Is the Stephanus Edition of Plato's Works Philologically Unquestionable?

つい先日まで、Plato の著作に関し、私の知らなかったちょっとしたことを一つ、記します。なお、私は Plato はもとより古代ギリシア哲学全般に疎いので、この後の話は割り引きながらお読みください。間違っていることを書いておりましたらすみません。


西欧の哲学を勉強していると、「ステファヌス (ステパヌス)」という名前を聞くことがあるかと思います。例えば、

の凡例には、次のようにあります。

二、ステパヌス版プラトン全集 (一五七八年) の頁数を訳文上段に示した。なお同書の一頁は十行ずつ ABCDE などの記号で段別を示しているので、この訳文にもそれを同じ記号で示した。プラトンの文章を引用するのは、このステパヌス版の頁数と段別で示すのが一般の習慣であるから、読者が照合する場合の便利を思ってである。ただしギリシア文と日本文では、文章構造が相違しているので、若干のずれがあるかもしれない。*1


具体的には、上記『テアイテトス』の本文冒頭に、

142A エウクレイデス ちょうどいま、テルプシオン、君はいなかから来たところなんですか。それともさっきから?*2

とあり、'142A' と書かれていますが、これが Stephanus の版のページ数、段別を表していて、'142' というのが、Stephanus の版の (第1巻目の) 142ページであることをいみしていて、'A' がそのページの1~10行目であることをいみしています。


私は、この Stephanus の版は、いわば決定版、完全版というような感じのものであると、何となく思っておりました。ちなみに古代ギリシア哲学の専門家である内山先生は、

  • 内山勝利   「「ステファヌス版」以前以後 『プラトン著作集』の伝承史から」、『静脩』、京都大学附属図書館発行、第40巻、第2号、2003年

の中で、以下のように述べて、Stephanus の版を非常に高く評価されているようです。

かわって西欧の古典学世界に定着し、長く「標準版」としての地位を占めつづけたのが、[…] アンリ・エティエンヌ(ヘンリクス・ステファヌス)によって刊行されたステファヌス版『プラトン全集』にほかならない。これは文字通りの opera omnia であるとともに、本文校訂においても今日なお無視しえないほどの高水準を達成している。*3


ところで、次の文章を読むと、

Stephanus の版に対して、少し異なる印象を受けます。納富先生の文を引用してみましょう。

 16世紀に集中して出版された [Stephanus 版を含む] ギリシア語『プラトン著作集』の校訂作業は、それが依拠する写本について、2つの根本的な問題点を抱えていた。第一に、各版の校訂者や出版者が、身近に閲覧できる写本を主に用いてそこからギリシア語テクストを再現したが、それらの写本は必ずしも信頼度の高い、優れた写本ではなかった。第二に、そのような校訂作業において、どのような写本がどこに所蔵されていて、それらが相互にどのような関係かを把握している者が誰もいなかった。言うまでもなく、後者は前者の原因の一部をなす。*4

Stephanus の版は、あまり古くない、彼に近い、後代の写本をもとに作られているようです*5。つまり、Plato の original の文献から、はるかに遠く離れた時代の、幾分変容を余儀なくされているであろう写本をもとに作られているらしいことが推測されます。


こうして先生は言います。

[ヨーロッパの] どこにいくつのプラトン写本があり、その中でどれが古く優良かが分かっていなかったのである。[Stephanus をも含む] 16世紀の校訂者が手近な写本に頼ったのは、時代の限界でもあった。*6


そして上記論考の最後あたりで納富先生は述べておられます。原文中の傍点箇所は、太字にして引用します。

[…] 近代の人々がプラトンギリシア語「写本」を読むことはなくなり、16世紀に出版されたステファヌス版を長らく使ってきたため、そこに印刷されたテクスト、時に不十分な写本情報から復元されたり、時に校訂者が推測して改訂したりした文言が、そのまま数世紀にわたって定着してしまった。19世紀以降の文献学は、新たな写本照合をつうじて、それら近代校訂版誤りを正すという作業を課せられることになった。現在私たちが使う校訂版でも、主要写本に依拠したものではない、アルドゥス版やステファヌス版由来の不十分な読みがテクストに入っている箇所が見つかる。これは、近代校訂版が残した、やむを得ない負の遺産なのである。*7


それから最後の最後に先生は次のように記して論を閉じておられます。

近代校訂本の成立事情はまだ完全には解明されておらず、膨大な『プラトン著作集』の全体にわたって校訂の過程を精査し再検討するのは、今後の学界の課題であろう。*8

どうやら Stephanus 版は、「いわゆる「受容版 (editio receptus)」」*9、または普及版とでも言えるものではあったかもしれませんが、これ以上にない正確さを備えているといういみでの決定版、完全版ではないということみたいですね。「精査し再検討する」必要があり、「時に校訂者が推測して改訂したりした文言が、そのまま数世紀にわたって定着してしまっ」ているぐらいだから、鵜呑みにしてはいけないようですね。実際現代では、Stephanus 版を超えるような新たな校訂版が作られているみたいです*10。しかしこれらの新たな校訂版、「現在私たちが使う校訂版でも、主要写本に依拠したものではない、アルドゥス版やステファヌス版由来の不十分な読みがテクストに入っている箇所が見つかる」ということがあるみたいです。十分用心しなければならないようですね。


いずれにしましても、Stephanus 版って、昔々から使われてきた版だし、これが標準と見なされてきたのだから、何となく完全無欠という印象を私は勝手に抱いていたのですが、どうやら違うみたいです。知らなかった。

以上です。誤解や無理解や勘違いや誤字や脱字などがありましたらすみません。

*1:プラトン、3ページ。

*2:プラトン、9ページ。

*3:内山、2ページ。

*4:納富、14ページ。

*5:納富、6-12ページ。

*6:納富、14ページ。

*7:納富、15-16ページ。

*8:納富、16ページ。

*9:納富、11ページ。

*10:内山、7ページ。いわゆる Burnet 版と、近年の Oxford 版。