Why Did Henri Poincare Oppose the Logistic Doctrine That Mathematical Induction was a Kind of Definition?

先日は数学的帰納法のごくごく初歩的なことに関しまして、memo を記しましたが、数学的帰納法を巡る哲学的問題として、従来よく知られたものとして何があっただろうかと思い返してみますと、おそらく一番有名なものの一つに、論理主義者たちの考える数学的帰納法の見方に対し、Poincaré がなした批判であろうと推測致します。

そこで今日は、どうして Poincaré は、論理主義者たちによる数学的帰納法の見方を否定したのか、この点を確認してみます。ただし、Poincaré による批判点には、大きく分けて、たぶん少なくとも二つあるだろうと個人的に感じます。その二つのうち、今日取り上げるのは一つだけです。(今日取り上げないもう一つの論点は、数学的帰納法を表す式が、a priori な総合的真理であるか否かを巡るものです。)

また、今日の日記も、単に確認をするだけで、私の方で何か新しい事柄を付け加えたり、主張したりは致しません。私は数学的帰納法に詳しいわけでもありませんし、Poincaré の哲学的見解に詳しいわけでもございません。Poincaré による批判の基本点の一部を、ただ確認するだけです。今の私には、それだけの力しかございません。

以下では例によって、Poincaré の文を引用して、彼がなぜ論理主義者たちの数学的帰納法の考え方を批判するのか、そのことを見てみます。参照するのは、便宜上、次の邦訳だけに致します。仏語原文や英訳などは、時間の都合上、確認しておりません。


それではさっそく引用してみます。各引用文に付された註に見られるページ数は、この上記の本のページを表します。また、旧字体のままで引用しますが、その字体がない場合などは、特に断らずに新字体で対応しております。さらに、原文にある傍点は、引用の際、下線に変えてあります。


Poincaré によると、論理主義者たちは、数学的帰納法を数の定義の一種と見なしていると言います。

「數學的歸納法は本來の意味に於ける公理ではない、また先天的綜合判斷でもない。それはたゞ整數の定義であるに過ぎない。」と彼等 [論理主義者たち] はいう。かくてこの原理は單なる規約に過ぎないということになる。*1

Poincaré は数学的帰納法を定義と見なすことに反対します。なぜなのでしょうか? ところでそもそも Poincaré は定義について、何と考えているのでしょうか? 彼の定義観を見てみましょう。

定義は定義される對象の存在を主張する。故にすべての定義は公理をふくむとは屡屡云われることであって、諸君はこれを承知していよう。故に、定義は、その用語に於ても、矛盾を含まずまたさきに承認してある眞理とも矛盾しないことを證明し得なければ純論理的見地からしては正當なものとは認められないのである。
 しかし、そればかりでは充分ではない。定義は規約の如き形に於て述べられるのであるが、しかも、もしこれを任意の規約の如くに押しつけようとするならば、大多數の人々はこれに反抗するであろう。諸君が數多くの質問に答えた後、はじめて彼等は納得するであろう。*2

私は、正直に言いまして、この文章を読んで Poincaré 先生は何をおっしゃっておられるのか、当初はよくわかりませんでした。定義に際しては、定義されるものの存在が主張されるというのはいかなることなのでしょうか? 現在の私たちにとっては、定義とは nominal な、単なる stipulative なものだ、というのが通説、教科書的公式見解でしょう。それは存在の主張をしようというものではありません。平たく言ってしまえば、私たちにとっては、定義とは第一に、表現の単なる言い替えです。それなのに存在の主張というのは、ちょっと解せません。

それに定義は公理を含むとはいかなることなのでしょうか? しかもそれを諸君は承知しているはずだとは、そう言われても困ってしまいます。たぶん現代の大部分の読者は、そのようなことは承知していないだろうと思います。(もちろん先生は私たち21世紀の読者に向かって話しかけているわけではないのでしょうが…。)

さらに、定義では、その定義式を利用するかぎりは、その定義式を持ってきても矛盾を来たさないことを証明しなければならないとは、いかなることでしょう? 単に nominal で stipulative にすぎないものであるから、元からその理論なり体系なりが矛盾していなければ、定義式を付け加えただけでは矛盾など来たさないはずです。にもかかわらず「そのことを証明せねばならないのだ!」と言われても、ちょっと困ります。

加えて、定義を規約の如く押しつけてはならぬ、と述べておられるようですが、そもそも定義とは規約にすぎないでしょうに、それではいけないとは、いかなる謂いなのでしょう?

そこで先生のご高著の、別の個所を参照してみましょう。この個所で、上記の疑問に対する回答の一端が明らかになってくるとともに、その結果、Poincaré が数学的帰納法を定義と見なすことに反対する理由も後々わかってきます。

[数学的帰納法を、公理ではなく単なる変装した定義であると] かく見做す權利を有するためには二つの條件を滿足しなければならぬ。[その条件のうちの一つ目は*3以下の通りである。] ステュアト・ミルによれば、すべての定義は公理を含む、すなわち定義される對象が存在する、という公理を含むという。かくの如しとするならば、公理が變裝した定義ではなく、かえって定義こそ變裝した公理であるということになる。ミルは存在なる語を物質的經驗的意味に解した。すなわち圓を定義することは自然界にまるいものが存在することを斷定することであるというのが彼の眞意である。
 かゝる形に於ては彼の意見は容認することができない。數學は物質的對象の存在には無關係である。數學に於て存在という語のもつ意味は一つしかない。すなわち矛盾がないということを表わすのである。かく訂正を施せば、ステュアト・ミルの思想は正しいものとなる、すなわち、一つの對象を定義することは、その定義が矛盾をふくまないと主張することである。
 故に一系の公準があって、もしそれが矛盾を含まぬことが證明されるならば、これを以てそこに現われる概念の一つの定義を表わすものと考えることができるが、もしこの證明が不可能であるならば、吾々はこれを證明なしに容認しなければならぬ、すなわちそれは一つの公理となる。かくの如くもし公準のうちに定義を求めようとすれば、吾々はふたゝび定義のうちに公理を見出すのである。
 一つの定義が矛盾を含まぬことを示すには、もっとも多くの場合、人は例證によってそれを示そうとする、すなわち、定義を滿足する對象の一例をつくろうと試みる。公準による定義の場合をとれば、A なる概念を定義しようとして、A とは、或るいくつかの公準があてはまる對象すべてを指すものと定義を與えるとする。もし吾々がこのすべての公準が或る對象 B について眞であることを直接證明できるならば、この定義は正しい根據がある、すなわち B なるものは A の一例なのである。すべての公準が同時に滿足される場合があるのであるから、吾々は安んじて、公準に矛盾のないことを信ずることができるであろう。
 しかしながら、例證によるかゝる直接の證明は必ずしも可能であるとは限らない。
 かゝる場合に、公準が矛盾を含まぬことを確立するためには、その公準を前提としてそれから演繹できるあらゆる命題を考えて、その命題のうちいずれの二つをとっても互に矛盾する如きことがないことを示さなければならぬ。もし、かゝる命題の數が有限であったならば直接驗證することができるが、かゝる場合はきわめて稀であってその上また興味も少ないのである。
 もし、かゝる命題の數が無限であるならば、もはや直接驗證することはできない、他の證明法によらなければならぬのであるが、かくするときには、一般にいま正に吟味しようとしている數學的歸納法の助をかりて證明するのやむなきに至るのである。*4

なるほど、Poincaré は J. S. Mill の定義観を踏襲してるんだ。Poincaré は J. S. Mill に従い、定義が成り立つためには、定義されるものの存在が保証されていなければならぬ、その存在が前提されていなければならぬと、このように考えているようですね。そしてその際の存在とは、何らかの形で経験的に捉えることができる、というようなことではなく、数学においては無矛盾であることだと Poincaré 先生は述べているようですね。こうしてみると、どうやら Poincaré 先生にとっては、定義とは nominal で stipulative なものでなく、いくらか real なもののようですね。そしてこの「いくらか」という留保があるのは、上記に見られる Mill の立場から推測されるように、定義を徹頭徹尾 real definition のみに限ってしまうのではなく、私たちの数学的感覚とでも言うべきもの、あるいは私たちの数学的活動で見い出されるもの、そのようなものをうまくすくい上げている公理系で、その系が無矛盾であるならば、その時、その公理系の公理に含まれている言葉が表す概念は、何らかの数学的実在に相当するものを正しく捕捉できていると言っていいのだと、Poincaré 先生はお考えのように推測されるからです。

こうして Poincaré 先生にとって定義とは、矛盾を来たさない、何らかの内容を持った主張であるように感じられます。おそらく先生にとって幾何学図形の円を定義することは、「円」という言葉を、もっと長い表現の単なる言い換えとすることでもなければ、円自身について勝手な約束事を立てることでもなく、矛盾を引き起こさないように、円自身について何か重要なこと、本質的なことを主張することであるみたいに思われます。しかしそのようであるならば、先生にとって定義とは、何だか公理に似ていますね。Nominal でもなく stipulative でもない、何らかの点で real な公理と言えそうな感じがします。


さて、上記の引用文では、定義とはどのようなものであるかが述べられているとともに、無限の数に上る対象にかかわる定義を提示する場合には、数学的帰納法によってその定義から矛盾が引き起こされないことを証明せねばならないと Poincaré 先生は言います。そしてその証明の際に必要となってくるのが数学的帰納法だ、ということです。しかし、Poincaré 先生によると、この帰納法の原理は定義の一種とは見なし得ないのだそうです。先生はその理由を別の個所で述べていますので、今度はそちらを引いてみましょう。

 これらの原理は變裝した定義と考えることができるであろうか。そのためには、これらの原理が矛盾を含まぬことを證明する方法がなければならぬ。すなわち、演繹の續くまゝに如何に遠くまで追って行っても、決して矛盾に陷ることがないことを確かめなければならないであろう。
 次の如く推理しようと試みることもできるであろう。すなわち、矛盾を含まぬ前提に新論理學の演算を施すとき、その結果もやはり矛盾を含まないことを證明することができる。したがって、もし n 箇の演算の後矛盾に遇わなかったならば、n+1 番目の演算の後にも矛盾に遇うことはないであろう。故に矛盾が始まる瞬間が存在し得ない。すなわち、吾々が決して矛盾に遇わないことを示す。吾々は上の如く推理する權利があるであろうか。否その權利はない。かくすることは數學的歸納法を用いていることにほかならない。しかも數學的歸納法の原理は、未だ吾々は知らないのであるということを忘れてはならぬ*5

 またもし、他の證明法が案出されたとしても、やはりこの原理に基礎をおかなければならないであろう。なぜならば、その互に矛盾しないことを證明すべき諸公理から引出され得べき結果は、その數無限であるからである。
 […]
 吾々の結論は、第一に歸納法原理は整數の變裝した定義の如く見做し得ない、ということである*6

Poincaré 先生によると、数学的帰納法を定義と見なしたいのならば、先ほどからの引用文にあるように、その定義から矛盾が出てこないことを証明せねばなりません。これは先生にとっての大前提した。そうすると、今、数学的帰納法を述べている式を定義と見なしたいので、この式から矛盾が出てこないことを証明しなければなりません。しかしそのためには数学的帰納法をもってしなければならず、それでは論点先取になってしまいます。故に数学的帰納法を定義と見なすことはできません。これが、数学的帰納法を定義と見なし得ないとする Poincaré 先生の理由です。要するに、数学的帰納法を定義と見なそうとすれば、論点先取の虚偽に陥らざるを得ないので、数学的帰納法は定義ではない、ということです。

先生は別の個所で、数の定義の際に、かつてのその試みが、論点先取の虚偽を犯してきたことを指摘しています。

 わたくしは [いかにして数を定義すべきかという] この問題を扱ったものを讀むたびに、いつも深い不安を感ずる。いつも先決問題要求の虚僞 [pétition de principe/petitio principii] に行き當りはしないかという氣がする。そして直ぐにそれが見當らないと注意が足らなかったのではないかと恐れるのである。*7

今回の論理主義者たちによる、数学的帰納法でもってする数の定義にも、同様の虚偽に陥っていることが、Poincaré 先生による、数学的帰納法を定義とすることへの反対理由のようです。


以上が、Poincaré 先生による、数学的帰納法を定義と見なすことへの反対理由の一つなのですが、ここまで読んできて個人的に引っ掛かりを覚えるのは、定義を J. S. Mill 流に捉えるべきなのか、ということです。Real definition のようなものが、本当の、正当な定義なのか、ということです。まぁ、これは定義を nominal で stipulative なものと見るのが当然と考えている現代の人間ならば、自然と浮かび上がってくる疑問です*8

それと、私はこの疑問よりもっと興味深いことに個人的に気が付きました。それは、以上の話の途中で、Poincaré の述べる定義観について、「定義が公理みたいだ、ここでの定義は公理に似ている」というようなことを、私は言いました。このことを巡って、私個人としては興味深いことを感じ取りました。そのことは、また日を改めて記すことができればと思います。ただし、記したい内容が、まだ頭の中でもやもやしているだけで、形が取れていないので、記すことができるかどうかは、はっきりしませんが…。それに私個人が興味を持っていることであって、他の方々が興味を持てるような話かどうか、はなはだ不安ではありますが…。


これで終わります。誤解や無理解や勘違いや、誤字、脱字等がございましたら。申し訳ございません。謝ります。

*1:159ページ。

*2:140ページ。

*3:二つ目は、当座のところ無関係な内容になっておりますので、引用致しません。

*4:160-162ページ。

*5:173-174ページ。

*6:183ページ。

*7:164ページ。

*8:他にも疑問点は浮かび上がってきますが、今日は深入りするつもりはありませんので、「real definition は定義と言えるのか」および「それだけが定義なのか」という疑問に言及するだけにしておきます。