Her Words I Was Deeply Moved By, Part 1

先日、次の本を購入させていただきました。

  • 石田由香里、西村幹子  『<できること>の見つけ方 全盲女子大生が手に入れた大切なもの』、岩波ジュニア新書 791, 岩波書店、2014年

読んでいて胸が熱くなる本でした。全部読んでしまうのがもったいないので、ゆっくり少しずつ拝読しております。今日はこの本から心に残った言葉を引用してみたいと思います。あと一回か二回ぐらい、この日記でそのような言葉を引用、紹介をさせてもらおうかと考えておりますので、本日はその第一回目です。


以下の引用文は、目がお見えにならない石田さんの言葉です。

 何かできることというのは、けっして目に見える行動だけとは限らないんですね。相手の存在や能力を認めること、常に全力を尽くしていて「あの人といっしょにいると何かこっちも頑張ろうって思うんだよね」と感じてもらうこと、そういうのも「できること」の一部なんだとようやく気付いたのです。*1

そうですね、何かができるということ、何かができるという能力があることは、必ずしも大仰な具体的成果として上がるものばかりではないと僕も思います。このことに気が付くのにずいぶん時間がかかりました。石田さんはもうお気づきだとは、すごいですね。僕はものすごく、ものすごく時間がかかりました。


えてして何かができるとは、役に立つことであり、役に立つこととはお金になることであると思われている節があると思います。つまり、大まかに定式化すると

    • 何かができること = 役に立つこと = お金になること


みたいな感じです。これにはちょっと疑問を感じます。


また何かができることとは、大多数の人々が求めていると考えられることを、してみせることができること、というのとも違うように感じます。「大多数の人々が求めていると考えられること」とは、例えば高学歴を得てみせるとか、高収入を得てみせるとか、面白い話をしてみせるとか、抜群のプロポーションを得てみせるなどなどです。


でもきっと大切なことは、その人の、相手に対する気持ちなんだと思います。その気持ちを率直に、そして確固たる態度でもって相手に示してあげることなのかもしれないと思います。つまり、

    • 何かができること = 誰かにその人を大切に思っている気持を (態度で) 示すこと


あるいは、

    • 何かができること = 誰かに立派に生きることのお手本を態度で示すこと


なのかもしれません。これらの両辺を等号で結ぶ必要は厳密にはないかもしれませんが、いずれにせよこれらを行なうことは、大変難しいことだと思います。とりわけ持続的に行なうことは、極めて難しいです。また、いざという時に、これらのことをすぐに確実に実行できるかというと、やはりこれも難しい。苦境に立たされている時には実行するのが難しいです。


自分自身に課せられた責務から逃げずに泣かずに履行してみせることの勇敢さと難しさを述べている文を引用してみます。過酷な状況のなかで、自分自身の仕事 (Sache) に徹することは、最高に難しい仕事であると思います。

  • V. E. フランクル  『それでも人生にイエスと言う』、山田邦男、松田美佳訳、春秋社、1993年

この文献から引用してみます。

正真正銘の運命に逃げずに耐え抜くことが、ひとつの行ない、しかもそもそも人間にできる最高の行ないだ*2

苦難や不運を耐え忍ぶということの難しさと、そのような艱難に立ち向かい続けることの栄光。これができるということが、最高にできる人間だと思います。

耐えることが自体が、最高の行ないなのです*3

そうとしか言いようのない事態があるのだと思います。


医者であったフランクルさんは言います。

 その患者さんは、自分の命がもう長くないことを、それどころかあと数時間しかないことをまったく正確に知っていました。私はちょうどそのとき、その病院の当直医として、この男性の最後の午後の回診をしなければなりませんでした。そのときのことをいまでもはっきりと覚えています。ベッドのそばを通りかかったとき、彼は合図して私を呼び寄せました。そして話すのに苦労しながらこう伝えました。午前の病院長の回診のときに聞いて知ったのだが、G教授が、死ぬ直前の苦痛を和らげるため、死ぬ数時間前に私にモルヒネを注射するように指示したんです。だから、今夜で私は「おしまい」だと思う、それで、いまのうちに、この回診の際に注射を済ましておいてください、そうすればあなたも宿直の看護婦に呼ばれてわざわざ私のために安眠を妨げられずにすむでしょうから、と。このようにして、この人は人生の最後の数時間でもまだ、まわりの人を「妨げ」ずにいたわろうと気を配っていたのです。どんなつらさにもどんな苦痛にも耐えた勇気はともかくとして、こういうさりげない言葉、このようにまわりの人のことを思いやる気持ちを見てください。まぎれもなく死ぬ数時間前のことです。ここにすばらしい業績があります。職業上の業績ではないにしても、人間らしい無比の業績があります。[…] この患者さんがいまでも [デザイナーとして] 現役で職業活動を送っていたら、もっとすばらしい広告デザインを発表することができたでしょう。けれども、どんなにすばらしい広告デザインも、世界中で一番立派で美しい広告デザインも、いまお話しした死ぬ数時間前のふるまいにあらわれている業績にはかなわなかったでしょう。それは、さりげないけれども、人間らしい業績なのです。*4

私にこれができるかどうか、疑問です。頭がよいかどうか、高収入かどうか、かっこいいかどうか、美人かどうか、そのようなことは、この際関係してこないと思います。勇気があるか、覚悟があるか、相手のために自分を犠牲にできるのか、それが問題なのだと思います。


石田さんは上記のご高著の中で、ところどころ次のような問題意識を吐露されておられます。すなわち、目の見えない自分が「周囲から助けてもらう代わりに、周囲の人に対して何ができるか」 (例えば、109ページ) という課題です。えらいですね。自分が take する代わりに、相手に対して何かを give してあげなければとお考えなのですね。とても優しいですね。石田さんのこの心情に個人的に付け加えさせてほしいのは、何かを与える際に、いつもいつも何か具体的な物や事を与えようと必死になる必要はないだろうということです。そのような具体的な物や事をあげる必要もありますが、最も大切なのは気持ちだと思います。一言で言えば、愛を示してあげることだろうということです。相手のことを大切に思い、自分がつらい時も相手をいつも気遣ってあげて、自分のことより相手を優先させること。相手を生かし、相手の幸せを最優先させ、可能ならばそのことにより、自らも生かされてあること。これは私個人の経験からいっても、非常に難しいことだと思います。でもそれができる人間が、本当にできる人間なのだろうと思います。

きっと以上のことは、既に石田さんにはおわかりのことと思います。私もそのようにできる人間になりたいと思います。石田さんもそのような人間であってほしいなと思っています。勝手な希望を述べてすみません。上記の他にも石田さん、西村先生のご高著の中には「いいなぁ、すごいなぁ」と感じた言葉がありましたので、またこの日記で記させてもらえればと存じます。


本日の記述に対し、誤解や勘違いや誤字、脱字などがあればすみません。

*1:石田、西村、63ページ。

*2:フランクル、42ページ。

*3:フランクル、42ページ。

*4:フランクル、76-77ページ。