Spinoza Would Have Felt a Longing for Something Lost.

前回の日記は話が長かったので、今回は短くしめます。いつものように些細なことを一つ。


先日、本屋さんで次の新刊を手に取ってみました。

このうちの後者の「訳者あとがき」を拝見していましたら、私には意外に思えることが書いてありました。それは、あの Spinoza さんの母語ポルトガル語だったということです(403ページ)。これは個人的にはちょっと意外な感じがしました。でもすぐに、「そういえば Spinoza さんは元々 marrano だったろうから、ポルトガル語母語としていても不思議ではないな」と思いました。とはいえ、やっぱりポルトガル語をしゃべる Spinoza さんを想像したこともなかったので、虚を突かれた感じがして意外でした。何だかそぐわないですよね。(もちろんポルトガル語を話しても一切問題はない。何語を話そうと一切問題はないです。) そんな Spinoza さんは破門されて一人悲しく lens を磨きながら、一緒に暮らしていた家族のことを想い、以前住んでいた Amsterdam を想い、先祖のいた土地を想い、様々なことを想いながら暮らしていただろうと思います。ポルトガル語母語だったとするのなら、そんな彼はきっと Saudade を感じていたのではないでしょうか。とすると、話しは飛びますが、bossa nova を聴きながら、Spinoza さんの文を読むのも、あながち間違ったことではないかもしれません。いや、やっぱり間違っているかな? それこそそぐわないかもしれないですね。何だか変な話ですみません。なお、今日の私の話については、念のため、次などを参照して裏を取ってください。

この本の31-32ページには、以下のようにあります。

アムステルダムユダヤ人共同体は、たとえ宗教としてのカトリックを放棄し、スペインを「偶像崇拝の土地」と見なしたとしても、文化的な軸としてのスペインを放棄したわけではなかったのである。それゆえスペインを巡っては複雑な感情の混ざった追憶が残り、これは共同体によってずっと共有されつづけたのである。さらに、若干の例外を別にすれば、元「マラーノ」たちはスペインから直接やってきたわけではない。彼らの家族はポルトガルを経由したのであり、それゆえ、迫害からの逃亡に関する直近の記憶はポルトガルの地と結びついていたのである。それとは逆に、記憶のなかのスペイン的な要素は、スペインもまた迫害者であったということを同時代の何らかの事件が思い出させる場合を除けば、むしろ懐かしい思い出となる傾向があった。

ということで、bossa nova うんぬんは別としても、Saudade を Spinoza さんが感じていた可能性は、なきにしもあらずかもしれません。何だかそぐわないような気がしないでもないけれど…。


最後に。上で「一人悲しく lens を磨」いている Spinoza さんというようなことを書きましたが、実際にはこれは誤解、虚像のようです。別に彼は孤立してはいなかったみたいです。上記の書の16-17ページを参照ください。


以上です。本日の記述について、やっぱり激しい勘違いでしたらすみません。なお、今回の話の中で、語源に照らせば差別的な用語となる言葉が見られますが、それは学術的な用語、歴史的な用語として記させてもらっております。決して他意はございません。この点何卒ご了承いただけましたら幸いです。