On Philosophy as Conceptual Engineering

先日、net で次の文を拝見させていただきました。

この文は、戸田山先生の以下のご高著を紹介する文として書かれています。

面白く拝見させていただきましたので、まず『ちくま』における戸田山先生の文の一部を引用させてもらい、そのあとに個人的に感じたことを一つ、述べさせていただきたいと思います。単なる思い付きを述べますので、あまり真剣に読まないようにしてください。私もあまり真剣に主張しようとしているのではございません。見当違いなことを述べておりましたら、大変すみません。

[哲学の核心を成しているものは何か、という疑問に応えるべく] 脂汗流し、脳みそを空転させつつたどり着いた結論は、哲学って工学に似ている、というものだ。意外でしょ。世間では、この二つは両極端のように思われている。ところが、両者には重要な共通点がある。つまり、よりよい人工物をつくることで、人々の生存に貢献しようとするところ。そして、時に成功し、時に失敗して大きな災厄をもたらす、というところ。
 工学の場合、それが生み出す人工物は明らかだ。発電機、エンジン、医療機器、輸送手段……。これに対して、哲学が生み出す人工物は見えにくい。じっさい見えないからね。それは概念と呼ばれる。人々はさまざまな技術産品が自分のリッチでハッピーな生活を支えてくれていると思っているが、あんたらのそれなりに幸せな生活を支えているのは、それだけじゃありませんぜ、概念も同じくらい大事なんでい、と言ってやりたい。
 たとえばあなたは、何だか気に入らないというだけの理由でよってたかって暴力をふるわれたりする、といったことは自分の人生に起こらない、と思って暮らしている。かりにそういうことがあったら、裁判にでも訴えて闘えると思っている。というか、自分はそのような理不尽な暴力にさらされるいわれはない、という考えをそもそも抱くことができる。これは何のおかげか。誰かによってつくられた「生存権」とか「人権」といった概念が、それに価値を見出した人々によってリレーされ、あなたの手許に届いたからだ。概念はしばしば所与なので、自然なモノだと思いがちだが、じつは設計者のいる人工物だ。
 その概念づくりの作業が行われなかったら、リレーがどこかで途絶えていたら、あなたの生活はいまほど幸せではなかったはずだし、じっさい、まだそれらの概念の恩恵をこうむることができない人々が世界のあちこちにいる。
 概念は、テクノロジーと同じくらい生存にかかわりをもつ。だとしたら、人類の生存に資するよい概念を案出したり、既存の概念を改訂したりする技術、つまり概念工学が必要だ。で、哲学のキモは概念工学にあり、というのが私の結論だ。*1

概念を一種の工学が扱う人工物と見なし、文字通り人工物として、よい概念を製作することにより、人間社会に秩序と正義をもたらし、人々の生存に資するというのは、興味深いアイデアですね。概念を人工物と見なすことは、新しいことなのでしょうか? 私にはよくわかりません*2。しかし、概念を一種の道具と見なし、それでもって人間社会に秩序と正義をもたらし、人々の生存に資するというアイデアは、ひょっとするとそれほど目新しいものではなく、あるいは哲学の歴史と共にあったことなのかもしれません。私は上記の戸田山先生の文章を拝読後、Weber の文章を思い出しました。この Weber の文章は、戸田山先生と同じことを言っているのかどうかはわかりませんが、少なくとも類似したこと、または相通じることを述べているように私には感じられます。参考までに Weber の文章を邦訳から引いてみます。まず典拠とした文献名を記しますと、

です。

さて、この該当ページで Weber は哲学という営みを説明する際に Plato の『国家 (Politeia) 』における有名な「洞窟の比喩」の話を持ち出しています。洞窟内につながれていた哲学者が地上に出て、本当のありさまを目にし、Idea を把握して感極まるという話です*3。これについて、Weber は次のように書いています。邦訳中の傍点を、下線に変えて引用します。

 かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。もとより、それを知っていたのはかればかりではない。インドにも、アリストテレスのそれに似た論理学の萌芽がみいだされるのである。だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力 (まんりき) によって人を押えつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんぴともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。永遠の真理は、真理に盲目な人人の行動のように時とともに移ろい行くべきものではない。ソクラテスの弟子たちにとって、これは実に偉大な体験であった。そして、このことから、もし美だとか、善だとか、また勇気だとか、霊魂だとか、その他なんであれ、それについて正しい概念をみつけだしさえすれば、同時にそれの真の実在も把握しうると考えられたのである。しかも、このことは同時に、とくに公民としての生活において正しく振舞うにはどうすべきかを知り、かつ教えるための方法を示すものとして考えられた。というのは、あくまで公民としての立場で物を考えたギリシア人にとっては、すべてはこの問題に帰着したからである。かれらが学問に励んだ理由もここにあった。

ここでは哲学における重要な手段として、概念、論理という二つのものが取り上げられており、これらは万力という道具であって、この道具により、人間社会に秩序と正義がもたらされるのであって、また、その道具を通じて、人間 (公民) であるためには何をなすべきで、何が守られるべきことなのかが明らかにされ、かつ教えられもするのだ、ということになるでしょうか。この通りだとすると、戸田山先生の見解は、Weber の見解に相通じるものがあるように個人的には感じられます。しかし私の勘違いでしたらすみません。いずれにせよ、両先生の見解は、私にはとても興味深いものに思われます。色々な点で押えつけられ、痛めつけられている世界中の人々にとって、大切な視点を提供する見解だと感じました。


PS
私は今回、Weber のドイツ語原文にまでは当たっていません。原文ではどのような言葉が使われているのか、その点までは確認しておりません。


本日の記述に関し、誤解や無理解や勘違い、誤字、脱字などがございましたら、誠に申し訳ございません。

*1:この文は、net の記事で、nombre もなく、しかも短い文ですので、ページ数の明記は致しません。

*2:近頃、分析哲学の方面では、人工物の存在論が盛んになってきているように思います。例えば次を参照ください。鈴木生郎、秋葉剛史、谷川卓、倉田剛、『現代形而上学 分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』、ワードマップ・シリーズ、新曜社、2014年、第8章、「人工物の存在論」。この章を拝読致しますと、概念自身が人工物だとは明言されていないようですが、概念自身も何らかの人工物として扱うことが可能であるかのようにも感じられます。ただし、個人的に何となくそう感じるだけで、本当に概念自身を文字通り人工物として扱うことができるのか、その点については、現時点の私には即断ができません。何にしろ、戸田山先生の言う概念が人工物であるという考えは、もしかすると、それほど目新しいものではないかもしれません。John Searle も、もしかすると社会制度の存在という文脈において、似たようなことを言っているかもしれません。ですが、勉強不足の私にはよくわかりません…。そのうち勉強できればと思います。いつになるかはまったく不明ですが…。

*3:「洞窟の比喩」については、哲学史の教科書に大抵出てくる話でしょうから、多言は不要だと思いますし、典拠先の明記も不要でしょうが、一応参考となる教科書を記しておきますと、服部英次郎、『西洋古代中世哲学史』、人文科学選書、ミネルヴァ書房、1976年、89-92ページ。