先日、次の本を購入しました。
ここには Heidegger の文章として、以下の話が載っています。
このうち、後者を読み直してみました。加えて同時に次の文献も拝読し直しました。
- ラインハルト・メーリング 「1933年9月ベルリンのマルティン・ハイデガーとカール・シュミット 新たな資料状況から」、権左武志訳解題、『思想』、岩波書店、2013年第9号、no. 1073.
すると個人的に興味深いことに気が付きました。今日はそのことを記します。その気が付いたことというのは、「なぜわれらは田舎に留まるか?」という話において、Heidegger が語っていることと、Mehring 先生による研究成果「1933年9月ベルリンのマルティン・ハイデガーとカール・シュミット」において明らかにされている Heidegger の行動とは、何か齟齬があるのではなかろうか、ということです。あるいは Mehring 先生の研究結果が正しいとするならば、Heidegger が語っていることは misleading であろう、ということです。要するに、Heidegger の言っていることとやっていることは違っているのではないか、ということです。ただし、私が誤解、誤読している可能性があります。ですので、これから記す話は100%正しいとは思わないでください。間違っている可能性を念頭に置いたうえで読まれますようよろしくお願い致します。私も「絶対に正しいはずだ」とは思っておりません。「たぶん大筋正しいような気がするけれども、ひょっとしたら間違っているかもしれない。でも大体では正しいのではなかろうか」と思いながら記しております。間違っておりましたらすみません。
まず、「なぜわれらは田舎に留まるか?」という話の背景を明らかにしておきます。それには次の、訳者矢代先生の解説が役に立ちます。
この解題から背景のわかる有用な情報を引用してみましょう。
ハイデッガーは一九三三年四月、フライブルク大学総長に就任した。その二週間後、ナチスにも入党し、五月二七日行なわれた大学総長就任講演が有名な『ドイツ的大学の自己主張』である。越えて、翌年二月、任期わずか一年にしてハイデッガーは総長の職を辞した。*2
ここに訳出した『なぜわれらは田舎に留まるか?』は、総長退任後まもなく行なわれたラジオ講演であり、オーベル・バーデンの国家社会主義機関紙『アレマンネ』の一九三四年三月七日号に収載されたものである。[ギド・シュネーベルガーの] 『ハイデッガー拾遺』によれば、それに先立って三月一日号に次のようなハイデッガーのラジオ講演の通知が載せられている。
「木曜日、午後六時にマルティン・ハイデッガー教授が『なぜわれらは田舎に留まるか?』と題した、アクチュアルなテーマに関して講演する。フライブルクの放送局で行なわれる講演は南部放送にも中継される。」*3
「アレマンネ紙」の通知による限り、ハイデッガーは、ふたたびナチス文教政策の延長線上でアクチュアルなテーマを語るものと予想されていたに相違ない。(たとえ、辞任という出来事があったにしても…)
だが、講演はそうした期待を裏切って、後の我々の見る限り、後期ハイデッガーの思索の原形質とも見える思索が語られたのである。我々は、この小文によって、後期ハイデッガーの思索がすでにこのころ生まれつつあったことを窺い知ることができる。
この転回がナチスにとって打撃であったことは言うまでもなかろう。その時期、ナチスは政権獲得から具体的独裁体制の確立の道を着実に歩んでいたからである。*4
さて、「なぜわれらは田舎に留まるか?」を読むと、Heidegger は都会を negative に見ており、田舎を positive に見ていることがわかります。都会はひどいところだが、田舎はいいところだ、という感じです。そして都会よりも田舎での方が、哲学をするのにふさわしいといった思いを抱いているようだとわかります。そしてこのこと故に、自分は Berlin のような大都会には移り住まず、Schwarzwald の森の中の田舎に留まって思索をするのだ、と主張しているような印象を受けます。たぶん大抵の読者がそのような印象を受けると思います。
例えば、Heidegger は都会について、次のように言います。
都市世界は、破滅的な謬見に陥る危険に満ちている。きわめて声高で、活動的で、すべてを趣味化してしまう押しつけがましさは、しばしば農夫たちの世界とその存在を思いわずらっているかのように見える。*5
そして田舎に関連して、以下のように言います。
それに反し農夫の想いは、単純素朴にして確実な、見すごしえない誠実さをもっている。*6
このように、Heidegger は都会と田舎を対比し、後者での方が哲学するにふさわしいと語った上で*7、次のように述べます。
最近、私はベルリン大学への二度目の招聘を受けた。これを機会に私は、都会から [Todtnauberg の] ヒュッテに引き籠った。私は山々や森や農家の語ることに耳を傾けている。招聘があった時、私は七五歳の老農夫である旧友のところへ行った。彼はベルリンへの招聘のことは新聞で読んで知っていた。彼は何と語ったか。彼は澄みきった眼の確信に満ちた視線をゆっくり私にむけて、口を堅く閉ざしたまま、誠実で思慮深い手を私の肩に置き、そして − ほとんど気づかないほど頭を振った。それは、こういうことを言おうとしたのだ − 絶対にだめだ! と。*8
何だかとても picturesque な感じがしますね。都会は煩悩に満ちているが、田舎は純粋、質朴、無心なところがあり、存在、あるいは有、あるいは何かその種のものの声に耳を傾けるにふさわしい場所だから、私は都会に住まず、田舎に住むのだ、と Heidegger は述べているように見えます。そしてほとんど大部分の読者が、彼の話をそのように解すると思います。私も今までそのように理解しておりました。
ところが、Mehring 先生の最近の研究「1933年9月ベルリンのマルティン・ハイデガーとカール・シュミット」の12-15ページを合わせて読むと、Heidegger が Berlin 行きをやめたのは、「都会がいやで田舎が好きだから」、「都会はくだらなく田舎の方が重要だから」というようなことが理由ではないことがわかります。あるいはそのような理由もあったかもしれませんが、まったく別の理由、もっと世俗的で卑近な理由があったらしいことがわかります。
Mehring 先生の論文の上記該当 page は、正直に言いまして、私にはちょっとよくわからないところがありました。すっきり、くっきり、はっきりと、そこで言われていることがわかった、というわけではないのですが、私の理解した限りでは、先生の論文の該当箇所から、Heidegger は、「なぜわれらは田舎に留まるか?」という話を公表する半年ほど前の1933年9月ごろに、Berlin への招聘を受諾するか否かを逡巡している際に、次のように考えていたらしいと推測されます。そのことを私の方で一部補足しながら記してみます。誤解しておりましたらすみません。(直後の段落内の数字は、Mehring 論文で関係している page を表しています。)
すなわち、Heidegger 自身は、自分が Berlin 大学総長の職に就き(13)、哲学部の教授を兼任し(12)、我が哲学を首都で鼓吹できるものと思っていました。そして Berlin のある Preussen のみならず(13)、全ドイツの哲学教授に自らの哲学と Nazis の掲げる指導理念を注入できると思っていました。これにより Heidegger の哲学と Nazis の指導理念を注入された教師がドイツ全土にその哲学と理念を宣布して回る、おそらくこのようなことができると Heidegger は期待し、また Nazis からはこのようなことを期待されているものと思っていました。ところが話を聞くため Berlin に向かい、ふたを開けてみるとそうではなく、おそらく文教政策の指導者としては、Carl Schmitt に主導権を奪われており(14)、彼の方が権力の中枢に圧倒的に近い位置にいて(14)、自分は大した地位も役割も与えられていないことがわかりました(13)。また Nazis は Heidegger に対して協力的とも言えず(13)、Nazis の文部官僚からは招聘後のことについて中途半端であやふやな計画、展望を語られるだけで(13)、招聘を受け入れたところで実際には何もできない、させてもらえないことを Heidegger は悟りました(13)。だから Heidegger は Berlin に行くのはやめた、というわけです。
もしも、Mehring 先生の論文に表されている研究が正しく、また、私が先生の文献を誤読していなければ、先生の研究結果から言えることは、Heidegger が Berlin に行かなかったのは、彼が Nazis によって高い地位を提供されなかったから、高度な役割を期待されていなかったから、ということになると思います。Berlin のような大都会は惑溺に満ちていて、Schwarzwald のような田舎は純朴だから、ということが、Berlin 行きを Heidegger が断った理由ではない、と考えられます。あるいは少なくとも、断った表向きの高尚な理由には「都会は喧騒に満ちていて、静かに哲学するには田舎の方がよいから」ということがあったかもしれませんが、その裏の、もっと卑俗な理由には「Nazis によって高い評価も地位も与えられず、Schmitt との競争に破れたから」ということがあったらしいということです。
以上の通りだとすると、「なぜわれらは田舎に留まるか?」で語る、Heidegger が Berlin に行かなかった理由は、表向きの理由でしかなかったように思われます。この表向きの理由を捉えて矢代先生は、先に引用した文章において、「なぜわれらは田舎に留まるか?」での Heidegger の
講演は [ナチス文教政策の話になるであろうという] そうした期待を裏切って、後の我々の見る限り、後期ハイデッガーの思索の原形質とも見える思索が語られたのである。我々は、この小文によって、後期ハイデッガーの思索がすでにこのころ生まれつつあったことを窺い知ることができる。
とおっしゃっておられるのだと思います。しかし裏の理由も踏まえるならば、この講演は高尚な話ばかりとは言えず、その背後から Heidegger の恨み言が聞こえてくるように思います。実際、Heidegger は、上で引用した Berlin 招聘の話の直前の段落で、次のように語っています。
われわれは如才ない諂い [へつらい] やまがいものの民族的なるものなど放っておこう − われわれはそして、あの上の [方にあるヒュッテでの] 単純で強固な現存を、まじめに学びとろう。その時はじめて現存は、再びわれわれに語りかけてくるのだ。*9
「如才ない諂いやまがいものの民族的なるもの」とは、おそらくですが Nazism とその周辺に見られるもののことだと推測します。この文のあと、山の上の Hütte に留まって、哲学的思索を展開することが重要だと述べられていることから見て、「如才ない諂いやまがいものの民族的なるもの」とは、やはり大都会 Berlin で跋扈しているもののことと解してよいように思われます。これら権力の中枢 Berlin で声高に叫ばれているイズムとその担い手たちから、Heidegger はあまり相手にされなかったことにより、もう山を降りてわざわざ Berlin まで行って、そこに移り住むということはあきらめて、山の上で存在のささやきに耳を傾け、まがいものではない、本物の民族的なるものをつかみ出し、抱擁することを目指そうではないか、と講演では高唱されているのであろうと推測します。
そうだとしますと、上で引用しました矢代先生の文章、
「アレマンネ紙」の通知による限り、ハイデッガーは、ふたたびナチス文教政策の延長線上でアクチュアルなテーマを語るものと予想されていたに相違ない。(たとえ、辞任という出来事があったにしても…)
だが、講演はそうした期待を裏切って、後の我々の見る限り、後期ハイデッガーの思索の原形質とも見える思索が語られたのである。我々は、この小文によって、後期ハイデッガーの思索がすでにこのころ生まれつつあったことを窺い知ることができる。
この転回がナチスにとって打撃であったことは言うまでもなかろう。*10
の最後の文「この転回がナチスにとって打撃であったことは言うまでもなかろう」という主張は、的を外してしまっている可能性があります。実際には Nazis にとって打撃でも何でもなく、事実はその逆に、そもそも Heidegger にとって、Nazis の態度は打撃だったのであり、その結果、Heidegger は講演で「よろしい、君たち Nazis がそのような態度に出るのなら、私の方から積極的に協力を申し出て、具体的に力を貸すということも、もうしないつもりだ。私は君たちの活動を全面的には否定しはしない。長い目で見ることにする。そして私の方はと言えば、私にとっての主戦場である哲学という field で民族的な革命を私なりに追究させてもらうことにしよう」と言っているように思われます。
さて、以上の見解に対し、Heidegger からも反論があるでしょう。その一つに、以上の見解によると、Heidegger の講演では、自分が都会の Berlin に行かず、田舎に留まった理由が正確に述べられていない、自分が Berlin に行かなかった本当の理由が述べられていない、と訴えられているのに対し、Heidegger は
(1) 「私の講演の題名をよく読んでもらいたい。講演の題名は「なぜわれらは田舎に留まるか?」になっている。田舎に留まる「われら(wir)」の理由を語っているのであって「われ(Ich)」一人の理由を語っているのではない。だから私個人の理由を語る必要はなかったし、実際に極私的な理由は語っていないのだ。そのあたりを誤読しないでもらいたい。」
と述べるかもしれません。我ら一般にとって田舎に留まる理由が語られているのであって、もっと言えば、田舎に留まる「べき」理由が講演では語られているのであって、存在ではなく当為が語られているのだ、と言えるかもしれません。上での見解は、我と我々という個人と一般の混同が見られるとともに、存在と当為の混同が見られると、Heidegger からは反論があるかもしれません。
また、Heidegger は次のような反論を展開することも考えられます。すなわち、以下のごとくです。Heidegger 曰く、
(2) 「概して、Mehring 論文が 私の講演内容を反駁していると言われているようだが、事実は逆である。私の講演を前提にするならば、講演の方が論文を反駁している結果になるのだ。私の講演は、いわば一次文献である。それに対し Mehring 教授の論文は二次文献に過ぎない。一次文献という証拠から見て、この一次文献に矛盾することを述べている二次文献あるとするならば、それは一次文献の方がまずいのではなく、二次文献の方がまずいのである。違うかね? 私の主張していることと合わないことを主張しているのが Mehring 論文である。とするならば、書き直されるべきは Mehring 論文ではないのか。違うかね?」
これらの Heidegger による言い分について、(1) に関しては、私たちからは「それでも Heidegger 先生、先生の言う通りだとしても、それはちょっと misleading ではありませんか?」と言いたくなってしまいますね。(2) に関しては、「先生の言っていることと、やっていることに齟齬があるように思いますと述べているだけなのです。一次文献で言われている通りではないことが、二次文献で明らかにされていると思われるのです」と、このように言いたくなってしまいます。
う〜む、さてさて、どうでしょうかね。この他にも Heidegger 先生から反論がありうるでしょうし、その反論に対しても、再反論が考えられると思いますが、私は Heidegger 哲学については無知ですし、通りすがりに思ったことをここに書き付けているだけですから、このあたりでやめにしておきます。本日の話については、絶対に鵜呑みにしないでください。Heidegger という人間についても、その哲学についてもよく知らない者が、熟慮の上で書いた話ではありませんので、誤りが多数含まれている可能性が大です。必ずご自分で勉強していただき、よくよく思慮を重ねた上で、ご判断くださいますようお願い申し上げます。
ここまでの記述に関し、Heidegger, Mehring, 矢代先生各氏に対し、誤解しておりましたらすみません。謝ります。その他、誤読や書き間違いなど、あらゆる間違いに対し、ここでお詫び申し上げます。また勉強致します。