洋書

先日 Leśniewski の Protothetic に関する、以下のよく知られた論文集を購入しました。ちょっと値段の高い本です。少しずつお金を貯めて、ようやく貯まったので購入しました。

  • Jan T. J. Srzednicki and Zbigniew Stachniak eds.  Leśniewski's Systems: Protothetic, Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 54, 1998

Leśniewski は三つの体系を作り出したようです。Protothetic, Ontology, Mereology です。そのうち、Protothetic について行なわれた重要な研究論文を集成したものが、この本です。Ontology と Mereology についてなされた重要な研究の論文を集成したものとしては、次が出ており、

  • Jan T. J. Srzednicki and V. Frederick Rickey eds.  Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984

上記二つの論文集で、Leśniewski の三つの体系に関する重要な主要論文が読めるようになっています。後者は既に所有しておりました。今回、前者も購入することで、ようやく揃いの論文集をともに確保することができました。
前者の内容を記しておきます。

Table of Contents

  • Zbigniew Stachniak  ''Editor's Foreword''
  • Peter M. Simons  ''Nominalism in Poland''
  • V. Frederick Rickey  ''A Survey of Leśniewski's Logic''
  • Alfred Tajtelbaum-Tarski  ''On the Primitive Term of Logistic''
  • Bolesław Sobociński  ''An Investigation of Protothetic''
  • Jerzy Słupecki  ''St. Leśniewski's Protothetics''
  • Bolesław Sobociński  ''On the Single Axioms of Protothetic''
  • V. Frederick Rickey  ''Axiomatic Inscriptional Syntax Part II: The Syntax of Protothetic''
  • Audoënus Le Blanc  ''Investigations in Protothetic''
  • ''Protothetic Bibliography''

実は、ここに挙がっている論文のほとんどは既に copy などをすることで所持しており、また読んでしまった論文や、ちょくちょく拾い読みしている論文もあります。(理解できているかどうかは別ですが…。) 上に挙がっている論文等のうち、読んだこともなければ見たこともない、という文章は、編者の foreword ぐらいでした。ただ、Tarski 論文は、あるいみで、初めてだったかもしれません。この論文は有名で、Tarski さんの博論を訳したものであり、'30年代の論文を集めた彼の英訳論文集に入っているものですが、ただし、英訳論文集の論文は、著者公認とはいえ、博論そのままの英訳ではなく、いくつかの論文を折衷して訳しているらしいです。しかし上に挙がっている今回の Tarski 論文は、博論をそのまま訳しているようで、私はそのままの訳を見るのは初めてです。

ほとんど既に持っている論文ばかりが入っている論文集であり、しかも結構なお値段の本ですが、それにもかかわらず、なぜわざわざそうまでして購入したのかと言いますと、この本は Leśniewski の研究者がみな言及する本であり、所有していないとちょっと不便だからです。それに、紙に copy した論文よりも本になると読みやすいからです。難しい論文が多く収録されていますが、また勉強していきたいです。


その他に購入した文献を記します。

  • Margaret Cameron and Robert J. Stainton eds.  Linguistic Content: New Essays on the History of Philosophy of Language, Oxford University Press, 2015

時に「言語的な内容」と呼ばれるものは、いかなる存在論的身分を持っているのか、この点について考察してきた西洋の哲学的伝統を振り返り、古代のギリシャからかつてのアラビアを通り、中世ヨーロッパを経て現代の20世紀初頭に至る言語哲学の諸見解を再検討する書籍。

Table of Contents

    1. Margaret Cameron and Robert Stainton  ''Introduction''
    2. Deborah Modrak  ''Method, Meaning, and Ontology in Plato's Philosophy of Language''
    3. Francesco Ademollo  ''Names, Verbs, and Sentences in Ancient Greek Philosophy''
    4. Margaret Cameron  ''On What Is Said: The Stoics and Peter Abelard''
    5. Peter Adamson and Alexander Key  ''Philosophy of Language in the Medieval Arabic Tradition''
    6. Joke Spruyt and Catarina Dutilh Novaes  ''Those 'Funny Words': Medieval Theories of Syncategorematic Terms''
    7. Gyula Klima  ''Semantic Content in Aquinas and Ockham''
    8. Lodi Nauta  ''Meaning and Linguistic Usage in Renaissance Humanism: The Case of Valla''
    9. E. Jennifer Ashworth  ''Medieval Theories of Signification to John Locke''
    10. Benjamin Hill  ''Locke on the Names of Modes''
    11. Michael Forster  ''Herder's Doctrine of Meaning as Use''
    12. Patrick Rysiew  ''Thomas Reid on Language''
    13. Laurent Cesalli  '''Meaning in Action': Anton Marty's Pragmatic Semantics''

Herder, Reid, Marty の考えを検討している論文は、そんなに頻繁には見かけないように感じられますので、少しばかり珍しい印象を受けます。


和書

2番目の本は次の本の文庫版。

  • イーアン・ハッキング  『表現と介入 ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』、渡辺博訳、産業図書、1986年

ただし、著者名や副題を少し修正するとともに、訳語にも変更があるようです。'entity' の訳語を「存在」から「対象」へ、'be' と 'exist' の訳語を「実在する」から「存在する」へ修正しています。そして戸田山和久先生の解説文「解説 『表現と介入』のどこがスゴイのか」が付いています。


邦語論考

私は Benjamin の文を、今までほとんど読んだことがないと思います。なぜだか読んだことがありません。自分でも不思議な気がします。非常に有名な批評家、思想家でありながら、まるで読んだことがないというのも、私としても少し珍しいです。ところが最近、部屋に積んである本の中から、たまたま次の本を手に取って読み始めると、これが結構面白いですね。

この本では Heidegger が論じられているくだりがあり、その部分は既に読んでいましたが、かつその部分だけしか読んだことがありませんでしたが、その他の部分を今回読み出してみると、非常に興味深いですね。そしてこの本の末尾にある「文献解題」の9ページ目を見ると、上記の Benjamin の書評「ドイツ・ファシズムの理論」について、次のような comment があります。

第一次世界大戦直後の時期における右翼のテクノロジー観に物象化という概念を鋭敏に適用した最初の、しかも今なお唯一の試み […]

本当に「最初」で本当に「唯一の試み」なのかどうか、私はそのあたりのことは判断できませんが、それにしてもとても気になる comment ですね。そのようなわけで「ドイツ・ファシズムの理論」を copy して入手し、早速拝読致しました。書評ですので書評対象の本を読んでいないと、十分にはよくわからない点がありました。それにこの書評が書かれた時代について Benjamin なりの診断が書評内で下されているようで、その時代のことをよく知りませんので、この点も少しよくわからないところがありました。

とはいえ、Herf 先生のご高著の第1章「反動的モダニズムのパラドクス」、第2章「ワイマールにおける保守革命」を読んでいると、「Benjamin はとても重要そうだな」と初めて実感しました。Herf 先生のご高著は、日本で言えば、和魂洋才についての本ですね。この本の「訳者あとがき」では「和魂洋才」あるいは「和魂漢才」という言葉は出てきませんが、Herf 先生の扱っている疑問は、1930年代におけるドイツの右翼が、自身の心酔している romanticism や非合理主義、すなわちゲルマン魂と、合理性に基礎を置く近代の technology とを、どのようにして一緒に受け入れ、肯定し、称賛することができたのか、というものです。

この疑問に対し、最も早い段階から重要な hint を与えていたのが Benjamin のようですね。

合理性によっては捉えられない、心の奥深くに息づいている時を超えた魂と、合理的にすべて割り切り計算して抽象的に捉えてしまう理性的な最新の機械文明とは、どのようにすれば折り合いを付けることができるのか。水と油のようなこれら二つのゲルマン魂と機械文明とを、どうすれば接ぎ木できるのか。事実、'30年代の右翼はそれら二つを何らかの考えにより、折り合いを付けてみせたわけですが、どうしてこのようなことができたのでしょうか。

Herf 先生のご高著を拝読しつつ個人的に想像するに、どうやら Benjamin の診断によると、大体、あくまで大体ですが、次のような感じのことが言えるのかもしれません。つまり当時の右翼の話では、戦争で使われた機械は偉大なる力の賜物であり、苛烈に使用されたこれらの武器とその効果には、何か美しいものがあるのであって、このような美を称賛することは望ましいことであり、美の化身に魅入られながら、戦場の激しい「鋼鉄の嵐」の中で鍛え上げられ清められた魂は永遠に救済され、「超人」となってあがめられ、こうして高貴な存在となった英雄こそが、大衆文化という軽薄で、資本主義という拝金主義に犯された、かつ自由主義という混乱に満ちている Weimar の世の中を、至高の共同体へと一新できるのだ、最もドイツらしいドイツへと再生できるのだ、したがって近代の technology は唾棄すべきものではなく、むしろ我らのゲルマン魂を救い上げ、神聖な域へと引き上げ、世の中を刷新し、より善き共同体へと領導するものとして歓迎されるべきものなのだ、と。勝手に補足を入れつつ、Benjamin の考えをふくらませながら当時の右翼の思いを再現すると、こんな雰囲気でしょうか。間違っていましたらすみません。

私は当時の Heidegger や Ernst Jünger の暗黒面に興味がありますので、Benjamin の示唆を、今後可能ならば吟味してみたいと思います。

  • 區建英  「丸山眞男の方法と中国思想の省察」、同志社大学人文科学研究所編、『戦後日本思想と東アジア 知識人と民衆』、人文研ブックレット no. 49, 同志社大学人文科学研究所発行、2015年

この文章は、次の講演会の記録です。

    • 2015年1月11日、同志社大学人文科学研究所第84回公開講演会、「戦後日本思想と東アジア 知識人と民衆」

區先生は若いころから中国の社会の在り方に疑問をお持ちだったようです。この疑問への理解を深め、解決への方向性が明らかになってきたのは、丸山さんの著作を読むことによってだったようです。區先生の文章では、社会に対して疑問を抱き、そして丸山さんの著作に出会い、そこから問題意識を深め、そして今後の展望を展開していく自らの process が語られています。どうやら區先生と丸山さんの間には似たような問題意識がったみたいです。お二人のその問題意識を、私の方で噛み砕いて文章にし、並べてみます。(言うまでもなく、事柄を単純化して文章にしておりますので、お二人の先生が、正確にこの通りに考えていたと主張しているわけではございません。)

    • 丸山: 江戸時代の閉塞的な社会を打破して明治維新により、いち早く近代化を遂げた日本が、なぜ、先の戦争で破滅の道を歩んだのか、その灰燼の中から私たちはいかにしてより民主的でより自由な社会を作っていけるのか。
    • 區: 戦前の植民化された中国から戦争の痛手を潜り抜け、輝かしい中華人民共和国を建国したにもかかわらず、なぜ文化革命の悲惨へと落ち込み、天安門事件へと至りついてしまったのか、この状況からいかにして民主的で自由な中国を作り上げていけばよいのか。


中国の方が丸山さんの文章をどのような動機や考えでお読みになられているのか、そのことがわかって興味深いです。