変わった証明があったので記してみます。別に重大なことではございません。また、この証明なるものは、よく知られているので、別段珍しいものではございません。
以下の文献の page を開くと、その該当箇所に
- 林晋 『数理論理学』、コンピュータ数学シリーズ 3, コロナ社、1989年、25ページ、脚注†,
次のように書かれていた。ちょっと面白い証明です。
B. Russell が講演の席上、この推論法則 [ex falso quodlibet, またの名を「爆発律」(偽または矛盾からは任意の式が導かれるという法則)] に言及したところ、聴衆の一人が立ち上がり、「では、1 = 2 から、あなたとローマ法皇が同一人物であることを証明していただきたい」と難癖をつけたところ、Russell はつぎのように答えたという。「私とローマ法皇からなる集合は、ちょうど二つの元を持つ。1 = 2 であるから、この集合は、一つの元しか持たない。したがって、私とローマ法皇は同一人物である。」
これと同じ話は
- 八杉満利子、林晋 『論理パズルとパズルの論理』、アウト・オブ・コース・シリーズ 7, 遊星社、1998年、58-59ページ、
にも載っている。そこでこのおかしな証明について、少し調べてみた。もとより網羅的に調べたのではなく、周辺を軽く眺めてみただけなので、不備が多いものと思います。
さて、上記の話とよく似た話が次に載っている。原文も引用してみる。
- John D. Barrow Impossibility: The Limits of Science and the Science of Limits, Oxford University Press, 1998, p. 197,
The conventional wisdom is that systems of reasoning must be consistent. That is, no statement can be both true and false. If so, the system collapses because there remain no restrictions on what is true or false: every statement can be proved true (and false as well!). When Bertrand Russell once made this claim during a public lecture he was challenged by a sceptical heckler to prove that the questioner was the Pope if twice 2 were 5. Russell replied, 'if twice 2 is 5, then 4 is 5, subtract 3; then 1 = 2. But you and the Pope are 2; therefore you and the Pope are one!'
これとほとんど同じ話が、次の文献の該当箇所にも載っている。
- John D. Barrow The Book of Nothing: Vacuums, Voids, and the Latest Ideas about the Origins of the Universe, Random House, 2002, p. 285.
林先生の話も Barrow 先生の話も比較的近年のものですが(1989, 1998, 2002年)、少し遡ってみると、次がある。これは1940年まで遡りそうです。
- Garrett Birkhoff Lattice Theory, American Mathematical Society, Colloquium Publications Series, vol. 25, 1st ed., 1940, 2nd ed., 1948, 3rd ed., 1993, p. 279, footnote †,
In this connection, the following anecdote is appropriate. Russell is reputed to have been challenged to prove that the (false) hypothesis 2 + 2 = 5 implied that he was the Pope. Russell replied as follows: ''You admit 2 + 2 = 5; but I can prove 2 + 2 = 4; therefore 5 = 4. Taking two away from both sides, we have 3 = 2; taking one more, 2 = 1. But you will admit that I and the Pope are two. Therefore, I and the Pope are one. Q.E.D''.
林先生の話でも Barrow 先生の話でも、Russell が挑まれたのは、一般聴衆からのようですが、ここでは Russell が誰から挑まれたのか、それが書かれていない。
さらに遡ると次があった。1918年まで遡る。
- Philip E. B. Jourdain The Philosophy of Mr. B*rtr*nd R*ss*ll: With an Appendix of the Leading Passages from Certain Other Works, Routledge, Routledge Library Editions: Russell, vol. 6, 1918/2013, p. 40,
A distinguished philosopher (M) once thought that the logical use of the word "implication" - any false proposition being said to "imply" any proposition true or false - is absurd, on the grounds that it is ridiculous to suppose that the proposition "2 and 2 make 5" implies the proposition "M is the Pope." This is a most unfortunate instance, because it so happens that the false proposition that 2 and 2 make 5 can rigorously be proved to imply that M, or anybody else other than the Pope, is the Pope. For if 2 and 2 make 5, since they also make 4, we would conclude that 5 is equal to 4. Consequently, subtracting 3 from both sides, we conclude that 2 would be equal to 1. But if this were true, since M and the Pope are two, they would be one, and obviously then M would be the Pope.
この Jourdain さんの話には Russell の名前が出てこない。代りに M なる抜きん出ているという哲学者の名前が上がっている。しかも「偽は何でも含意する」という主張に対し、挑んでいるのは一般聴衆ではなく、この優れた哲学者になっている。この M なる哲学者とは誰なのか? その hint となりそうな話が以下に出ている。
- Houston Euler ''The History of 2 + 2 = 5,'' in: 'Humor in der Mathematik,' Das Institut für Mathematik und Wissenschaftliches Rechnen, Karl-Franzens-Universität Graz, http://www.uni-graz.at/imawww/pages/humor/twoandtwo.html.
ここでは、以下に見るように、Russell も一般聴衆も出てこない。代りに数学者の Sir Harold Jeffreys 先生と同じく数学者の Godfrey Harold Hardy 先生と、問題の M なる人物が出てくる。
Hardy's proof of the pope's identity:
The following conversation at the Trinity High Table is recorded in Sir Harold Jeffreys' Scientific Inference, in a note to chapter one. Jeffreys remarks that the fact that everything followed from a single contradiction had been noticed by Aristotle. He goes on to say that McTaggart denied the consequence: ''If 2 + 2 = 5, how can you prove that I am the pope?'' Hardy is supposed to have replied: ''If 2 + 2 = 5, 4 = 5; subtract 3; then 1 = 2; but McTaggart and the pope are two; therefore McTaggart and the pope are one.''
Jeffreys 先生曰く、「矛盾から何でも出てきてしまうことは Aristotle も知っていました。このことを McTaggart は次のように言って否定しました。『じゃあ 2 + 2 = 5 だとすれば、私が法王であると、どのように証明できると言うのかね、できはしまい。』」 これに対し、Hardy が答えを与えたと考えられています。Hardy 先生曰く、「2 + 2 = 5 なら 4 = 5 である。3 を引けば、1 = 2 である。しかし McTaggart と the pope とで 2 である。故に McTaggart と the pope とで 1 である。」
もしかすると上記の M なる人物は、この McTaggart かもしれない。
なお、今の引用文を書いた Euler 先生の文の続きには、以下のようにも書かれている。
There are related stories like the following:
The great logician Bertrand Russell once claimed that he could prove anything if given that 1 + 1 = 1.
So one day, some smarty-pants asked him, ''Ok. Prove that you're the Pope.''
He thought for a while and proclaimed, ''I am one. The Pope is one. Therefore, the Pope and I are one.''
これで振り出しに戻った。
Russell の証明と言われているものの骨格は、次のようなものだろうと思われます。
2 + 2 = 5
だとする。一方、
2 + 2 = 4
である。すると
5 = 2 + 2 = 4
だから
5 = 4
である。両辺から 3 を引くと、
2 = 1
である。ところで Russell と the Pope とで 2 である。しこうして 2 = 1 だから、Russell と the Pope とで 1 である。ということは Russell と the Pope とは等しい。 QED
ここで私にとって興味深いのは、「Russell と the Pope とで 2 である (Russell and the Pope are two) 」とか「Russell と the Pope とで 1 である (Russell and the Pope are one) 」と言われている時の、「2 である」や「1 である」という言い回しが、いかなるいみを持っているのか、ということです。数が性質でもなく、構造によって規定されるものでもないのならば、「Russell と the Pope とで 2 である (Russell and the Pope are two) 」という文は、たぶん次のことを表しているものと推測されます。
(#) The number of ( the member of the class which consists of Russell and the Pope ) = 2.
もしこのように言い換えられるならば、またこのように言い換えられねばならないならば、この文 (#) には確定記述句と class の名前が出てきていることが重要な点になると思われます。というのは、そのような名辞があることによって、上記の Russell による証明は、論駁できるだろうからです。それは次のような理由に依ります。
Russell によると、通常、確定記述句と class の名前は、本来それ自身だけで何かを指すことにできるものではなく、現代で言えば通常の量化の装置によって書き換えられ、解消されねばならないのでした。その場合、今の等式 (#) の左辺を量化の装置で書き換えると、'∃xΦ' というような式になるでしょう。しかしそうだとすると、書き換える前は単称名だった (#) の左辺が、書き換え後に存在文というような式となり、等号の両辺は単称名がこなければならないところを式がきてしまって、(#) は ill-formed となってしまいます。するとその時点で (#) については well-formed でないから、真でも偽でもなく無意味な式となって、そこで証明の進行は stop してしまいます。
以上により、「偽や矛盾から何でも引き出せると言うのなら、ご自身とローマ法王とが同一であることを証明していただきたい」という反論者の難詰に対し、「よろしい、証明してみせましょう」と言った Russell の証明に、再度論難を加えることができるのではないでしょうか。
どうなんでしょうね、私は Russell の哲学や論理学のことはよく知らないので、まったく間違っているかもしれません。また、Russell に特有の考え方とは別の、いくつかの見解に基づいて、以上の話をしています。そのためそのいくつかの見解を修正したり、却下することによって Russell を擁護し、彼の証明を貫徹させることもできるだろうと思います。いずれにせよ私は Russell について無知ですから、以上の話は完全に見当違いの可能性が高いです。ですから読まれた方は、本気にしないでください。よくよく考えた上で書いたのではなく、「これはちょっと面白い証明だな」と思って、わずかだけ調べ、それですぐさま思いついたことを書き付けただけです。繰り返しますが、調査不足であるとともに、明らかに考察や勉強が不足していますので、真に受けないようにお願い致します。誤解や勘違いやあからさまな間違いを犯しておりましたら大変すみません。
2020年3月11日追記:
先月2月に次の本が復刊され、購入させてもらいました。
・ 安倍能成他著 『私の信条』、岩波新書青版、岩波書店、1951年。
この本では二つの質問「御自分の仕事と世の中とのつながりについて、どうお考えでしょうか」、「この世で何を失いたくない残しておきたいとお考えになるでしょうか」に対し (『私の信条』、ii ページ)、各界の著名人が答えを寄せられ、それを20人分まとめて並べています。その著名人を幾人か上げるならば、たとえば最初に掲載されている五人の方の名前を記すと、長谷川如是閑、安倍能成、吉川幸次郎、志賀直哉、小泉信三というような方々になります (敬称略)。
この本には数学者の高木貞治先生も答えを寄せておられ、それを何気なく見ていると、間違った前提から Russell とローマ法皇は同一人物であることが証明できる、という話が出ていました。このような本で、Russell とローマ法皇は同一人物である、という証明を見かけるとは思いませんでしたので、意外に感じました。そこでその話をここに引用してみます。
この本は戦後間もなく出版された本であり、書かれている漢字は古い字体のものです。そこで引用に際しては、引用者の判断で今の漢字に直しています。また、本文中で一ヶ所、誤って読点がダブって打たれているところがありますが、これも引用者の判断で黙って修正しておきます。それでは引いてみましょう (『私の信条』、157-158ページ)。
この文は、70年近く前に出版されたものですが、この引用文の末尾の文「政党の宣伝などを聞く人は用心をした方がよい」については、今でも教訓として十分傾聴するに値しますね。この文の「政党」を、たとえば「現内閣」などなどに代えれば、現在でも、とても教訓的だとわかります。追記終わり