Principia, Frege's Theory of Meaning, Wittgenstein, Buddhist Hagiography, and Chandler


1本目の Principia 研究書は、Principia 刊行100周年を記念した研究論文集。この本の目次は、当日記の2014年1月4日、項目「2013年読書アンケート」の終わりの方で記しています。


2本目の Varieties of Tone は Frege が考えた、言葉のいみの tone についての本。ところで tone とは何か? 次をご覧ください。引用文中の '[ ]' は原文にあるもの、'〚 〛' は引用者によるものです。原文斜体は、便宜上、解除して引用します。

 Frege distinguished two elements in the meaning of a sentence or expression, for one of which he reserved the word 'sense' ('Sinn'), and for the other of which we might use the word 'tone' ('illumination' ['Beleuchtung'] and 'colouring' ['Färbung'] being the words Frege himself used for this latter). He explained the difference in this way: to the sense of a sentence belongs only that which is relevant to determining its truth or falsity; any feature of its meaning which cannot affect its truth or falsity belongs to its tone. Likewise, to the sense of an expression belongs only that which may be relevant to the truth or falsity of a sentence in which it might occur; any element of its meaning not so relevant is part of its tone.
 The distinction is exceedingly familiar to contemporary philosophers: the substitution of the word 'but' for 'and' will alter the meaning of a sentence, but it cannot convert it from a true to a false sentence or vice versa; and the same is true when we replace 'dog' by 'cur'. The difference in meaning between 'but' and 'and' or between 'dog' and 'cur' therefore belongs to their tone and not to their sense.〚…〛It is, further, unclear whether tone is a single feature of the meaning of a sentence or expression in addition to its sense, or whether, say, a different feature distinguishes 'but' from 'and' from that which distinguishes 'cur' from 'dog'.*1


3本目。『論考』が新たな訳で出ました。底本は

  • Ludwig Wittgenstein, Logisch-philosophische Abhandlung, Joachim Schulte hg., Suhrkamp, Reihe: Bibliothek Suhrkamp, Band 1322, 2003

のようです。今回の訳の特徴を、訳者の丘沢先生に語っていただきます。ここでも引用文中の '[ ]' は原文にあるもの、'〚 〛' は引用者によるものです。脚注も引用者によるものです。

臆病な翻訳

 数年前、学生が長いレポートを書いてきた。『論考』をたくさん引用していた。「ウィトゲンシュタイン」と書いて学生が引用していたのは、岩波文庫の『論考』だった。ちょっと違和感があった。ウィーンのにおいがしない。気になったので、岩波文庫を買った。そこにあったのは、ダイナミックで情熱的な『論考』だ。
 ヴィトゲンシュタインのドイツ語と照らし合わせてみて、気がついた。いつもではないけれど、ところどころで強調されている箇所がある。たとえば、接続法や助動詞をねじ伏せ (「wäre (ではないでしょうか/ということであるだろう)」 → 「である」。「wird ... sein (であるだろう)」 → 「なのである」、動詞に色をつけ (「ist ([なの] である/[なの] だ)」 → 「にほかならない」)、副詞を強くし (「vielleicht (もしかしたら)」 → 「おそらく」)、状態受動を動作受動にして (「ist ... bestimmt (決められている)」 → 「決められる」) 訳している。たぶん、ヴィトゲンシュタインにかわって、ここぞと思った箇所でアクセントをつけたのだろう。私は、往年の大指揮者の演奏を思い出した。名人芸だから、ファンも多いはずだ。
 けれども、そういう大胆な流儀では、引いているようで押している、という微妙なスタンスが伝わりにくいのではないか。日本語の『論考』にも、ドイツ語 (の文法) に気をつけた、臆病でフラットな翻訳があってもいいのではないだろうか。「ウィーンのヴィトゲンシュタイン」の『論考』である。世紀転換期ウィーンの、あの奇跡的な知の空間を育てたのは、「言語」批判の精神だ。ヴィトゲンシュタインは、コンマひとつにもうるさかったカール・クラウスの、弟分だった。


「語ることができないことについては、沈黙するしかない」

 『論考』はシンプルなドイツ語で書かれている。哲学の本なのに美しい作品だ。最後の文章は、Wovon man micht sprechen kann, darüber muss man schweigen*2. 岩波文庫では、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と訳されている。ん? その気になれば、語ることができるのだろうか。「せねばならない」には、お説教のにおいがする。
 「せねばならない」と言うのなら、ヴィトゲンシュタインは muss ではなく*3、soll と書いただろう。助動詞 soll (つまり sollen) の基本的な用法は、「主語に対する他者の意思」だ。助動詞 muss*4 (つまり müssen) の基本的な用法は、「選択の余地がこれしかない」。最後の文章を普通に読めば、「語ることができないことは、黙っているしかない」となる。
 もちろんコンテキストによっては、「沈黙せねばならない」と読むこともできる。このことについては以前、新宮一成さんから、「私は精神科医として、自戒をこめて、『沈黙せねばならない』と読みます」というメールをもらったことがある。すぐれた精神科医ならではの、謙虚な読み方なのだと思う。
 〚…〛
 だが、読むことと翻訳することは局面がちがう。翻訳は、訳者の読み方を通しておこなわれるものだけれど、小心で臆病な訳者としては、できるだけオリジナルに色をつけずに読者に届けたい。アドルフ・ロースのファンだったヴィトゲンシュタインは「装飾は犯罪だ」と考えていた。「せねばならない」は、厚化粧の読み方だ。『論考』の流れ −「明らかなことだが、倫理を言葉にすることはできない」 (『論考』 6.421) − からいっても、最後の文章がお説教になると、寄せ書きされた日の丸の旗みたいで、暑苦しい。『論考』が美しくなくなる。*5

できる限り neutral な訳文の作成に努められたようです。この他の本訳書の特徴は、全文が横組みになっていることです。これは大変うれしい。論理式の類いが出てくる本書では、横組みの方が自然で読みやすいと思います。それと、訳注の類いが一切ないように見えます。おかげでとてもすっきりしています。ただし、ただでさえ理解するのが困難な本書に、訳注がないとなると、さらに理解が困難になるだろうことが予測されますが、丘沢先生はそのまま本文を提示することをお選びになられたようです。


4本目の『高僧伝』は、仏教に関する本です。私が仏教の本を購入するのは、かなり珍しいです。この本には中国のえらいお坊さんの話が多数載っています。先日購入した、船山徹、『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』、岩波書店、2013年、の影響から今回本書を購入しました。


最後の本は、Raymond Chandler, The Long Goodbye の原文を一部掲げ、それと清水俊二訳、村上春樹訳を比較し、それらに著者の comment を付して、それから著者なりの訳文を提示するという本。村上さんの訳が出た時に、清水さんの訳と突き合せてみたいと思っていたのですが、もちろんそのようなことをしている暇もなく、今に至っていたところ、本書に出会い、これはちょうどよいと思って購入。個人的には清水さんの訳に親しんでおり、他にどのような訳文を持ってこられても、清水訳から抜け出すことは難しいと思っております。

*1:Michael Dummett, Frege: Philosophy of Language, Second Edition, Duckwort, 1981, pp. 2-3. ちなみに Harvard University Press から刊行されている Second Edition, 1981 も、同じ page に同じまま出ています。

*2:正確を期して念のために記しておくと、ここに引いたドイツ語文中の 'muss' について、丘沢先生の文では 'ss' は Eszett.

*3:ここも丘沢先生は 'ss' を Eszett.

*4:ここも Eszett.

*5:丘沢静也、「訳者あとがき」、ヴィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、丘沢静也訳、野家啓一解説、光文社古典新訳文庫、光文社、2014年、164-167ページ。