Almost Everyone Doesn't Appreciate Leśniewski's Ontology. Why?

ほとんどの方々が Leśniewski の論理学の一つである Ontology を評価されていないと私は推測しています*1。なぜなのでしょうか? 私にはわかりません*2。Ontology は非常に特異な論理学のように見えることが、評価されない理由の一つなのかもしれません*3。あるいはそもそも Ontology を知らないし、大体 Leśniewski についてさえ知らないということが、評価されていない理由なのかもしれません。どうして Ontology が人々に重要視されないのか、その理由を私はよく知らないのですが、次の論考に

  • P. T. Geach  ''History of the Corruptions of Logic: An Inaugural Lecture 1968,'' in his Logic Matters, University of California Press, 1972/1980

その理由の一端が記されているように思われましたので、この論考から該当箇所を引用してみます。私はこの Geach 先生の論考に記されている話が、Ontology の不評の根拠の一つとなっているらしいことに、今まで気付かずにおりました。

まず、引用文を掲げる前に、その文の内容理解に資するため、この引用文の前の page で Geach 先生が述べておられることを、必要最小限、記しておきます。なお以下で見られる '(p. 47)' などという挿入語句は、上記 Geach 先生の論考の page を指します。


Geach 先生によると、De Interpretatione における Aristotle の論理学では、文は二つの異質な要素 (two heterogeneous elements) から成るそうです。その二つの要素の一方は「名前 (name)」と呼ばれ、他方は「述語付けうるもの (predicable)」、略して「述語」と呼ばれます。例えば「人は歩く (Man walks)」の「人 (Man)」が名前、「は歩く (walks)」が述語です。なお、「人ライオン」だとか「走る歩く」のように、名前を羅列したり述語を羅列したものは、いみのあるものにはなりません。さて、Aristotle によると、名前と述語は異質なもので、相互に排他的な品詞です。というのも、文において、例えば述語は時制を持ちますが、名前は時制を持たないからです。また、文を否定する際に否定されるのは、述語であって名前ではないからです (この paragraph, ここまで、p. 45 より)。以上、Geach 先生は Aristotle の文に関するこの見解を、「名前述語理論 (name-and-predicable theory)」と称しておられます (p. 47)。
次に、Geach 先生によると、Aristotle は De Interpretatione を書いた後、この名前述語理論を捨て去るかのような見解を述べているらしく、文というのは異質な二つの要素から成るのではなく、同質の二つの項 (term) の一方を他方にくっつけること (attachment) で成り立つと言っているようです。名前と述語が互いに異質である場合、述語がそのままでは名前となって主語の位置に立つことはないようなのですが、同質の項の一方が他方に接続されるとする場合、ある文の述語が、別の文ではそのままで主語となりうることが認められるようなのです。述語は述語でしかないにも関わらず、主語にもなりうるようなのです。Aristotle のこのような文に関する新たな見解を、Geach 先生は「二項理論 (two-term theory)」と呼んでおられます (この paragraph, ここまで、p. 47)。
ただし、Geach 先生によると、Aristotle は名前述語理論から二項理論へと、全面的に鞍替えしたのかというと、そうではないようなのです。Aristotle は二項理論を採用すべきか否か、ためらいも見せているそうです (p. 48)。それに二項理論に対する反例も、その後の Arsitotle の発言に見出すことができるそうです (p. 49)。というわけで、Aristotle は単純に名前述語理論から二項理論へとすんなり、きっぱりと移行した、ということではないみたいなのですが、大筋ではそのような方向性を Aristotle の中では持っていたようだと言えるようです。


さて、ここで Geach 先生の文章を引用します。本文 pp. 51-53 から引きます。そして大雑把な私訳/試訳も付けてみます。若干補足を入れつつ訳します。厳密な訳ではないので誤訳しておりましたら大変すみません。原則、英語原文のみ、お読みください。いみの取りにくいところがあった場合に限り、和訳を参照ください。ただし、誤訳や悪訳が皆無であるという保証はございませんので、決して和訳を鵜呑みにしないようお願い申し上げます。

 Aristotle's fall into the two-term theory was only the beginning of a long degeneration. Aristotle never rejected the distinction between an expression's naming an object and an expression's being truly predicated of an object, though of course his theory committed him to saying that one and the same expression could stand now in one relation, now in the other. But it is a natural further step to identify naming with being predicable of and to declare explicitly that the two terms of a categorical are two names. So we pass from the two-term theory to the two-name theory. This two-name theory is best known in England from John Stuart Mill's Logic; Mill explicitly calls terms ''names'', and speak of many-worded names when he means syntactically complex terms. And Mill's term ''denoting'' simply embodies the fundamental confusion of the two-name theory between the relations being a name of and being predicable of.
 Mill was not a very subtle or hard-working formal logician; his main interests lay elsewhere. The two-name theory has had a long history and much stronger representative than Mill. It was the predominant logical theory of the Middle Ages, and was expounded by such great men as William of Ockham and Jean Buridan; though there was a minority party of logicians who insisted that naming and predicating were radically distinct, and this minority had the support of Aquinas. In our own time the two-name theory has been given a new lease of life by Polish logicians, notably by Stanisław Leśniewski. Great logical subtlety has sometimes been shown in developing the theory. It would be unjust to call this subtlety futile, but I do call it misdirected. The two-name theory is like the theory that planetary motion has to be reduced to uniform circular motion. Mill's version of the theory is like a crude astronomy in which each planet moves in a simple circular orbit round the Sun; its breakdown is manifest. By increasing the number of logical devices we get something like Copernicus' astronomy, which by assuming a considerable complexity of circles would fit the facts with few notable discrepancies. But just as Kepler could sweep away this complexity at the price of introducing a more sophisticated geometrical construction − an ellipse instead of a circle − so we get a simpler and more powerful logical theory if we distinguish names and predicables from the outset.
 Let us briefly consider some of the special troubles of the two-name theory. If what is predicated has to be a name, we get one or the other of two awkward consequences. We may find ourselves recognizing as names what by any decent standard are not names, like ''on the mat'', ''going to the fair''. Or we may insist that a predicate-term be properly dressed as a noun-like phrase, that it be 'put into logical form', before we will recognize it as a term, or as a predicate, at all. ''Brutus stabbed Caesar'' clearly says, predicates, something about Brutus and also something about Caesar. A man who has good logical perceptions will see this directly from the meaning of the sentence. But a two-namer cannot officially recognize that a predication is there at all until he has before his eyes the appropriate pair of names, say ''Brutus'' and ''stabber of Caesar'' or ''Caesar'' and ''one stabbed by Brutus''. Of course, he then owes us an explanation of how such many-worded names as ''stabber of Caesar'' and ''one stabbed by Brutus'' may be formed from ''Brutus stabbed Caesar''. I believe Polish two-name logicians have tackled these problems of forming and introducing many-worded names; but for the most part the art of 'putting into logical form' has been simply a drill without clear rationale, like school grammar.
 If a proposition consists of two names, it must also contain a linking element to hold them together; remember Plato's point that a mere string of names does not make up an intelligible bit of discourse. Two-name logicians in fact assign such a linking role to the grammatical copula, in English the verb ''is'' or ''are''. This was a further departure from Aristotle, who held that a proposition may consist simply of two terms. […] And so there arose many perplexities as to the import of the copula.


 二項理論へと Aristotle が堕落してしまったことは、長きに渡る退化の始まりでしかなかった。ある表現がある対象を名指すということと、ある表現がある対象について真に述語付けられるということとの違いを、Aristotle は決して捨てはしなかった。ただし、自分の理論からして、一つの同じ表現が、ある時には名指し関係に立ち、別の時には述語付けの関係に立つことがありうると、彼は言わねばならなくなってしまったのである。しかし、名付けること述語付けうることを同一視することは、次なる自然な一歩であり、定言命題の二つの項は二つの名前なのだとはっきり明言することも、その自然な一歩である。だから二項理論から二名理論へと移ることにしよう。この二名理論は England においては John Stuart Mill の著作 Logic によって、最もよく知られている。そこで Mill ははっきりと項を「名前」と呼んでおり、統語論的に複合的な項をいみする際、多数語名について語っている。それに Mill の語「指示」は、二名理論により、名前であるという関係と述語付けうるという関係との全き混同を、まさに体現してしまっているのである。
 Mill は大変微妙なところのわかる形式論理学の研究者というわけではなかった。あるいは形式論理学の分野で徹底して仕事をしている研究者というわけではなかった。彼の主な関心は別のところにあった。二名理論は長い歴史を持っており、Mill よりもずっと強力な代表者がいる。この理論は中世においては支配的な論理学理論であって、William of Ockham と Jean Buridan のような偉大な人物たちが詳しい説明を行っていた。ただし、名付けることと述語付けることとは根本的に異なると主張する少数の論理学者たちもいたのであって、この少数派は Aquinas から支持を得ていたのであった。我々自身の時代において、二名理論は Poland の論理学者たちにより、とりわけ Stanisław Leśniewski により、新たな息吹を与えられた。この理論の構築に際し、論理的な点について、非常に微妙な違いを区別することが時に Leśniewski には見られる。この微妙な区別を、重箱の隅を突っつくようなものだと言うことは、正当ではないだろうが、私にはそのような区別を付けることに精を出すことは、間違った方向に向かっていると言いたい。二名理論は、惑星の運動をすべて完全な円運動に還元すべきであるという理論に似ている。二名理論の Mill のバージョンは粗野な天文学のようであり、そこにおいて各々の惑星は太陽の周りを単純な円を描いて回っているとされている。しかしそのような説明が破たんしているのは目に見えている。論理的な道具立ての数を増やすことにより、我々は Copernicus の天文学のようなものを手に入れ、完全な円運動の非常に複雑な組み合わせを想定することで、わずかばかりの顕著な食い違いを別とすれば、この天文学は事実に合っていると思われる*4。しかしより洗練された幾何学的図形 − 完全な円ではなく楕円 − を導入するという代価を払うことで、Kepler がこの複雑な円運動を一掃してしまうことができたのとちょうど同じように*5、初めから名前と述語付けうるものとを区別するならば、より単純で、より強力な論理学理論が手に入るのである。
 二名理論において、とりわけ問題となることをいくつか手短に見てみたい。述語付けられるものが名前でなければならないのなら*6、我々は二つの無様な帰結のうちのどちらか一方を取ることになる。まず二つの帰結のうちの一方として、「そのマットの上に [いる]」とか「その見本市に行く」というような、どのようなまともな基準からしても名前ではないようなものを、名前と認めることになると我々は気づくだろう。他方の帰結としては、述語という項は名詞的な語句として適切に粉飾されねばならず、そもそも項として、あるいは述語として認められる前に、「論理的な型に押し込められ」ねばならないことを、我々は求めるだろう。「Brutus は Caesar を刺殺した」*7は明らかに Brutus についての何事かと Caesar についての何事かを語り、述定している。すぐれた論理的把握力の持ち主ならば、このことをその文のいみから直接見て取るだろう。しかし、二名理論の支持者は目の前に、例えば「Brutus」と「Caesar の刺殺者」、または「Caesar」と「Brutus によって刺殺された者」というような名前の適切な組を与えられなければ、そもそもそこに述定があるということを公式には認めることができない。もちろん二名理論支持者がそのことを公式に認めることができる際には、「Caesar の刺殺者」と「Brutus によって刺殺された者」というような多数語名が、いかにして「Brutus は Caesar を刺殺した」という文から形成されうるのかについての説明を、我々に負っているのである。Poland の二名論理学者たちは、多数語名をどのように形成、導入すればよいのかという以上のような問題に取り組んできたのだと思う。が、大部分、「論理的な型に押し込める」わざとは、学校文法でやるように、明確な基準のない経験的で直感的な単なる反復練習によって習得されるものなのである。
 文が二つの名前から成るのならば、それらの名を合わせるためのつなげる要素も含んでいなければならない。名前の単なる羅列では少しも理解可能な話にはならないという Plato が指摘した点を思い出すがよい。実際、二名論理学者たちは、このようなつなげる役割を文法上の繋辞、英語でいう動詞の 'is' または 'are' に与えている。これは Aristotle からさらに遠ざかることとなった。彼によると、文はただ二つの項から成りうるものだったからである。[…] そしてそういうわけで繋辞を導入することにより、多くの悩みの種が生じたのである。

上記引用文中では、two-namer が自然言語の文を分析する際に、文が二つの名前と繋辞から成るという原則を守るため、元の文を無理やり「論理的な型に押し込め」ざるを得ないことが、述べられています。これがかなりの無理強いであることを、よりわかりやすく示した具体例がありますので、それを以下に引用してみます。引用先の文献名と引用箇所を記すと、次の通りです。

原注は省いて引いてみます。

 伝統的論理学における文の分析は、すべての文を単一の鋳型にはめこむ。それに従えば、すべての文は、「主語」と呼ばれる項 (term) と「述語」と呼ばれる項とを繋辞 (copula) で結合することで形成される。主語と述語とがともに「項」と呼ばれていることからも推察されるように、主語と述語との区別は、単に、それが繋辞の前に来るか、それとも後に来るかの違いでしかない。もちろん、ある文の主語と述語とを交換して得られる文は、一般にもとの文と意味を異にするが、文法的に適正な文であることには変わりない。すべての文は、時には「名前」とも呼ばれる二つの項を繋辞で結合することでできていると考えるのであるから、このような分析は「二項理論 two-term thoery」とも呼ばれる。どのような文をも、「主語 - 繋辞 - 述語」という鋳型に当てはまるようにパラフレーズするためには、多くのマヌーバーを必要とする。ルイス・キャロルの『記号論理学 Symbolic Logic』(一八九七) から例を借りれば、


   足の悪い小犬に縄跳びの紐を貸してあげると言っても「有難う」とは言わない。 A lame puppy would not say ''thank you'' if you offered to lend it a skipping-rope.


は、次のようにパラフレーズされる。


   すべての足の悪い小犬は、縄跳びの紐の貸与を感謝しない小犬である。 All lame puppies | are | puppies not grateful for the loan of a skipping-rope.


この例からもわかるように、パラフレーズの結果得られる文の「論理形式」は、もとの文が呈示する「文法的形式」から大きくかけ離れることになる。

以上の Geach 先生のお話と、飯田先生の具体例からわかるように、two-name theory はかなりの無理があり、名前ではないものを名前と見なして開き直るか、あるいは名前ではないものを無理やり名前に改作せねばならない理論であり、不自然かつひどく作為的な理論であるため、はっきり言って、あまり好ましい理論とは言えないように思われます。ところで Leśniewski の Ontology はまさに two-name theory の典型であると考えられます。そして two-name theory は、今述べたように不自然かつ作為的で好ましいものではありませんでした。よって、Leśniewski の Ontology も不自然かつ作為的で好ましいものではないと言えそうです。Leśniewski の Ontology がなぜ不評なのか、その理由の一端は、その論理学が上述のような two-name theory であることに由来しているのかもしれません。「Leśniewski の Ontology については若干知っているが、あんまり評価できない論理学だね」と述べる方のその不評の根拠は、それが two-name theory であることにあったのかもしれません。


さて、それはそれでよいとして、しかしです。Geach 先生のお考えでは、two-name theory が問題なのは、そこでは名前でないものを名前であると見なして開き直るか、あるいは名前でないものを無理やり名前に仕立て上げねばならないことにありましたが、Geach 先生にしては、この理由はあまり説得力がないように思われます。まったく説得力がない、とは言いませんが、はっきり言って、それほど説得力があるようには見えません。というのも、同じ理屈で Geach 先生にたやすく反論することが可能だからです。


例えば、


(1)   Plato runs.


という文の場合、'Plato' は名前であるとしても、'runs' はどうしてもそのままでは名前であるとは認めがたいので、two-namer は次のようにでもこの文を言い換えねばならないでしょう。


(2)   Plato is a runner.


すると、Geach 先生の理屈では、(1) に出ている動詞 'runs' を不自然かつ作為的に (2) における名詞 'a runner' に改変せねばならないので、このような分析は本質的に無理がある、今の (1) と (2) の例は簡単なものであるから、さして実害がないように見えるが、このような改変は本質的には無理があるのだ、ということになります。しかし、同じ理屈を Geach 先生に投げ返すならば、


(3)   Plato is a man.


という文があった場合、two-namer は何らの不自然さもなく、何らの作為もなく、この文を、'Plato' が名前、'is' が繋辞、'a man' が名前であると分析できますが、Geach 先生ならばどのようにこの (3) の文を分析するでしょうか。もしも Geach 先生が標準的な古典論理を支持しておられるのならば、(3) の文は、'Plato' が名詞で 'is a man' が動詞であるとせねばならないでしょう。文は一語文でない限り、名詞と動詞から成りますから、'Plato' が名詞なら、残りの 'is a man' は動詞であるとせねばならないはずです。それを端的に表せば、(3) の文は次のように言い換えねばならないでしょう。


(4)   Plato mans.


これを日本語で直訳すれば「Plato は人間する」となります。これほど grotesque な改変があるでしょうか。これほど不自然かつ作為的な改変があるでしょうか。どうして (1) から (2) への言い換えが駄目で、(3) から (4) への言い換えが許せると言えるのでしょうか。Geach 先生は「名詞でないものを無理やり名詞に改作している」と言って論難されていますが、先生も「動詞でないものを無理やり動詞に改作している」のではないでしょうか。


ここで思い出されるのは Quine の有名な dictum です。つまり、Quine にとっての Ontological Commitment の基準を表す 'To be is to be the value of a bound variable' です。Quine は自分の採用する Ontological Commitment の基準として、今上げた dictum を採用していますが、この基準を採用する根拠として、Quine はいかなる名前もすべて動詞に変換できることを、その理由としています。例えば、名前 'Pegasus' は、いつでも人工的に 'pegasize' というように動詞に仕立て上げることができるとして、どんな名詞も固有名もその語尾に動詞を表す接尾辞を接合すれば動詞化できてしまうのであり、「それで何が悪い?」と開き直りとも思える態度を取っていることは大変有名なことです。考えてみれば、これほど無茶で無理やりな改変はないと思われますが、Geach 先生の上記の理屈によると、Quine のこのような改変は、すべて却下されねばならず、まったく認めがたいものとなり、それゆえ、Ontological Commitment の基準として、Quine の例の dictum は採用できないということになるでしょう。それでもよろしいでしょうか、Geach 先生?*8

「構わない。Quine の dictum なんて、Ontological Commitment の基準として採用しない」と Geach 先生はおっしゃるかもしれません。実際、Quine の dictum を Ontological Commitment の基準としては採用なんかしない、と言い切る方もおられるでしょう。いわゆる the New Theory of Reference を支持する人々は、Ontological Commitment の基準として、Quine の dictum を採用することはできないはずです。というのも Quine が自身の dictum を採用するのは、先ほども少し述べた通り、どんな固有名も動詞に書き換えることができる、どんな固有名も動詞を含んだ記述句に書き換えることができる、と主張することがその根拠になっているからです*9。一方、the New Theory of Reference を支持する人々にとって、固有名は単なる tag であり、通常、記述句に書き換えることはできないとされています。あるいは本質的に記述とは無関係であるとされているでしょう。よって、「固有名はすべて記述句に書き換えることができるのだから」という Quine の主張は擁護できないので、Ontological Commitment の基準として Quine の dictum を採用することもできないということになります。しかも、Quine は Ontological Commitment の基準としては、自身の基準こそが唯一の (only) ものである、と断言しています*10。これではますます the New Theory of Reference を支持する人々は、Quine の dictum を Ontological Commitment の基準として採用することはできないでしょう。ですから、「Quine の dictum なんて Ontological Commitment の基準として採用しない」と言って、つっぱねてもよいのですが、いずれにせよ、Leśniewski の two-name theory に見られる品詞の改変は駄目で、Quine の Ontological Commitment の基準に見られる品詞の改変は了承されるなどという差別は、もしそのような差別が無意識になされているとするならば、それはとてもまずいことだと思われます。とにかく、単に、動詞を名詞に改変したり、名詞を動詞に改変することが、手間で不自然で作為的である、という理由では、two-name theory を拒否すべき決定的理由にはならないものと思われます。「別の品詞への改変に、手間がかかろうがかかるまいが、それは論理的には問題にならない」と言われれば、ちょっと困るのではないかと思います。


さて、なぜ Geach 先生が以上のような反論に気付くことができなかったのか、これほど簡単な反論があるのに、どうして Geach 先生は無防備にも「動詞を名詞に無理やり言い替えるのはおかしい」などと批判してすますことができたのか、私にはちょっと不思議に思われますが、それはさておき、では私は two-name theory を支持し、現在標準的な古典論理を拒否するのかというと、そうではございません。標準的な古典論理の柔軟さを認めるのにやぶさかではございません。別に私は Leśniewski ではないので、彼の Ontology が支持されようが支持されまいが、どちらでも構いません (Leśniewski 先生、すみません)。また、私は Frege ではないので、標準的古典論理の源流に位置する Frege 流の、文を argument と function に分ける論理学が支持されようが支持されまいが、これもどちらでも構いません (Frege 先生、すみません)。ただ少なくとも、動詞を名詞に、あるいは名詞を動詞に変換するのは不自然だとか手間だとかいう理由では、two-name theory なり、標準的な古典論理なりを拒否する決定的な理由とはならないと、私には感じられます。むしろ、時と場合により、ふさわしい logic を利用、採用すればよいように思われます。これは、Ontology か、または古典論理か、という二者択一の問題ではなく、その他の非古典論理なども選択肢に含め、時と場合によって一番適切なものを選び出し、使用すればよいように思われます。つまり pragmatic に使えばよいように思われるのです。もちろん、Leśniewski も Frege も、この私の意見には賛成できないでしょう。二人はともに、いわゆる logic as language という論理観の持ち主でしたから、「我こそは、世界のありさまを正しく写し取った唯一真なる論理学を手中にしているのだ」と言って譲らないものと考えられます。ここでは「そもそも論理とは一体何なのか? (What is Logic?)」という、誰をも納得させる答えの出しがたい問いに直面することになるので、やっかいなのですが*11、さしあたりは pragmatic に対応してゆけばよいだろうと、私などは楽観しています。そしてたぶんですが、この態度が、実質、大半の人々の現在取っている態度でもあるだろうと感じています。「そんなゆるいことを言っていてはいけない」という意見もあるかもしれませんが…。確かに、詰めて考えていくのが哲学でしょうから。


というわけで、Leśniewski の Ontology がなぜ評価されていないのか、その理由の一端を Geach 先生の文章に垣間見て、そのあと、先生のその文章に私なりの疑念を提示してみましたが、私の方で激しい誤解をしていたり、ひどい見落としをやらかしていたり、提示した疑念が的はずれだったり説得力不足だったりしているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。今のところ、その程度のことしかできませんので、今後、精進致します。どうかお許しください。

*1:Mereology については、Ontology よりも、まだ少しはましかもしれません。近年の analytic/analytical metaphysics の隆盛により、Leśniewski の Mereology は、現代的な Mereology に対する先駆的業績として、社交辞令的なところはあると感じられますが、一目置かれているように思われます。

*2:実は、私自身 Ontology を高く評価すべきか否か、よくわからないでいます。Ontology は優れた論理学なのかどうか、今の私には判断が付きません。興味深い知見が得られるかもしれず、正統的で標準的な論理学の観点からは手に入らないものの見方がもたらされるかもしれないと思い、現在、Leśniewski の systems について、ほそぼそと勉強しています。

*3:しばらく前の日記でも触れましたが、次の文献の該当箇所を見ると、現代の標準的な論理学に対する Ontology の特異性が複数上げられています。Peter Simons, ''On Understanding Lesniewski,'' in: History and Philosophy of Logic, vol. 3, no. 2, 1982, Section 1. Lesniewski's Ontology: Interpretative Difficulties, pp. 167-170. その特異な点を順次上げてみると次のようです。1. Ontology は並はずれて唯名論的な system となっている。2. Ontology の式には自由変項が現れず、変項はどれも束縛されている。3. 定義記号は metalinguistic なものではなく、object level の同値記号が定義記号となっており、しかもいわゆる創造的定義を容認している。4. 量化子が存在関与 (existential import, ontological commitment) から自由になっている。5. 変項へ不完全な表現、部分表現を代入することは許されていない。6. 一般名と空な名辞が認められている。7. Copula が syntactical な単位として認められている。以上のように、Ontology は非常に特異に感じられる論理学だと思われますが、このような見解に対し、counterbalance を取るために、次の論文も参照しておく方がよいかもしれません。Toshiharu Waragai, ''Ontology as a Natural Extension of Predicate Calculus with Identity Equipped with Description,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 7, no. 5, 1990. この論文では、いくつかの修正を施せば、Ontology と現在の通常の論理学とが連続的につながっていることを論証しているようです。ただし、この論文を私はまだよく読み解いていません。そのためこの論文の試みが成功しているかどうかは、今の私には判断できない状態でいることをここに明らかにしておきます。

*4:翻訳者註: この天文学が、Leśniewski の論理学である Ontology に相当します。

*5:翻訳者註: この Kepler の天文学が、現代の標準的な古典論理に相当します。

*6:翻訳者註: 「述語付けられるもの」とは、簡単に言えば述語のことです。ですから、「述語付けられるものが名前でなければならない」とは、簡単に言えば「述語が名前でなければならない」ということです。なぜ「述語付けられる」というような受け身的な言い方をしているのかというと、Aristotle は一般に、例えば「すべての人間は動物である」と言うところを「動物はすべての人間に述語付けられる」というような言い方をしているからです。このような言い方を踏襲してのことだからです。See Jan Łukasiewicz, Aristotle's Syllogistic: From the Standpoint of Modern Formal Logic, Second Edition Enlarged, Oxford University Press, 1951/1998, p. 3, 山下正男、『論理学史』、岩波全書 335, 岩波書店、1983年、19ページ。

*7:翻訳者註: 'stab' という語は、それだけでは「刺す」というだけで、「刺殺する」とはなりませんが、簡単のため、ここではその語を「刺殺する」と訳しておきます。

*8:この paragraph における Quine の話については、例えば see Willard Van Orman Quine, ''On What There Is,'' in his From a Logical Point of View: 9 Logico-Philosophical Essays, Second Edition Revised, Harvard University Press, 1953/1980, pp. 12-13, 邦訳、「なにがあるのかについて」、『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』、飯田隆訳、双書プロブレーマタ II-7, 勁草書房、1992年、18-19ページ、あるいは、「何が存在するかについて」、『論理学的観点から 9つの論理・哲学的小論』、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店、1972年、26-27ページ。

*9:Ibid.

*10:Ibid.

*11:答えを一つに絞らず、いくつ上げてもよいとするならば、かなりの数の人々を納得させることは可能かもしれません。ただ、その場合、それら複数の答え同士の整合性をどう付けるのか、それらの答えのうち、どれがより基本的でどれがより派生的なのかなどなどという新たな問題が生じてくるでしょうから、それはそれで幾分厄介になって来そうな気はするのですが…。