Some Remarks on Gareth Evans's Article ''Can There Be Vague Objects?''

ここまで、Gareth Evans, ''Can There Be Vague Objects?'' の抄訳の抄と、この論文に見られる論証の full version を二つ、見てきました。この Evans 論文とそこにある論証を読む際に注意しておいた方がよい基本的な事柄を二点、簡単に記しておきたいと思います。どちらも基本的なことであって、目新しいことではございません。まったく original なものはございません。また、前にも述べましたが、私は vagueness の専門家ではないので、今日の話は間違っているかもしれません。読まれる方は慎重に私の論述を追っていただければと思います。あらかじめ含まれているであろう誤りに対し、お詫び申し上げます。


注意点 その1: 背理法

Evans は彼の論証によって、曖昧な対象は存在しないということを証明しようとしているように見えます。このことは彼の問題の論文において、実際には明言されていませんが、一般にはそのように推測されています。もしもこの推測が正しいとして、どのような理由から彼は曖昧な対象が存在しないと言うのでしょうか。Evans は自身の論証で、まず、曖昧な同一性言明があるものと仮定し、その曖昧な同一性言明として式 '▽( a = b )' を立てて、論証を始めています。そしてここから、今までに見たように、この式と矛盾する、この式を否定した式が導き出されることを示しています。この結果、私たちは最初に仮定した、曖昧な同一性言明があるということが否定されねばならないと考えます。これはつまり背理法を利用した論証であると考えられます。

こうして曖昧な同一性言明があり得ないことが論証されたとしたならば、ここからどのようにして曖昧な対象があり得ないということが出てくるのでしょうか。

おそらく一般に、人は対象と同一性について、次のように考えているのではないかと思われます。つまり、何か対象があるならば、それは同一性を持っているはずだ、ということです。何であれ対象があれば、それについては同一性が言えるはずである、ということです。この対偶を取ると、同一性について言えないようならば、それは対象ではない、同一性なきものは、対象としてはあり得ない、となります。これはちょうど Quine の有名な maxim, No Entity Without Identity と同じです*1。おそらく人は、同一性について言えないようならば、そのようなものは対象ではない、対象としてはあり得ない、と思っているのでしょう。

ところで Evans の論証によると、曖昧な同一性言明はあり得ない、ということでした。曖昧な同一性も同一性の一つならば、曖昧な同一性が言えないということは、今見た通り、曖昧な対象はあり得ないということになると思われます。曖昧な同一性言明があり得ないということは、曖昧な対象があり得ない、ということになります。このようにして人は Evans の、曖昧な同一性言明があり得ない、ということを結論する論証から、曖昧な対象もあり得ないということが帰結するものと考えているのだろうと思われます。


このことを証しする具体的事例を挙げてみましょう。次の著書では Evans の論証が解説されています。

  • 一ノ瀬正樹  『確率と曖昧性の哲学』、岩波書店、2011年、217-219ページ。*2

ここで一ノ瀬先生は、Evans の論証を以下のように説明されています。一部抜粋しながら記しますと、まず、

(1)  ▽( a = b )

を立てます。すると、以前から述べてきたように、

(5')  △〜( a = b )

が導かれます。そして双対性により、この (5') は

     〜▽( a = b )

と同値になります。こうして一ノ瀬先生は次のように述べられます。

かくして、前提 (1) は明白なる矛盾に至る […]。ということは、背理法的に言って、対象についての曖昧な同一性という事態はありえないということになるわけである。そしておそらく、対象というものが同一性によって規定されるものである限り、このエバンズの議論は、曖昧な対象などというものはありえない、というラディカルな主張にもつながっていくはずであろう。[…] なんという衝撃的な議論だろうか。*3

ここで一ノ瀬先生がおっしゃっておられるのは、以下のようなことだと思われます。すなわち、真である曖昧な同一性言明の存在を仮定すると、背理法により、その否定が導かれるので、曖昧な同一性言明があるということは否定されねばならず、曖昧な同一性言明があることが否定されるならば、曖昧な対象の存在も否定されねばならないので、曖昧な対象は存在しないと Evans は言っているのだ、と。これが Evans の意図なのだ、と。


しかし、これは誤解です。まったくの誤解です。以上の通りだとすると、先生は誤解されておられます。あるいは、先生に有利になるように解釈しても、misleading な記述になっていると思います。少なくとも、以上のようなことが Evans の意図なのではございません。少なくとも、これが Evans の意図なのではありません。実は先生のような Evans の論証の説明は、まったくの誤解であることが、専門家の間で知られています。その根拠は、実に先生が上記ご高著の中で参照されておられます次の有名な論文にあります。

  • David Lewis  ''Vague Identity: Evans Misunderstood,'' in: Analysis, vol. 48, no. 3, 1988. Reprinted in Rosanna Keefe and Peter Smith eds., Vagueness: A Reader, The MIT Press, 1996*4

この論文も、Evans の論文と同様、短いものですが、ここで Lewis は Evans 本人に彼の論文の意図と、そこに見られる内容をどのように解釈したらよいのか、直接当人に確認を取っています。そのいみで Lewis 論文は Evans の真意を知ることのできる貴重な報告書です。そこで Lewis が Evans 本人から確認したことを一部引用してみましょう。原文に註が付されていることがありましても、それらは省いて引用します。このあと出てくる Lewis 論文からの引用については、いずれも原文の註を省きます。

 Evans discusses a purported proof that there can be no such thing as a vague identity statement. There are two problems about this proof. One problem is that its conclusion is plainly false. There are vague identity statements.*5

補足を入れながら大雑把に日本語にすると、「Evans は、曖昧な同一性言明などというものはあり得ない、ということを論証しているとされる証明を論じている。そこには二つの問題、言い換えると二つの fallacy があって、一つは結論がまったくの間違いだ、ということである。実際には曖昧な同一性言明はあるのである。」 Evans の論証では、結論「曖昧な同一性言明はあり得ない」が間違っている、この結論は実際には偽であって、つまり本当は実際に曖昧な同一性言明は存在しているのであって、そのことをわかって Evans は彼の論証を我々に提示しているのだ、ということです。これはすなわち、Evans は自分の論証を健全 (sound) ではないと見なしていた、ということです*6

健全な論証とは、妥当な (valid) 論証であって、かつ前提がすべて実際に真である論証のことでした。すると健全な論証ならば、結論も実際に真なはずです。しかし、結論が実際には真でないとすると、その論証は健全ではなく、このような論証は、妥当でないか、前提のいくつかが偽であるか、あるいはその両方であることを示しています。


ところで話は少し変わりますが、古代ギリシアの Zeno はいくつかの paradox を提示したことで知られています。彼の示した paradox の一つに、飛ぶ矢のパラドクス、Zeno's Paradox of the Arrow というものがあります。これは簡単には次のように述べることができます。

Consider an arrow, apparently in motion, at any instant. First, Zeno assumes that it travels no distance during that moment—‘it occupies an equal space’ for the whole instant. But the entire period of its motion contains only instants, all of which contain an arrow at rest, and so, Zeno concludes, the arrow cannot be moving.*7

大まかな試訳を与えると、以下のような感じになるでしょうか*8

いかなる瞬間にも明らかに運動している1本の矢を考えてみよう。ゼノンはまず最初に次のことを仮定する。つまり、矢は一瞬の間、少しも進んでいない、つまりその瞬間全体に渡って同じ空間を占めている、と。しかし、矢の運動の全過程は各瞬間だけからなるので、しかもその各瞬間すべてで矢は静止しているのだから、その矢が動いているはずはない、とゼノンは結論する。

「矢は動きながら飛行している。そしてこれにしかじかの前提を加えると、矢は動いていないという結論が出てくる。」 このように上記の内容を簡略に言うことができると思います。さて、このことからさらに次のように考えるとしたらどうでしょうか。すなわち、矢は動きながら飛行しているという仮定から、矢は動いていないという矛盾した結論が出てくるので、背理法により、最初の仮定「矢は動きながら飛行している」は否定されねばならず、結局実際には矢は動いていないのである。この世にある矢という矢は、すべて飛ばないのだ、動いていないのだ、と。しかし、この Zeno's Paradox of the Arrow を示す論証については、背理法によって、矢が動いていないということが論証されていると考えるのではなく、最初の仮定は明らかに正しくて否定し得ないことであり、矢が動いていないという明らかに間違った結論が出てくる間違った論証である、と人は通常考えるでしょう。明らかに偽な結論が出てくるのだから、結論へと至る process のどこかに何か間違いが含まれていると人は思うでしょう。最初の仮定は間違っていないのです。そして結論は実際に偽なのです。ですから、結論へ至る途中で何かがおかしいのです。


実は Evans の論証は、この Zeno's Paradox of the Arrow に見られる論証と似ています。Evans も最初に置いた仮定「曖昧な同一性言明がある」は間違っていない、否定し得ない事実である、と考えているのです。そして彼の論証の間違いは、この最初の仮定にあるのではなく、結論へと至る途中の process のどこかにあるのだ、と彼は見なしているのです。


ここまでで確認していただきたいのは、Evans の論証は、背理法による論証なのではない、ということです。一ノ瀬先生は上記の先生の文章の中で、Evans の論証について「背理法」という言葉を使っておられますが、Evans の論証は、少なくとも彼の意図としては、背理法による論証ではないのです。すなわち、曖昧な同一性言明があると仮定して、その否定が出てくるので矛盾であり、それゆえ曖昧な同一性言明はないとされ、同一性について言えないものは対象とは言えないので、曖昧な同一性について言えないならば、曖昧な対象もあり得ないのだ、という理路で Evans は曖昧な対象の存在を否定しようとしているのではない、ということなのです。


注意点 その2: 意味論的非決定性から曖昧な対象の非存在へ。

ではどのような理由で Evans は、曖昧な対象はあり得ないと言うのでしょうか。最初にも述べましたが、Evans は彼の論文の中で、曖昧な対象は存在しない、とは明言していません*9。しかし、彼の論文の title が反語的意味合いを含むものと解するならば*10、彼は曖昧な対象は存在しないと考えていたか、あるいはそのようなものの存在を想定する必要は、ことさらにはないと考えていただろうと思われます。その場合、曖昧な対象が存在しないとしても、その根拠は、彼にとり、曖昧な同一性言明があり得ないことにあるのではなかったことは、ここまで見てきた通りです。

ではどのような理由からなのでしょうか。その理由を述べる前に、自分の論証の問題点は結論が偽であることと、その他にもう一つあることを Evans は Lewis に証言しています。そのもう一つの問題点を見てみましょう。それを見ればどのような理由で Evans は曖昧な対象がないとするのかがわかります。

一つ目の問題点は、Evans の論証が健全ではないということでした。とすると、健全でないのならば、その原因はどこにあると Evans は見ていたのでしょうか。健全でないのは、その論証が妥当ではないからだ、と見ていたのでしょうか。あるいは前提のいくつかが実際には偽であると見ていたのでしょうか。それともその両方でしょうか。このうちのどれであるかが、二つ目の問題点です。

では Lewis の証言を聞いてみましょう。

The other problem is that if we understand vagueness as semantic indeterminacy, a deficiency in our language, we can diagnose a fallacy. The proof twice invokes an alleged equivalence between statemants of the forms (1) and (2):


   (1) it is vague whether ... a ..., symbolized as ▽( ... a ... ),

   (2) a is such that it is vague whether ... it ..., symbolized as x▽( ... x ... )a.*11


If vagueness is semantic indeterminacy, then wherever we have vague statements, we have several alternative precisifications of the vague language involved, all with equal claim to being 'intended'.*12

「もう一つの問題とはこうだ。曖昧さは、意味が本質的に定まらないとする意味論的非決定性にあると理解するならば、つまり曖昧さを我々の言語における不備と理解するならば、Evans の論証における間違いの原因を説明することができる。彼の証明では、(1) と (2) の形式を持つ言明同士が同値であろうということに、二度、訴えている。

   (1) a がしかじかであるかどうか、曖昧である。記号で書くと、▽( ... a ... ),

   (2) a はしかじかであるかどうか、曖昧であるようなものである。記号で書くと、x▽( ... x ... )a.

曖昧さが意味論的非決定性にあるのだとすると、曖昧な言明があるところではいつでも、そこで伴われている曖昧な言語によるいくつかの異なった、指示対象を特定する精確化/精確化によって指示されているもの、があって*13、その際どれも同じこと/ものが主張されていると、「意図されて」いるのである。」


ここからわかることは、Evans は自身の論証の二つ目の問題点として、(1) から (2) への step に gap があると考えていたということです*14。これが示しているのは、Evans の論証について、本人はそこに gap があるので妥当ではないと認めていたということです。(1) から (2) への step に gap があるというのは、世界の側の対象が曖昧なのではなく、私たちの側の言葉に、いみの点で曖昧さがあると考えていたということです。あるいは曖昧なのは、私たちの言語表現とその言語表現が世界へとかかわる意味論的な関係が本質的に不定であることにあるのだと Evans は考えていたということです*15。'a' なら 'a' という言葉の意味が、本質的に定まらないと解することができるならば、(1) の 'a' と (2) の 'a' が同じものを指しているという保証はなく、(1) から (2) への推論が、いつでも成り立つとは限らなくなります。そうすると、Evans の論証は、この (1) から (2) への step のところで間違っていて、(1) から (2) へと無条件に移行することはできず、結局彼の論証の最初の仮定「曖昧な同一性言明がある」ということに反する結論 '〜( a = b)' は出てこない、一件落着、ということになります。このことは、Zeno's Paradox of the Arrow の場合で言えば、最初に矢は飛んでいると仮定して、その後、矢は飛んでいないという結論が出てきましたが、仮定から結論へと至る process のうちに何か gap を見つけて、そのような gap があれば、そのことにより、結論への推論が途中で断ち切られ、結局「矢は飛んでいない」などというばかげた結論が出てこないようにすることができる、ということに相当します。

Zeno's Paradox of the Arrow において、最初の仮定とその後の結論へと至るすべての process において、一切間違いがないのならば、矢は飛んでいない、という結論を否定することは困難だと思われるのと同様に、Evans の論証でも、最初の仮定とその後の結論へと至るすべての process において、一切間違いがないと考えるのならば、特に曖昧なのは対象の方なのだと考えるならば、最初の仮定に反する結論を拒否することは困難だと思われます。そこで Evans は、彼の論証の途中でどこかに間違いがあるはずだと考え、それは (1) から (2) への step に原因があり、曖昧なのは世界の側の対象なのではなく、私たちの言語表現の方なのだと考えれば自身の論証は妥当とは言えず、問題の結論の導出を阻止できて、話の筋を通すことができると思ったのだと考えられます。


ここで念のため、Lewis の証言をもう少し継いでおきましょう*16

Gareth Evans's article 'Can There be Vague Objects?' […] is over-brief, cryptic, and often misunderstood. As misunderstood, Evans is a pitiful figure: a 'technical philosopher' our of control of his technicalities, taken in by a fallacious proof of an absurd conclusion. Rightly understood, Evans endorses neither the bad proof nor the bad conclusion. Instead he is making a good argument in favour of a very different conclusion.*17

Evans は自分の論証が間違っていると思っているし、結論も間違っていると思っている。Evans は自分の論証が妥当だとは思っていないのです。その論証で出てくる結論も偽であると考えているのです。

 The misunderstanding is that Evans overlooks the fallacy, endorses the proof, and embraces the absurd conclusion that there can be no vague identity statements.*18

「Evans に対する誤解とはこうだ。Evans は論証の誤りを見落として、証明が正しいと思っており、曖昧な同一性言明はあり得ないというばかげた結論を受け入れている、ということだ。」

 The correct interpretation is that Evans trusts the reader − unwisely! − to join him in taking for granted that there are vague identity statements, that a proof to the contrary cannot be right, and that the vagueness-in-describing view*19 affords a diagnosis of the fallacy. His point is that the vague-objects view*20 cannot accept this diagnosis, […]*21

しかし「正しい解釈はこうだ。Evans は (おろかにも!) 自分とともに読者が次のことを当然と考えてくれるものと思っていたのだ、すなわち、その当然正しいというのは、曖昧な同一性言明があって、この反対の、曖昧な同一性言明がないとするような証明は正しいはずがなく、曖昧さの由来を世界の側に置くのではない、我々の言語の側に置く曖昧記述説なら証明が誤っている原因を説明してくれる、ということである。Evans にとってのポイントは、曖昧な対象が世界の側にあるとする曖昧対象説だと誤りの原因を説明してくれない、ということである。」


こうして Evans は、曖昧な同一性言明が現にあるが、曖昧な対象もあると考えると、曖昧な同一性言明はあり得ないというばかげた結論が出てきてしまうので、曖昧な同一性言明があるとしながら、なおも今のばかげた結論を拒否するためには、論証に間違いがあり、曖昧なのは世界の側の対象なのではなくて、私たちの言葉の方にあって、曖昧さというものを、私たちの言語表現がどのようにしてもその指示対象を複数ある指示対象候補の中から一つに特定できないこと、多数ある指示対象候補の中から、他の候補すべてを排除して、これだけがその指示対象だ、とは特定できないこと、このことに曖昧さの原因を求める必要があると彼は考えているのだと思われます。

Evans は、曖昧な対象がないというのは、曖昧な同一性言明がないからではなくて、そのような同一性言明はあって、しかも曖昧な対象があるとすると、曖昧な同一性言明がないというようなことになってしまうから、曖昧さの原因を対象にではなく、別に求める必要があると考え、その原因を言葉の意味論的な関係のうちに見ています。そうすれば、Evans の論証を間違っているものとして阻止できます。そうしなければ阻止できないと Evans には思われたということです。曖昧な対象があるとすると Evans の論証の間違いが説明できない、ということです。意味論的な関係のうちに曖昧さの原因があるとすれば、筋を通すことができると Evans は考えたわけです。Evans が曖昧な対象はないと、もしも考えていたとするならば、以上のような理由だろうと思われます。Evans の意図は、一ノ瀬先生がおっしゃるように、曖昧な同一性言明がないから曖昧な対象もない、と主張することにあるのではなく、曖昧な対象があるとすると曖昧な同一性言明がないということになってしまうから、曖昧なのは対象なのではない、と主張することにあり、意味論的な非決定性のうちに曖昧さの原因を求めているから、曖昧な対象を想定する必要はないのだと主張することに彼の意図があるのだろうと思われます。


ただし、Evans の論証を、曖昧な対象が存在すると考えたままで整合的にすることもできるかもしれません*22。それは最初の仮定 ▽( a = b ) は、a と b が同一かどうか、真偽が不確定だとするのではなく (つまり真理値に gap があると考えるのではなく)、a と b は厳密には同じではないので a = b は正確には偽であるとし、しかし a と b はほとんどそっくりなので、おおよそ、曖昧には同一であると言ってよいとし ( ▽( a = b ) )、つまり曖昧には同一であることは真であるとして構わない、と見なすのです。すると a = b は正確には偽であるので 〜( a = b ) は真であり、Evans の論証で出てくる 〜( a = b ) ももちろん真で、こうして整合性が保たれます。そうすると曖昧な対象はあってもいいし、想定しても構わないことになります。

もしもここまで Evans が考えていたのならば、Evans は曖昧な対象が存在しないとは断言していなかっただろうと思われます*23。そのような対象を想定しても整合的であると考えていたかもしれません。ただ、Evans としてはそのような対象をわざわざ想定することは不要であり、曖昧なのは私たちの言語表現の意味論的側面であるとすれば十分であると思っていたと考えられます。


また、今まで Evans の意図はどこにあったのかを語ってきましたが、彼の論証を彼の意図とは別に利用することも、もちろん可能です。彼の論証を彼の意図通りに利用しなければならないということはありません。彼の意図を離れて利用してもまったく構いません。例えば、木炭というものがあります。炭火焼きの木炭です。木炭は一般に火をくべるために作られてきました。元々そのような意図で木炭は生産されてきたかもしれませんが、木炭を別様に使用しても構いません。今では脱臭剤などとしても使われていますし、その他もろもろの用途に供されています。当初の意図と違っていても構わないわけです。Evans の論証も同様です。彼の意図が何であれ、それとは別に彼の論証を鍛え直し、利用することは許容されることです。今回の私の話は Evans の意図にだけ沿って (および Lewis の見解を参考にして) 問題の論証について述べてきました。Evans の論証を彼の意図とは別に、どのように活かしていくかは今後の問題であり、実際、現在の研究者はまさにこのことに取り組んでいるのだろうと思われます。ですから、私の日記で今まで二つ Evans の論証の full version を詳しく記してみましたが、それらに Evans が言うような gap がどこかにあるのか、再検討する仕事は私たちに依然残されており、また、これらの full version を鍛え直して強化し、Evans の意図とは別に、曖昧な対象が存在しないという論証を新たに打ち立て直すということも可能かもしれません。この可能性を追究する仕事が、今も私たちには残されているようです。まだまだ曖昧な世界をめぐる冒険は終りそうにありません。


最後に。本日の私の話は、Evans 論文の基本点を押さえるだけのものとはいえ、私が vagueness の専門家でもなく、vagueness について勉強してきたこともないことから、間違っているかもしれません。そのようでしたら、ここでお詫び申し上げます。一ノ瀬先生に対しても、私の方こそ誤解しているようでしたら、大変すみません。その際は訂正させていただきます。その他に、誤字や脱字などが含まれているようでしたら、これもお詫び致します。どうかお許しください。勉強し直します。


最後の最後に。一ノ瀬先生と同じく、実は私も Evans の論証を、当初、背理法を使った論証だとばかり思っておりました。Lewis の論文をちゃんと読んでみて、初めて Evans の意図が背理法の使用にあるのではなく、また、曖昧な同一性言明がないから曖昧な対象もないのだと主張したいのでもなく、単に Evans の論証は健全でなく、非妥当であって、それが非妥当となる原因として Evans は semantic indeterminacy というものを考えており、このような言語上のいわば瑕疵を想定すれば、曖昧な対象など存在すると言う必要はない、あるいはそのようなものを措定 (posit) する必要はないのだ、としていることを、後々になって私は知りました。何も最初からわかっていたわけではございません。私の能力では、それは無理です。このことをここで正直に記しておきます。

*1:この maxium については、当日記、2012年2月26日、項目 'What Does the Slogan 'No Entity without Identity' Mean?' を参照ください。

*2:ほとんど同じような解説が、先生の次の論文にもあります。一ノ瀬正樹、「曖昧性のメタフィジックス」、飯田隆他編、『形而上学の現在』、岩波哲学講座 02, 岩波書店、2008年、198-199ページ。

*3:一ノ瀬、『確率と曖昧性』、219ページ、一ノ瀬、「メタフィジックス」、199ページ。引用は『確率と曖昧性』から。「対象というものが同一性によって規定されるものである限り」という言葉では、たぶん次のようなことが言われているのではなかろうかと推測致します。「A である限り、B である」とは、おそらく「A でありさえすれば B である」ということであり、「B であるためには A であるだけで十分である」ということだと思われます。とすると、「A である限り、B である」とは、「A ならば B である」ということになります。よって、「対象というものが同一性によって規定されるものである限り」とは、「何かが同一性によって規定される限り、それは対象である」ということであろうから、「何かが同一性を持つならば、それは対象である」ということでしょう。すなわち、同一性が言えるものが対象である、ということです。ところで「A である限り、B である」と「A である場合に限って、B である」とは異なります。後者の「A である場合に限って、B である」とは、「A でないならば B でない」ということであり、この対偶を取れば「B ならば A である」ということになります。つまり、「A である場合に限って、B である」とは「B ならば A である」ということです。そしてもしも一ノ瀬先生が、「対象というものが同一性によって規定されるものである限り」という表現によって「A である場合に限って、B である」ということも含めているのならば、それは「何かが同一性によって規定される場合に限って、それは対象である」ということになるでしょうから、この時、「何かが対象であるならば、それは同一性を持つ」ということになります。もしも以上の通りであるとすると、一ノ瀬先生は、次のように考えておられるということです。すなわち、同一性を持つものが対象であり、かつ対象であれば、それは同一性を持つ。つまり、同一性を持つことと対象であることとは同値である、ということです。このように考えなければ、「対象についての曖昧な同一性という事態はありえない」という一ノ瀬先生のお話から「曖昧な対象などというものはありえない」という先生の結論は出てこないと思われますので、先生の「対象というものが同一性によって規定されるものである限り」という表現は、以上のように解する必要があると私は考えます。

*4:この他に、似たような title を持った論文に、以下のようなものがあります。J. A. Burgess, ''Vague Identity: Evans Misrepresented,'' in: Analysis, vol. 49, no. 3, 1989. Lewis の論文と同様に、この Burgess の論文でも Evans を新たな誤解から救おうとの試みがなされています。Burgess の Oxford における D.Phil thesis は、vagueness を扱ったもので、その主査を務めた指導教官が、Evans でした (Burgess, p. 113, n. 1.)。そのため Burgess は Evans としばしば vagueness について議論をし、Evans が vagueness についてどのような考えを持っているかをご存じでした。その経験をもとに、この Burgess 論文 ''Vague Identity'' は書かれています。しかし、Lewis 論文と似てはいるものの、Burgess 論文の方がずっと難しいです。Evans の interpretational semantics と Davidson の Tarskian truth-theoretic semantics と vagueness の哲学の、これら三つに精通していないと理解できない論文です。正直に言うと、残念ながら私は今上げた三つの事柄にまったく詳しくないので、読んではみたもののよくわからなかったです。そのようなわけで、今回、Burgess 論文は参考にしていません。

*5:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 128, Keefe and Smith, p. 318. Above quotation from Analysis. Subsequent quotations of Lewis's are also from this journal.

*6:Evans は自分の論証に関し、結論が実際には偽であるという問題点と、もう一つ問題点を見ていましたが、このもう一つの点については、のちほど説明致します。

*7:Nick Huggett, ''Zeno's Paradoxes,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, First Published in April 2002, Substantive Revision in October 2010, Section 3.3 The Arrow.

*8:Zeno's Paradox of the Arrow をどのように解し、どのように訳すべきかについては、大変難しい問題があるようです。昔から専門家の意見がみな一致してきた、というものではないようです。ですから、以下のようにしか訳すことができず、以下のようにしか解すことができない、と私はここで言いたいのではございません。おそらく一般には大体このように訳され解されるであろうというところを示しているだけにすぎません。ここで私が示している解釈は、Aristotle に端を発する伝統的でもっとも一般的な解釈だと思われます。この解釈に対しては、別の解釈も立てられており、それによると、ここでの私の解釈とはいわば正反対に、Zeno's Paradox of the Arrow における論証は、背理法を使った論証なのだ、という見解もあるようです。Zeno's Paradox of the Arrow の解釈の問題、訳出の問題については、次を参照ください。村田全、『数学史の世界』、人と研究シリーズ、玉川選書 45, 玉川大学出版部、1977年 (初出1964年)、第II章、「ギリシア数学史におけるゼノン」。

*9:Evans から彼の意図を聞き出し、その証言をしたためている Lewis 論文でも、どこを見ても「Evans は曖昧な対象があり得ないことを論証しようとしていた」とは、まったく明言されていません。

*10:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 129, Keefe and Smith, p. 319.

*11:原文ではこの式の先頭の 'x' には、頭に '^' が付いていますが、横棒で代用しています。以下同様。

*12:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, pp. 128-129, Keefe and Smith, p. 318.

*13:ここまで、「意味論的非決定性 (semantic indeterminacy)」と「精確化 (precisifications)」が何であるのか、Lewis 論文からは正確なところが今一つ読み取れないですが、彼の次の論文にもう少し説明があります。デイヴィッド・ルイス、「たくさん、だけど、ほとんど一つ」、柏端達也、青山拓央、谷川卓編訳、『現代形而上学論文集』、双書 現代哲学 2, 勁草書房、2006年、9-12ページ。またこのルイス論文の32-33ページにおけるルイスの註(5)には、Lewis 論文に見られる Evans 論証の説明が違った角度から再説されており、Lewis 論文を読む場合には、この註(5)も読むと大変有益です。合わせて読まれることをお勧め致します。

*14:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 129, Keefe and Smith, pp. 318-319 に modal logic を使った analogy に基づく簡単な説明があります。より詳しくは、そしてよりわかりやすくは、次の論文 Jesse Prinz, ''Vagueness, Language, and Ontology,'' in: Electronic Journal of Analytic Philosophy, vol. 6, Special Issue: The Philosophy of Evans, 1998, Paragraphs 11-13 に丁寧な説明があります。

*15:「本質的に不定である」とは、文脈が特定されても不定であり続ける、ということです。例えば、「はしがいい」という文は、fork よりも箸がほしいと言っているのか、あちらの道よりもこちらの橋を通る道がいいと言っているのか、端っこの方に行きたいと言っているのか、どのことを言っているのか、この文だけからはわかりませんが、この文が発せられている脈絡が与えられればそのいみするところが確定します。しかし、意味論的に決定性を持たない表現は、どのように精確化を施しても、その指示対象が確定しないということです。

*16:これらの証言からも、Evans は自身の論証を (背理法による) 妥当な論証だとは見なしていなかったことがわかります。妥当なように見えて、妥当ではない論証を、そうと知りながら提示しているのです。論文の読者も、当然、そうとわかった上で論証を読んでくれると Evans は思っていたのです。

*17:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 128, Keefe and Smith, p. 318.

*18:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 129, Keefe and Smith, p. 319.

*19:According to this view, our mode of representation of the world is vague. The world itself is not vague. This note is annotated by the writer of this Diary.

*20:Accoding to this view, the world is vague. Our mode of representation of the world is not vague. This note is also annotated by the writer of this Diary.

*21:Lewis, ''Vague Identity,'' in: Analysis, p. 129, Keefe and Smith, p. 319.

*22:この paragraph の内容は、先のルイス論文の註(5)に依っています。詳説する時間がないので、詳しくはそちらを参照してください。

*23:だから、Evans の考えを報告している Lewis 論文で、「Evans は曖昧な対象の存在を否定している」とは明言されていないのかもしれません。もしかして、ですが…。