For Leśniewski, Why Is a Singleton Identical with Its Only Element?

Leśniewski は特異な考えを持った論理学者、哲学者でした。彼の特異な考えの一つに、empty class は存在しない、というものがありました。この特異な考えは前回の日記で説明しました。もう一つ、Leśniewski の持つ特異な考えに、singleton は、その唯一の要素と等しい、というものがあります。なぜ Leśniewski にとって singleton は、その唯一の要素と等しいのでしょうか。その理由を二通り、挙げてみましょう。なお、私は Leśniewski の専門家ではありませんので、本日の話には間違いが含まれているかもしれません。勉強中の身ですから、何か勘違いしたり見落としたりして、とんでもない誤りを書いているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。前もってお詫び申し上げます。


但し書: 前回の日記でも記しましたが、Leśniewski にとって、素朴集合論に見られる set や class の観念は不合理で、筋道立てて理解できるようなものではなく、そのいみで理解不能な観念なので、初めから受け入れられないもののようですが、仮にこの場限りであれ、それらの観念の一部でも受け入れた場合、empty class というものを Leśniewski はどう考えるか、ということが、これ以降語られます。ですから、そもそもは set や class の観念は、Leśniewski にとってまったく受け付けられないものなのでしょうが、暫定的に一部受け入れた場合の話を以下でします、ということです。関連することとして、次を参照ください。Rafal Urbaniak, Leśniewski's Systems of Logic and Foundations of Mathematics, Springer, Trends in Logic, vol. 37, 2013, p. 166, n. 1. 但し書終わり。


前回の日記では、少なくとも Leśniewski にとり、empty class は存在しない、ということが証明されました。このあと、singleton がその唯一の要素と等しいという理由を記しますが、その際には Leśniewski にとって empty class は存在しない、ということが、前提にされています。したがって、以後、ものにしろ、class にしろ、何かの部分に empty class が含まれているということもありません。この点、ご注意ください。


Singleton がその唯一の要素と等しい理由 (その一): 推移律による理由

Leśniewski にとって singleton は、その唯一の要素と等しいというその一つ目の理由については、次の文献を利用して説明しましょう。

  • Vito F. Sinisi  ''Lesniewski and Frege on Collective Classes,'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 10, no. 3, 1969, p. 242.

原文と、私訳/試訳を掲げます。訳文には間違いが含まれているでしょうから、基本的に英語原文をお読みになり、わからないところがあった場合に限り、和訳をご覧ください。誤訳について、あらかじめお詫び申し上げます。

 Leśniewski's Mereology is a theory of collective classes, and is to be distinguished from the more familiar theories of Russell, Zermelo, et al, which formalize the notion of a distributive class. Collective classes differ from distributive classes in several respects. In the collective sense of "class" there is no empty class, while in the distributive sense there is. If we consider the class of the United States, then in the distributive sense of "class" California, Arizona, and Massachusetts are elements of this class, but San Francisco is not. In the collective sense, however, not only are the several states elements of this class but so are San Francisco, Long Island, and Cook County. In the collective sense of "class" elementhood is transitive, i.e., if x is an element of y, and y is an element of z, then x is an element of z. In the distributive sense, elementhood is not a transitive relation. In the collective sense of "class", but not in the distributive sense, if some class is a unit class, then it is the same object as its only element.


 Leśniewski のメレオロジーは、集積的*1クラスの理論であって、それは、離散的*2クラスの観念を形式化している Russell, Zermelo たちのもっとよく知られた理論からは区別される。集積的クラスは、いくつかの点で、離散的クラスとは異なる。「クラス」の集積的意味では、空クラスはないが、離散的意味では、それはある。アメリカ合衆国 が [州の] クラスであると考えるならば、クラスの離散的な意味では、California, Arizona, Massachusetts は、このクラスの要素であるが、San Francisco はそうではない。しかし、「クラス」の集積的意味では、いくつかの州がこのクラスの要素であるのみならず、San Francisco, Long Island, Cook 郡*3も要素である。「クラス」の集積的な意味では、要素であることは推移的である。すなわち、もしも x が y の要素であり、かつ y が z の要素であるならば、x は z の要素である。離散的な意味では、要素であることは推移的な関係ではない。「クラス」の離散的な意味ではなく、集積的な意味では、もしもあるクラスが単位クラスならば、それはその唯一の要素と同じものである。

上記引用文の最後あたりから、以下のことが考えられます。

a をあるものとし、{a} を a だけを含む class とします。この時、次が成り立ちます。


   (1)  a ⊂ {a}.


また、次も成り立ちます。


   (2)  {a} ⊂ {{a}}.


ところでで、mereology においては、class の包含関係について推移律が成り立ちます。よって、(1), (2) により、


   (3)  a ⊂ {{a}}


が成り立ちます。{{a}} という class に含まれているのは、{a} だけであり、しかも (3) によれば {{a}} に含まれているのは a です。したがって、


   (4)  a = {a}


です。これは singleton とその唯一の要素とが等しいことを言っています。



Singleton がその唯一の要素と等しい理由 (その二): 成分の定義による理由

Singleton がその唯一の要素と等しいという二つ目の理由を挙げます。ここで挙げる理由は、数学の質問を受け付ける次の home page の記述に示唆を受けています。

  • ''Difference between a class and a set,'' in: Mathematics Stack Exchange, <http://math.stackexchange.com/questions/139330/difference-between-a-class-and-a-set>.

この page の下部にある 'The exact difference is arguably a matter of debate, […]' で始まる解答の記述に示唆を受けています(2014年10月閲覧)。ただし、示唆を受けているだけで、この page に書かれている内容と、私がこれから記す内容とは異なっています。


さて、singleton がその唯一の要素と等しいという二つ目の理由は、Leśniewski が使う 'part' と 'ingredient' という言葉の文脈的定義を利用します。

まず、'part' の文脈的定義となっている公理と、そこからただちに導かれる定理について、記します*4


   公理 I. もの P が、もの P1 の部分ならば、P1 は P の部分ではない。
   Axiom I. If object P is a part of object P1, then object P1 is not a part of object P.


多少厳密さを犠牲にして、わかりやすい記号で簡略に書けば、


   公理 I. P ⊂ P1 → ¬( P1 ⊂ P )


とでもなるでしょうか。公理 I で言われているのは、比喩を使えば、次のようなことだろうと思われます。つまり、P は P1 よりも小さい。または P は P1 未満である。または P は P1 の、いわゆる真部分になっている、ということです。次にこの公理からすぐに出てくる定理を掲げます。


   定理 I. どんなものも自分自身の部分ではない。
   Theorem I. No object is a part of itself.

証明: あるもの X は、自分自身の部分である、と仮定する。自分自身の部分であるとは、もの X の部分である、ということを意味する。この仮定から、公理 I に従って、もの X は、もの X の部分ではない、ということが帰結するが、これは我々の仮定と矛盾する。それ故、あるものが自分自身の部分である、という我々の仮定は、今述べた矛盾を引き起こしたので、偽でなければならない。こうして、どんなものも自分自身の部分ではない。これが証明すべきものであった。
Proof: We suppose, that some object X is a part of itself, which means a part of object X. From this supposition it follows − in accordance with Axiom I − that object X is not a part of object X, which is a contradiction of our supposition. Therefore, our supposition that some object is a part of itself, which led to this contradiction, must be false. Thus, no object is a part of itself, which was to be proved.


次に 'ingredient' ですが、この言葉には定訳がありません。とりあえずこの言葉を「成分」と訳しておきます。


   定義 I. A が B というものの成分であるとは、次の場合、かつその場合に限ります。すなわち、A は B の部分であるか、または A = B である。
   Definition I. I use the expression 'ingredient of object P' to denote the same object P and every part of that object.*5


これを比喩的に言ってみますと、A が B の成分であるとは、次の場合、かつその場合に限ります。すなわち、A が B よりも小さい部分であるか、または A = B である、ということです。あるいは、A が B の未満の部分であるか、または A = B である、ということです。あるいは、A が B の真部分であるか、または A = B である、ということです。成分であることを、'ing' という省略記号で表わして定義すると、A = ing(B) ⇔. A ⊂ B ∨ A = B になります。


成分とは何であるか、大よそわかったところで、


   成分定義式: A = ing(B) ⇔. A ⊂ B ∨ A = B


について、この左辺が成り立つとしてみましょう。特に左辺の A がただ一つのものを取るとしてみます。言い換えると、左辺の A にはただ一つのものしか入らない、ということです。この時、A = ing(B) とは、B がその成分としてただ一つの A を取る singleton になっている、ということです。さて、成分定義式の左辺が成り立つならば、その右辺も成り立ちます。右辺が成り立つとは、この右辺の左選言肢 A ⊂ B が成り立つか、または右選言肢 A = B が成り立つかの、少なくともどちらか一方は成り立つ、ということです。


(注記: この続きは、「「真部分」という言葉を使った比喩的直観的説明」という部分と、「「真部分」という言葉を使わない標準的説明」という部分に説明が分かれます。前者の直観的説明の方がたぶん少しわかりやすく、後者の標準的説明の方が若干わかりにくいかもしれませんが、後者の方が正攻法の説明です。後者だけではわかりにくいと思いましたので、前者の説明も付け加えました。どちらを読まれても構いません。どちらか一つで構いません。ちょっとわかりやすい前者を読んで、感触をつかんだ後に、後者の正攻法的な説明を読まれるのが一番よいです。このように前者、後者と説明が分かれた後、以下の「ところで、今までの仮定により、」という言葉の部分から、説明が合流して元に戻ります。)


「真部分」という言葉を使った比喩的直観的説明そこで A ⊂ B が成り立つとしてみましょう。この A には仮定により、ただ一つのものしか入りません。それを a としてみましょう。この時、A ⊂ B の B には何が入るでしょうか。A ⊂ B では、A が B の真部分になっていることが言われていますが、そうすると当然ながら、A に入っている a は B にも入っています。それでは B に入っているのはこの a だけでしょうか。A が B の真部分ならば、B には a だけでなく、それ以外の何かも入っていなければなりません。さもなければ、A ⊂ B の A, B のそれぞれに a だけを入れた結果である a ⊂ a が成り立つということになるはずですが、実際にはこれは成り立ちません。a は a 自身の真部分ではないからです。したがって、A ⊂ B を成り立たしめるためには、B に a 以外のものも含まれていなければなりません。それを仮に b としてみましょう。するとこの b は B に含まれていることになりますが、そうしますと、この b は A にも含まれていなければなりません。なぜなら b が B に含まれているとすると、b は B の真部分でもなければならず、そうすると b は A ⊂ B の A に含まれいている、ということになるからです。しかしながら A に b も含まれているとすると、これは A に a しか含まれていないという私たちの仮定に反することになります。これは矛盾です。故に、A ⊂ B は成り立たず、成り立つべきは A ⊂ B ∨ A = B という二つの選言肢のうち、A = B の方だ、ということになります。


「真部分」という言葉を使わない標準的説明
そこで A ⊂ B が成り立つとしてみましょう。この A には仮定により、ただ一つのものしか入りません。それを a としてみましょう。この時、A ⊂ B の B には何が入るでしょうか。A に入る a が B の部分ならば、B には、その部分として、a が入っています。そして、B に a しか入らないならば、a が B の部分である時、B は a でしかないので、a は a の部分である、ということになります。しかし、定理 I により、a が a の部分である、ということはありません。よって、B に a しか入らない、ということはありません。したがって、B には a 以外のものも入らねばなりません。それを仮に b としてみますと、この時、B を成すものには b もあることになり、b は B の部分となるので、A ⊂ B の A には b も入らねばならなくなります。しかしこれは矛盾です。A ⊂ B の A にはただ一つの a しか入らないと私たちは仮定していたからです。故に、A ⊂ B は成り立たず、成り立つべきは A ⊂ B ∨ A = B という二つの選言肢のうち、A = B の方だ、ということになります。


ところで、今までの仮定により、A = ing(B) は A にただ一つだけのものを取る singleton の B であることを表わしていましたが、それら A, B が等しい A = B と今しがた結論されましたので、このことは singleton とその唯一の要素とが等しい、ということをいみします。


これで終わります。最初の但し書のところでも述べましたが、以上の話は私たちの知っている素朴集合論に見られる set, class の観念を Leśniewski の考えに引き付けて述べたものです。言い換えると、素朴集合論の distributive class の観念と Leśniewski の collective class / mereological whole の観念とを混ぜ合わせながら singleton がその唯一の要素と等しいという理由を述べました。本来、混ぜ合わせることのできない distributive class の観念と collective class / mereological whole の観念を混同するように使っているので、件の理由を読んでいても、大体わかったが、しかしすっきりわかったという感じまではしなかったと思います。そのわけは、元々掛け合わせることのできない観念を、無理に掛け合せているために clear には理解できないようになってしまっている、ということです。これはいかんともしがたいことなので、どうかご了承ください。これと類似のことが、当日記、2014年9月28日、項目 'For Leśniewski, Why Can There be No Empty Class?' に対しても当てはまります。


最後に一言。初めにも申しましたが、私は Leśniewski の専門家ではございません。また、現在勉強中の身です。そのため、以上の記述にはひどい間違いが含まれているかもしれません。上の話をそのまま信じてしまわずに、正しい話かどうか、お手数ですが慎重にご判断ください。間違っておりましたら大変すみません。なお、Leśniewski にとって singleton がその唯一の要素と等しいという話の説明は、以前にもこの日記で取り上げました。よろしければ次をご覧ください。

    • 2013年9月16日 'Why Can't There be any Empty Classes in Leśniewskian Perspective? Why Does Leśniewskian Unit Class Coincide with its only Element?' http://d.hatena.ne.jp/nuhsnuh/20130916.


PS

前回と今回の日記で、Leśniewski にとり、empty class がないということと、singleton がその含んでいる唯一のものと等しいということを、素朴集合論の観念を通して論証しましたが、素朴集合論の観念を通さず、Leśniewski の見地のみに終始することで、empty class がないことと、singleton がその含んでいるものと等しいということを示そうとするならば、empty class がないことに対しては、Leśniewski はこまごまと論証せず、単に「ありもしないものから成る集まりなどというものはない」とだけ言って話を終えるでしょうし、singleton がその含んでいるものと等しいということに対しては、やはり長々と論証を立てず、彼は単に「もしもそれ自身、何かの集まりから成るのではないようなものが一つあるのならば、その一つのものは集まりではないか、またはそれでもそれが集まりだと言いたいのならば、その一つのものは、その一つのものだけから成る集まりであって、その集まりは端的にそのものと等しく、したがってその一つのものを、わざわざ「一つのものから成る集まり」と言っても実質的にいみはない」と言うのではないかと、私は前回と今回の日記を書いていて、個人的に感じました。つまり、empty class がないということと、singleton がその含んでいる唯一のものと等しいということを、素朴集合論の目を通して眺めるから、empty class がないということと、singleton がその含んでいる唯一のものと等しいということが、何だか奇妙に見えるだけであって、Leśniewski の見地をひたすら堅持していれば、empty class がないということと、singleton がその含んでいる唯一のものと等しいということは、常識にかなっており、奇妙には感じないはずのものだろう、と思いました。ただし、だからと言って、このことを理由に、集合論を mereology に取り換えるべきであるかどうかは、現在の私には判断がつきません。取り換えるべきだとすることは、かなり大胆な主張であるように思われます。あるいは、別に取り換えることなく、併存させて行くということも有用かもしれません。今後の勉強を通して、理解を深めて行きたいと思います。


追記 2014年11月22日

現代において、singleton とは何であるかについては、次の本で詳しく論じられているようです。

  • David Lewis  Parts of Classes, Blackwell, 1991.

ただし、私はこの本を持っておらず、見たことも読んだこともございません。

この本に触発されて、何人かの方々が、Lewis の singleton に関して論考をものしておられるようです。例えば、そのような論考の一つに、英語では以下があるようです。

  • Alex Oliver  ''The Metaphysics of Singletons,'' in: Mind, New Series, vol. 101, no. 401, 1992.

この論文についても、私は未見、未読、未所蔵です。

日本語の論考では、以下の論文があります。この論文については、先日、自室の中の copy の山をひっくり返していると、たまたま出てきて singleton について論じられていることに気が付きました。

  • 戸田山和久  「クラスの概念と部分-全体関係」、『紀要 A (人文科学・社会科学)』、名古屋大学教養部編兼発行、第37輯、1993年。

この論文では、Lewis の Parts of Classes における試みが批判されており、Lewis の singleton について論じられています。戸田山先生のお話によると、Lewis の Parts of Classes における試みとは、set theory の mereology 化であり、先生のご診断では、結局 Lewis のこの試みはうまくいっていない、ということです。追記終り。

*1:「集積的」という訳語は、藁谷敏晴先生から、お借りしています。

*2:「離散的」という訳語も、藁谷先生からお借りしています。

*3:Chicago のある郡。

*4:Stanisław Leśniewski, ''Foundations of the General Theory of Sets, I,'' translated by D. I. Barnett, in S. J. Surma, J. T. Srzednicki, D. I. Barnett eds., with an Annotated Bibliography by V. Frederick Rickey, S. Leśniewski Collected Works, Volume I, PWN-Polish Scientific Publishers and Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1992, pp. 131-132.

*5:Leśniewski, ''Foundations of the General Theory of Sets, I,'' p. 132. この引用文中では、'the same object P and every part of that object' というように 'and' が使われているのに対し、それを当方で和訳した「A は B の部分であるか、または A = B である」では「または」が使われています。引用文中の 'and' は「または」と理解すべきと思われますので、訳文では「または」にしています。そして 'P' の代りに 'A', 'B' を使っています。なお、この引用文に付されている原注は省いています。