Sigmund Freud Reports That Professor Franz Brentano Has a Clear Head and a Lively Personality.

先日、本屋さんで次の本を手に取り、中を見てみました。

私は Freud には特に興味があるわけではないのですが、分析哲学を勉強しているため、 Vienna Circle にはちょっとだけ関心を持っており、昔の the University of Vienna の様子については興味があったので、そのような観点から上記の本を手に取って見ました。するとなかなか面白いことが書いてありましたので、その場で購入しました。今日は私が面白いと感じたこの本の文章を引用してご紹介したいと思います。

上記書籍中で、私が面白く思ったことは、Franz Brentano に関する記述です。私は Brentano についてはほとんど知りません。ただ、多くの方々もご存じでしょうが、Brentano が現象学の起源を成しているということは知っておりました。また、私にとって特に興味深いことは、Lvov-Warsaw School の祖は Twardowski ですが、彼の先生は Brentano で、そのため、Lvov-Warsaw School の遠い祖先は Brentano になるということも知っておりました。これらのことは、今まで知識としては知っていたのですが、感覚的な level で理解してはいませんでした。しかし、上記の金関先生のご高著を拝読しておりますと、「あ、なるほど、そういうわけか。確かに Brentano は Lvov-Warsaw School の祖先になるわけだ。なるほどね」と感覚的、直観的、体感的に、Brentano が Lvov-Warsaw School の起源になることを感じ取ることができたのです。Brentano の理論哲学上のどのような考えが Twardowski を通じて Lvov-Warsaw School に引き継がれたのか、という理論的側面は別として、Brentano が体現していた雰囲気や気分みたいなものが、Twardowski を介して、かの School に伝わったであろうことが把握できたのです。

そこで今日は、Brentano がどのような雰囲気で哲学をしていたのかがわかる文章を金関先生の本から引用してみたいと思います。

まず、以下での引用に関する但し書を記します。

    • 金関先生のご高著原文では、「シュトゥンプフ (Carl Stumpf 1848-1936)」のように、邦語の人名の後、原語と生没年が記されていますが、邦語のみで誰であるか、特定は容易ですから、引用する際には原語と生没年は省きます。
    • 原文中の振り仮名は省いて引用します。
    • 原文中の註は省いて引用します。
    • 引用文中の '[ ]' は原文にあるもの、'〔 〕' は引用者によるものです。
    • 金関先生が indent しながら引用されている文章は、その代わりに box に入れて引くことにします。


さて、Brentano は哲学の先生にして、Catholic の司祭でした。しかし、教皇の不可謬性が宣言されたあと、Brentano の心の中で教会との間に葛藤が生じ、結局彼は司祭を辞し、大学の先生も辞めました。しかしその後、彼は Vienna 大学の先生になります。*1 そして精神分析で有名なあの Freud は、1874/75年の冬学期から76年の夏学期に至るまで4学期に渡り、Brentano の授業を履修していました*2。彼が友人に宛てた手紙に Brentano のことが書かれていますので、その内容から Brentano がどのように哲学をしていたのかがわかります。それでは金関先生の文を、先生の本で出てくる順番に引用してみます。今後、長い引用が続きますが、個人的に面白いと思いますので、どうかお許しください。

 ブレンターノは、カトリック教会を離れたのちも、神への信仰を捨てることはなかった。「生を終えるまで、終始衷心深く宗教的であり、全く神への信頼によって満たされていた」という。教皇を頂点とする教会組織との葛藤にあっても、神への信仰は揺るがず、ブレンターノはキリスト者であり続けた。しかし、少なくとも表層的にはそれと相反するように見えるが、哲学者としては自然科学を自らの哲学の根底に据えていた。一八六六年にヴュルツブルク大学で教授資格獲得のために開かれた討論会で、二八歳のブレンターノは二五のテーゼを提出し、そのなかで「哲学の真の方法は自然科学の方法にほかならない」と宣言した。そして、こうした立場は生涯にわたって変わることはなかった。弟子のシュトゥンプフによれば、ブレンターノが「哲学にとって必要と見なした方法は自然科学にほかならず、また、哲学復活の希望の根拠をそこに置いていた」のである。そして、ブレンターノにとって「哲学の基礎学」は心理学であった。*3

「哲学の真の方法は自然科学の方法にほかならない」! Lvov-Warsaw School では、何か特定の形而上学や認識論上の教説を誰もが共有した上で、哲学を実践していたのではなく、どのような形而上学存在論、認識論や言語哲学を有しても構わないが、ただ、経験的、実証的、科学的とでも言えるような態度で、皆が共有できるような、problem finding と problem solving を繰り返して行く必要があると考えていたようです*4。Brentano の「哲学の方法は自然科学の方法である」という見解は、Lvov-Warsaw School にそのままつながっているようですね。(そして、ある種の分析哲学にも…。)


金関先生の文を続けます。

 ブレンターノはたいへん魅力的な人であったようで、多くの人々がこの哲学者に魅了された。たとえば、一八八四/八五年と八五/八六年の冬学期にその講義を受講したフッサールは次のように書く。

私の受けた第一印象は強烈だった。痩身で、頭はふさふさと渦巻く毛髪に縁どられ、鼻は大胆に反り返り、顔に刻まれた皺は表情に富み、精神の営みばかりではなく、深遠な魂の戦いを物語っていた。そして、その姿は俗世の生活の枠から完全に抜け落ちていた。[…] 講義は、わざとらしい言い回しや、気の利いた扮飾、美辞麗句はいっさいないという話し方で終始したが、しかし、それは無味乾燥な学問的講話とはまるきり違うものだった。

 さらにフッサールによれば、ブレンターノがそのように語るとき、まるで、「永遠の真理を見、天の彼方の世界を告知する者」のように見え、そして、その語りは「僧侶としての身振り」をともなっていたという。司祭の職を辞し、自然科学に基づく哲学を講じながらも、ブレンターノはまたある種の宗教者であり続けたようである。*5

Brentano の講義は、壇上で先生が講義ノートを棒読みし、学生がひたすらせっせとそれをノートに取る、というものではなく、話の内容に学生が引き込まれてしまうような、そんな授業だったようですね。


再び金関先生の文です*6

 フロイトは 〔ギムナジウム時代からの友人〕 ジルバーシュタイン宛の手紙でしばしばブレンターノについて語っている。〔…〕 さらに翌月 〔1874年11月〕 の同人宛の手紙では、ブレンターノを「華麗な人で、学識ある哲学者」と呼び、「神を無みする医学生にして経験主義者」、つまりフロイトが「聞いて驚くなかれ − ブレンターノ教授の神の実在」についての講義を聴いていると書き送る (同年一一月八日付)。そして、その翌年の冬学期末の手紙 (三月七日付) では、こんなことを書いている。

僕ら (僕と 〔親友〕 パーネト) はブレンターノ先生と前より近しい関係に入った。僕らは先生に異議を唱える手紙を送った。すると先生は僕らを家に招き、僕らを論破した。どうも先生は僕らに興味を覚えたらしい。〔友人〕 ヴァーレに僕らのことを尋ねたそうだ。[…] それで異議を唱える第二の手紙を届けると、またも自宅へ来るように言われた。先生は不思議な (つまり、信心深い神学者 (!) で、ダーウィン主義者で、そして、まったくもって聡明で、それどころか天才的なやつだ)、多くの点で理想的な人間だ。先生については今度会ったときいろいろ話してやるよ。目下のところのニュースとしては、とりわけブレンターノの影響がだんだんと大きくなってきて、哲学と動物学に基づいて哲学博士の学位を取ろうという決意が僕の内で熟したということがある。次の学期か、あるいは来年に哲学部に入るためのいろんな交渉が進行している。

 二人の学生が、この哲学教授にどんな「異議」を唱えたのかは、具体的には書かれていない。しかし、「神の実在」にかかわる論議を聴いた後のことなのだから、やはりそれに対する「異議」であったにちがいない。フロイトは「神を無みする」ユダヤ人であった。そのフロイトが、宗派から離脱していたとはいえ「神の実在」を信じるカトリック系の「神学者」とそもそも折り合うはずはない。しかし、にもかかわらず、ブレンターノの私宅に招かれて議論を交わし、そこに「理想的な人間」を見いだして、あまつさえ、転学部まで決意したというのだから、よほどその人柄に惹かれるところがあったのだろう。先に引用したフッサールがブレンターノに捧げる言葉に誇張はなく、フロイトもまた「強烈な」印象を受けたにちがいない。転学部は結局実現しなかったが、この頃は、かなり真剣に考えていたようだ。右の三月七日の手紙には、さらに同月一五日に書き足された部分が続き、この部分には転学部の件についてブレンターノに相談したと書かれている。教授は、医学と哲学の両方の博士号取得を目指すのは立派なことだし、そうした例もあると励ましてくれたという。それはもちろん、ブレンターノがフロイトの能力を見抜いていたからでもあった。
 三月一五日に書き足された部分では、おもにフロイトとパーネトが先生と交わした哲学論議のことが報告されている。それによると、二人の学生は「唯物論者」であるという自覚をもち、そのことによってブレンターノとは「対立する」立場にあった。しかし、そのせいで先生との会話が妨げられることはなかった。ブレンターノは二人が「認識」という問題について考えていると聞いて喜んでくれたという。そして、パーネトがヘルバルトについての見解を求めると、ブレンターノはこう語ったという。

先生は、ヘルバルトの心理学におけるアプリオリ的構造を徹底的に非難した。そして、ヘルバルトが経験、あるいは実験という手段に助けを借りようとはつゆほども思わなかったのは許しがたいと言った。それから、自分は、自然科学の方法を哲学や、とりわけ心理学に応用する経験主義学派に賛同すると包み隠さず明言した (それが先生の哲学の主たる特長であり、そのことによってのみ、僕にとってその哲学が耐えうるものとなる)。そして、ヘルバルトの思弁の根拠のなさを示すいくつかの奇妙な心理学上の観察のことを話してくれた。

Brentano はとても付き合いやすい人だったようですね。「天才的な」かつ「理想的な人間だ」と Freud は言っています。またここでも、Brentano が自然科学の方法と、経験主義/経験論を重視していることがわかります。そして、無神論を唱える者に対しても、感情的にならずに、反論を楽しみ吟味する懐の深さを持ち合わせている人物のようですね。

 ジルバーシュタイン宛三月一五日付の手紙の文面に戻ろう。ブレンターノは哲学を志望する学生の必読書を教えてくれたという。まず読むべきはデカルトである。デカルトは「すべて読み通さねばならない。デカルトは哲学にとっての新たな端緒となりうるから」だ。さらにロックとライプニツが必読である。とりわけロックは「並外れて才気あふれる思想家」だ。それに続く時代の哲学者では、ヒュームとカントが避けて通れない。ブレンターノが一番高く評価していたのはヒュームであったようで、「あらゆる哲学者のなかでもっとも正確に考え、もっとも完成度の高い書き方をした」と述べたという。それに対して、カントは読めと薦めておきながら、その評価は低い。ブレンターノによれば、カントは「詭弁に満ちており、耐えがたい衒学者」である。さらに、その後継者シェリングフィヒテヘーゲルに至っては、「ペテン師」だとまで罵ったという。これについて、フロイトは、ブレンターノの立場が「どれほど唯物論者に近いかわかるだろう」と喜んでいる。そして、フロイトが「こうした哲学者は読まなくてもよいということですか」と尋ねると、先生はこう答えた。

いや、そうではなく、君たちには読んではいけないと言いたいのだ。こんなぬかるんだ悟性の道を歩んではならない。そんなことをしたらあの精神科医のようになってしまう。つまり、最初は狂気を相手にしているわかっている精神科医でも、しかし、ときとともにそれに慣れてしまい、自分の頭がおかしくなってしまうことはまれではないのだ。

 この部分は語られたことが直接法で書かれており、どうもブレンターノはこんな話し方をしたらしい。こうした言い回しで、ブレンターノはドイツ観念論をこき下ろしたのである。
 その後、話はもっと新しい時代の哲学者に及び、ブレンターノは二人にコントを薦めた。それに続いて話題はイギリスの哲学者に移った。これについて先生には言いたいことが「山ほどある」ようだったが、そのとき 〔地理学の〕 ジーモニー教授がやって来たために、二人の学生は追い出された。しかし、今度は一緒に散歩をしながら話そうと誘われたという。
 手紙では、これに続く段落で「君の友人があれほど飛び抜けた人との同席を許されたということを君は自慢していいよ」とフロイトはいささか舞い上がり気味のことを書いている。しかし、有神論者ブレンターノを無条件には受け入れられなかった。〔そしてフロイトは書いている。〕

あれ以来、僕はブレンターノの影響から抜け出ていない − 僕には直截な有神論的論証が論破できないんだ。そして、彼の議論の頂点には有神論的論証がある。先生のすごいのは、どんな決まり文句も嫌い、激情に駆られて人を異端と決めつけることも嫌悪しているところだ。不公正さなしに、そして、大いなる正確さをもって、先生は神の実在を証明してみせる。

 一八歳の青年が超一流の哲学教授を論破できるはずはない。そして、論破できない以上、「やむをえず」ではあるが、フロイトは、自分が「有神論者」とならざるをえなくなったと書く。だからといって、有神論に屈服したわけではなかった。そして、先生があくまで冷静であったように、学生のほうも感情的になりはしなかった。フロイトはこう書き継ぐ。

僕はこのあと何学期かのあいだ先生の哲学のことを徹底的に勉強しようと思う。そして、その哲学についての判断も、有神論と唯物論に関する決着もしばらくは留保しておくつもりだ。

 フロイトは、フッサールの描き出すようなブレンターノの人物像に惹きつけられたのだろうし、経験論に基づく明晰な論理性に魅惑もされたのだろう。しかし、その有神論に納得はできなかった。*7

Brentano は Descartes と、イギリス経験論を高く評価し、ドイツ観念論をひどく非難していますね。最近の学者では Comte を評価しています。Brentano は正確で論理的な論証を展開し、論敵にレッテルを張って切り捨てるようなことはせず、また感情に駆られて文句を言うこともない人柄のようです。たぶん、Brentano は問題を手短にかつ明瞭に示してみせ、自分と相手とが同じ問題を共有できるようにし、そして自分はこれこれの根拠をもってこれこれの論証を通じてこれこれの結論を下すが、あなたはどう思いますか、あなたが私に反対すると言うならば、あなたはどんな根拠により、どんな論証をもとにしてその反対意見を結論するというのでしょうか、あなたの反論を支える論拠と論証は、かくかくしかじかになると思われますが、そこに説得力があるとは私には思えません、私が自分自身に反論するとするならば、これこれこういう観点から攻めてみれば、すこしは有望なところがあるかもしれないと思いますが、あなたもそうされますか、そうされないならどうされますか、興味深い反論は常時、大いに受け付けますよ、私を論破できればあなたはもう大した哲学者です、論破されたら論破されたで構いませんよ、それならそうで真理により近づけるし、それが神の御心とというものです、いや、これでは有神論を論破されたことを認めていないことになりますね、すみません、いずれにせよ、挑戦はいつでも受け付けますよ、真正面から来てくださいね、という感じて Brentano は Freud たち学生に接していたのかな、と想像してしまいました。Twardowski も、こんな感じで挑戦を受けて、鍛えられたのかもしれないと空想してしまいます。Brentano の態度とは、ちょっと繰り返しになりますが、次のようなものだったのかもしれません。すなわち、難解で深遠な style に流れることなく、わかりやすく問題を提示し、自分の論証を明瞭な形で示し、反論があるのなら、あなたも同じようにして反論してみればいい、きっとできるはずだからと述べ、私が負けの時は白旗を上げて降参しよう、でも私の勝ちならば、一杯おごってもらおうかな、という感じでしょうか。(お酒は信仰者として禁じられていたかもしれないけれど…。) 相手に自分なら先生を論破できるかもしれない、と思わせて学生を鼓舞し、学生の好奇心と自尊心と野心を満たしてやることが、うまかったのかもしれません。

科学者フロイトにとってあくまで宗教は敵であった。神は欲望空想の産物でしかなく、宗教は人間に害悪しかもたらさない。こうした無神論的確信がわずかながらも揺らいだのが、ブレンターノと会話を交わした時期であった。
 一八七五年三月二七日付のジルバーシュタイン宛の手紙ではこのように書く。

ブレンターノの神はまったくの論理的原理だ。そして、僕としてはそうした原理としてそれを受け入れることができる。直接的な神の作用は反目的論的であるとして、先生はこれを退ける。神を顧慮することがどの程度まで人生に影響を及ぼすと考えておられるのかはまだ不明だ。でも、なんだかそんなことを倫理学でほのめかされたように思う。

 神が「論理的原理」にすぎず、神がこの世界に、あるいは人間に「直接的」に作用しないと考えるのであれば、他方また、宗教が神に対して何らかの作用を及ぼすことを請い願う形式であるとするなら、ブレンターノの立場において、宗教は本来的には成り立たないだろう。ブレンターノはいわば有神論的無宗教者であるようだ。その著書『神の実在について』に付された「解題」で 〔現代の〕 哲学者カースティルは次のように言う。

ブレンターノにとって、宗教とは、アリストテレス的な意味での叡智、すなわち、全理論的学問中で最高の学問における叡智についての民衆の予感、民衆にとっての代用物なのである。

 フロイトはブレンターノに出会った時点で、「神を無みする」「唯物論者」を自称していたのであるから、この哲学教授の根本的な立場には違和感をもたざるをえなかった。また、民衆のための「代用物」であれ、宗教を容認するブレンターノは、フロイトの立場とは相容れない。他方、ブレンターノの圧倒的な論理構成力によって立証される「論理的原理」としての神を、大学生のフロイトは論破できなかった。その意味で、フロイト無神論は一瞬であれ、揺らぐことにもなった。しかし、当然のことながら、有神論者ブレンターノを 〔…〕 全面的には受け入れられなかった。その人柄や、論理の明晰性に魅了されながらも、最終的に違和感は払拭されなかったと考えてしかるべきだ。*8

Brentano がやっていることは、次のような感じのことでしょうか。倫理的には神は存在すべきだと考えることと、論理的に神はあるはずだということとを、分けて考えて、前者は別として後者の観点から、神のいるいないを問えば、さしあたり感情的になる必要はありませんから、後者の観点からしてみると、あなたにとって神はいますかいませんか、どちらだと思いますか、神秘主義の立場に立つのでないかぎり、答えはきっと理屈だけで出てくるはずですから、出してみてください、私の答えはこうです、Freud 君はどうですか、みたいなものでしょうか。論理や理屈、経験的証拠などがすべてであり、権威や権力は関係ないから、学生の皆さんもどしどし考えてみてください、という雰囲気だったのかもしれません。

 先述したとおりに、ブレンターノはもともとはカトリックの司祭で、また、ウィーンでは「イエズス会士」だという噂を流されたこともあったが、しかし、ウィーン大学フロイトを失望させたユダヤ人差別に関与することはけっしてなかった。それは、フロイトや、同じくユダヤ人であるパーネトを温かく迎える態度からも明らかだ。また、ブレンターノを師と仰ぐフッサールユダヤ人である。そして、一八八〇年に妻として迎えたイーダもユダヤ人であった。*9

Brentano という人は、物事を見た目で判断するのではなく、その本質でもって判断し、人種差別に加担しない、独立した精神の持ち主だったようですね。元々 Catholic 系であることから、結構保守的で頑迷固陋なところがありそうなところが、単に「元々」そうだったにすぎないためか、むしろ柔軟かつ公正で、最新の科学を重んじていたところがあるようですから進取の気性にも富んだ方だったのかもしれません。Lvov-Warsaw School でもユダヤ系の方々が多く活躍しましたので、Brentano の open な性格は、かの School にも、ある程度、受け継がれたのかもしれませんね*10


Lvov-Warsaw School のことをいくらかご存じの方ならば、以上の引用文を読まれれば、確かに Brentano が Lvov-Warsaw School の起源になっているのもうなずけるのではないでしょうか。私は金関先生のご高著を読んでいて、初めて感覚的に把握できました。「なるほどね、そういうわけか」という感じでした。


以上で終ります。誤解や勘違いや、誤記、間違った転写などをしておりましたらお詫び申し上げます。よく見直しておりませんので、書き間違いがあるかもしれません。どうもすみません。

*1:金関、106-107ページ。

*2:金関、103ページ。

*3:金関、107ページ。

*4:こんな感じのことを J. Woleński さんがどこかで書いていたと思う。どこだったかは今すぐには思い出せない。調べればすぐわかることだけれど、ちょっと時間がないので、申し訳ございませんが、やめておきます。

*5:金関、107-108ページ。

*6:金関、110-112ページ。

*7:金関、123-125ページ。

*8:金関、126-127ページ。

*9:金関、138-139ページ。

*10:今、「ある程度」と留保を付けましたが、それというのも、Lukasiewicz と Leśniewski は Tarski をユダヤ人という理由で嫌っていたところがありましたので、今のような留保を付けたわけです。Lukasiewicz と Leśniewski の Tarski に対する人種差別的な態度は、たぶんその筋ではよく知られていると思います。かつてこの日記でもそのことを報告したことがありました。