On an Example Which Shows the Crucial Difference Between ∀-∃ Formula and ∃-∀ Formula

(本日の日記の文章は、ちょっと長いです。時間のない方は、読まないほうがよいかもしれません。)


かつての伝統的論理学と現代の論理学を分かつのは、前者では多重量化文、とりわけ all と some という異なる量化子を複数含んだ異種混合多重量化文 (mixed multiple quantificational sentences) をうまく扱えなかったのに対し、後者ではそれを正確に扱えるようになったことが一般に上げられます*1。異種混合多重量化文を正しく扱えるようになったことは、歴史上、極めて重要なことと見なされており、また、そのような量化文を体系的に取り扱う述語論理を理解できたと言えるためには、この異種混合多重量化文が理解できていることが必須であると思われます。

このように、異種混合多重量化文を理解できることは、論理学の歴史上と述語論理の学習上、決定的に重要なことと思われるのですが、ここでは述語論理の学習上において、異種混合多重量化文の理解を与えるため、いくつかの論理学の教科書が実際に示している多重量化文の具体例について、ごく個人的に思うところを記してみたいと思います。

以下の話は、私の極めて個人的な印象を記すものです。私個人が抱いている感じを記しますので、他の方々が同じような感じを抱いているかどうかはわかりません。私と同じような感じを抱いている方は、ほとんどおられないかもしれません。ですので下記の話は、誰に対しても当てはまるということではございません。「そのようには感じない」という見解をお持ちの方も多数いらっしゃるかと思います。とはいえ、私が強く感じてきた印象を取りあえず記してみます。

また、以下の話は論理学の初歩に関する話なのですが、私は論理学を専門に勉強している者ではございません。まったく得意ではありません。その詳細を知りません。このことをここで明らかにしておきます。論理学の専門家でもない者が、および論理学を不得意とする者が、さらに論理学についてほとんどのことを知らない者が、初歩的なこととはいえ、その論理学の話をするのですから、以下を読まれる方は絶対に真に受けないようにしてください。鵜呑みにすることは非常に危険です。個人的印象を語るだけなのですから、そのまま信用してしまうことのないようにお願い致します。必ずご自分でお考えになり、正しいかどうかご判断ください。あらかじめ、含まれているであろう間違いに対し、ここでお詫び申し上げます。


さて、次の入門書の該当箇所にある異種混合多重量化文の説明を見てみます。そして私が個人的に思うことを記してみます。二つ目の本は先日購入させていただいたばかりです。

  • 丹治信春  『タブローの方法による論理学入門』、朝倉書店、1999年、52-54ページ、
  • 丹治信春  『論理学入門』、ちくま学芸文庫筑摩書房、2014年、92-95ページ。

後者の本は、前者の本の文庫版です。両者の該当箇所に異同はございません。次の引用において '〚…〛' は引用者によるもの、'[…]' は原文にあるものです。原文にある註は省きます。

例えば、次の二つの命題を考えてみよう。


   誰もが誰かを愛している。          ・・・ (1)

   誰かを誰もが愛している。          ・・・ (2)


これらの命題は、一見したところ非常によく似ている。ただ、「誰もが」と「誰かを」の順序を入れ換えただけである。では、この二つの命題は、同じことを言っているのだろうか? しかし、少し考えてみると、これらの命題は何か少し違うことを言っているように思われてくる。もう少し「くどく」言い直せば、(1) は「すべての人にとって、その人が愛している人が存在する」ということであり、(2) は「すべての人が愛しているような、そういう人が存在する」ということであろう。(1) は、それぞれの人にとって、それぞれに「愛する人がいる」ということを言っており、それに対して (2) は、皆に愛されるような、いわばアイドル的な人がいる、ということを述べているのである。〚…〛
 述語論理では、命題 (1) と (2) の「形式」を、それぞれ次の (1') と (2') という論理式で表現する。


   (∀x)(∃y) Fxy               ・・・ (1')

   (∃y)(∀x) Fxy               ・・・ (2')


〚…〛ここで '(∀x) − x −' という表現は、「すべての x が、− x − という条件を満たす」ということを表わし、'(∃y) − y −' という表現は、「− y − という条件を満たす y が存在する」ということを表わす。そして、ここでは 'F' という文字は「2項述語記号」として、つまり二つの個体の間の関係を表わす記号として使われており、'Fxy' という形で、「x は y を愛している」という「具体的解釈」を与えられることになる。すると (1') は、「すべての x は、(∃y) Fxy という条件を満たす」ということ、すなわち、「すべての x は、[Fxy という条件を満たす y が存在する] という条件を満たす」ということ、もう一度書き直せば、「すべての x は、[ という条件を満たす y が存在する] という条件を満たす」ということを表わしている。だいぶ複雑な話になってしまったが、ここで、x や y の及ぶ範囲〚…〛を人間だけに限れば、− そして、よく考えてみれば − これは「誰もが誰かを愛している」ということになるのがわかるであろう。

〚…〛

さて話を戻して、先の (2') は、(1') の '(∀x)' と '(∃y)' の順序を入れ換えたものである。するとどうなるであろうか? 先ほどと同じように考えてみると、(2') は、「(∀x) Fxy という条件を満たす y が存在する」ということ、すなわち、「[すべての x が Fxy という条件を満たす] という条件を満たす y が存在する」ということ、もう一度書き直せば、「[すべての x が という条件を満たす] という条件を満たすような y が存在する」ということを表わしている。そしてやはり〚話〛を人間だけに限るとして − よく考えてみれば − これが「誰かを誰もが愛している」ということになるのがわかると思う。

以上の丹治先生の説明に基づけば、私たちは実地に多重量化式に出会った場合、先生の説明を思い出しながら、その式をどのように理解すればよいでしょうか。私の場合ならば、以下のようになるのではないかと思います。例えば、実際に


   (∀x)(∃y) Fxy               ・・・ (1')


という順序で量化子が並ぶ多重量化文に出会ったら、この式のことを、「「すべての x は、[ という条件を満たす y が存在する] という条件を満たす」というような類いの内容のことを表わしているのだ」とは、長すぎて覚えているわけにもいかないし、そのような感じの内容を表わしていたと思い出すのも困難なので、このような式については簡潔に「「すべての人にとって、その人が愛している人が存在する」というような類いの内容を表わしているんだな」と思い出して、その場における記号 F の解釈を考慮しつつ、この式のいみしていることを把握しようと努めるでしょう。他方、


   (∃y)(∀x) Fxy               ・・・ (2')


という順序で量化子が並ぶ多重量化文が出てきたら、この式のことを、「「[すべての x が という条件を満たす] という条件を満たすような y が存在する」という、そのような感じの内容を表わしている」とは、これも長すぎて覚えているわけにもいかないし、そのような類いの内容を表わしていたと思い出すのも困難なので、簡潔に「「すべての人が愛しているような、そういう人が存在する」という感じの内容が述べられているんだな」と思い出して、その場における記号 F の解釈を考慮しつつ、この式のいみしていることを把握しようと努めるでしょう。


しかし、正直に述べますと、これはまったく役に立たないと感じます。事実、私にはまったく役に立ちませんでした。ただし、上記の丹治先生の説明で十分よくわかり、実際にも大いに役立った、とおっしゃる方も大勢おられるかもしれません。私に先生の説明を理解できる力が欠けていて、先生の説明内容が体得できておらず、うまくやれば実地にもその説明を大いに役立てることができるのに、知力や感性がひどく不足していて、先生の説明を上手に活用できていないだけなのかもしれません。正直に言って、その可能性は高いとも思えます。ただ、事実を述べますと、上記のような説明は、私にはとてもわかりにくく、実際に全然役に立たなかったのです。


現在、式 (∀x)(∃y) Fxy と (∃y)(∀x) Fxy の違いを説明している日本語で書かれた文系向けの論理学の入門書では、「誰もが誰かを愛している」というような例文を基にして説明する本が時々見られます。

ちなみに例えば、

がそうです。野矢先生と戸田山先生は「誰もが誰かを愛している」という例文を使って説明されておられ、金子先生は「誰もが誰かを尊敬している」という文を使って説明されておられます。

そこでは丹治先生がされているように、(∀x)(∃y) Fxy を、例えば「誰もが誰かを愛している」とでも読むことができ、「誰もが誰かを愛している」とは、すなわち「すべての人にとって、その人が愛している人が存在する」というようなことを表わしていると、おおよそ説明され、他方、(∃y)(∀x) Fxy を「誰かを誰もが愛している」とでも読むことができて、「誰かを誰もが愛している」とは、すなわち「すべての人が愛しているような、そういう人が存在する」というようなことを表わしていると、おおよそそのように説明されるているものと思います。しかし、私にはこのような説明には、とても心理的な抵抗を感じます。上記の丹治先生のご説明では、「誰もが誰かを愛している」とは、すなわち「すべての人にとって、その人が愛している人が存在する」のことだろうと述べておられますが、「本当にそうでしょうか、そのような読みはあり得るでしょうし、多くの場合、そのような読みを採用するでしょうが、それ以外の読みは論理的にも実際にもあり得ないというのでしょうか。そもそも「誰もが誰かを愛している」という文で本当のところ何が述べられているかは、この文が使われる実際の文脈に照らし合わさなければ何とも言えないのではないでしょうか」と、そのように私などは強く感じてしまうのです。(もちろん「それ以外の読みはあり得えない」と先生がおっしゃりたいわけではないことは、わかります。) 同様に、「「誰かを誰もが愛している」とは、すなわち「すべての人が愛しているような、そういう人が存在する」というようなことを表わしているのです」という説明を受けても、これも同じような理由から、私は強い抵抗を感じてしまいます。

思うに、私にはこれらの「誰もが誰かを~」とか「誰かを誰もが~」という例文は、多義的な文と感じられます。丹治先生も上記の引用文中で、「少し考えてみると、これらの命題は何か少し違うことを言っているように思われてくる」と述べておられます。これはつまり、それらの例文がどの人にとっても明瞭に一義的な文であるとは言えないことを表わしているのだと思います。私はこのような多義的な文を通じて (∀x)(∃y) Fxy と (∃y)(∀x) Fxy の違いを説明することに疑問を感じます。文系向けの入門書においては、できる限り身近な例で、イメージのしやすい具体例を用いて説明しなければ、多くの読者の理解を困難にしてしまうと想像されますので、教育的配慮から「誰もが誰かを~」とか「誰かを誰もが~」という例文を持ち出しておられるのだろうと思います。しかし、私にはこれらの例は一見わかりやすそうに見えて、とてもわかりにくいです。異なった量化子が、もうちょっとでも多く入れ子状に並んでいる多重量化文に出会ったら、たちまち理解に支障をきたします。少なくとも私はそうでした。もしかすると私の能力不足を先生のせいにしているのかもしれません。そのようでしたら本当に申し訳ございません。謝ります。大変すみません。ただ、何度も申しますが、上記のような量化文の説明は、私には現実に役に立たなかったのです。


ちなみに、私とは少し力点が異なりますが、似たような観点から「誰もが誰かを~」とか「誰かを誰もが~」という類いの例文でもって、多重量化文を理解させることに、疑問を呈しておられる先生もいらっしゃいます。次がそうです。

念のため、該当箇所を引用してみましょう。140-141ページから引きます。引用文中の註は、引用者によるものです。

数学の言葉−13

(1) 誰もが好きな子がいる

 数学の講義の中で ∀x や ∃x を具体的に教えるのによく使われる例文があります。その例を紹介しておきましょう。


     誰もが好きな子がいる


という文です。これは状況が想像できて、うまい例文のように思えるのですが、じつは、曖昧文なのです。

 A, B, C という3人の子がいる状況を想定してみましょう。


 (i) まず次の状況が述べられていると考えられます。


     A には好きな子がいる
かつ
     B には好きな子がいる
かつ
     C には好きな子がいる*2


「誰にも誰か好きな子がいる」ということです。


 (ii) D さんという子、それは A, B, C の中の1人ですが、D さんは A, B, C の3人全部を好ましく思っているという状況かもしれません。「全員を好いている子がいる」という状況です。


 (iii) 最後に、「全員が特定の子を好いている」という状況かもしれません。


 ということで、この例文は曖昧文としてはよい例文なのですが、∀x∃y や ∃y∀x を教えるのには*3、不適切であるようです。
 これら3つの状況を記号で表すと


     (i) ∀x∃y,   (ii) ∃1x∀y,   (iii) ∀y∃1x


となります。ここで、「∃1x」は「1つの x が存在する」という意味です。

閑話休題。それでは、(∀x)(∃y) Fxy と (∃y)(∀x) Fxy の違いについて、私がとてもわかりやすいと思った例はないのでしょうか。私がとてもわかりやすいと思った説明はないのでしょうか。私にとって、実地にも役に立った例はないのでしょうか。あります。以下にそれらをいくつか順番に上げてみます。まず一番簡単でわかりやすいと思った例から。

  • 前原昭二  『記号論理入門』、日評数学選書、日本評論社、1967年、21-22ページ、新装版、2005年、同ページ。該当ページの文章に関し、両版に異同はございません。

該当箇所から引用してみます。

5.     ∀x∃yF( x, y )   および   ∃y∀xF( x, y )


という2つの命題は、外見上やや似ていますが、内容の違う命題です。たとえば、x や y を自然数を表わす変数と考えた場合、


               ∀x∃y( x < y )


は正しい命題を表わしますが、


               ∃y∀x( x < y )


によって表わされる命題は間違っています。



∀x∃y( x < y ) というのは、どんな自然数 n に対しても


                ∃y( n < y )


が正しいということです。もし y = n + 1 とおけば、もちろん n < y となりますから、n < y となる自然数 y は存在します。すなわち : ∃y( n < y ).
∃y∀x( x < y ) というのは、


                ∀x( x < n )


という命題を正しくするような n が存在するということです。しかし、すべての自然数より大きい自然数 n などというものは存在しません。

私にはこの不等式を使った例は、とてもわかりやすく覚えやすいと思った記憶があります。次も簡単でわかりやすいです。

Quine の言葉をそのまま引用せず、私の方で大幅に言い直した文を掲げてみます。

次の二つの式を比べてみましょう。


   (x)(∃y) (x = y)

   (∃y)(x) (x = y)


前者は真です。x としてどんなもの a, b, c, ... をそれぞれ取ってきても、それに等しいもの y があるということは正しいです。例えば、x として a を取ってくれば、a に等しいものを一つ y として返せばよく、それは a 自身で構いません。x として b を取ってくれば、b に等しいものとして一つ b 自身を y として返すことができます。c 以降も同様です。したがって、どんなものを取ってきても、それに等しいものがあると言っている前者の式は正しいと言えます。

他方、後者の式は、一般に偽です。後者の式では、何か一つ、存在しているものを y として定めれば、それとすべてのもの x が等しいことを言っています。世界にあるものがたった一つではなく、複数のもの a, b, c, ... があるとするならば、どれを一つ y として定めても、それとすべてのもの x が等しくなるということはあり得ません。例えば、y として a を一つ定めましょう。これとすべての複数のもの x が等しいでしょうか。等しくはありません。では y として今度は b を一つ定めてみましょう。これとすべてのもの x が等しいでしょうか。これも等しくはありません。以下同様です。よって、世界が一つのものから成るとしない限り、後者の式は偽です。(世界が一つのものだけからなるとするならば、そしてその一つのものを a とするならば、y としてのこの a に対し、すべてのもの x は等しくなります。というのも、そのすべてのもの x とは a に他ならず、a しかないからです。この時、後者の式は真となります。)

この等号を使った例も、短く覚えやすくわかりやすいです。次も「なるほど」と思わせて、わかりやすいです。

原文にある註は省いて引用します。

 例13.5 次の条件を満たすような関数 f と g を見つけてみましょう。


  (1)  ∀x∃y ( f(x, y) = 0 )

  (2)  ∃y∀x ( g(x, y) = 0 )


 条件 (1) の意味は、それぞれの x に対して y が選べるということです。そこで、


       f(x, y) = x - y + 1


と定義してみましょう。それぞれの x の値に対して、y として x + 1 を選んでやると、f(x, y) = x - (x + 1) + 1 = 0 となります。

 条件 (2) の意味は、y を1つ (うまく) 選ぶとそれに対して


       ∀x ( g(x, y) = 0 )


が成り立つということです。そこで、


       g(x, y) = xy - x


と定義してみると、y = 1 が選べることが分かります。実際、y = 1 とすると、どんな x に対しても


       g(x, y) = xy - x = x - x = 0


となります。


最後に、上記の前原先生と同じ不等式の例で説明しているものを上げます。

  • 田島一郎  『解析入門』、岩波全書 325, 岩波書店、1981年、31ページ。

 (4) どんな自然数 n に対しても、ある自然数 k をとれば、k > n である。

 (5) ある自然数 k に対しては、どんな自然数 n をとっても、k > n である。


注意 上の […] (4), (5) を ∀, ∃ の記号を用いて書くと、

 (4) ∀n∈N, ∃k∈N : k > n

 (5) ∃k∈N, ∀n∈N : k > n

          (N は自然数全体の集合)

となり、∀n∈N と ∃k∈N との位置が入れかわっている。(4) では、最初に任意の n が与えられ、それに対してある k を決めるのであるが、(5) ではいきなり1つの k が与えられるのである。このように、∀ と ∃ の位置を入れかえると、一方が真の命題でも他方が偽の命題となることがあるから、∀ と ∃ との入れかえには注意を要する。

田島先生の例について、若干、補足します。引用文中の (4) と (5) の式を簡略化すれば、次のように書けるでしょう。


 (4) ∀n∃k ( k > n )

 (5) ∃k∀n ( k > n )


さて、この (4) では、最初に任意の n が与えられます。例えば、2 であったり、87 であったり、1561 であったり、いずれにせよ、好きなものがその都度ひとつ与えられます。これに対してある k を決めるのですが、例えば k のその決め方として、上記の前原先生と同様に n + 1 = k と決めれば、 n = 2 の時は、k = 3, n = 87 の時は、k = 88, n = 1561 の時は、k = 1562 と決められます。k の決め方を、別のものに代えても構いません。n + 2 = k でも構いません。何にせよ、k を n よりも大きくなるように決めることはたやすいことです。どんな n が来ても、必ず k の方を大きくできます。このため、(4) は真であるとわかります。

一方、(5) ではいきなり1つの k が与えられます。しかも、(5) を真とできるよう適切な k を少なくとも一つ、与えなければいけません。何でもよいというわけではなく、うまい具合に適切なものを選んできて k として与えなければならないのです。そこでうんと大きい自然数をひとつ、見当をつけながら k として与えてみましょう。この時、どんな自然数もその k より小さくなることが (5) では言われていることになります。しかしそれは間違っているでしょうから、この (5) の内容を反駁するには、そのうんと大きい k よりも、さらに大きい自然数を一つだけでもよいから見つけてやればよいとわかります。例えば見当をつけて、k を 9979845 として与えた場合、これよりも大きい自然数を一つでも指摘できれば、(5) は反駁されます。そのような自然数を指摘するのは容易です。k としてもっともっと大きい自然数を与えても、必ずそれよりも大きい自然数を指摘してやるのは苦もなくできます。そうすると k はどのような自然数よりも大きいとしなければ、その k よりもさらに大きいという自然数を指摘されてしまうので、k は自然数の中で最も大きい自然数、それより大きい自然数のない、唯一最大の自然数でなければなりませんが、そのような自然数は存在しません。したがって、(5) は偽であるとわかります。


こうして (∀x)(∃y) Fxy と (∃y)(∀x) Fxy の違いについて、私がわかりやすいと思った以上の例は、「誰もが誰かを愛している」のような文によるものではなく、いずれも数式が出てくるような説明です。私もいわゆる文系の人間であり、文系の人間には数式の類いは拒否反応を起こしやすいので、どうしても「誰もが誰かを愛している」というような卑近な例を使って説明したいところですが、私のわかりやすいと思った数式による例も、数式を使っているとはいえ、ものすごく初歩的、初等的な数式なので、これらの例に拒否反応を起こす文系の方の数も、かなり少ないのではないでしょうか。特に Quine の例に見られる等号、同一性にまで拒否反応を起こす方は、ほとんどおられないと思います。(いらしたらすみません。) ですから文系の方に向けても、異種混合多重量化文の説明において、「誰もが誰かを愛している」のような例を使うよりも、簡単な不等式や等号を使ったほうが、はるかにわかりやすく、はるかに手短で、はるかに覚えやすいと私には思われます。(「どんなに簡単でも、数式が出てくるような説明は絶対にこわい」とおっしゃる方がおられましたら、すみません。)

そして、さらに重要なこととして、丹治先生方々がされているような「誰もが誰かを愛している」による説明で異種混合多重量化文を理解しているようでは、ε-δ 論法に見られるような、いくつもの異なる量化子が入れ子状に現れる多重量化式を理解できないということが上げられると思います*4。少なくとも私には、「誰もが誰かを愛している」による説明に基づいて、ε-δ 論法における多重量化式を理解することは、まったくできませんでした。そのような説明は、完全に役に立ちませんでした。ただただ困惑し、途方に暮れるばかりでした。私の脳味噌が足りないせいだったのかもしれませんが、少なくとも、私にはそうだったのです。もちろん文系向けの入門書で、いきなり ε-δ 論法を見据えた異種混合多重量化式の説明を行わねばならないとは言いません。いきなり、それは無理だと私も思います。でも、少しでも複雑な多重量化式になると、「誰もが誰かを愛している」による説明では、私にはまったく理解できなかったのに対し、数式を使った例では、理解できたのです。ε-δ 論法に見られる複雑な多重量化式でも今後理解できるよう、たとえ文系向けの入門書でも、数式による説明をメインに据えた解説をしていただければ、読者としてはとても助かります。というか、それがなければ助けにならないと、私などは強く感じるのです*5。そして、数式に見られるような説明こそが、入れ子状の量化子を理解する鍵であり、そのような説明こそが、多重量化現象の核心をついているのだ、という意見もございます。


上記の数式による説明に共通してみられる事柄は何でしょうか。それが示唆されている英語の文章を引いてみます。そして試訳/私訳を付けてみます。十分推敲した訳文ではないので、参考程度にしてください。誤訳しておりましたら誠にすみません。

  • Allen L. Mann, Gabriel Sandu, Merlijn Sevenster  Independence-Friendly Logic: A Game-Theoretic Approach, Cambridge University Press, London Mathematical Society Lecture Note Series, 386, 2011, pp. 32-33.

原文にある註は省きます。

 Consider the following dialogue:


ABELARD  Eloise, tell me, is there a smallest natural number?

ELOISE    Yes.

ABELARD  Which is it?

ELOISE    Zero.

ABELARD  Correct. Any other number I might choose would be greater. Is there a greatest natural number?

ELOISE    No.

ABELARD  Why not?

ELOISE    Because no matter which number I pick, you can always find a greater one.


In the first part of the dialogue, Eloise asserts the truth of the sentence


         ∃x∀y ( x ≤ y )


when the quantifiers range over the natural numbers and the symbol ≤ is interpreted by the normal ordering. When asked to justify her claim, she responds by picking a natural number. Eloise must choose carefully, of course. If she had picked any number besides zero, Abelard could have found a smaller one. In the second part of the dialogue, Eloise denies the sentence


         ∃x∀y ( y ≤ x ).


When asked to give her reason for denying it, she explains that her teacher could always win a game in which they each pick a natural number, with Eloise choosing first, and the player who chooses the greater number wins.
 As early as 1898, Peirce noticed that quantifiers can be interpreted as moves in a game. […]

Calculus instructors continually rediscover the connection between quantifiers and games. One professor of our acquaintance challenges his students by saying: ''The Devil chooses an ε > 0! Find a δ > 0 such that ... ''


 次のような対話を考えてみよう。


アベラール  「エロイーズ、教えておくれ、最小の自然数はあるかい?」

エロイーズ  「ええ」

アベラール  「どれだろう?」

エロイーズ  「ゼロよ」

アベラール  「そうだね。私が選ぶであろうその他の数は、どれもそれより大きくなるだろうね。じゃあ、最大の自然数はあるかい?」

エロイーズ  「ないわ」

アベラール  「なぜないのだろう?」

エロイーズ  「私がどんな数を取っても、あなたはいつも、それより大きい数を見つけることができるからよ。」


対話の前半で、エロイーズは次の文の真理を主張しており、


         ∃x∀y ( x ≤ y )


この時、量化子は自然数をその範囲とし、記号 ≤ は通常の順序によって解釈されている。上記の式が真理であるという彼女の主張を正当化するよう求められるなら、彼女はある自然数を取り上げることによって応えることになる。エロイーズはもちろんよく考えてその数を選び出す必要がある。もしも彼女がゼロ以外のなんらかの数を取り上げていたならば、アベラールはそれよりも小さい数を見つけ出すことができたであろう。対話の後半で、エロイーズは以下の文を否定している。


         ∃x∀y ( y ≤ x ).


これを否定する根拠を上げるよう求められた時、彼女は次のように説明することになる。つまり、それぞれ自然数を取るようなゲームで、エロイーズが先に選択し、それよりも大きい数を選べる差し手が勝つようなゲームでは、常にアベラールが勝てるだろうからだ、と。
 早くも1898年には、量化子がゲームにおける手番と解釈できることに、パースは気が付いていた。[…]

微積分の教師は、量化子とゲームとの間に関係があることを、いつも再発見している。私たちの知っているある教授が自分の学生たちに、次のように言って問題を仕掛けることがあるのを思い出すがよい。「悪魔が、ある正の数 ε を選び出してきたとせよ! ならば、諸君はしかじかという条件を満たす正の数 δ を見つけてみせよ。」

この引用文について二つだけ、付言しておきます。


1.
対話の後半に出てくる式 ∃x∀y ( y ≤ x ) について、Eloise は、この式の場合、必ず Abelard が勝つから、この式を否定すると述べています。それは次のような理由からです。つまり、まずこの式 ∃x∀y ( y ≤ x ) を Eloise が肯定するならば、その時、彼女は先に何か自然数を一つ選ばなければなりません。そして Eloise が何か一つ数を選んで、もしもそれよりも大きい数を Abelard が選び出せないならば、Eloise の勝ちです。あるいは Eloise の選んだ数よりも Abelard が選んだ数がどれも大きくならないような、そのような数があるのなら Eloise の勝ちです。しかし、実際にはどんな数を Eloise が選んでも、Abelard はたやすくそれよりも大きい数を選び出すことができます。こうして式 ∃x∀y ( y ≤ x ) を肯定しようとしても、Eloise に勝目はなく、いつも Aberald が勝つことになります。だから、Eloise は今の式を肯定するのではなく、否定するのです。そして否定するならば、Eloise が勝つことができ、Abelard が負けます。それは次のようなことです。

式 ∃x∀y ( y ≤ x ) の否定とは、¬∃x∀y ( y ≤ x ) であって、ここからは次のように式が導き出されることは、周知の通りです。


 ¬∃x∀y ( y ≤ x )

 ↓

 ∀x ¬∀y ( y ≤ x )

 ↓

 ∀x∃y ¬( y ≤ x )

 ↓

 ∀x∃y ( x < y )


つまり、∃x∀y ( y ≤ x ) を否定している Eloise は、今導き出された最後の式 ∀x∃y ( x < y ) を肯定しているということになります。そしてこの肯定されている式は確かに真です。この式 ∀x∃y ( x < y ) に関するゲームでは、この場合、先手が Abelard に変わり、後手が Eloise になりますが、最初に Abelard が ∀x∃y ( x < y ) を反駁すべく様々な自然数 x を繰り出すものの、彼がどんな数 x を選んできても、後手の Eloise が必ず、かつ容易に、Abelard が選んだその数 x よりも大きい数 y を少なくとも一つは選び出してみせることができ、いつでも ∀x∃y ( x < y ) が正しいことを立証できます。ですからこのようなゲームでは、どうしても Abelard が負けて、Eloise が勝つのです。


2.
引用文最後の教授の発言は、そこで ε-δ 論法の話がなされていることがわかります。


さて、先ほど来の数式による説明に見られる多重量化文の解説で共通しているのは、上に引用した英文で示唆されているように、大まかに言えば、量化子が出てくる順番ごとに、最初の量化子がある値を取れば、この値を見ながら、次の量化子がまたある値を取り、そしてその次の量化子についても、以前に出てきた値を見ながら、またある値を取る ... というパターンが現れているということです。順番に、それがある場合には以前の値を参照しながら、量化子が出てくるたびに次々と値を取り出して行く、という感じのイメージが共通しているということです。

これに対し、丹治先生方々の説明、「すべての x は、[ という条件を満たす y が存在する] という条件を満たす」という表現を使った量化子の説明は、「すべての x は、( ) という条件を満たす」という述語と、「[( ) という条件を満たす y が存在する] 」という述語と、「<( ) は ( ) を愛している>」という述語が入れ子状になっているさまを示すことによって理解を促す説明です。つまり、量化子を述語の述語だとか、述語の述語の述語として説明しており、量化子をいわゆる高階の述語として理解する立場を表わしています。


ところで量化子をどのように理解すべきかについては、いくつかの立場があるようで、次の文献では、

  • Jaakko Hintikka and Gabriel Sandu  ''What Is a Quantifier?,'' in: Synthese, vol. 98, no. 1, 1994

三つの見解があることが述べられています。それらは以下の通りです*6


   (A) Quantifiers as higher-order predicates. (高階述語としての量化子)
   (B) Substitutional interpretations of quantifiers. (量化子の代入解釈)
   (C) Quantifiers as embodying choice functions. (選択関数を含むものとしての量化子)


私は、これらそれぞれの立場がいかなるものであるかをここで詳細かつ正確に説明できる力はありませんので、詳しい話は控えます。結論だけ申しますと、丹治先生方々の理解は (A) の立場を表わしており、もともと Frege が言い出した立場であることは有名です。そして先ほど引用した英文に見られる量化子理解は (C) の立場を表わしています。この (C) の立場は 'Game-Theoretical Semantics' による立場であるとも言われており、Hintikka and Sandu 先生たちが支持する立場です。そして両先生によると、(A) の立場ではなく、この (C) の立場こそが、入れ子状の量化子を理解する鍵であり、(C) の立場こそが、多重量化文理解の核心をついているのだ、ということなのです。特に Hintikka 先生は、あちこちの論文でこのことを声高に主張されておられます。一々どの文献とは申しません。それらしき文献をお調べいただくとすぐ出てきます。さらに Hintikka 先生によると、満足のいく量化理論を史上初めて開発したという Frege は、実のところ、量化の本質をわかってはいないのだ、とさえおっしゃいます*7。その当否は慎重な検討が必要ですし、私の能力不足により、ここでは何も申せません。*8
もとい、仮に量化子の理解に上記の三つの立場があるとして、またこれらの立場だけがあるとして、いったいどれを採用すべきなのか、現在の私はやはり能力の不足により判断できません。ただ私が感じていることを述べさせていただきますと、確かに量化子一つが現れるだけの式では、(A) の高階述語としての理解がわかりやすくかつ自然と思われます。しかし、多重量化式になってくると、(C) の、前の値を参照しながら次々と値を選択して行く立場が理解しやすくふさわしいように感じられます。 一体これら二つの立場を調停できるのか、今の私にはやはりわかりません。私自身の経験を語るならば、ここまでの話からおわかりの通り、異種混合多重量化式を学習者に理解してもらおうと思ったならば、(A) の立場では難しい、あるいは (A) の立場だけでは難しいと思います。ごく単純な多重量化文なら (A) だけで何とか間に合うかもしれませんが、量化子が三つ四つと重複し、それらの量化子の後に続いている式の内容が少しでも複雑になってくると、正直に言って、(A) ではもうお手上げです。少なくとも私にはお手上げでした。ですから、たとえ初心者向け、文系向けの論理学の入門書でも、中級へと昇段して行こうと望んでいる読者のことも考慮して、(C) の立場を表わす量化子理解も、(A) の量化子理解と合わせて、そしてできれば (C) をメインとし、(A) をサブとするようにしながら、簡単な数式でもって説明していただければ幸いです*9。まぁ、できるだけページの薄い論理学の入門書を書くためには、そんな紙数の余裕はないのかもしれませんが…。それに「じゃあ、あなたが書いてみなさいよ」と言われれば、まるで書けないんですけれど…。


以上です。ここでの話は、わたくし一個人の極私的な感じを述べているだけですので、ほとんどの方々と意識の上で、ずれがあるかもしれません。丹治先生方々の説明文を読んでわからず困惑しているのが私一人であれば、それはそれでよいと思います。ほとんどの人は困っていないのかもしれません。ただ「私は経験的に、このように感じたのです」という個人的回想を述べてみました。実際に理解できずに困ったことがあったので、記してみたのです。よく知られた先生方のよく知られた論理学の入門書でありながら、しかも学習上、核心をなすと思われる事柄ながら、意外にもわかりにくく、困ったことがあったのです。わかりにくいかどうかは個人差が大きいので、他の方々がわかっていながら私だけがわからず、単に私の能力不足を告白しているだけだったなら、すみません。他意はございません。どうかお許しください。いずれにせよ、丹治先生をはじめ、先生方の文献にはいつもお世話になっております。これからも色々と勉強させていただければと存じます。何卒よろしくお願い致します。

ここまで長い話をお付き合いくださいまして誠にありがとうございました。誤解や無理解や勘違い、誤字、脱字等がありましたら、深くお詫び申し上げます。

*1:このことを述べている日本で書かれた著名な本に、飯田隆、『言語哲学大全 I 言語と論理』、勁草書房、1987年、「第1章 フレーゲと量化理論」があります。ただし、このような主張には反論もあるようです。See Terence Parsons, Articulating Medieval Logic, Oxford University Press, 2014. ただ、私は後者の本をまだよく読んでいません。そのため、この反論がどの程度、的を射ているのかは、未確認です。この後者の本については先日少しこの日記でも触れました。2014年4月13日の日記、項目 'Professor Terence Parsons Argues That 'Every Head of a Man is a Head of an Animal' CAN be Proved from 'Every Man is an Animal' in Traditional Syllogism.' をご覧ください。

*2:ここでは原文では、「かつ」という言葉を用いずに、ここの三つの文を大きな結び括弧で括っていますが、便宜上、「かつ」という言葉で代用します。

*3:ここでの「∀x∃y や ∃y∀x」は、原文では「∀x∃x や ∃x∀x」と、変項に 'x' だけが使われていますが、'x' と 'y' を使ったものに変えておきます。

*4:ε-δ 論法と多重量化式、およびその論法の論理学史上の意義について、この日記で触れたことがございます。次を参照ください。2013年10月6日、項目 'Who Was the First to Define the Continuity of a Function by the Epsilon-Delta Method Represented in Terms of Mathematical Logic?'

*5:なお、丹治先生は、今私たちが取り上げている本の、朝倉版54ページで、文庫版では95ページで、前原先生、田村先生の説明に見られる不等号による量化式の説明を軽くなされています。「誰もが誰かを愛している」による説明ではなく、この不等号による説明をメインに据えていただければよかったのに、と思います。少し残念に感じます。

*6:Hintikka and Sandu, pp. 114-115.

*7:Jaakko Hintikka, ''On the Development of the Model-Theoretic Viewpoint in Logical Theory,'' in: Synthese, vol. 77, no. 1, 1988, p. 14.

*8:ちなみに、前原先生は、上記の引用文をよく読むと、実は厳密には (A) の立場であることがわかります。Quine も、上記の私の説明からはわかりませんが、私が言及した Quine の本で、その該当箇所の前後をよく見ると、(C) の立場よりむしろ (A) の立場寄りであることがわかります。

*9:先述の註における通り、丹治先生もご高著で不等号でもって軽くご説明はされているのですが…。