Aristotle の翻訳書には月報が付いている。今回は論理学の本ともあって、月報に寄稿されている先生方は分析系の方々です。具体的には、

です。これらは拝読しましてとても面白かったです。八木沢先生の文を読んでいて、興味深いことに気が付きました。今私が考えていることと密接に関係しており、個人的にとても重要な示唆を受けました。それで思わず、忘れないうちに、気付いた重要点を今先ほどメモに書き出しておいた次第です。後日、このメモ書きをふくらませて、ちゃんとした文にまとめたいと思います。月報でこのような重要な示唆を受けたのは初めてです。とても興味深い話でした。すごく考えさせられます。たぶんですが、あまり人が考えていないことを思い付きました。しかし、あまり人が考えていないことならば、それは重要なことではないという可能性はありますが…。(まぁ、実際、大したことではないです。人があまり興味を持たない事柄です。) しかもまだ思い付きの段階ですから、今のところ海のものとも山のものとも知れず、実がなるかどうかは不明ですけれども…。(ちなみに先生の文の表題にある 'M' とは、先生が Aristotle を教えてもらった何人かの先生たちの initial だったりのことです。)
野本先生の文では、先生がどのように Frege に触れるようになったのかとか、海戦問題と Aristotle の宿命論とがどのように関係しているのかについて、簡単な論理式と共に先生の私見が披露されており、興味深いです。


Smullyan 先生のご高著翻訳は、原著 2009年の Logical Labyrinths, Part III - Part VI からのものです。私はなぜだか puzzle に興味がなく、そのため Smullyan 先生の本はあまり持っていないのですが、今回の翻訳書では、話を変わった舞台に設定することもなく、風変わりな puzzle を連発することもなく、比較的淡々と話が進んでいるように見えたので、私にはなじみやすいと思い、購入させてもらいました。ただし puzzle の代りに小さな問題が多数提示され、それらを解くことによって話が進んで行くという、いつもの pattern は変わりませんが…。


長岡先生の論考では、数理感覚とは何かが検討されており、数理感覚 = 論理的感覚と言えそうな感じがしますが、ではいつでも数学者は論理的に厳格かというと、そうでもないことが、数学的帰納法の定式化と ε-δ 論法の定式化された式を見ることによって明らかにされているみたいです。このことを踏まえた上で、数理感覚が論理的感覚に等しいのではないならば、では数理感覚とは何かと言うと、それは数式や数学特有の言葉づかいを通して見えてくる意外性、簡単な数学、算数の中でも遭遇する驚き、難しい事柄に粘り強く取り組んだ末に得られる達成感、感動のようなものらしいです。正確には長岡先生の論考をお読みください。数学的帰納法の定式化と ε-δ 論法定式化の、それぞれの論理性に関して論じられておりましたので、先生の論考を入手致しました。


平石先生の論文は長大な論文。この論文が収められている雑誌『社會科學研究』は、新しい号ならば電子化されているようですが、この平石先生の論文が載っている巻は、まだ電子化されておらず、せっせと copy させてもらいました。このような論文が存在するとは最近まで存じ上げておらず、今さらながらこの論考を目の前にして、その微に入り細をうがっているような論述に、ちょっと圧倒されます。かなり気合が入っているみたいに見えます。私は丸山さんの『日本政治思想史研究』に対する本格的な批判が読みたいのですが、言い換えると、安直でない批判、後から来た者の上から目線の批判ではないような内在的な批判、同じ対象に同じように取りついて、丸山さんとがっぷり四つに組むような批判、そのような批判を読みたいのですが、もしかすると平石先生の今回の論考は、そのような批判論文なのかもしれないと思い、期待感が高まっております。まだよく読んでおりませんので、最終的な判断は控えさせてもらいますが、何だかすごそうです。ものすごく勉強になりそうだ。このような論文を手にできてうれしいです。