How Did the Early Leśniewski Tame Russell's Paradox?

定期購読している journal, History and Philosophy of Logic の最新号が先日届いたので、掲載されている次の論文を少し見ていたら、

  • Rafal Urbaniak  ''Słupecki's Generalized Mereology and Its Flaws,'' in: History and Philosophy of Logic, vol. 35, no. 3, 2014,

どのようにして初期の Leśniewski が Russell's Paradox を手なずけようとしていたのか、そのことが簡潔に書かれた箇所がありましたので、その部分を掲げ、試訳/私訳を付し、解説を付けてみたいと思います。例によってあまり人気のない話題ですので、ご興味のない方も多いかとは思いますが、「初期の Leśniewski がどのように Russell's Paradox に対処しようとしていたのか、よく知らないので、まぁ知っておくのも悪くないかな」とお考えの方は、一読ください。なお、私は Leśniewski の専門家ではありません。勉強中の身です。以下の解説文では間違いが含まれているかもしれませんので、「おや、何だか変だな」という文がありましたら、「変な感じだけど、合っているだろう、大丈夫だろう」と信じてしまわず、「これはきっと間違いだ」と思って注意深く読み直してください。試訳/私訳についても、誤訳が多数含まれている可能性が大きいので、必ず英語原文を読み、わからない箇所がある時にだけ、和訳を参照ください。含まれているであろう様々な間違いに対し、前もってお詫び申し上げます。なお、下の引用文中、および邦訳中のカッコ '[ ]' は引用者、翻訳者によるものです。以下の引用文で語られている内容の概略を前もって知っておきたい方は、引用文に付された訳者の註の、そのあとに、「初期の Leśniewski がラッセルのパラドックスを手なずけようとした方法」と題した box が配置されておりますので、その中をご覧ください。この中を読めば、それだけですっかりわかるということではありませんが、引用文の内容の大筋は把握できると思います。

 For now, let us proceed intuitively and see what would happen, if classes were thought of mereologically. (So from now on, when we talk about sets and classes, please take those phrases to refer to mereological wholes.) As phrased by Leśniewski, the paradox [i.e., Russell's Paradox] assumes that one of the following sentences is true:


  (Russell 1) The class of classes not subordinated to themselves is subordinated to itself.
  (Russell 2) The class of classes not subordinated to themselves is not subordinated to itself.


(Here by 'subordinated to' Leśniewski meant 'being an element of'.)
 Next, standard paradoxical reasoning indicates that each of the above sentences implies the other, thus yielding a contradiction.
 Leśniewski points out that if no object is the class of classes not subordinated to themselves, then both (Russell 1) and (Russell 2) are plainly false, without implying a contradiction. Thus, his goal in handling the paradox is to show independently of the paradox that there is no such a class.
 If we think about mereological wholes rather than abstract sets, we need to find a correlate of the elementhood relation. For Leśniewski, it was being an ingredient, where each object is its own ingredient and each part of an object is among its ingredient.
 Now, if being an element is being an ingredient and each object is by definition its own ingredient, each object is its own element. This has two consequences:

  • First, there is no empty class. For a class to be empty, it would have to have no elements. But we know it is impossible, because it is its own element.
  • Second, there are no things which are not their own elements.


As a consequence, Russell's set would have to be empty. For it would have to contain things which are not their own elements. But there are no such things. Yet, we already know that the empty set does not exist, and by the same token Russell's set does not exist either.
 So if classes are understood mereologically, we have independent reasons to think that Russell's set doesn't exist and if it does not exist, no contradiction arises. So, at least, we solved one problem: we avoided Russell's paradox in a principled manner.*1


 さしあたり、直観的に話を進めさせていただいて、クラスをメレオロジカルに解すると [1]、どうなるのか、見てみることにしよう。(だからここからは、集合とクラスについて語る場合 [2]、それらについての語句がメレオロジカルな全体 [3] を指しているものとして受け取っていただきたい。) Leśniewski が述べるように、その [ラッセルの] パラドックス [4] では、以下の文の一つが真であると仮定する。


  (Russell 1) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属する。[5]
  (Russell 2) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しない。


(ここで「に従属する」によって Leśniewski は、「の要素である」を意味していた。)
 次に、パラドックスを導く通常の推論が示唆するところでは、上記の文のどちらもが他方を含意し、それゆえ矛盾を生じるということである。[6]
 Leśniewski の指摘によると、どんなもの [7] も、自分自身に帰属しないクラスのクラスではないならば [8]、(Russell 1) と (Russell 2) はともに明白に偽であり [9]、矛盾を含意するものではない、ということである。こうして、例のパラドックスを扱う際に Leśniewski が立てた目標は、今述べたようなクラスなど存在しないということを、そのパラドックスとは無関係に示してみせる、ということである。
 もしも抽象的な集合ではなくメレオロジカルな全体について考える時には、要素関係 [10] に対応するものを見つけ出してやる必要がある。Leśniewski にとって、それは成分 [11] であるということだった。その場合、どのものもそれ自身がそれ自身の成分であり [12]、かつ、もののどの部分もその成分に含まれるのである [13]。
 さて、要素であることが成分であることであり [14]、どのものも、定義により、それ自身の成分ならば、どのものもそれ自身の要素である [15]。このことは二つの帰結を持つ。

  • まず第一に、空クラスは存在しない。というのも、クラスが空であるためには、それが要素を持たない必要があるだろう。しかしそれは不可能であることを私たちは知っている。なぜならクラスはそれ自身がそれ自身の要素となっているからである。[16]
  • 第二に、自分自身が自分自身の要素となっていないようなものはない、ということである。[17]


結果として、ラッセルの集合は、空である必要があるだろう。というのも、その集合は、自分自身が自分自身の要素ではないようなものを含まねばならないだろうからである [18]。しかし私たちが既に知っているとおり、空集合は存在しないのであり [19]、同じ理由により、ラッセルの集合も存在しないのである [20]。
 だから、クラスをメレオロジカルに理解するならば、ラッセルの集合は存在せず、その集合が存在しないならば矛盾も生じないと考える根拠を、パラドックスとは独立に、私たちは持っているのである [21]。よって、少なくとも、私たちは問題を一つ、解決したのである。すなわち、私たちはラッセルのパラドックスを、首尾一貫したやり方で回避してみせたのである。


訳者による註釈

[1] クラスをメレオロジカルに解するとは、大まかに言うと、「クラスは部分からできており、その部分をすべて取り去るならば、クラスに関しては何も残らず、だから部分を全部取り去ったあとに空クラスなるものが残る、ということはない」とすることです。以下の「メレオロジカルな全体」という表現に対する註も参照。
[2] 以下、クラスも集合も、互いに区別しません。
[3] メレオロジカルな全体とは、簡単に言えば、その全体がその部分から成るものであり、その部分がすべてなくなれば、全体もなくなるようなもののこと。例えば、海苔が巻かれ、真ん中に梅干しの入ったおむすびは、海苔と、梅干しと、お米の一粒一粒という部分から成りますが、これら部分を一つずつ食べていくならば、最後にはおむすびはなくなります。すべての部分を食べてしまった後には、何も残っていません。「空 (くう) なおむすびが残っている」などとは言えません。この場合、おむすびはメレオロジカルな全体です。
[4] ラッセルのパラドックスについては既知とします。以下の、ラッセルの集合とは何かについても既知とします。
[5] 'subordinate' の定訳はありません。暫定的にこの語を、ここでのように、「従属する」と訳しておきます。
[6] 矛盾を導出してみます。(Russell 1) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属する、としてみます。すると、自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しないクラスの一つですから、自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しません。つまり (Russell 2) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しない、ということが帰結します。今度は、(Russell 2) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しない、としてみます。すると、自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属しないクラスのうちの一つではなく、自分自身に従属するクラスのうちの一つということになるので、自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属する、ということになります。すなわち (Russell 1) 自分自身に従属しないクラスのクラスは、自分自身に従属する、ということが帰結したわけです。こうして (Russell 1) を仮定すると (Russell 2) が帰結し、(Russell 2) を仮定すると (Russell 1) が帰結して、(Russell 1) と (Russell 2) は同値ということになります。両者が同値ならば、(Russell 1) が真であるとすると、(Russell 1) かつ (Russell 2) が成り立ちます。あるいは (Russell 1) が偽であるとすると、¬(Russell 1) かつ ¬(Russell 2) が成り立ちます('¬' は否定記号)。しかし、(Russell 1) かつ (Russell 2) とは、すなわち (Russell 1) かつ ¬(Russell 1) のことであり、これは矛盾です。あるいは、¬(Russell 1) かつ ¬(Russell 2) とは、¬(Russell 1) かつ ¬¬(Russell 1) のことであり、これは矛盾です。
[7] 'object' は通常、「対象」と訳されますが、堅苦しさを減ずるため、私の好みにより、ただ「もの」とだけ、訳しておきます。
[8] 「どんなものも、自分自身に帰属しないクラスのクラスではない」とは、どんなものを取り出してきてみても、それは自分自身に帰属しないクラスのクラスではない、ということ。存在するものはどれもこれも、自分自身に帰属しないクラスのクラスなどではない、ということ。自分自身に帰属しないクラスのクラスなどといったものは、存在しない、ということ。
[9] (Russell 1) と (Russell 2) がともに明白に偽であるのはなぜかと言うと、ここで Leśniewski は、文の主語とされているものが何も指さないならば、それだけでその文は偽であると考えているからです。(Russell 1) と (Russell 2) の主語によって指されるものがないならば、そのことにより、(Russell 1) も (Russell 2) も偽であると Leśniewski は考えているのです。これはすなわち、existential import を文は持つものであると Leśniewski は考えているということです。ここで彼は伝統的論理学 (またはその派生したもの) に従っているのです。これに対して、文が existential import を持つべきであると考える必要はない、という現代の論理学の観点から、Leśniewski を批判することは可能だと思われます。
[10] ∈ のこと。
[11] 'ingredient' にも定訳がありません。暫定的に「成分」と訳しておきました。A が B の成分であるとは、次の場合、かつその場合に限ります。つまり、比喩的に言えば、A が B よりも小さい部分であるか、または A = B である、ということです。比喩を使って言い換えると、A が B の未満の部分であるか、または A = B である、ということです。さらに言い換えると、A が B の真部分であるか、または A = B である、ということです。成分であることを、'ing' と略記すれば、A = ing(B) ⇔. A ⊂ B ∨ A = B です。('⊂' は真部分集合の包含関係。部分集合の包含関係 '⊆' とは異なります。)*2
[12] どのものもそれ自身がそれ自身の成分であるとは、A = ing(B) ⇔. A ⊂ B ∨ A = B の右辺の A = B のことを言っています。
[13] もののどの部分もその成分に含まれるとは、A = ing(B) ⇔. A ⊂ B ∨ A = B の左辺の A ⊂ B のことを言っています。もの B のどの部分 A もその成分 ing(B) に含まれる、すなわち A ⊂ B である、ということです。
[14] ここでは、要素であることが成分であることだ、とだけ言われていますが、実際に言われているのは、要素であることは成分であることであり、かつ成分であることは要素であることである、ということ、つまり、要素であることと成分であることとは同値である、ということです。
[15] 要素であることと成分であることとが同値であり、どのものもそれ自身の成分ならば、どのものもそれ自身の要素です。
[16] どんなものも自分自身を成分に持つ。そしてそれが成分を持つならば、成分であることと要素であることは同じであるので、それは要素を持つ。つまり、どんなものも自分自身を要素に持つ。したがって、ものの一つであるクラスも自分自身を要素に持つ。
[17] 何であれ、それが何らかのものならば、それは自分自身を成分として持つ。対偶を取ると、それが自分自身を成分として持たないのならば、それは何らのものでもない。つまり、そのようなものはない。要するに、自分自身を成分として持たないようなものはない、ということです。今、成分に関して、自分自身を成分として持たないものはない、と結論しましたが、要素に関しても同じ結論が出ます。
[18] ラッセルの集合は、自分自身が自分自身の要素ではないようなクラスを含みます。そのようなクラスから成る集合が、ラッセルの集合です。
[19] 自分自身が自分自身の要素ではないようなクラスを含むのが、ラッセルの集合です。しかし、ここでのクラスは空クラスです。先ほどから話しているように、自分自身が自分自身の要素/成分ではないようなクラスは、存在し得ません。したがって、空クラスと思われるこのようなクラスは存在しません。
[20] 自分自身が自分自身の要素ではないようなクラスは空クラスで、そのようなクラスは存在せず、そのような存在しないものから成るラッセルの集合は空集合であり、しかし今までの話にあるように、空集合は存在しませんので、空集合であるようなラッセルの集合も存在しません。
[21] 上に述べたように、ラッセルの集合は存在しません。さて、(Russell 1) と (Russell 2) から矛盾が生じたのですが、(Russell 1) と (Russell 2) の主語は、ラッセルの集合を指していると思われるものの、そのような集合は存在しないのでした。したがって、(Russell 1) と (Russell 2) の主語は、何も指していません。そして、Leśniewski によると、何も指さない主語を持つ文は、existential import の絡みで、それだけで偽であるのでした。よって、(Russell 1) と (Russell 2) はどちらも偽です。ところで、そうするとラッセルのパラドックスから生じる矛盾は、妥当であったとしても健全でない論証によって出てくるということになります。というのも、ラッセルのパラドックスによって生じる矛盾は、偽である文 (Russell 1), (Russell 2) を前提とする論証だからです。このような健全でない論証では、結論は真であることもあれば偽であることもあります。例えば次の論証「クジラは魚類である。故に、クジラは魚類であるか、またはウミガメは爬虫類である」は妥当な論証ですが、前提が偽であって健全でない論証であり、それでも一応結論は真です。健全でない論証で、結論が偽になっている例を上げれば、「(1) クジラがエラ呼吸するならば、クジラは魚類である。(2) クジラはエラ呼吸する。故に、(3) クジラは魚類か、またはマグロは人類である」などがあります。この論証は妥当であり、前提の文 (1) は真で、(2) は偽であり、結論の (3) は偽になっています。この結論の (3) を見ると、少しグロテスクな感じがするかもしれません。何だかとんでもない結論に思えます。しかし私たちはこの結論にことさら動揺することはありません。なぜなら前提のうちの一つの文が偽であるような、そのような健全でない論証から出てきた偽な結論ですから、形式的には妥当な論証であっても健全でない論証ということで、現実のありさまを表わしていないと言えるからです。とりわけ、前提中の偽な文の主語が何も指していない場合であれば、そのような文を前提に持つ論証は、ありもしないものについての、ありもしない話だと言えるでしょう。ふりかえると、ラッセルのパラドックスによって生じる矛盾は、偽な前提を持つ健全でない論証によって出てくるのでした。このような健全でない論証から、グロテスクな、何かとんでもない結論が出てきたとしても、私たちは驚く必要はありません。なぜなら健全でない論証によっては、現実のありさまに忠実な結論が出てくるとは限らないからです。現実に合わない見当違いな結論が出てくることがあるからです。ラッセルの集合がありもしないのならば、このような集合に関する論証は、ありもしないものについてのありもしない話であり、そのような話を聞いてあわてる必要はどこにもありません。以上により、(Russell 1), (Russell 2) が偽であるとすれば、矛盾という危機は去ります。以上をまとめると、Leśniewski は、おおよそ次のように考えていたと思われます。これは今までの記述の要約となりますので、特別に枠に入れて記すことにします。

初期の Leśniewski がラッセルのパラドックスを手なずけようとした方法

Leśniewski によると、何らかの集まりの類いは、本当のところ、メレオロジカルな全体である。その場合、空集合/空クラスは存在せず、それ故、空集合を集めてできるラッセルの集合も空集合だから存在しない。ラッセルのパラドックスを引き起こすとされる文は、存在するはずのないこのラッセルの集合を指す。存在しないものを指す語句を主語に持ったこの文は、existential import を各文が持っているとされることにより、それだけで偽である。そしてこの偽である文を前提に持った健全でない論証から何か信じられないことが帰結したとしても、必ずしもそれが現実を表わしているとは限らないので、その帰結を何としてでも受け入れねばならない、ということはない。そもそもその結論は健全でない論証という問題のある論証から出てくるものなので、そんな結論はまったく無視して構わないし、大体そんな論証はありもしないものについてのありもしない話なのである。よってその結論は許容する必要などまったくない。以上の理由により、ラッセルのパラドックスによって生じる矛盾は回避される。


さて、これで本当にラッセルのパラドックスを手なずけることができているかどうかは、別の話です。この Leśniewski によるパラドックスの回避方法に対しては、疑問や反論が考えられると思います。一番怪しいのは、「existential import を各文が持っている」としているところでしょう。現代の標準的な論理学のもとにいる私たちにとって、各文が existential import を持っているとは思わないので、わざわざ持っているとしなければ非常な困難に陥るというのでない限り、existential import を各文が持たねばならないとするような制限を課す根拠がよくわかりません。伝統的な論理学の影響を強く受けた Leśniewski は、existential import の保持というような制限を課すことにより、空な名辞を主語に持つ文はどれもそれだけで偽であるとしていますが、明らかにこれは、性急に過ぎるでしょう。虚構名など、一般に架空のことについて述べている文の真理条件を、どのように定式化するかは、様々な要因を考慮して総合的に判断されるのが通常です。それに対し、Leśniewski は、主語が空であるというその一点だけで、ただちにその文を偽としているようですが、現在ではこれはそのままでは受け入れられない態度と言えます。

また、Leśniewski によるパラドックスの回避方法に対して疑問に思うことは、何らかの集まりがどれもこれもメレオロジカルな全体、collective classes であり、数学の集合論に見られるような distributive classes は一切存在しないのか、という疑念です。メレオロジカルな全体しか集まりとしては認めないという Leśniewski の態度は、1, 2, 3, ..., は数として認めるが、0 は数としては認めない、という態度と似ているところがあるように私には感じられます。何らかの集まりからその部分を少しずつ取り去って行き、最後の部分を取り去った後には何も残らず、故に空集合や空クラスもないのだ、という Leśniewski の主張は、3 から 1 を引き、残った 2 からまた 1 を引き、最後に残った 1 から 1 を引いたら、何も残らず、だからもう数はなくて、0 とかいう数だってないのだ、と主張することと、パラレルになっているように思われます。だとすると、3 から 1 ずつ引いて行った結果、0 さえ残らない、0 なんてない、という主張を、昔々の人ならいざ知らず、今や誰も認めないのと同様に、空集合、空クラスなんてない、あるのはメレオロジカルな全体だけだ、という Leśniewski の主張もそれだけでは誰も認めないのではないでしょうか。しかしここではこの疑問に対し、即断することは控えます。この疑問に十分こたえるためには、いくつかのさらなる疑問や問題に答える必要があると思います。それができない今、あわてて結論を下すことは危険ですので、それはよしておきます。

これらの疑問、疑念の他に、いくつかの検討すべき論点が上げられると思いますが*3、今回は初期の Leśniewski がラッセルのパラドックスをどのように手なずけようとしていたのか、このことを簡単に解説することが目的でしたので、このあたりでもうやめにしておきます。


念を押しておきますが、私は Leśniewski の専門家ではありません。Leśniewski の述べていることはすごいのか否か、知りたいと思い、勉強しているだけの者です。ですから、以上の記述には、大変な間違いが含まれている可能性があります。そのため、上の話は慎重に受け取ってください。何も考えずに真に受けないようにしてください。間違ったことを書いておりましたら誠にすみません。誤字、脱字等にもお詫び申し上げます。

*1:Urbaniak, p. 292.

*2:Stanisław Leśniewski, ''Foundations of the General Theory of Sets, I,'' translated by D. I. Barnett, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett eds., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume I, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1992, p. 132, Definition I, 'I use the expression 'ingredient of object P' to denote the same object P and every part of that object.' この引用文中では、'the same object P and every part of that object' のところで 'and' が使われているのに対し、それを当方で式に起こした表現 'A ⊂ B ∨ A = B' では '∨' が使われています。引用文中の 'and' は '∨' と解すべきだと思われますので、式中では '∨' にしています。

*3:その他に検討すべき論点として、例えば次のような事柄があります。そもそも Leśniewski は文を構成する名辞がいかなる意味論的機能を持っていると考えていたのだろうか。その機能の詳細で妥当な説明の後に、文 (Russell 1), (Russell 2) が偽であることを立証すべきではないだろうか、などです。