Professor Terence Parsons Argues That 'Every Head of a Man is a Head of an Animal' CAN be Proved from 'Every Man is an Animal' in Traditional Syllogism.

(注意書き 2015年1月18日: 以下を読まれる場合は、当日記の次の文も必ずお読みください。2015年1月18日、項目 'Professor Terence Parsons' Interpretation of Medieval Logic is not so Faithful to the Original Systems as We Expect.' 繰り返しますが、以下を読まれる場合は、2015年1月18日の日記もお願い致します。さもないと、間違った情報を受け取ってしまうことになりますので…。注意書き終り。)


本日は、現代の論理学と伝統的論理学の違いを確認し、その後、この違いに関係する Terence Parsons 先生の研究に言及します。

さて、現代の論理学と伝統的論理学との、決定的な違いとは何でしょうか。現代の論理学にはできて、伝統的論理学にはできないこととは、何でしょうか。このことを、現在、哲学の分野で標準的となっていると思われる論理学の教科書の一つを開いて確認してみましょう。

 古くから伝統的論理学にはうまくあつかえない論証があることに気づかれていた。その解決のために様々な努力がなされたけれど、どれも決定版と呼べるものにいたらなかった。それらの難問のうち代表的なものは、「だれもがだれかを愛している」と「だれかがだれもに愛されている」との関係に関する問題だ。

【難問1】
 【論証1】 「だれかがだれもに愛されている。したがって、だれもがだれかを愛している」は妥当だが、
 【論証2】 「だれもがだれかを愛している。したがって、だれかがだれもに愛されている」は妥当でないのはなぜか。

 このことをきちんと説明することが伝統的論理学にはできなかった。難問をもうひとつあげておこう。

【難問2】
 【論証3】 「すべての馬は動物である。したがって、すべての馬の頭は動物の頭である」が妥当なのはなぜか。


戸田山先生による上記の教科書を見ると、伝統的論理学は、せいぜい単項述語論理 (monadic predicate logic) でしかありません。伝統的論理学では、「~は馬である」という単項の名辞を扱いはしますが、「~は−の頭である」というような、複数の項を取る関係名辞を扱いはしません。そのため、複数の変項のそれぞれを複数の量化子で束縛する多重量化の装置が伝統的論理学にはありません。ところで上記の【難問1】、【難問2】はともに関係名辞を含み、かつ複数の量化子を伴っていて、これは多重量化の装置で表現されねばならない問題だと考えられます。そして戸田山先生はおっしゃいます。

 何を隠そう、こうした多重量化を含む論理式を体系的に扱えるようになったことが現代論理学とそれ以前の伝統的論理学を分けるメルクマールなのだ。[…] 伝統的論理学を悩ませた難問として紹介したものはいずれもこの多重量化に関係している。*1


分析哲学の世界的権威であった Quine 先生も、現代の論理学の特徴は、単項の名辞だけでなく、複数の項を取る関係名辞を取り込み、この名辞を持った式に複数の量化子を作用させることで、より複雑な文から成る論証の妥当性を説明、評価できるようになった点を指摘されています。Quine 先生の話を聞いてみましょう。ここでの引用文中の '〚 〛' は引用者によるもの、'( )', '[ ]' は引用文原文にあるものです。

 推論形式で、第2部で扱ったものに劣らぬ正当性を持つが、〚「ギリシア人」や「邪悪」のような単項名辞/絶対名辞だけでなく〛その分析に〚「~は−の父」や「~は−の北」のような〛関係名辞を必要とするため、そこの方法では処理できない種類のものがある。
 ユンギウス (活躍期1640年) から一例をとると:


     すべての円は図形である、∴ 円を描く人はすべて、図形を描く。


この推論の前提は、これまでの記法で、「(x)( Fx ⊃ Gx )」と書ける。しかし、結論の方に困難がある。結論を、「(x)( Hx ⊃ Jx )」と書いて、「Hx」を「x は円を描く」、「Jx」を「x は図形を描く」と解釈することはできる。しかしそうすると、言明型「(x)( Fx ⊃ Gx )」と言明型「(x)( Hx ⊃ Jx )」との間に一方から他方を引き出す推論の根拠にしうるつながりが消えてしまっている。ここで必要なことは、「y は x を描く」の意味での「Hyx」をも含むように量化言明型の範囲を拡げることである。そうすれば、「y は円を描く」は「(∃x)( Fx . Hyx )」、「y は図形を描く」は「(∃x)( Gx . Hyx )」と書きあらわせる。したがって上の推論の結論全体、「円を描く人はすべて、図形を描く」は、


  (1)     (y)[ (∃x)( Fx . Hyx ) ⊃ (∃x)( Gx . Hyx ) ]


となる。量化理論はまず、「(x)( Fx ⊃ Gx )」が (1) を含意することを証明できるように拡張される必要がある。*3


それでは、関係名辞を持った式に、複数の量化子を作用させることで、伝統的論理学においては解決困難だった難問が、どのように首尾よく解決できるのかを、Quine 先生の advice に沿って示してみましょう。その難問とは、「すべての馬は動物である。」という文から「すべての馬の頭は動物の頭である」という文を、論理学を使って証明してみせよ、というものでした。拡張された現代の論理学ではこれが可能です。Patrick Suppes 先生の logic の教科書に基づいて、その証明を記してみます。まず、Suppes 先生の言葉を聞いてみましょう。語句の挿入や省略を表す '[…]' は引用者によるものです。

  • Patrick Suppes  Introduction to Logic, Van Nostrand Reinhold, 1957, reissued by Dover Publications in 1999, p. 93.

 The nineteenth-century British logician De Morgan maintained that the classical syllogistic logic was too weak to derive that all heads of horses are heads of animals from the premise that all horses are animals. […] We use 'H' for 'is a head of' [, 'A' for 'is an animal'] and 'P' for 'is a horse', and we then translate the desired conclusion thus:


          (x)[ (∃y)( Py & Hxy ) → (∃y)( Ay & Hxy ) ].


この発言の後、Suppes 先生は、次の文を証明されています*4


   All horses are animals. Therefore, all heads of horses are heads of animals.


この論証の前提である


   All horses are animals.



   (x)( Px → Ax )


と表し、結論である


   All heads of horses are heads of animals.



   (x)[ (∃y)( Py & Hxy ) → (∃y)( Ay & Hxy ) ]


と表すことにします。そして今述べた前提から、述べたばかりの結論を引き出す証明を、Suppes 先生がされている証明を参考にして以下、記しますが、Suppes 先生の証明は自然演繹によるもので、いわゆる Fitch style になっているものの、ここでは便宜上、Gentzen style の証明規則を念頭に置いて、証明を記します。(ただし、樹形図は用いません。) 若干くどく証明を記している部分がありますが、それは Gentzen style の規則に言及しつつ証明しているからです。この点お許しいただきたく存じます。またそのため、以下の証明を読まれる場合は、Gentzen の自然演繹の規則を思い出しながら読むようにしてください。なお、この後では、言語表現を引用する場合、引用符は省きます。それでは証明を記します。


まず、前提の


[1]  (x)( Px → Ax )


を仮定し、結論の前件部分


[2]  (∃y)( Py & Hxy )


を仮定します。[2] により、Py & Hxy を満たすような y があるということで、それを仮に a とすれば、[2] から


[3]  Pa & Hxa


と仮定できます。そこで、[1] を a で普遍例化すると、


[4]  Pa → Aa


となります。[3] から Pa が出るので、これと [4] により、Aa が出ます。[3] からは Hxa も出るので、これと今出た Aa により、


[5]  Aa & Hxa


が得られます。[3] という仮定のもと、[5] により、Aa & Hxa を満たすような a があるということから、a を存在汎化して


[6]  (∃y)( Ay & Hxy )


が出ます。そこで仮定 [3] を落とせば、[2] から端的に [6] を得ることができます。この [6] は今述べたように仮定 [2] から出るので、[2] を落としつつ、条件法を導入して、


[7]  (∃y)( Py & Hxy ) → (∃y)( Ay & Hxy )


を得ます。ここまでの論証で仮定されていたのは、[1], [2], [3] の三つで、このうち [2], [3] は落とされたので、残る仮定は [1] のみです。そしてこの [1] を見ると、変項 x は束縛されていて、自由変項にはなっていません。したがって、上記の [7] における x を普遍汎化してよく、


[8]  (x)[ (∃y)( Py & Hxy ) → (∃y)( Ay & Hxy ) ]


が得られます。これが証明すべきものでした。


以上によって、単項名辞のみならず、関係名辞をも扱うようにし、多重量化の装置を開発した現代の論理学は、De Morgan によって指摘された、伝統的論理学には処理できないという難問「馬の頭」の論証を、実際に証明できることがわかりました。現代の論理学が伝統的論理学と決定的に異なるのは、伝統的論理学と違い、現代の論理学では関係名辞を扱い、多重量化の装置によって、「馬の頭」の論証を、実際に証明してみせることができる、という点です。


ここまでの話は、まったくの常識です。上に見たように、有名な先生方が執筆された教科書に載っている完全な定説です。ところがです。先日購入した次の本の

  • Terence Parsons  Articulating Medieval Logic, Oxford University Press, 2014

dust jacket の裏を見てみると、以下のように書いてありました。(OUP の home page にも同じ説明文が載っています。)

Terence Parsons presents a new study of the development and logical complexity of medieval logic. Basic principles of logic were used by Aristotle to prove conversion principles and reduce syllogisms. Medieval logicians expanded Aristotle's notation in several ways, […] The resulting system of logic is able to deal with relational expressions, as in De Morgan's puzzles about heads of horses. […] Parsons illuminates the ways in which medieval logic is as rich as contemporary first-order symbolic logic, though its full potential was not envisaged at the time. […]


これが事実だとすると、ただ事ではないと思います。ここまで本日の日記を読んでいただいた方は、誰もがそのただならぬ様子を察知されると思います。長年に渡り、中世の哲学を研究されてきた Terence Parsons 先生の主張が正しいとするのなら、私たちの常識は常識でなくなり、論理学史も幾分書き換えられねばならないと思われます。(とはいえ Parsons 先生の主張が正しいとしても、上記引用文末尾に 'its full potential was not envisaged at the time' とありますから、論理学史を全面的に書き換える必要はないかもしれません。今しがた、「幾分書き換えられねばならない」というように、「幾分」と述べたのは、そういうわけです。)

そこで Parsons 先生のご高著を開いてみると、p. 163 に難問「馬の頭」の、中世論理学による証明が載っています。先生は文 'Every Man is an Animal' から文 'Every Head of a Man is a Head of an Animal' を、中世の論理学を使って証明されています。


なお、この証明が、馬の頭に関する証明ではなく、人間の頭に関する証明になっているのは、そもそも De Morgan 本人が上げている難問が馬の頭の難問ではなく、人間の頭の難問だからです。つまり、当初 De Morgan が伝統的論理学によって処理できない難問として提示していたのは、馬の頭を例に取ったものではなく、人間の頭を例に取ったものだったからです。いつかどこかで人間の頭に関する難問だったものが、知らぬ間に馬の頭の難問に変化してしまったようです。Parsons 先生は、当初の De Morgan の上げた例に沿って証明を行っているわけです。De Morgan 本人の文を掲げてみます。

  • Augustus De Morgan  Formal Logic: or, The Calculus of Inference, Necessary and Probable, London: Taylor and Walton, [1847], p. 114, University of Toronto Libraries, The Internet Archive, http://www.archive.org/details/formallogicorthe00demouoft.

For example, man is animal, therefore the head of a man is the head of an animal is inference, but not fyllogifm[sic].

閑話休題。Parsons 先生は、「馬の頭」の難問に関する証明を示されていますが、それは見慣れない記法で書かれています。論理学の教科書に出てくるような記法ではありません。先生のご高著の p. 82 を見ると、この記法は言語学生成文法で使われている記法のようです。私は生成文法をよく知らないのですが、theta criterion と呼ばれる syntactical な装置/記法が Parsons 先生によってこのご高著では採用されているみたいです。

少し調べてみて、私の理解した限りでの theta criterion の雰囲気を述べれば、次のような感じになります。例えば、give という動詞は、学校文法の五文型において、その一つの典型的 pattern として、SVOO という文型を取ります。これを動詞を中心として関数のように書き直すと、V(S, O, O) となり、三つの argument を取ることがわかります。そしてそのそれぞれの argument には特有の特徴があり、S は give する主体/行為者を取り、一つ目の O は give が向かう対象/目標を取り、二つ目の O は主体から目標へと give されるもの/題材をが取られます。このように give という動詞は、典型例として三つの argument を取り、かつ各 argument にそれぞれ特有の性格を帯びたものが要求されます。これらの要求事項を満たさない場合、give を使った文は、well-formed ではないと、判断されます。Theta criterion とは、各々の動詞を使った文が、syntactical に well-formed とされるためには、いかなる要求事項を満たさねばならないのかを、規定するもののようです。かなり大雑把な話ですみません。

以上のような生成文法の装置/記法を使って難問「馬の頭」の証明が、中世論理学により、Parsons 先生の手で p. 163 において、なされています。この証明は19行から成り、背理法/帰謬法を使用しながら行われています。まだ私はこの証明をきちんと follow していません。前回の日記でも書きましたが、現在、精神的に滅入っているので、頭が回らないため、follow できません。ですから Parsons 先生の証明が正しいかどうか、確認できていません。先生のご高著は、その全般に渡って生成文法の記法が頻繁に利用されているようであり、本質的には難しくないようですが、現在、私は踏ん張りや粘りがきかないため、読解する気がまったく起きません。(またそのために、p. 163 ページの、見慣れぬ記法で書かれた、先生による問題の細々とした証明をこの日記に転記できないわけでもあります。)

もしも先生の証明が正しいとするならば、そしてこの証明の道具立てを支える先生の考え方が正しいとするならば、既に中世において、関係名辞が当時の論理学の中に本格的に取り込まれていたようであり、多重量化された文も、当時の論理学で問題なく処理できていたように推測されます。だとするならば、中世論理学は「馬の頭」の難問を、解くことはできなかったものの、解くことのできる道具は持っていた、と言えるのかもしれません。立派な計算機を持っていて、10桁の足し算と引き算は行っているのに、掛け算や割り算のキーを使用することはなく、100桁や1000桁、1万桁やそれ以上の桁を使った計算は、どういうわけか行っていなかった、という感じに見えます。Parsons 先生のご高著に対する上記の説明文にあるように、中世の論理学が contemporary first-order symbolic logic と同じぐらいの豊かさを持っていたということは、実質的に、現在学校で教えられている古典論理、標準的な論理学が既に中世にあったということになります。私にはこれは驚くべきことに思われます。私たちの常識を逆なでし、通説をひっくり返す試みのように感じられます。にわかには信じられません。それにしても Parsons 先生が anachronism に陥っていなければいいのですが…。

はたして Parsons 先生の主張が正しいかどうか、ゆっくりじっくり検討してみる必要があると思いますけれども、私にはその能力がなく、現在その気力もないので、とりあえず Parsons 先生の主張がかなり radical であることを、ここにお伝えするだけにしておきます。なお、今回取り上げた Parsons 先生のご高著は、上述の通り、少し technical なところがあり、また、テーマ別に各章が構成されており、時代順ではなく、かなりみっちりした内容の本に見えます。それに対し、先生による以下の論文は、

  • Terry Parsons  ''The Expressive Power of Medieval Logic,'' in E. P. Bos ed., Medieval Supposition Theory Revisited, Brill, 2013,

先生のご高著の内容を手短にまとめた感のある文献です。ただし、ご高著の内容全体の要約ではなく、ご高著の一部の要約だと思われますので、この論文を読めば先生の本の全体が大体わかるといったものではありません。しかし、この論文は時代順にとてもすっきりと簡潔にまとめられているので、先生が言いたいことの雰囲気をあらかじめ把握するにはちょうどよい文献だと思います。ご高著では自らの主張の正当性を裏付けようと、色々骨を折っておられるようですが、この論文はそのような正当化を一切省き、とりあえず得られた結果だけを手際よくまとめているという感じです。実際、この論文の p. 518 で、獲得した結果の正当化は自著の Articulating Medieval Logic で行っているとの主旨のことが書かれています。

なお、この論文を見ると、既に13世紀の William Sherwood と Peter of Spain は、文 'Some donckey sees every horse' に見られるように、関係概念を思わせる 'see' という動詞を Latin 語で取り扱っているようであり、 今の文にあるように 'some', 'every' という量化子が一つの文の中で複数出てくる文を Latin 語で取り上げているみたいです (Parsons, ''The Expressive ..., '' p. 514.)。また、14世紀の Burley, Ockham, Buridan らは、今のぎこちない英語で書けば 'Socrates is a seer of a man' という文の中で、既に 'a seer of' というような関係名辞 (relational common terms) を Latin 語で処理しているみたいです (Parsons, ''The Expressive ..., '' p. 516.)。もしもこれらが事実だとすると、大変興味深いです。


以上、Parsons 先生の見解が正しいとすればですが、その場合には、極めて興味深い事実が明らかになってくることになり、見逃せない主張となるでしょう。先生の見解が正しいかどうかについては、また後日可能ならば検討してみたいと思います。

本日の私の記述に関し、誤解や無理解や勘違いや見当違いがございましたら謝ります。誤字や脱字がありましたら、これも謝ります。どうかお許しください。>

*1:戸田山、169ページ。

*2:原書の第4版を持っているので、その版の page を記しておくならば、W.V. Quine, Methods of Logic, 4th ed., Harvard University Press, 1982, p. 168.

*3:ここでは論証「馬の頭」の例が出てこないが、Quine 先生は第3版邦訳の 150ページで (第4版原書では p. 173 で) 「馬の頭」の論証を、現代の論理学で形式化せよ、という練習問題を出しています。

*4:Suppes, pp. 93-94.