• Stanisław Leśniewski  ''Grundzüge eines neuen Systems der Grundlagen der Mathematik,'' in: Fundamenta Mathematicae, vol. 14, no. 1, 1929

次に、入手はしておりませんが、最近出た本で、興味をひかれるものを記します。

  • Johannes Fritsche  Geschichtlichkeit und Nationalsozialismus in Heideggers Sein und Zeit, Nomos Verlagsgesellschaft, Studien zur Politischen Soziologie/Studies on Political Sociology, Band 26, 2014


各章の題名だけ記しますと、次の通りです。

1 Sein und Zeit, § 74
2 Die Struktur von Sein und Zeit und § 72-77
3 Hitler, Scheler und Heideggers Sein und Zeit
4 Sein und Zeit und linke Begriffe von Geschichte und Entscheidung
5 Heidegger nach Sein und Zeit
6 Der Begriff des Todes in Sein und Zeit


今記した書籍の内容に関係のある事柄を引用します。Heidegger は Löwith に対し、Geschichtlichkeit という自身の概念こそが、自分が Nazism に commit する際の基礎となっていることを述べていました。Löwith は回想しながら言います。

あくる日、妻とわたしとは、ハイデガー・夫人・二人の息子たち […] といっしょに、[…] 遠足に出かけた。陽光かがやく晴天で、わたしは、ハイデガーといっしょにすごすこの最後の機会を − 気おくれは避けられなかったが − 楽しんだ。ハイデガーは、この 〔私的な〕 機会にさえ党員バッジを上着からはずしていなかった。ローマ滞在の全期間それをつけていて、自分がわたしといっしょに一日をすごす場面にはハーケンクロイツがふさわしくないのだということには、明らかに思い及んでいなかった。[…] 帰り道、わたしは、かれがドイツの状況とこれにたいする自分の態度とについて自由に意見を述べるように仕向けよう、と思った。会話を『新チューリヒ新聞』紙上の論争のほうへもっていって、自分は先生にたいするバルトの政治的攻撃にもシュタイガーの先生弁護にも賛成しないが、それは、先生のナチズム支持が先生の哲学の本質に含まれていることだという意見だからだ、と言明した。ハイデガーは、留保ぬきにわたしの右の意見に同意して、自分の「歴史性」(Geschichtlichkeit) という概念が自分の政治的「出動」の基礎だということを詳しく述べた。そのヒトラーにたいする信頼の念についても、疑問の余地を残さなかった。ただ二つのものだけは、ヒトラーは過小評価していた、それは、キリスト教諸教会の生命力とオーストリア併合にとっての障害物とだ、とかれは言った。ナチズムがドイツ発展の方向をさししめす道だ、とあいかわらず確信していた。ただ、たっぷり長い時間「耐え抜」かなければならないということはある、という。*1

私は Heidegger に無知なのでよくは知らないのですが、確か Geschichtlichkeit という概念は、Sein und Zeit において、決して通りすがりに出てきて、すぐに用済みになるような、どうでもよい概念ではなく、少なくとも刊行された部分に限っての Sein und Zeit においては、根幹を成すような概念ではなかったでしょうか。(違っていたら大変すみません。) この概念を通して Heidegger の考えは Nazism に結びついており、この概念が表立って出てくるのが Sein und Zeit の § 74 前後だったと思います。上記の Fritsche 先生のご高著 Geschichtlichkeit und ... では、この § 74 前後に出てくる Geschichtlichkeit が Nazism との関係から分析されているようです。これはとても待ち望まれていた分析だと思います。(少なくとも個人的には。)

Heidegger の哲学の正確なところを理解するためには、Geschichtlichkeit がいかにして Nazism の基礎を与えているのかを見積もる必要があるように思われます。このあたりのことをきちんとやり切らないうちは、Heidegger もまだ歴史上の人物としての評価が定まらないことになるだろうと推測します。あるいはこのあたりのことが冷静に直視できないうちは、Heidegger もまだ歴史上の人物にはなっていないのだろうと推測します。対象を冷静に見つめることができるということは、自身を冷静に見つめることができるということだろうと思います。私の個人的な予測では、Heidegger はもしかすると哲学史上における Hegel のような存在になるのではなかろうかと感じています。つまり、色々と批判、非難、毀誉褒貶はあるものの、重要な哲学者としてその後のいつの時代にも研究されるような重要な存在となるのではないでしょうか。それを望む人もいれば、望まない人もおられるとは思いますが…。

Heidegger の哲学が Nazism といかに結びついているのかを、Heidegger が公的な生活の場面でどのように Nazis と付き合っていたのかという外在的側面から調べるだけでなく、彼の哲学自身がどのように Nazism に commit しているのかをできるだけ内在的に解き明かすことが、今後望まれると思います。できる限り外在的側面に頼らず、内在的観点のみからどこまで行けるのか、これは試してみる価値のある研究課題だと思います。上記 Fritsche 先生のご高著が、その先鞭をつけることを期待しています。ただし、Fritsche 先生のご高著の目次の細目をよく見ると、それでもまだ外在的側面にかなりのページを割いているようではありますが…。

とりとめのない話ですみません。間違っておりましたら申し訳ございません。どうかお許しください。誤字、脱字等もお許しください。

*1:カール・レーヴィット、『ナチズムと私の生活 仙台からの告発』、秋間実訳、叢書・ウニベルシタス 325, 法政大学出版局、1990年、93-94ページ。'〔 〕', '( )' は邦訳原文に出てくるもの、'[ ]' は引用者によるものです。