Monads Have No Windows. Why?


モナドには窓がない。」


これはよく知られたセリフだろうと思います。私も知っておりましたが、「モナドには窓がない、うむ、そうらしいですね」と思うだけで、なぜそうなのか、考えてみたこともなかったのですが、先日洗面台の前で、手を洗おうとしていたのか、あるいは歯を磨こうとしていたのか、とにかく何かの折にふと、「なんでモナドには窓がないのだろう? 窓がないと言うけれど、じゃあ屋根もないのだろうか? まさか、屋根はある、なんてことはないよね」と思い、試しに翻訳書で調べてみることにしました。そうして調べてみると、割とあっさりその理由がわかりました。しかも人から「モナドって何なの? とにかくまずは細かい話はいいから、具体例を上げてみてよ」と言われたら、以前の私なら monad の具体例を一つも上げることができなかったでしょうが、今回の簡単な調査で、その具体例も Leibniz さん本人によって何度も上げられていることがわかりました。

そこで今日は monad には窓がないというその簡単な理由と、monad の具体例を記してみたいと思います。なお、注意しておきますが、私は Leibniz の専門家ではありません。そのため、以下の記述には重大な間違いが含まれている可能性がございます。また、以下の話はとてもよく知られた話のはずです。Leibniz さんの文章の翻訳にそのまま書かれていることです。ですから、珍しい話ではありません。専門家の先生方や、Leibniz の文章を熱心に読み勉強されている方にはみな知られていることだと思いますので、特別目新しい話ではございません。いかに私が Leibniz さんの文をちゃんと読んでいなかったかが露わになってしまうような、ごく基本的な話をします。最後に、以下に記す monad には窓がないという理由、および monad の具体例の記述は、極めて部分的で不完全で大まかなものです。まったく完全な記述からは程遠いものです。詳細なことは何も述べておらず、以下の記述を読んだだけで monad に関するあらゆる謎がすっかり解けてしまう、などということは微塵もございません。繰り返します。以下の記述により、monad についての不可解な点が、きれいさっぱり解明されてしまう、などということは一片たりともございません。Monad を理解するための、単なるささやかな足がかりを、ごくごくわずかばかり暫定的に提示することを目的としているだけです。


では、もう一度、問いを掲げておきます。なぜ monad には窓がないのでしょうか? Monad の具体例には何があるでしょうか?


Monad については何はさておき Monadology を見ればよいでしょうから、まずは Monadology の邦訳から、有名な窓の話が出てくるところまでを、引用してみます。次の本から引用します。

引用に際しては、原文にある註の類いは一切省きます。以下の項目番号一から七を除く本文中の太字は、原文中の傍点の代りに引用者によって施されたものです。表題と執筆年を太字にしたこと、および下線の追加も引用者によるものです。この下線部に窓の話が出てきます。また、できるだけ原文にある旧字体をそのままとどめて引用しましたが、ここで使うことのできない旧字体もありましたので、その場合は、特に断ることなく新字体で引用しています。以下に出てくるいくつかの引用文において、これらのことは同様に当てはまります。

それでは引用します。

單子論  一七一四年


 我々がここに論ずる單子といふものは合成體の中に入る單純な實體に他ならない。單純なとは部分が無いといふことである。


 合成體が有るからには、單純な實體が無くてはならない。合成體といふものは單純な實體の集まり即ち集合に他ならないのである。


 ところで部分が無いところには擴がりも形も可分性も有り得ない。それでこれらの單子は「自然の本當の原子」であり一口にいへば「事象の要素」である。


 又、單子には分解の惧がない。且つ單純な實體が自然的に消滅することがあらうとはどうしても考へられない。


 同じ理由によつて、單純な實體が自然的に生ずることがあらうとはどうしても考へられない。それを合成によつて造ることができないからである。


 して見ると單子は生ずるにしても滅びるにしても一擧にする他ないと云つてもいい。言換へれば、創造によつてしか生ぜず絶滅によつてしか滅びない。ところが合成されたものは部分づつ生ずる、もしくは滅びる。


 それから又どうして單子がその内部を何か他の創造物によつて變質されるもしくは變化されることができるかといふことも説明のしやうがない。單子の中へは何も移し入れる譯に行かないし、單子の中で何か内的な運動を惹き起したり操つたり増したり減らしたりすることができると考へる譯にも行かないからである。さういふことは部分部分の間に變化が有る合成體の中でなら可能である。單子には物が出たり入つたりすることのできるやうな窓が無い。昔スコラの人達が説いた感性的形象のやうに附隨性が實體から離れて行つたり實體の外をさまよつたりすることはできない。それと同樣に實體も附隨性も外から單子の中へ入ることはできない。*1

このようにここまで引用してみましたが、正直に申しますと、不勉強な私には、これで monad に窓がない理由がわかったかと言うと、ちょっとよくわかりません。中世の哲学に詳しければ、「なるほど、よくわかった」と感じることができるのかもしれませんが、不幸なことに、中世の哲学に私は疎いので、どうもピンときません。

ところで、上記引用文下線部分の「窓」という言葉に、河野先生は註を施され、『形而上学叙説』の第26章を参照するよう促しておられます*2。そこでは窓に関することが書かれているようです。それではその部分を引用してみましょう。興味深い章ですので、短い章でもありますがから、第26章を全文引用してみます。引用する本は、

です。実はこの章を読んで、私は初めてなぜ monad に窓がないのか、その理由と monad の具体例がわかりました。引用文中の下線部分に窓の話が出てきます。

廿六  我々は我々の中にあらゆる觀念を持つてゐるといふこと。及びプラトンの想起に就いて。


 觀念とは何であるかをはつきり考へるには、多義の曖昧を防がなければならない。多くの人は觀念を我々の思想の形相又は差異と考へてゐる。さう考へれば我々は、觀念のことを考へてゐる間だけしか、その觀念を「精神」*3の中に持つてゐないことになる。我々が再びその觀念のことを思ふ度毎に、同一の物について、前の觀念とは無論似てゐるが、然も違つた觀念を持つことになる。然し又觀念を思想の直接對象、即ち我々がそれを直觀してゐない時も存續する、何か永續不變的な形相と考へてゐる人もゐるやうである。さう思へば成程我々の精神*4は常に、どんなものでもそれを考へる機會が來さへすれば、何か或る本性又は形相を表象するといふ性質を持つてゐる。私は、我々の精神が持ついてゐる「この何か或る本性、形相又は本質を表出するといふ性質」が、本當の意味でいふ「物の觀念」であつて、それは我々の中にあり、我々がそれを考へても考へなくても常に我々の中にあるものだと信じてゐる。我々の精神は神及び宇宙を表出し、あらゆる本質並びにあらゆる實在を表出してゐるからである。
 このことは私の立てた諸原理と一致する。何故かといへば、自然的に何物も外から我々の「精神」の中に入つて來ないからである。恰も、我々の精神が外から來る使者のやうな形象を迎え入れるとか、我々の精神に戸口や窓があるとかいふやうに考へるのは、我々の持つてゐる惡い習慣である。我々は「精神」の中に、これらの形相を悉く持つてゐる。然も常に持つてゐる。何故かと云へば、「精神」は常にその未來の思想を悉く表出してゐて、今後判明に考へる筈の凡てのものを、混雜にではあるが、既に考へてゐるからである。そこで「我々が「精神」の中に既にその觀念を持つてゐて、それが質料となつてその思想が出來上るやうなもの」でなければ、我々には知ることができない。
 これはプラトンの懐いてゐた優れた考である。プラトンが説いたあの想起説には非常に堅實な根據がある。たゞあの説を正しく解釋して、前世といふやうな誤つた考を除き、「精神が今知つたり考へたりすることは、昔既に判明に知つたり考へたりした筈だ」などと考へさへしなければいい。プラトンは又自分の見解を確めるのに見事な實驗によつてゐる。即ち一人の少年を持ち出して來て、それに不可通約數に關する、幾何學の極めてむつかしい眞理を知らず知らずに呑み込ますのであるが、その少年には何も教へることをせず、たゞ順序を經て適當に質問を仕掛けるだけにするのである。これによつて、我々の精神はさういふことをすべて潛勢的に知つてゐるので、眞理を知るには注意を必要とするだけであり、從つて、我々の精神は少くとも「これらの眞理が依存してゐる觀念」を持つてゐるといふことがわかる。のみならず、眞理を觀念相互の關係と考へるならば、我々の精神は既にそれらの眞理を持つてゐると云ふことができる。*5

私はこの章を読んで、「はは〜、なるほど、そういうわけだったか」と、monad に窓がない理由がピンときました。細かい話はよくわかりませんけれども、とにかく Leibniz さんは Plato の anamnesis のことを念頭に置いているんだ。下線部分の「精神」なる言葉が、monad をいみしているのならば、その場合には、anamnesis のような考え方を背景にして、monad には窓がないと Leibniz さんは言っているようですね。

この引用文中では、Leibniz さんによると、既に私たちの精神は、真理を知るに足る様々な形相や観念を元々有しているのであって、それらが後から外から精神の中に入ってくることはないし、それらの形相や観念を受け入れる窓口のようなものだって精神にはそもそもないのだ、というような感じのことを Leibniz さんはおっしゃりたいようですね。

精神はさておくとして、もちろんここでの形相や観念なるものが、いったい何なのか、ということが問題となってきますが、上記引用文中では Plato の Meno の奴隷少年の話が書かれていますので、Meno におけるこの anamnesis の話を参照すれば、Leibniz さんがここで形相や観念として何を思っておられたか、その hint ぐらいは手に入りそうです。


そこで念のため、まず、anamnesis の説明文を見てみましょう。

 人間の魂は不死であり、われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、じつは、「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているのは、すでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと (アナムネーシス) にほかならないのである。 − このような要旨の言葉によって、プラトンの著作のなかではじめて、想起説と呼ばれる思想が提示された。*6

さて Meno の奴隷少年の「不可通約數に關する、幾何學の極めてむつかしい眞理」とは、いわゆる三平方の定理の証明の話です*7。Anamnesis の方法を説く、この定理証明の部分では、奴隷の少年に対し、この少年にとっては既知である、次の様々な概念、つまり正方形、線、四つ、等しい、図形、大きい、小さい、長さ、辺、二倍、長さの単位などなどに注意を促すことによって、それだけで、一見未知とも思われる三平方の定理を Plato/Socrates は少年に知らしめています*8。ということは、おそらくですが、Leibniz さんは、上記引用文中の形相、観念の事例として、今上げた正方形や線などの諸概念の類い、この種の概念のような何かを考えているのではないかと推測されます。ですから、monad に窓があった場合に入ってきたり出ていったりする可能性のあるものとして、Leibniz さんが念頭に置いているものとは、正方形だとか線だとか様々な数や同一性などの、概念だか観念だか何かその種のものだと予想されます。

こうしてわかってきましたこととは、monad に窓がない理由というのも、そもそも私たちはものを考え、理解し、知るための下地となっているようなものを既に生まれながらにして備えているのであって、このような下地は、生まれてから経験を通じて獲得するのではないのだ、ということです。これはどうもいわゆる認識論上の empiricism vs. rationalism の話に関連しているようであって、Leibniz さんとしては精神を単なる tabula rasa とは見なさず、このことと monad には窓がないこととにつながりがあるみたいな感じですね。

結局、等しいとか、長いとか、2とか3などの基本的な概念のようなものは、元々私たちの心に備わっているのであるから、それらは後から取り入れたりするものではないので、それらを取り入れる窓だってないのだ、ということが monad に窓がない大よその理由みたいに思われます。極めて大よそのものですが…。


ところで上にたびたび出てくる精神とは monad なのでしょうか? Leibniz さんはどのように述べておられるのでしょうか? 調べてみると、実際に monad の具体例と言えば、Leibniz さんにとり、精神の類いのようです。そのことがわかる本人の文章を邦訳で引用してみます。


『単子論』における河野先生の解説文に出てくるのですが、Leibniz による、投函されなかった書簡には、次のようにあります。執筆年月は1714年7月のようです。

 [学問に熱心な軍人] ユゴニ氏から聞くと [フランス・オルレアン公顧問長官 Nicolas Rémond である] あなたは私の説く單子に就いて困難を感じてをられるやうである。その困難が何であるか承りたいと思つてゐるが、それまでに一通り自分の考を説明しておくことにしよう。私の信ずるところでは宇宙は專ら單純な實體即ち單子もしくはその集合體から成立つてゐる。この單純な實體は普通、我々人間や精靈に於ては l'esprit (理性的精神) と呼ばれ、動物に於ては l'âme (精神) と云はれてゐるものである。*9

どうやら monad の具体例には、人間あるいは動物の心とか精神とか魂というようなものがあるようですね。また、

  • ライプニツ  「理性に基づく自然及び恩惠の原理」、1714年、『単子論』に収録。「原理」と略。

[知覚し、記憶し、想起できる] かういふ生活體は動物と呼ばれ、その單子は精神と呼ばれる。そしてこの精神が理性にまで高められると一層崇高なものとなつて所謂「精神」(理性的精神) の中に數へられる。*10

ここでも人間と動物の精神が monad なのだと言っておられますね。最後に、

  • ライプニツ  「自然そのものに就いて。一名、創造物の内在的な力及びその作用に就いて」、1698年、『単子論』に「自然そのもの」という題名で収録。

 [Altorf 大学教授 Johann C. Strum] 氏は最近、物體が物質と「精神」(理性的精神) とから成立つといふ説を辯護した。但しその場合「精神」 spiritus といふものを (他の場合人が考へ慣れてゐるやうに) 悟性を具へた事象 res intelligens と取らずに、精神 anima もしくは精神類似の形相と取り、單なる樣相と取らずに、實體を構成してゐる永續的なもの constitutivum substantiale perseverans と取ればいい。これは私がいつも單子といふ名で呼んでゐるもので、その中には云はば表象 perceptio もあるし欲求 appetitus もある。*11

ちょっと難しいですが、とにかく精神とか魂の類いを私は monad と呼んでいるのだと、Leibniz 先生はおっしゃっておられるようですね。Monad の具体例とは、一言で言えば、心とか精神なんだ。


ちなみに、先日購入したばかりの次の Monadology の注釈書で、

  • Lloyd Strickland  Leibniz's Monadology: A New Translation and Guide, Edinburgh University Press, 2014
  • Nicholas Rescher  G.W. Leibniz's Monadology: An Edition for Students, Routledge, 1991/2002

窓の話が出てくる section 7 の comment を全文読んでみましたが、窓についてはわずかばかりしか言及されていません*12。Strickland さんの本で、上記の河野先生のご指摘と同じ『形而上学叙説』の該当箇所を参照するように言われているぐらいです*13。Rescher さんの場合は、単に monads は 'windowless' だと言われているだけで*14、窓に関し詳細な話は何もありません。どうやら、monad の窓とはそもそも何なのかとか、窓があるのかないのかとか、あるならどうなり、ないならどうなるのかとか、そのような問いはまったく立てられておらず、窓に関しては徹底的に追究しようという気持ちがかなり希薄なようです。というか、はっきり言って、無関心に見えます。


他方、英語圏の入門的注釈書と異なり、日本の注釈書においては、monad の窓について、かなり真剣に検討がなされているようです。確か、

では、section 7 の comment で、窓について少し詳しく検討されていたと思います。本が手元になく、ページ数は覚えていませんが、調べていただければわかると思います。ただし今の私にはちょっと難しい話でしたので、内容はよくはわかりませんでしたが…。

また、日本語の論文では問題の窓について、次の文献が詳しい検討を施しており、重要そうに見えます。

ここでは Leibniz と彼以降の諸家による窓に対する見解が比較、検討されています。酒井先生は問題の「窓」という表現を、比喩ではなく、文字通り、真剣に捉えるべきだとお考えのようです*15。なお、この酒井先生の論文は、ちらっと見ただけで、まだ拝読致しておりません。また勉強させていただきます。


以上で今日の日記を終わりますが、初めにも述べました通り、今回の monad に関する話は、極めて、極めて限定的で断片的で暫定的なものです。Monad の全貌に対し、軽く、本当に軽く引っかいただけにすぎません。実際、この日記で引用した『単子論』の7節以降も続けて読んで行くと、monad についてますますよくわかるようになるかというと、そんなことはまったくなく、7節に関し、いったんわかったと思ったものが、一転してますますわからなくなってきます。今日、記したことは monad という高峰のふもとへの道であり、その山麓にたどり着いてはみたものの、7節以降を本格的に登り始めると、途端に道に迷い出すという感じになります。ですから、ここまで記してきた monad に関する話は、単なるとっかかりにすぎません。まぁ、Leibniz さん本人の (翻訳による) 言葉に基づいた monad 理解なので、それなりに堅実な足がかりとはなっているでしょうが、それでもはるか山頂へ至る一合目の地に足を踏み入れただけのことです。そのため、今日の話は話の半分にもなっていませんので、これですべてがわかったつもりになってはいけませんし、これですべてがわかるようになるだろうとも思わないでください。私自身、まだまだわからないことだらけだと感じています。

なお、上で言及した

には、本の終わり辺りに 'Glossary of Terms' という page があって、monad についての簡単な定義、説明文が出ていますから、ここで引用しておきます。

Monad Literally: that which is one; a simple substance […]. Monads are either primitive or derivative (that is, created). The primitive monad is God. There are various grades of derivative monads: bare monads, or entelechies; animal souls; minds.*16

これを見てもわかるように、神様も monad なんだ。個々人の心だけじゃないんだ。深くて難しそうですね。


いずれにしましても、私は monad って、丸くて小っちゃいものにみたいに何となく思っていましたが、丸くもないし、大きさもなく、とりあえずのところ、実はそれは私の心であり、あなたの心なんですね。私は monad を持っているし、あなたも monad を持っている。私もあなたも monad でできているし、私が私であるのは、私の爪や髪の毛が私を私であらしめているのではなく、私の心が私を私としてあらしめているのならば、私とは monad なのだ、ということになるでしょうか。実際、昔の作家も言っています、

「吾輩はモナドである。窓はまだない。… 」

言ってなかったかな?


これで終わります。今後も引き続き、Monadology を勉強して行きたいと思います。特にそこに見られる論理的原理とでも言えるものには興味を感じます。本日の記述の中で、誤解や無理解や勘違いや大間違いがありましたらすみません。誤字や脱字などにもお詫び申し上げます。

*1:『単子論』、210-215ページ。

*2:『単子論』、216ページ、註(三).

*3:引用者註: 河野先生は 'esprit' を鍵カッコ付きで「「精神」」と訳されているようです。『形而上学叙説』、78ページ、註一参照。

*4:引用者註: 河野先生は 'âme' を鍵カッコなしの「精神」と訳されているようです。『形而上学叙説』、78ページ、註一参照。

*5:ライプニツ、「形而上學敍説」、129-131ページ。

*6:藤沢令夫、「解説」、プラトン、『メノン』、藤沢令夫訳、岩波文庫岩波書店、1994年、145-146ページ。

*7:『メノン』、45-69ページ。Stephanus 版の80Dから86Cまで。

*8:『メノン』の特に50ページ以降。

*9:『単子論』、185-186ページ。

*10:「原理」、152ページ。

*11:「自然そのもの」、341ページ。

*12:Strickland, pp. 52-55, Rescher, pp. 58-60.

*13:Strickland, p. 53, n. 46.

*14:Rescher, p. 59.

*15:これも原文が手元にないので記憶に頼りますが、この件に関しては、確かこの論文の註(7)を参照ください。

*16:Strickland, p. 281