Curry's Paradox: A Rather Formal Exposition

次回の日記で Curry's Paradox と類似の paradox を説明する予定のため*1、今日は前者の paradox の若干 formal な説明を行ないます。そのうちの truth-theoretic version と呼ばれる説明を示します。参考にするのは次の文献です。

  • Jc Beall  ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Section 2. Curry's Paradox: Truth-, Set-, and Property-Theoretic Versions, Subsection 2.1 Truth-Theoretic Version, First published in Jan. 2001, Revised in Feb. 2008, http://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#2.


この subsection を一部翻訳しつつ、そこに私の方で大幅に補足を入れます。かなり基本的なことから説明します。この subsection にある形式的証明部分は、ほぐすようにして説明し直しています。なお、言うまでもなく、以下の説明に間違いがあれば (ないはずはない)、それは Beall 先生に帰されるべきものではなく、私に帰されるべきものです。そもそも、私は Curry's Paradox の専門家ではありませんので、間違った説明をしている可能性が非常に大きいですから、読まれる場合は慎重に読んでいただければと存じます。専門家でもなく、ろくに勉強もしていないのに、あれこれ説明するようなことをして恐縮です。間違ったことを述べておりましたら謝ります。大変すみません。また、私の説明は、ものすごくくどいです。くどすぎてすみません。簡潔な説明をお求めの方は、上記 Beall 先生の subsection をご覧ください。しかも、くどい説明の割には、記述すべき必要事項が漏れている可能性が大です。この点も、勉強不足ということで、今後の課題とし、大目に見ていただければ幸いです。

それでは Curry's Paradox の説明を始めます。Curry's Paradox の特徴は、「しかじかであることと、しかじかでないこととは同値である」という文や、「しかじかであり、かつしかじかでない」という矛盾した文を、直接引き出すのではなく、任意の事柄が真になる、という帰結を招くところにあります*2。どんなことでも真理である、どんなことを言っても真理になる、というのはいかにも不合理ですが、そのような不合理を招くところが Curry's Paradox の特徴です。


さて、私たちの真理を表わす述語が以下の T-図式を満たすものとしましょう。この T-図式に特に制限を設けないとしましょう。*3


T-図式: T[A] ↔ A


'T' は日本語で言えば、「 は真である」という表現に当たります。そしてこの図式での '[ ]' は名前を形成する働きを持つ記号です。日本語で言えば鍵カッコ '「 」' に当たります。例えば、夏目漱石は明治の文豪ですが、今の文を鍵カッコでくくれば、


となり、これで今先ほどの文の名前ができます。この鍵カッコを使った表現は、先ほどの文を指す名前になっています。 '[ ]' も同様の働きを持ちます。そして上の図式の '↔' は必要十分条件を表わす記号であり、その両辺の式は同値であることを述べています。

こうして 'T[A] ↔ A' の、日本語を交えた具体例を一つ上げれば、


となり、これは成り立つと思われます。「夏目漱石は明治の文豪です」が真理を表わしているのならば、その時、夏目漱石は明治の文豪であろうし、逆に夏目漱石が明治の文豪であるならば、その時、「夏目漱石は明治の文豪です」は真理を表わしているだろうからです。

なお、なぜ '[ ]' というような記号や、日本語の場合には鍵カッコが必要となってくるのかについては、以上の説明から大よそ把握できるとは思いますが、真理が言われるのは、あるいは真理が当てはまるのは、一般には文であるとされているからです。

おそらく私たちは真理に関して素朴には、次のように考えていると思われます。例えば、上でも述べたように、夏目漱石が明治の文豪である場合、「夏目漱石は明治の文豪である」と言うことは真理を表わしていますが、「夏目漱石は明治の文豪ではない」と言うことは真理を表わしていません。真理とはこのように、ある文が事実を表わしていることを言っているものと思われます。これは古来、真理に関して言われてきた真理の対応説に相当するものであり*4、この素朴な観点の minimal な部分をすくい上げて、真理を文の特徴、あるいは文と文が表わしていることとの関係と捉えるのが一般的です*5

そうすると、

    • 夏目漱石は明治の文豪ですということは真理である


としてしまうと、真理であるのは文ではなく、夏目漱石は明治の文豪ですという、事実や現実に関することになってしまうので、このようにはせず、また、


と表現すると、非文法的となってしまうから、このようにもせず、今の文に鍵カッコを導入して文法的に正しくし、

    • 夏目漱石は明治の文豪です」は真理である


と書いて、真理を言語表現である文に関するものとするのです。今の文を若干つづめれば


となります。こうして上記 T-図式で '[ ]' という鍵かっこに相当する記号が必要なのは、真理を事実や現実に関するものではなく、言語表現に関するものにするためなのです。


ここまで、T-図式の成立を前提するという話をしました。次に


肯定式: (A & (A → B)) → B


も成り立つものとしましょう。これはいわゆる「構成的仮言三段論法 (Modus Ponens)」という、よく見かける推論のパターンを式にしたものになっており、成り立って当然と思われるものです。

例えば、


   明日雨ならば野球大会は中止である (A → B)。
   ところで明日は実際雨である (A)。
   だから野球大会は中止である (B)。


などと考えることがあるでしょう。この場合の思考のパターン (Modus Ponens) は正しいと多くの人が思うはずです。この野球大会の話は論証、証明であって一つの式ではないですが、この論証を式にすれば、上記肯定式の形を取ります。というわけで肯定式もありふれた正しい考え方のパターンを式にしたものと思われるので、成り立つと考えられるでしょう。

さてここで次のような式を用意します。

    • T[C] → F


日本語で言えば「T[C] ならば F」となります。'C' にも 'F' にも何らかの式が入ります。'F' にはどのような式が入っても構いません。正しいことを述べている式でもよいし、間違ったことや絶対に成り立たないことを述べている式でもよいです。そしてこの式「T[C] → F」の名前を 'C' としましょう。すると次の等式が成り立ちます。


1. C = T[C] → F


この式の具体例としては、'C' を「この文」、'F' を「真理が一つ存在する」とすると、まず 1. の右辺は、


1.0 この文が真であるならば、真理が一つ存在する。


となり、これは正しいことを述べていると思われます*6。そしてこの 1.0 の中の「この文」とは、この 1.0 の文に他ならないので、「この文」という表現と 1.0 の文を等号で結んだ


1.1 この文 = この文が真であるならば、真理が一つ存在する。


も正しいものとなります。この 1.1 は上記 1. の文の具体例になっています。

ただし、この 1.1 の右辺をよく見てみましょう。そこでは「この文が真であるならば、真理が一つ存在する」となっていて、1. の式の右辺のカッコ '[ ]' に相当する鍵カッコ '「 」' がありません。1.1 の右辺の「が真であるならば」の前が鍵カッコでくくられていません。そこでその前の部分を鍵カッコでくくるならば、「「この文」が真であるならば、真理が一つ存在する」とでもなるでしょう。ですが、「「この文」が真であるならば、真理が一つ存在する」の「「この文」」は文の名前ではなく、名詞句の名前になっており、このように鍵カッコでくくるようでは文について真であることが言われていません。そのようなわけで、文について言うようにするため、少し工夫をして、以下のように 1.1 を書き換えます。


1.2 C = 「C」が真であるならば、真理が一つ存在する。


'C' は 1.1 の右辺の略記です。変項ではありません。一般に変項として使われる記号 'x' には、様々な数 (の名前) などが入りますが、'C' には何も入りません。「夏目漱石」という記号に何も入らないのと同様です。

こうして 1.2 の右辺「「C」が真であるならば、真理が一つ存在する」という文は、正しいことを述べていると思われます。実際、その文が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理が存在することになりますが、それは事実正しいでので、1.2 の右辺は真でしょう。

そしてこの 1.2 の右辺の「C」という表現が、右辺の文自身のことであるならば、1.2 の左辺の「C」が右辺に等しいと述べている 1.2 の文は、確かに正しくて真です。


さて、ここから本題に入ります。


T-図式: T[A] ↔ A


の 'A' には任意の式が入って構いません。そこで 'A' に 'C' を代入してやれば


2. T[C] ↔ C


が成り立ちます。この 2. の右辺について、その 'C' は 1. の右辺 'T[C] → F' と等しいので、2. の右辺に 1. の右辺を代入してやれば、


3. T[C] ↔ (T[C] → F)


となります。今度はこの 3. の中の二つの 'T[C]' について、同値な式同士は交換してやってもよいから、2. により、3. の二つの 'T[C]' を 'C' で交換してやれば、


4. C ↔ (C → F).


ところで


肯定式: (A & (A → B)) → B


の 'A', 'B' には任意の式を入れてやってよいのだから、'A' に 'C' を、'B' に 'F' を入れてやれば、


5. (C & (C → F)) → F.


この 5. の 'C → F' について、この式は 4. により、式 'C' と同値なので入れ換えてやってよく、そのようにすれば、


6. (C & C) → F.


この 6. の 'C & C' は 'C' と同値なので入れ換えてもよく、そうすると、


7. C → F.


ここで 4. の 'C ↔ (C → F)' を見ると、この式は、'(C → (C → F)) & ((C → F) → C)' の略記に相当するので、4. からは


8. (C → F) → C


が出ます。すると 7. と 8. で Modus Ponens により、


9. C


が出ます。そうすると今度は、7. と 9. とで Modus Ponens により、


10. F


が出ます。


ところで、10. の F にはまったく任意の文を入れることができます。したがって、私たちには偽と思われる文でも入れて構いません。例えば、そこには '2 + 2 = 5' や「Santa Claus は存在する」などを入れることができます。しかも、10. の F という結論は、1.1 という真である文の形式を持った 1. という式から、特に問題のないものと考えられているT-図式や肯定式、それにごく一般的なありふれた論理的原理 (Modus Ponens や、同値な式同士は入れ換えてよいという置き換えの原理など) から出てきています。ですから、結論である F も、諸前提が真なら、そこから真理が保存されて、真であるということになります。つまり、'2 + 2 = 5' や「Santa Claus は存在する」などの文は、上記の証明の結果、どちらも真である、真理だ、ということになります。結局、F は任意なのですから、あらゆることが真になる、どんなことでも真理なのだ、と言えるのです。これはまったく不合理でしょう。


以上です。私は Curry's Paradox の専門家ではありませんし、semantic paradoxes の専門家ですらありません。そのため、上記の説明にはとんでもない大間違いが含まれている可能性がございます。専門家でもないのに出すぎた真似をしてすみません。正確には、冒頭に掲げた Beall 先生の文献に access していただければ幸いです。今一度、誤解や無理解や、誤字、脱字等に関しまして、お詫び申し上げます。今後も勉強することで、軌道修正を図ります。


次回は Curry's Paradox と類似の paradox を説明する予定だったのですが、少なくとも一回、別の話をし、その後で、その類似の paradox の説明をしようかと思っております。ただし、これも予定であって、変更されるかもしれませんので、予めご了承ください。

*1:ただし、あくまで予定です。今から言うのもなんですが、既に予定変更のつもりでいます。

*2:および、Curry's Paradox の形式的な version では、否定記号や恒偽式 (falsity) を使わずに不合理を引き出すという点で、しばしば否定記号や falsity が出てくる、よく見かける paradox とは異なるという特徴があります。

*3:つまり、以下の T-図式に制限を設けないとは、式 A の中に再び真理述語が現れてもよい、ということです。ちなみに以下で、「式」と「文」という言葉を区別なく用いることにします。特に、式についても、しかるべき手続きを取れば真偽を問い得るものと見なします。

*4:アリストテレス、『形而上学 (上)』、出隆訳、岩波文庫岩波書店、1959年、148ページ。ベッカー版、1011b26-27.

*5:Leon Horsten, ''One Hundred Years of Semantic Paradox,'' forthcoming in Journal of Philosophical Logic, Section 3: Tarski.

*6:この文 1.0 は、二回前の日記項目 'Curry's Paradox: An Informal Exposition' の冒頭で上げられた例文 (1) です。