Emperor Showa Did Not Order a Ceasefire by the Radio Broadcast on August 15, 1945. Its Radio Announcement, also Known as the Imperial Rescript on the Termination of the War, Was Not a Ceasefire Order.

玉音放送を巡って、私には意外だったこと、私のまったく知らなかったことを、記します。なお、私は歴史家ではありません。また、先の戦争を経験している者でもございません。そのため以下の記述には間違いが含まれている可能性があります。もしも読まれる場合には、そのまま信じてしまわずに、批判的な気持ちを持って読んでいただければ幸いです。含まれているであろう間違いに対し、あらかじめお詫び申し上げます。


1945年8月15日正午に玉音放送が流されたあとに戦闘で命を落とされた方がおられた。もう戦争は終わりであることが告げられたあとに、死なねばならなかったことは、とてもつらく、いたたまれない気持ちになる。なかには玉音放送を聴いたあとに特攻を敢行し、戦死された方もいらっしゃった。今年の8月15日の夜に TBS の News 番組「NEWS23」で、そのような特攻があったことが特集で取り上げられていた。私はこの番組をちらっと垣間見ただけで、ほとんど見ていなかったのですが、この特集は宇垣纏(まとめ)中将という方が行った特攻のようです。玉音放送を聴いたあとで、それでも敢行されたこの特攻は有名みたいですが、私は全然知りませんでした。そしてこの特攻について、番組は Facebook で8月15日7時22分に、次のような comment していました。「戦争は終わったのに、なぜ若者たちは犠牲になったのか…」。以前から、玉音放送後に出撃して命を落とされた方がいらしたらしいことを聞いていたので、「時間にして、ほんのわずかな差なのに、どうして命を落とさねばならなかったのだろう」と、悲嘆の念のようなものが漠然と心のなかに浮かび上がってくることが私にはありました。


そして数日前、以下の本を購入して読んでいましたら、私個人にとっては意外なことを教えられました。よく知られていることなのかもしれませんが、私はまったく知らなかったことです。

この本の終りあたりに

  • 「補論 日本の敗戦と大本営命令」

という論考があり、これを読んでいると、玉音放送後に (ソ連の攻撃は別として) なぜ兵士の方々が命を落とすことになったのかがわかりました。

よく言われていることだと思いますが、8月15日は終戦の日とされているものの、敗戦の日ではなく、正式な敗戦の日は9月2日です。にもかかわらず、私たちは8月15日を戦争に負けた終戦の日だと、何となく思っています。この日に負けて、戦争は終わったのだと思っています。なぜこの日が負けの日で、終戦の日になっているのかについては、近年、

において、佐藤先生により media studies の観点から検討がなされていました。本当に戦争が終わったのは9月2日なのに、なぜ8月15日であるかのような神話を人々は漠然と信じているのだろうか、という疑問を佐藤先生はお持ちになられて検討をされたのだろうと思います。

同様に、玉音放送で戦争は終わったはずなのに、なぜ出撃して命を落とさねばならなかったのか、ソ連の攻撃や自衛のための戦闘ならともかく、わざわざ特攻を敢行したのはなぜなのか、という疑問が浮かびます。先に触れたテレビ番組の特集は、この疑問を追究したものだと言えると思います。しかし玉音放送で戦争が終わったというのは、佐藤先生のご高著で言われているのとはまた別のいみで神話であることが、上記の山田先生の補論から理解できました。


私たちは玉音放送で戦争は終わったものと思っていますが、これがなぜ神話であるのか、その結論・回答を最初に述べてしまいますと、そもそも玉音放送は停戦命令などではない、ということです。実際玉音放送の原文を私自身読んでみましても、ただちに戦闘行動を停止せよ、という類いの文言は出ていなかったと思います。原文はとても古めかしいもので、私の理解は十分ではありませんから、どこかに停戦を指示する言葉がわずかでも出ている箇所が、ひょっとするとあるのかもしれませんが、私が見た限りではないように思われます。

振り返ってみるに、軍人は上官の命令に従って行動するものです。もちろんそれに従わないという場合も多々あったでしょうが、一応命令に基づいて動くように厳しく言われています。ですから戦闘をするか、あるいは停止するか、どちらにするかは命令を待たねばならないでしょう。戦闘中、即時一切の戦闘を取りやめよ、と言われない限りは、戦闘が続いているものと理解されるでしょう。したがって、玉音放送を耳にしても、そこで命令が発せられていると解せない限りは、いまだ戦闘状態は続いていると理解せねばならないと思われます。ただし、実情としては、玉音放送を聞いて武器を置いた兵士は多かったと推測されます。しかしそれでも玉音放送では命令は発せられていないようですし、玉音放送は、そもそも通常の命令系統に沿って下ってきた指示ではありません。通常の (戦術的でなく戦略的な) 命令は、天皇が発し、参謀本部総長、または軍令部総長を伝令係として、配下に伝達されます*1玉音放送は、この通常の命令系統を伝っていません。それに上記山田先生の補論に掲げてある大本営の命令文を読むと、大本営玉音放送を停戦命令とはまったく解していないことがわかります。もしも玉音放送が停戦命令を含んだものであるならば、その放送があった時点で即時停戦か、部分的停戦となり、以後発せられる大本営からの命令は、この玉音放送に基づき、武装解除の指示が引き続き行われるはずですが、実際の大本営の、玉音放送後の命令文を読むと、玉音放送を停戦命令として扱うようなことはまったくしておらず、玉音放送とは別に、玉音放送のあとになって、しばらくしてから大本営が全面的な停戦命令を出しています。ですから8月15日正午すぎの、玉音放送の録音盤が流れた直後の段階では、まだ停戦の命令は発令されておらず、したがって部分的にしろ全面的にしろ停戦命令の効力も発生していません。そしてこのことゆえに、玉音放送当日午後に、あえて特攻を敢行した方がいたというわけです。まだ戦闘停止の命令を受けていないのだから、敵が目の前に迫ってきている限り、攻撃をやめるわけにはいかない、というわけです。どうやらこのような理由を一つとして、上述の宇垣中将は出撃したみたいです*2


1945年8月14日以降の指示、命令の様子がいかなるものであったのか、主なものを時間を追って見てみましょう。


1945年8月14日

陸軍
陸機密電第68号*3「帝国ノ戦争終結二関スル件」(午後6時発電) (山田、『昭和天皇の軍事思想と戦略』、335-336ページ。以下、著者名と書名を排し、ページ数のみを記します。)

(「陸機密電」とは何であるか、私はよく知りません。陸軍の軍事機密に関する電報のことだろうと思います。この68号から関連する語句を抜き出して記します。なお、旧字体新字体に改められています。以下同様です。)


天皇陛下二於サセラレテハ四国宣言ノ条項ヲ受諾スルコトニ御親裁アラセラレタリ」、
「御聖断既二下ル」、
「停戦二関スル大命ノ発セラルル迄ハ依然従来ノ任務ヲ続行スベキモノトス」、
「[終戦] 二関スル詔書ハ明十五日発布セラレ特二正午 陛下自ラ「ラジオ」二依リ之ヲ放送シ給フ予定ナルヲ以テ大御心ノ程具サニ御拝察ヲ願フ」


停戦命令が出るまでは、従来通りの行動を取るように、ということが述べられています。まだ「停戦せよ」とは言われていません。また、玉音放送の前日に、陸軍に対し、その放送があることがここで伝えられています。


8月15日午後

陸軍
大陸命第1381号 (338ページ)

(「大陸命」とは天皇が発する陸軍への命令のようです。93ページ。)


「各軍ハ別二命令スル迄各々現任務ヲ続行スヘシ 但シ積極侵攻作戦ヲ中止スヘシ」


玉音放送のあとの命令です。今与えられている任務を遂行し続けよ、ただし積極的な侵攻作戦は中止しておくように、とのことです。「積極侵攻作戦」とは厳密に言って何であるのか、これがはっきりしないため、現地の司令官の解釈によっては、ある程度の攻撃が可能であると判断されたみたいです。それゆえ、宇垣中将は特攻を敢行したと考えられます(339ページ)。まだここでは即時全面的に停戦せよ、との命令にはなっていません。前線で、相手とにらみ合っている中で、撃ち合うことは了とされていると考えられます。


海軍
大海令第47号 (339ページ)

(「大海令」とは天皇が発する海軍への命令のようです。93ページ。)


「何分ノ令アル迄対米英蘇支積極侵攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ」


これも玉音放送のあとの命令です。ここでもまだ即時全面的に停戦せよ、との命令にはなっていません。積極的に侵攻しなければ、前線で敵と対峙しつつ撃ち合うことは問題ない、と理解できます。


8月16日

陸軍
大陸命1382号 (341ページ)


「[陸軍の全部隊は] 即時戦闘行動ヲ停止スヘシ 但シ停戦交渉成立二至ル間敵ノ来攻二方リテハ止ムヲ得サル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ケス」


戦闘停止の命令ですが、条件付きとなっており、全面的で完全な即時停戦というわけではありません。


海軍
大海令第48号 (342-343ページ)


「即時戦闘行動ヲ停止セシムベシ但シ停戦交渉成立二至ル間敵ノ来攻二当リテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行為ハ之ヲ妨ゲズ」


海軍も、条件付きの停戦命令です。


8月17日

海軍
大海令第49号 (343ページ)


「別二定ムル時機以後指揮下海陸軍全部隊ヲシテ一切ノ戦闘行為ヲ停止セシムベシ 但シ停戦交渉成立二至ル間敵ノ来攻二当リテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行為ハ之ヲ妨ゲズ」


これは全面的停戦の予告です。後日発する命令をもって全面的な停戦に入ることが告げられています。ただし、現地で相手方と停戦交渉をしているあいだに攻撃を受けた場合は、交渉が終了するまでは、反撃が許され、しかし停戦交渉成立時には、以後、完全に停戦せよ、との命令になります。この日の段階ではまだ全面的な停戦にはなっていません。


8月18日

陸軍
大陸命第1385号 (344ページ)


「別二示ス時機以降 [各司令官] 二与ヘタル作戦任務ヲ解ク」、
「前項各司令官ハ同時機以降一切ノ武力行使ヲ停止スヘシ」


海軍に一日遅れて陸軍でも全面的な停戦命令の予告がなされています。予告だけですから、まだ全面的な停戦にはなっていません。


8月19日

陸軍
大陸命第1386号 (346ページ)


「大陸命第千三百八十五号 […] 二示ス時機ハ、[北海道を除く本土を作戦地域としている部隊] 二在リテハ昭和二十年八月二十二日零時トス」


陸軍に対する即時停戦の発効日時は、8月22日だ、ということが伝えられました。しかし陸軍の全部隊ではなく、北海道を除いた本土の部隊に対してだけの、部隊を限定した停戦命令です。外地の部隊は、後日停戦の日時が指令されます。したがって、部隊ごとに段階を踏んで停戦に入るということです。22日に停戦に入り始めるとするならば、玉音放送のあった15日から1週間してやっと本格的な停戦になる、ということです。


海軍
大海令第50号 (345ページ)


「大海令第四十九号二於ケル一切ノ戦闘行為ヲ停止スベキ時機ヲ海軍総司令長官指揮下部隊二在リテハ昭和二十年八月二十二日零時トス 但シ支那方面艦隊二関シテハ追テ定ム」、
「前項所定時機以後海軍総司令長官竝二其指揮下海陸軍部隊ノ作戦任務ヲ解ク」


海軍に対し即時停戦の効力が発生するのは、8月22日だ、と言っています。しかし、中国方面に展開している艦隊に対しては、また後日、即時停戦の日時が伝えられることになっています。こちらもいきなり全部隊が全面的に停戦に入るのではなく、部隊ごとに、部分ごとに、段階的に入って行くということになっています。海軍も玉音放送から1週間後に停戦に入るということです。


8月22日

陸軍
大陸命第1388号 (346ページ)


「大陸命第千三百八十五号 […] 二示ス時機ハ、南方軍支那派遣軍関東軍、[…] 二在リテハ昭和二十年八月二十五日零時トス」


外地の陸軍部隊は8月25日になった時点で完全に停戦せよ、ということが通達されました。25日に停戦に入るとすると、玉音放送から10日目のことです。


海軍
大海令第54号 (348ページ)


「[各司令官] ハ速二全面的停戦ヲ指導スベシ」


本日22日に全面的停戦に入ると19日の大海令第50号で予告していましたが、この22日になり、本日今すぐ全面的に停戦せよと海軍に指示を出しています。玉音放送から1週間経ちました。


以上のように見てきますと、8月15日の玉音放送が、即時全面的停戦命令ではなかったことがわかります。15日にすぐさま停戦に入ったのではなく、陸軍と海軍が別々に段階を踏みながら、部隊ごとに停戦に入って行ったことが確認できます*4。しかも玉音放送から1週間経ってやっと本格的な停戦に入ったということです。この間、何らかの攻撃が可能であったと考えられます。8月15日で戦争が終わった、日本軍からの攻撃が終わった、というのは神話ということです。ソ連からの攻撃に対する反撃を別としましても…。


なお、なぜ15日に即時全面的な停戦に入っていないのかと言うと、一つには、いきなり完全な停戦に入ることが技術的に難しかったことが上げられます。戦線は広範囲に渡っており、しかも敗戦間際の混乱の中、一発で首尾よく停戦命令を伝達できるとは限りません。戦闘の真っ最中である戦線では、命令など簡単には耳に入らないでしょう。間を置かなければならなかったのだろうと思います。もう一つは、もちろんソ連からの攻撃を受けていて、攻撃にさらされている時に、たとえ命令を理解しても、武器を置こうにも置けない状況が続いていたことが上げられます。ソ連の攻撃がひと段落ついたところを見計らって、停戦に入るよう指示を出す必要があったのだろうと思います。*5


最後に。
玉音放送で戦争が終わったと考えていると理解できないことも、玉音放送で戦争が終わったわけではなく、その放送は停戦命令ではまったくなくて、後日段階的に停戦命令が出され、効力を持ち始めたということを知れば、玉音放送後の特攻も、なぜそのような攻撃がなされたのか、兵士の方の心情は別として、その制度的な理由は理解できるようになると思われます。「戦争は終わったのに、なぜ攻撃に参加して死なねばならなかったのか」、その理由は、玉音放送というものが停戦命令ではなく、そのあとで停戦命令が出ていたのであり、そのため放送後に亡くなった方もいらしたということです。いずれにせよ、玉音放送後に死なねばならなかったということは、非常に残念です。なんにしろ、長い戦争が続いてきた最後の最後のほんのわずかな時間の差で亡くならねばならなかったということを思うと、なんとかしてあげられなかったのか、と思えてなりません。


本日はこれで終わります。一気に書き下し、よく見直していないので、誤字や脱字などが多数あるかもしれません。その場合はお詫び申し上げます。その他、私は日本の歴史の専門家でもなく、先の戦争の専門家でもなく、ここで記した戦争を体験している者でもありませんので、誤解して書いている部分があるかもしれません。どうかお許しください。

*1:なお、両総長は統帥権を持っていないゆえ、厳密には天皇の「伝令係」のような立場にいるようです。

*2:ただし、上記のテレビ番組を私はよく見ていませんでしたから、中将のことや、中将の出撃のことについては、詳しいことは知りませんので、細部は間違っているかもしれません。その場合はお詫び致します。

*3:原文の漢数字「六八」を、便宜上、算用数字「68」に改めて記します。以下同様です。

*4:皆がこの命令をきちんと守っていたとすればの話ですが…。

*5:この段落の話は、山田先生の348-349、360ページを参考に、若干敷衍しました。