The Proof That We Are Now in a Paradise on Earth

先日、本屋さんの店頭で、刊行されたばかりの次の本を拝見させていただく機会がありました。

そのなかの「はじめに ― 「東アジアに哲学なし」」の部分を軽く拝読させていただきましたところ、この世が天国であることが大変簡潔に証明されているのを見かけ、ちょっと驚きました。まさかこの世が天国だとは知らなかったので、とても意外に感じました。そこで、その証明をここに掲げてみます。まず、本文を引用致します。そのあとに、証明の締めの部分を記します。この引用文の部分が、証明のいわば補題に当たります。なお、引用文については、岩波書店の home page (http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/8/0291370.pdf) から引用させていただきました。原文の傍点は下線に変えて記します。

 「東アジアに哲学なし」という意見は、はたしてどれほどの正当性をもつのか──本書はこの問いに導かれている。ここで私たちの社会の現状を振り返ってみよう。
 一見すると、現代日本において「哲学」は溢れかえっているようにも見える。哲学関連の書籍は、規模の大きな書店の棚にはたくさん置いてあるし、大きな総合大学には必ず哲学の講座が置かれている。西洋ほど社会に広く深く浸透しているわけではないかもしれないが、東アジアにおいて哲学はたしかにあるようにしか見えない。
 ところが、あえて厳しい目で(西洋人目線で?)見てみると、様子が変であることが分かる。日本に哲学者がいるのかと問うてみよう。たしかに、大学を探せば哲学の専門家はすぐに見つかる。[…] だが、大学の教員として哲学を修めている研究者のなかに、自身を「哲学者」と称する人は、ほとんど見つからないのだ。
 実は、専門的に哲学を深く知れば知るほど、哲学に携わるものたちは、「哲学者」を自称することを避けることになるのが日本の実情である。[…] 通常は、大学教員などは自分たちを「哲学研究者」と呼ぶのである。もちろん、日本の哲学研究とて、けっして世界的にひけをとるわけではない──と研究者の一人として筆者自身も言いたいところではある。だが、哲学者を自称することは、憚られるのである。「哲学」という言葉をめぐるこの困難は後に詳しく論じるが、いずれにせよ、日本には「哲学研究者」はたくさんいるが、「哲学者」はいないのである。
 ならば 、やはり日本において「哲学はない」ということにならざるを得ない 。[…] *1


どの国でも「私が犯人です」と言う人はいない。どの国でも自分が犯人だと自称する人はいない。ということは、どの国でも犯罪を犯している人はいないということである。ということは、この世に犯罪はなく、この世は天国だということである。Q.E.D.


PS

こうしてこの世が天国であることが証明されてしまっていますが、この証明の評価については、念のため、皆様におかれましては朝倉先生のご高著を、上記引用文以外のところも含めてお読みになられたあと、ご判断ください。


本日の記述に関し、何か間違ったことを書いておりましたら大変すみません。朝倉先生にもお詫び申し上げます。どうかお許しください。

*1:朝倉、vii-viii ページ。