号、総特集 レヴィナス、第40巻、第3号、346-347ページ。