Was Former Prime Minister Takashi Hara Always on the Side of the Weak?

前回の日記では、この PR 誌から

  • 『みすず』、読者アンケート特集、2015年、1, 2月合併号、第57巻、第1号、通巻634号、みすず書房

三島憲一先生による読書アンケートの回答を引用させていただきました。2014年に先生がお読みになられた文献で、重要と感じられたものを挙げておられます。その一部を今回も再度引用させてもらいます。

 二〇一四年の数少ない読書の収穫はなによりも、井上勝生 『明治日本の植民地支配 −北海道から朝鮮へ』 (岩波現代全書)。
 二〇一三年の八月に出た本だが、なぜ再版に再版を重ねていないのかが不思議で、そのこと自体が現代日本の公共圏の変質を示唆するほどの、重要な本。北海道大学文学部考古学教室の片隅で見つかったいくつかの髑髏と、そこに記された、「東学党の首魁」というメモと署名の佐藤政次郎を手がかりに、著者は堅実な歴史家の手法で資料を次から次へと発掘しながら、日本の朝鮮経営の実態、背後にある札幌農学校の役割、そしてなによりも大部分の紙数を割いて、日清戦争当時の一八九四年十二月から翌年にかけての朝鮮半島での日本軍による東学党への凄まじい虐殺の実態を再構成する。日本軍は東学党全羅道の木浦 [朝鮮半島南西端] やその先の珍島に追いつめて、殺しまくったようだ。だが、この事件は正史から事実上葬られた。この遠征でただ一人の日本軍の死者も靖国に祀られるにあたって、別の作戦で戦死したことになっているほどだ。虐殺の実態は日本軍の銃器の性能の調査や、また兵士の故郷の新聞への手紙、また陣中記録などを発掘して明らかにされる。全羅道の珍島で髑髏の収集がなされたとするメモから佐藤政次郎の特定、おそらく人種学上の興味本位からなされた遺骨収集に新渡戸稲造が絡んでいたかもしれないこと (メモによる収集日からいくらも経たない時期に新渡戸は対岸の木浦から珍島に出張している) などがまるで推理小説のように明らかにされる。さらには全羅道木浦地区での日本によるきわめて勝手な、つまり「朝鮮人」の綿花栽培を頭から馬鹿にした綿花事業の開始とその失敗、そうしたいっさいに日本では平民宰相と評判の高い原敬が絡んでいたことなども含めて知らないことばかり。まさに植民地経営の暗黒部を、戦前のお上品な上流階級の裏にどれだけの、人に言えないことが潜んでいたかが理解できる。この本を読まずに今後は日本の過去は語れない。*1

そして前回のその日記では、上記引用文中にある示唆により、新渡戸稲造氏の問題点を確認してみました。今回は上記引用文中で言及されているもう一人の有名人、原敬元首相について、私の知らなかった問題点を確認してみたいと思います。


さて、原敬元首相は「'18 (大正7) [年] 米騒動で寺内 [正毅] 内閣が倒れると政党政治家として最初の政党内閣を組閣、<平民宰相> として世論の支持をうけた」*2ということで、ここにも引用した通り、「平民宰相」と言われ、よく知られていると思います。私はこの「平民宰相」という呼称から、原元首相に対し、何となくよいイメージを持っていました。しかし、上述の三島先生の引用文にもあるように、実際はそれほどでもない可能性がありそうだと感じ、先生の言及されている

  • 井上勝生  『明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ』、岩波現代全書、岩波書店、2013年

という本と、これ以外の文献でも、ちょっと調べてみました。そこで、井上先生のご高著でも出てくる (159ページ) 次の文献を全文拝読させてもらいましたところ、

以下のような記述を見かけました。

かねて賃上げを要求していた足尾銅山坑夫の運動は1907年2 月4 日には「暴動」化し、7 日に300人の軍隊が出動してようやく鎮圧した。628名が検挙、182名が起訴された。原敬は1907年2 月7 日の日記に「栃木県の警察のみにては到底鎮撫の効なきにより、栃木県知事より第一師団に出兵を求め来り、昨日丁度議院内にて寺内と協議し、高崎の聯隊より三中隊を急に派遣」と記している。7 月3 日には参内して「栃木県谷中村残留家屋十三戸破壊の情況を上奏せり、此事たる特に奏上すべき程の問題にも非ざれども、新聞紙上に毎日登載に付序ながら奏上せしものなり、要するに法律を無視し、田中正造等の教唆によりて頑として動かざるものなり、百七十戸斗りの内僅かに十三戸は止りて動かず、依て破壊せしなり。」と記している。「家屋十三戸破壊」とは、谷中村を渡良瀬川洪水対策と称して遊水池とする措置、すなわち谷中村の消滅である。内務大臣原敬の最も重要な職務である治安維持を遂行し、古河家・古河鉱業の利益を擁護する冷徹で冷酷な記述である。*3

足尾銅山鉱毒事件は大変有名な事件だと思います。この事件では谷中村が強制的に廃村させられ、村が消滅してしまったことはよく知られていると思います。今引いた逸見先生の文章によると、原元首相は (事件当時は、引用文にもあるように、内務大臣) この谷中村消滅に手を貸していたようですね。


次の文献によると、

谷中村の強制廃村に関して、以下のように記述されています。長くなりますが引用してみます。原文にある註は省きます。

栃木県当局は一九〇五 (明治三八) 年夏以降、役人たちを谷中村に送りこみ勧誘と恫喝によって農民たちを移転させていった。谷中村では一九〇二年以降かつてからあった村内の対立と洪水被害による財政の欠乏から、村長が不在であり下都賀郡の書記が村長の職務を管掌していた。県知事はこの管掌村長に命じて、一九〇六年四月村会で谷中村を廃止し、隣の藤岡町に合併する決議をおこなわせようとしたが、村会はこれを否決した。ところが県知事はこの決議をまったく無視して、七月一日市制町村制のもとに成立していた谷中村を廃村にし、藤岡町に合併することを発表したのであった。しかし行政村としての谷中村は廃止されても、未だ一四〇世帯一〇〇〇人近い人びとが残っていた。
 不当な廃村措置にたいして、田中正造は抵抗の意志の固い村民三八名を説いて、「共同行為公正契約」を結ばせるとともに、七月一九日「村税不当賦課取消の訴願」を提出させた。同じ頃田中は、村外の有力者や東京に知識人たちにたいして、谷中村の土地所有者となって、栃木県当局によって強引に進められている土地買収に歯止めをかけ、来るべき土地収用を阻止する力となるよう、呼びかけた。田中の要請に応えて、『新紀元』を発行する安部磯雄石川三四郎・福田英子などのキリスト教社会主義者たち、幸徳秋水の妻の師岡千代子、宮崎滔天の妻の宮崎ツチ、逸見斧吉など三〇余名からの協力の申し出があり、新たな谷中村の地権者となった。

[…]

 栃木県当局の移転反対派農民にたいする切り崩しは、なりふりかまわぬものであった。当局は田中正造の右腕ともいわれた左部彦次郎を抱きこみ、左部をつうじて有力な農民活動家を次々に県側に寝返らせた。移転反対派農民は、一九〇七年はじめには約七〇戸四〇〇人にまで減少したのである。
 一九〇七年一月二六日、政府は谷中村の残留民にたいして、ついに土地収用法の適用の認定公告をだした。これにより、谷中村の土地所有者となる準備を進めいていた島田三郎・三宅雪嶺・大竹貫一などは、地権者となることができなくなったのである。田中正造と谷中残留民たちは、埼玉県北埼玉郡の利島、川辺両村の農民と、前述したような支援者の協力をもって、土地収用法の適用を撤回させようとしたが、政府も土地収用法の執行にあたる県当局も農民たちの要求を一蹴し、移転をあくまで拒否していた堤内一六戸にたいして強制破壊を実施したのであった。同時に堤外地に残留していた三戸は土地収用法によることなく、やはり強制的に破壊されたのであった。田中正造や木下尚江などの支援者の見守るなかで、県の役人は官憲を配置し多数の日雇い人夫を使って、自分の家のなかに座りこんでいる残留民を引きずりだし、次々に家屋を破壊した。病人が居ようと乳飲み児や老人が居ようとも、役人たちは文字どおり強権的に追い立てたのだった。こうして一一六人の農民は、住む家がないまま外に放りだされたのである。農民たちは非暴力主義を貫き、最後まで抵抗の意志を示した。彼らは役人や官憲が引きあげると、再び元の住居跡に雨露をしのぐだけの仮小屋をつくり、以後一〇年の長きにわたって谷中村復活を目標として住みつづけるのである。
 四〇〇年の歴史をもつ谷中村の滅亡は、徹頭徹尾権力の手にかかってなされた。土地収用法の適用を決定した責任者は、第一次西園寺政友会内閣の原敬内務大臣であった。原は一九一八 (大正七) 年に日本ではじめての政党内閣を組閣し、「平民宰相」と称されている政治家であるが、決して平民の代表であったわけではない。彼は足尾銅山古河市兵衛が、その子を養嗣子にした陸奥宗光 (田中正造の国会質問によって、鉱毒問題がはじめて社会問題化した一八九一年当時の農商務大臣) の秘書であり、谷中村が廃村に追いやられる一九〇五年から〇六年にかけては、古河鉱業会社の副社長を勤めた人物であった。それゆえに若き日の社会主義者荒畑寒村が、強制破壊の直後に一気に書き下した『谷中村滅亡史』において、谷中村事件は「資本家と、政府と、県庁との、結託共謀せる組織的罪悪」であると断言し、「嗚呼悪虐なる政府と、暴虐なる資本家級階とを絶滅せよ、平民の膏血を以て彩られたる、彼等の主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て、その頭を飾らしめよ」としめくくったのも、単なるアジテーションではなく、事実にもとづいたことだったのである。*4

なるほど、「土地収用法の適用を決定した責任者は、第一次西園寺政友会内閣の原敬内務大臣であった。原は一九一八 (大正七) 年に日本ではじめての政党内閣を組閣し、「平民宰相」と称されている政治家であるが、決して平民の代表であったわけではない。」


そして、今の引用文にもあった『谷中村滅亡史』をひも解くと、原内務大臣については次のように書かれています。振り仮名の一部を丸カッコに入れて記します。ただしすべての振り仮名を丸カッコに入れて記すことはせず、読みにくいものに限ることにします。

 見よ、政府の虐待や、酷遇や、凌辱や、かへつて彼らの志を堅くせしむるに過ぎず。爰 (ここ) においてか、政府は百方策尽きて、窮余遂に無法にも、[明治] 四十年二月県庁に対して、土地収用法の適用を認可するに至れり。而して当路の伝ふるところの依れば、内務大臣原敬は、首相西園寺公望に泣き付きて、漸く僅かにこれが認可を得しなりといふ。内相原敬の、現に古河鉱業会社の顧問たり、陸奥宗光の子分たりしを思へば、這般 (しゃはん) の消息は、不言不語 (いわずかたらず) の間、自(おのず) からにして会得せらるゝものあらん。*5

どうやら、内務大臣原敬土地収用法を認可し、これを受けて栃木県当局が実力行使に出て、谷中村を滅亡せしめた、というわけのようです。荒畑寒村の『谷中村滅亡史』の第二十六章「谷中村の滅亡」においては、実際にどのように谷中村が行政の手によって破壊されたのかが具体的に記されており、これを読むと非常に悲しくなります。いたたまれないです。踏んだり蹴ったりという感じです。我が家を無理やりつぶされて、その日の夜、蚊帳もないまま一夜を明かし、終夜藪蚊に攻め続けられた農民の方もおられたようで*6、これはとてもきついです。悲惨だ。これではとても弱い者の味方とは言えないです。


ところで、つい最近、3ヵ月ほど前の2014年12月に、次のような本が出版されました。原元首相の最新の伝記です。

この下巻で足尾鉱毒事件のことが触れられていますので、そこを読んでみました。該当する箇所を引用してみます。振り仮名は省きます。

 桂 [太郎] 内閣の治水工事の方針が出ると、渡良瀬川沿いの鉱毒反対運動は停滞していった。ところが田中正造は、谷中村を遊水地とすることに反対し、谷中村に移り住んで反対運動を続けた (由井正臣 『田中正造』 一八一〜一九八頁)。一九〇七年、西園寺内閣は谷中村に土地収用法の適用を公告した。原内相がその所管大臣であった。
 原は、谷中村を買収し貯水池とすることは「数年前より確定し決行し」てきたことであるが、一七〇戸ほどの内わずかに一三戸は留まって立ち退きに応じない、「要するに法律を無視し、田中正造等の教唆によりて頑として動かざるものなり」ととらえた (『原敬日記』 一九〇七年六月二九日、七月三日)。
 田中正造の論理からすると、谷中村など渡良瀬川沿岸の農民たちは何の落ち度もないのに、一方的に足尾銅山鉱毒被害を受け、強制的に谷中村は廃村とされ、村民には故郷からの立ち退きまで強いられる。このような国家権力に抵抗し、不正を訴えるのは当然の権利だ、となる。
 他方、原の論理からすれば、落ち度がないのに不当な被害を受けることはないに越したことはないが、世の中というのはそうしたことがたびたび起こってしまう。現に維新の際に南部藩 (盛岡藩) が薩長から受けた処置は、そうした一つで、どんなに憤慨しても足らないほどのものである。しかし、起きてしまったことへの憤りのあまり、建設的な生き方ができないのは、愚かしい限りである。足尾銅山鉱毒に関しても、前内閣が、できる限り科学的根拠にもとづいて、起こってしまった鉱毒問題を少しでも改善できる実行可能な政策を立てた。それを、帝国議会渡良瀬川沿岸の多くの人々も期待している。それをとりあえずやってみるべきだ、と原は考えた。*7

この引用文を読んでいて気になることがいくつかありますが、例えば「世の中というのはそうしたことがたびたび起こってしまう」とか、「起こってしまった鉱毒問題」という言い方は、ちょっとどうかと思います。まるで他人事というか、自然災害が勝手に起こったという感じです。自然災害が勝手に起こってしまって、起こってしまったことは仕方がない、という感じです。しかしこれはまず第一に、自然災害ではなく人災です。人によって引き起こされたものです。そして第二に、それは仕方がないことではなく、あってはならないことなのです。既成事実として盲従、追認すればいいことではありません。この種の態度は前回の日記でも引用した新渡戸稲造氏の態度にも現れていました*8。誰かがこの災害を起こし、それを十分にくいとどめず、手をこまねいているのです。誰かが責任を取らねばならないのに、責任を取っていないのです。当時の内務大臣原敬古河鉱業株式会社の副社長もしくは顧問でした。であるならば、本人も責任を取らねばなりません。しかし、私の知っている限り、またその限りですが、彼は責任を取っていません。できる限り科学的根拠にもとづいて対策を立てて実行してみたと言われていますが、私が調べてみた限りでは、またその限りにすぎませんけれど、これはかなりいい加減な話です。ちゃんと災害の原因を調べていませんし、対策をきちんと実行していませんし、栃木県当局は対策実行の際、法律に違反することをしています。「できる限りのことはやってみた」というのは、農民側からするとまったく受け入れがたい話だと思います。

それにしても直前の引用文中の「起きてしまったことへの憤りのあまり、建設的な生き方ができないのは、愚かしい限りである」という発言は、原内相が現に文字通りそう言ったわけではないでしょうが、穏当ではないと思います。福島の原発事故により避難を余儀なくされ、今も故郷への帰還を望んでおられる方々にこの言葉を投げかけてみたら、どのように感じられるでしょうか。「ひどい」の一言です。


今日は「平民宰相」原敬足尾鉱毒事件との関係を記してみました。両者の関係はよく知られているみたいですが、私は知りませんでした。また、私の知らないことに、政治家原敬が日本棉花栽培協会筆頭評議員に就いていたことがあります。彼が日本棉花栽培協会筆頭評議員に就いていたことにまつわる負の側面があります。これが一体何をいみするのかについては、この日記の最初のほうで言及しました井上先生のご高著『明治日本の植民地支配』で少し語られています*9。こちらのほうは、たぶんですが、足尾鉱毒事件との関連ほどには知られていないと推測します。ですから棉花栽培にまつわる負の側面をこの日記で報告したほうがよかったのかもしれませんが、井上先生の本はまだよく読んでおりませんので、報告は控えることにしました。ただ、ほんの少しだけ言っておきますと、要するに植民地政策に関係がある、ということです。


原元首相は「平民宰相」と言われることから、何となく平民の味方、庶民の味方、というようなイメージを私は持っておりましたが、実際には必ずしもそうではなかったようです。まったく私の知らないことでした。


以上で終ります。私は原元首相についても、足尾鉱毒事件についてもよく知りませんので、間違ったことを書いておりましたらすみません。謝ります。無知な人間が書いていることですから、上に書かれていることについては慎重にご判断ください。ここでの私の話だけで原元首相についても足尾鉱毒事件についても即断しないようにお願いします。私の記述に疑問を感じられましたら、ぜひご自分でお調べいただき、自分なりの判断を下されるようにお願い致します。

*1:『みすず』、38-39ページ。

*2:三省堂編修所編、『コンサイス日本人名事典 改訂新版』、三省堂、1993年、1020ページ。

*3:逸見、44-45ページ。

*4:東海林、菅井、186-189ページ。

*5:荒畑寒村、『谷中村滅亡史』、岩波文庫岩波書店、1999年、160ページ。

*6:荒畑、171ページ。

*7:伊藤、『原敬 下』、112-113ページ。

*8:当日記、2015年2月22日、項目 'Can You Look Up To Inazo Nitobé?' を参照ください。

*9:井上、47, 161ページ。