(以下の文章は、一ヶ月ほど前の9月末頃に書いたものです。)
先日入手し、拝読した次の文献の最後に、ちょっと勉強になることが書いてあったので、記してみます。
その、勉強になるという部分を引用してみます。
最後に [書評対象の本を著した著者の] ドイツ語に関して気づいたことをいくつか。奇妙なことにハイデガー以来、ドイツ語の immer schon は「つねにすでに」と訳されるのが常套化している。不思議なことに英語の文献にもこのドイツ語がそのまま出て来ることも多い。しかし、こんな日本語誰がわかるだろうか。先に引いた文章も著者 [加藤哲理氏] の訳文は「伝承という様式でそこに存在している過去の地平もまた、つねにすでに運動している」だった。しかし、この schon は「すでに」という、ドイツ語の授業で最初に習う temporal な意味ではない。 immer schon とセットで (schon immer もある)、「どんな場合でもかならず」とか「いつもかならず」といった意味あいである。Er war schon immer (immer schon) der beste in der Klasse、という例文を挙げておこう。言語は一単語に一意味をつなげたものでないことは、文献解釈学の初歩の初歩、そのまた初歩である。*1
引用文中の加藤先生の訳文「伝承という様式でそこに存在している過去の地平もまた、つねにすでに運動している」に対する三島先生の訳文は、「伝承という様式でそこに存在している過去の地平もまた、どんな場合でも必ず運動しているのである」となっています。*2
私も 'immer schon' と言えば、「常に既に」だと思っていました。学校で先生が 'immer schon' のことを、「常に既に」と訳しておられるのを聞いて、「あ、そうなんだ、そのように訳すんだ、何だか面白いな」と思ったことを覚えています。確かに不思議な訳だとその時思いましたが、まぁ、そのいみするところも、わかるような気がしましたので、そのようなものなのだと思って、'immer schon' と来れば何となく「常に既に」という pattern で覚えていました。だけど、振り返ってみると、やっぱりわかったようなわからないような訳ですね。少なくとも、普段使わない日本語だと思いますし、大学で哲学を勉強し始めるまで、私は出会ったことのない日本語でした。考えてみると、「常に既に」のうち、常にそうならば、既にそうなわけで、常にということは、いつでもずっーと、ということでしょうから、特に限定がなければ、前からも今でもこれからもずっーと、ということになると思われますから、「常に」と言えば、既に、ということを含意しているような気がします。だから、「常に」という言葉を使えば、「既に」という言葉はいらないし、余計である感じがします。う〜む、どうなんでしょう?
さて、上記引用文にある通り、三島先生は 'immer schon' の 'schon' の日本語訳として、「かならず」という言葉を挙げておられます。独和辞典で「かならず」に対応する 'schon' の語義を調べてみるならば、次のようです。
初級の独和辞典では、
- 在間進編 『新キャンパス独和辞典』、郁文堂、2011年
schon
[…]
2 ( ( 可能性の高いことを強調して ) ) (相手を安心させたり、自信を持たせるために) きっと、必ず Es wird schon gut gehen. きっとうまく行くよ
[…]
独和中辞典では、
- 相良守峯監修、菊池愼吾、鐵野善資編 『独和中辞典』、研究社、1996年
schon
[…]
2 <<未来・確信>> 確かに、きっと、必ず: Er wird 〜 kommen. 彼はちゃんと来ますとも
[…]
独和大辞典では、
- 国松孝二他編 『独和大辞典 第2版 コンパクト版』、小学館、1990 / 2000年
schon
[…]
2 ( ( 文中でのアクセントなしで; 話し手のさまざまな主観的心情を反映してを ) ) a) ( ( 現在・未来時称の文に用いられ、話し手が聞き手に対して確言し、請け合う気持ちを表して ) )
[…] | Es wird 〜 alles gut werden. きっと万事うまくいくさ | […]
副詞などに関する独和辞典では、
schon
1 【時間的に。ある行為がすでに完了していること、ある状態がすでに始まっていること、などを示して】 すでに、もう:
[…]
1.3 未来に起こるべき事柄を、いわばそれがすでに既定の事実*3であるかのように表現する気持で、schon が用いられることがある。この意味で、本来の <時> の意味が失われて、「必ず」「きっと」という <確信> <自信> <自負> など、さまざまの心理的ニュアンスが表面に出てくる: Das wirst du schon noch bereuen. それをきみは必ずいつか後悔するだろう。
この日記項目の一番最初に挙げた引用文の中で、三島先生は 'immer schon' が出てくる例文として、'Er war schon immer (immer schon) der beste in der Klasse' を挙げておられました。この例文は過去時制の文ですが、上にいくつか挙げた独和辞典の説明では、「必ず」とか「きっと」、「確かに」といういみで 'schon' が使われるのは、現在時制か未来時制の文中であると述べられており、この点で、三島先生の話と各独和辞典の説明とが一致しませんが、三島先生が指摘されるように、過去時制の中でも同様のいみで 'schon' が使われる事例があるのかもしれません*4。
とすると、いずれにせよ、'immer schon' は「いつでも必ず」の他に、「いつでも確かに」、「いつでも間違いなく」、「いつも決まって」などなどと訳すことができるかもしれません。
それこそ「伝統的に」 'immer schon' は「常に既に」と訳されてきましたが、「伝統」だからと言って、機械的、反射的に訳してしまうのは、よくないようですね。私も 'immer schon' = 「常に既に」と、Heidegger の文脈以外でも、安易に理解していたので、今後、気を付けたいです。 その語句が使われている脈絡をよく見て、そこに一番ふさわしい訳語を選択できるよう努めたいと思います。
本日の記述に対し、何か間違っていましたら大変すみません。勉強に精進致します。
PS
今回取り上げた三島先生による書評の他に、加藤先生のご高著に対する書評としては、次もあります。
この鏑木先生の書評は、加藤先生のご高著の専ら内容解説になっています。加藤先生のご高著の内容を簡略に知りたいという方は、鏑木先生の書評を読むのがよいかもしれません。加藤先生のご高著と Gadamer の考えを批判的に検討している啓発的な意見に接したいという方は、三島先生の書評がよいと思います。個人的には三島先生の書評の方がすごく面白いです。鏑木先生の書評は、加藤先生のご高著の出版元が出している PR 誌に掲載されているので、書評内容が、いきおい営業広告的方向に流れがちにならざるを得ないところがあるように思われ、「加藤先生の主張に原則全面的に賛成」という感じで鏑木先生は書かれていますが、三島先生は先生の書評の後半で、ズバズバものを言っており、何といっても先生の書評中ではあちこちで皮肉が効いていて、拝見しながら何度もほほがゆるみました。鏑木先生の書評を拝読することは、たとえて言えば、学会の研究発表を黙って目をつぶりながら聞いている感じで、三島先生の書評を拝読することは、学会の symposium でやり取りが盛り上がってきて、先生方が言いたいことを言い出し、こちらも身を乗り出しながら聞き入っているという感じです。加藤先生も三島先生に言いたいことを言われてしまっているけれど、でもとても勉強になり参考になるのは三島先生の書評ではなかろうかと思いました。