Why Is Heidegger's Philosophy Highly Dangerous?

Heidegger の哲学には本質的に Nazism が含まれていることを、本人は認めていました*1。ならば、その哲学のどこが危険なのでしょうか? Nazi の党員であったというような外在的な側面についてではなく、その哲学の内部にいかなる危険が潜んでいるのでしょうか? 一体、その哲学の内在的な危うさはどこにあるのか、その鍵は Heidegger 特有の歴史性 (Geschichtlichkeit) という概念にあります*2。では、なぜこの概念は危ういのでしょうか? この概念の圏域に、どのような危険が潜んでいるのか、Heidegger 哲学の内在的な危険性を指摘している文章を、先日たまたま見かけましたので*3、その文を以下で引用し、推測を交えつつ、個人的に感じ取った、その危険な理路を記してみたいと思います。

なお、私は Heidegger の哲学については無知です。彼の文章は、正直に言いますと、読んでいてもよくわかりません。ほとんど完全と言っていいほど私には理解不能です。彼の文章のみならず、彼の哲学について書かれた文章でさえ、私の理解をほとんどの場合、超えています。私は Heidegger 哲学の専門家ではなく、その哲学の勉強もしていませんので、それも当然のことかもしれません。以下では Heidegger の哲学について書かれた文章と、Heidegger 本人の文章の邦訳を掲げますが、私には正確なところがほとんど理解できておりません。厳密に言って、何が述べられているのか、どのような論証が展開されているのか、私の能力では特定できません。ですから、以下に掲げる文章を読んで、Heidegger 哲学の中に私個人が感じ取ったと危険な理路とされるものを一応記してみますが、そのような形で、その危険な理路とされるものを叙述すべきなのかどうか、その叙述は正しいのかどうか、私にはまったく自信がありません。私には何を言っているのかわからない文章から、論述らしきものを個人的判断で取り出し並べてみましたが、そうやって並べた文章を私自身がきちんと理解しているのかどうかと言われると、まったく自信がありません。よく理解できぬまま、目指すべき方向性だけでも指し示すために、自分の思いを書き付けているというのが事実です。

このようなわけで、私個人が感じ取った Heidegger 哲学に内在的な危険性を以下で記してはみますが、その記述は正確なものではなく、その記述の通りであると断固として主張したいのではございません。単なる推測、個人的な仮説を書き留めるものでしかありません。「もしかして、こういうことではないだろうか?」という程度のものです。専門家からすれば、あまりにも荒削りで誤解に満ちた記述になっているかもしれません。まったく無理解をさらしているかもしれません。そのようでしたらすみません。謝ります。専門家でない人間の、勉強途上の痕跡と見て、お許しいただければ幸いです。


さて、私が先日たまたま見かけた、Heidegger 哲学の内在的な危険性を指摘している文章とは、次に出てきます。

この文章の中の該当する箇所を引用してみます。以下にいくつも出てくる引用文においては、原文にある註は、断りなく省く場合があります。また、原文中の傍点や強調の類いは、すべて省きます。そして引用文の後に、私の感じたことや、私による引用文中の point のまとめを記します。

 ハイデッガーの徹底的な推進*5の時代的背景を理解するには、リルケの発言と関連させてみることが役に立つ。リルケは一九一五年一一月八日の書簡にこう記している。市民的世界は、進歩と人間性とを信じるあまりに、人間生活の「究極の法廷」を忘れ去ってしまった。すなわち、みずからが「はじめからかつ最終的に、死と神との支配下にある存在である」ということを。『存在と時間』 (第六三節) でも、死はわれわれの存在および能力の、のり越ええない「最高法廷」として、おなじ意味をもつものとされる*6。神については、『存在と時間』では、もちろん、なんら言及されていない。リルケのようになお「神さまの話」を物語りうるには、ハイデッガーはあまりにも長くキリスト教神学者でありすぎたのである。必要なただ一事 (いちじ) とは、かれにとっては、存在自体および存在の総体を問うことであって、これについては無と死がとくに啓発的なのである。死は無であり、その前において、われわれの時間的存在の徹底的有限性が開示される。あるいはまた、一九二〇年頃のフライブルク講義にあるように、「歴史的事実性」なのであって、その情熱が、もっとも独自の現存在を受けとろうとする決断なのである。『存在と時間』 (第五三部[ママ]) において、二重に強調された「死への自由」 − これによって、それぞれ独自の、自己だけに孤立した現存在が「全一のものとなりうる」にいたる*7 − に対応するものが、政治的決定主義においては、戦争という危急事例において、全体的な国家のために生命を捧げることなのである。いずれのばあいにも、その原理はひとしい。すなわち、究極のもの、事実性のなまの「… であること」、いいかえれば、生活から、伝承された生活内容、つまりなんであるか、をすべてとり払ってしまってなお残るものへの徹底した回帰なのである。『存在と時間』における最高法廷が、六年後には、国民社会主義的な大学総長としてのハイデッガーによって、シュラーゲター (87) の追悼演説のなかで、あっさりと、それぞれ独自の現存在から、一般的な、ただしその一般性のなかでなお変わることなく独自な、「ドイツ的現存在」へと置きかえられえたのも、おなじ原理からであった。それぞれ独自な現存在という地平のなかで、死への自由としてあらわれたものは、民族共同体という政治的地平においては、国民のために生命を捧げるという形をとることを可能にしたのである。

 (87) シュラーゲターは、フライブルク大学の学生で、第一次大戦後、フランス占領軍に対する叛乱に参加し、サボタージュを理由に射殺され、国民社会主義者によって聖者とされた*8ハイデッガーの演説は、フライブルク大学新聞の一九三三年六月一日号に掲載された。*9

Heidegger にとっては、個々人としての現存在が、先駆的に死を自らの意志で自由に (frei) 引き受け、来るべき自らの死に開かれて (frei) あることを覚悟するということは、国家の存亡を決する戦争という非常事態においては、国家の一員として、先駆的に戦死を自らの意志で自由に (frei) 引き受け、来るべき自らの戦死に開かれて (frei) あることを覚悟し、国家のために命を捧げ、潔く戦場で散ることなのだ、ということなのだろうか?

それぞれ独自の、個々の現存在は、戦時という緊急事態においては、ドイツ人ならドイツ的現存在として、日本人なら日本的現存在として、自らの自由な (frei) 意思に基づき、自らの命を包み隠さず (frei) 気前よく (frei) 無制限に (frei) 捧げるべきだ、ということなのだろうか?


Heidegger は、国民投票を前に、訴える。

「ドイツの男性ならびに女性諸君。ドイツ国民は指導者 [Hitler] より投票を呼びかけられている。指導者はしかし、国民に何ひとつ懇願しているのではない。むしろ国民に対し、国民全体がみずからの独自の存在を欲するか、これを欲しないのかについて、最高かつ自由なる決定の、もっとも直接的な機会を提供しているのである。このたびの投票こそは、これまでのすべての投票行為とはまるきり比較にならぬ。この投票の独自性は、ここで遂行されようとする決定の重大さそのものにある。単純かつ究極のもののもつきびしさは、動揺もためらいも許さない。この究極の決定は、われらが国民の現存在の極限にまで及ぶ。ではこの限界とはなにか。それはあらゆる現存在の根源的要求、つまりそれ独自の本質を保持し救いだすという点にある。一一月一二日、ドイツ国民は、全体として、みずからの将来を票決する。将来と指導者とは一体である。国民は、いわゆる国際政治的考慮から賛成投票し、その賛成のなかには、指導者やかれに無条件で託された運動のことは含まれていない、といった形で、この将来を票決するわけにはいかないのである。国際政治もなければ国内政治もない。あるのはただ、国家の十全な現存在への、ひとつの意志のみである。この意志を、指導者は、全国民の心のなかに完全に目ざめさせ、ただひとつの決断へと打ち固めた。この意志表明の日には、ただのひとりといえども超然たる態度でいるわけにはいかないのである。」(フライブルク学生新聞、一九三三年一一月一〇日号)
 『存在と時間』が存在一般の問題を提起したさいの、なおなかば宗教的であった個別化から、こうして公共の場へと踏みだすことによって、またそれにともない、それぞれもっとも独自な現存在およびその必然を転回させ、ドイツの運命およびドイツ的現存在へともっていくことによって、形式的「果断」 − これが決断自体のなかにはじめて「なんのために」をつくりだす (『存在と時間』 二九八ページ (88))*10 − が、歴史的・政治的内容を獲得したのである。ハイデッガーの講義の受講者のひとりが、ある日考えついた卓抜なしゃれ、「おれは決心したぞ − なにをかはわからんが」は、自覚的存在者の精力的空転 (「自己自身へ決心する」「自己自身に依拠して無のまえに立つ」「自己の運命を欲する」「自己自身をひき受ける」) が、その内容を獲得し、一般的な政治的な「運動」と化したことによって、予想もしなかった深刻な意味を帯びることになったのである。

 (88) 廉価版のなかで A・ボイムラー (『男子同盟と科学』 一九三四年、一〇八ページ) は、ハイデッガーによって分析された決断への果断を、一般向けに広めた。かれにいわせると、行動とは、なにごとかを決定することではなくして、ただ「運命的寄託」にもとづいて「ある方向をとる」ことを意味する。みずからが欲するところを知るがゆえに、正しいと認識したことへ向かっての決定は、これにくらべれば、すでに「二義的」なのである。批判としては、M・マルクーゼ『全体主義国家観における自由主義との戦い』(『社会研究雑誌』 第三巻、一九三四年) 一八七ページ以下をみよ。*11

Bäumler: 諸君らにとっては決断すること自体が重要なのであって、決断する内容など、二義的にすぎないのだ!

Heidegger: 諸君はドイツ的現存在として独自な存在になる覚悟があるのか否か、投票を通して決断せよ! 四の五の言わず、とりあえず何であれ決断すればいいのだ! 決断すべき内容は総統が決めてくださるだろう。


個々の現存在の先駆的覚悟性/先駆的決意性による (形式的な) 決断*12は、その決断の内実を、Hitler が主導する国家の掲げる大義、すなわち Nazismus によって得るのだ、ということなのだろうか? 運命が人をして国家の大義に進んでおもむくよう決断を促す、ということなのだろうか? 人は運命を欲すべきであり、その運命は Hitler = 国家から与えられ、国家の大義 = Nazismus に殉ずるよう命ぜられているのだ、ということなのか? ところで Heidegger において、運命とはすなわち歴史性だったようです。次をご覧ください。

  • K. レヴィット  『ハイデッガー 乏しき時代の思索者』、杉田泰一、岡崎英輔訳、未來社、1968年

現存在は、終末である死の未済と逼迫を先取りして実存の中へ取り入れる場合にのみ、全体的に存在することができる。実存論的に了解され、かつ実存的にも証示される「死へ臨む存在」が、根源的時間性のみでなく歴史性の、かくれた根拠でもあると主張される。有限的終末としての死に向って開かれている自由存在は、現存在に「絶対の目的」を与える、といわれる。こうして、この有限的目的の到来的将来へ向う時間的次元は、他の時間的諸次元に対して原理的な優位をうけとるわけである。事実的現存在は、なお未済のままの終末へ「先駆し」、嗣ぐべき遺産をみずからおのれに伝承しておのれ自身を引き受けるが、このような現存在の覚悟の中で、本来的時間性が成り立つとともに、本来的な歴史性と歴史的運命も構成される。ハイデッガーは「宿命 [Geschick]」を運命 [Schicksal] から区別し、『存在と時間』では、狭義の宿命という言葉を、他の人びととの共同存在における「共同生起」と規定している。[…] 『存在と時間』では、他の人びとと共にあるいかなる宿命よりも、運命およびそれと各自の覚悟との関係の方がいっそう本質的である。覚悟して死を先取し、これを実存の中へ取り入れることによって、実存はおのれの有限性に直面させられ、こうして、実存する現存在に、その本質的な「状況」が開示され、現存在ははじめて運命を負うことができるようになる。覚悟して「運命という様態で」実存すること、それが、「おのれの実存の根底において歴史的である」ということなのである。運命は「瞬間」の「現」であり、そして瞬間の「現」とは本来的な「今日」 (Heute) である。こうして覚悟性、みずから選択した運命、歴史的状況の三者は、ハイデッガーの分析では、一つの統一的な構造連関を形成し、この構造連関は、死へ向って覚悟した自由に結びつけられている。[『存在と時間』第74節によれば] 「本質的におのれの存在において将来的であり、したがっておのれの死へ向って自由に打ち開かれ、死において打ち砕かれておのれの事実的現へと打ちかえされうる … 存在者だけが、各自の被投性を引き受けて <おのれの時代> に向って瞬間的に存在する … ことができる。本来的であると同時に有限的である時間性だけが、運命というようなものを、すなわち本来的な歴史性を可能にするのである」。ハイデッガーのこれらの命題のうちに、「時間性と歴史性」の分析の本質的な内容が総括されている。*13

現存在が死を先駆的に覚悟する中で本来的時間性が成り立ち、かつ本来的時間性が成り立つことによって、運命が、すなわち本来的歴史性が成り立つ。つまり、死を先駆的に覚悟する現存在だけが、運命を、本来的歴史性を、可能にする。


そしてこの運命 = 歴史性とは、ドイツにおいては、ドイツ民族が生ずること (生起) に相当し、このドイツ民族という運命 = 歴史性こそが、個々の現存在を全きものとして生み出す (現存在が全きものとして生起する) ということである。つまり、現存在は、その属する民族により、完全なものとなるのである。この点について、次をご覧ください。

現存在が先駆することで、死をみずからのなかで力強いものとするとき、現存在は死に対して開かれて自由でありながら、じぶんの有限的自由という固有の圧倒的な力においてみずからを理解する。その結果この有限的自由 − それは選択をえらびとったということのうちに、そのつど「存在する」だけである − にあって、じぶん自身に引きわたされているという無力さを引きうけ、開示された状況のさまざまな偶然に対して透察を有するにいたる。しかし命運をともなう [schiksalhafte] 現存在は、世界内存在として本質からして他者たちとの共同存在において実存するかぎり、現存在の生起は共生起であって、運命 [Geschick] として規定される。運命によって私たちがしるしづけるのは、共同体の、つまり民族の生起なのである。運命は個々の命運からは合成されない。それは、共同相互存在が複数の主体がともに現前することとしては把握されないのと同様である。同一の世界のうちで互に共に存在することにあって、また特定の可能性に向かって決意していることにおいて、命運のさまざまはあらかじめすでにみちびかれている。伝達と闘争のうちで、運命の力ははじめて自由となる。みずからの「世代」のうちでの、またそれと共に在る現存在には命運的な運命がある。その運命が、現存在のかんぜんな本来的生起をかたちづくるのである。*14

それぞれの現存在は、民族という運命 = 歴史性を通して完全なものとなる。ドイツ人である個々の現存在は、ドイツ的現存在として、ドイツ民族よって、完全なものとなる。民族を通さずしては、現存在は完全なものにならない。その者は、不完全なままである。人間として、一人前ではない。まともな人間ではない。あるいは、人間ですらない?

Heidegger: 我々個々の現存在は、ドイツ民族という運命 = 歴史性によって、完全なものとなる。このドイツ民族という運命 = 歴史性によって、我々は初めて全き現存在となりうるのだ。だから我々はこの運命 = 歴史性に賭け、この運命 = 歴史性を引き受けねばならない。ところでこのドイツ民族の運命 = 歴史性を体現しているのが、当今の Hitler である。よって我々は Hitler に賭け、彼の指令を引き受けねばならぬ。それによってこそ、ドイツ的現存在は、個々として全き現存在となりうるのだ。その時、我々は真に完全なる現存在として生起するのである! ここ、ここにおいてこそ、つまりドイツ民族という運命 = 歴史性によってこそ、わけても歴史性によってこそ、私の哲学は Nazismus につながり、Hitler と連帯しうるのだ!


難解な概念である歴史性 (Geschichtlichkeit) という隘路を通して、Heidegger 哲学と Nazismus が接続されているということについては、次をご覧ください。

1936年、Heidegger は Löwith に Rome で会っています。この時の様子をつづった Löwith の文を掲げます。引用文中の '〔 〕', '( )' は邦訳原文にあるもの、'[ ]' は引用者のもの。

あくる日、妻とわたしとは、ハイデガー・夫人・二人の息子たち […] といっしょに、[…] 遠足に出かけた。陽光かがやく晴天で、わたしは、ハイデガーといっしょにすごすこの最後の機会を − 気おくれは避けられなかったが − 楽しんだ。ハイデガーは、この 〔私的な〕 機会にさえ党員バッジを上着からはずしていなかった。ローマ滞在の全期間それをつけていて、自分がわたしといっしょに一日をすごす場面にはハーケンクロイツがふさわしくないのだということには、明らかに思い及んでいなかった。[…] 帰り道、わたしは、かれがドイツの状況とこれにたいする自分の態度とについて自由に意見を述べるように仕向けよう、と思った。会話を『新チューリヒ新聞』紙上の論争のほうへもっていって、自分は先生にたいするバルトの政治的攻撃にもシュタイガーの先生弁護にも賛成しないが、それは、先生のナチズム支持が先生の哲学の本質に含まれていることだという意見だからだ、と言明した。ハイデガーは、留保ぬきにわたしの右の意見に同意して、自分の「歴史性」(Geschichtlichkeit) という概念が自分の政治的「出動」の基礎だということを詳しく述べた。そのヒトラーにたいする信頼の念についても、疑問の余地を残さなかった。ただ二つのものだけは、ヒトラーは過小評価していた、それは、キリスト教諸教会の生命力とオーストリア併合にとっての障害物とだ、とかれは言った。ナチズムがドイツ発展の方向をさししめす道だ、とあいかわらず確信していた。ただ、たっぷり長い時間「耐え抜」かなければならないということはある、という。*15

Heidegger: 歴史性という概念を元にして、私は政治に出動/出撃 (Einsatz?*16 ) するのだ。歴史性という概念により、私は政治に commit するのだ。私が Nazismus という政治運動に加担する根拠は、私の歴史性という概念にある。歴史性とは運命のことであり、運命とは民族の生起、民族が生じることである。現今、ドイツという国家の運命は、ドイツ民族の運命は、Hitler によって決まる。したがって我々各々の決断すべき内容は、Hitler が決するのだ。運命が我々それぞれに決断すべきこと、引き受けるべき負託の内容を指定する*17。故に、Hitler によって握られている我らの運命*18が、我々個々人に各自が引き受けるべき決断内容を運命として授与するのである したがって Hitler という運命の指示に、それがまぎれもない運命である限り、黙して従う他ない。いや、何よりも進んで従うべきなのだ。


Heidegger は総括する。

人間は決断せねばならない。しかし当初は空虚なだけの形式的決断は、その決断の内実を伴っていない。だが、これに内実を与えるのが民族という名の運命である。とりわけ、その民族の政治的首領の指令こそが、民族構成員各自、国民各自に決断の内実を与えるのである。中でも戦時においては、その内実とは、戦場において死を先駆的に引き受け、覚悟を決め、腹をくくること、すなわち国家のために戦死することに他ならない。国家と民族のために戦死することが、現存在各自を国家と民族を通じて完全なものへと昇華せしめるのである。国家と民族の名のもとに名誉の戦死を遂げることが、人を完全なる人たらしめるのである。これこそが最高の人であり、完全なる人間なのである。存在がそうするよう呼んでいるのならば、運命がそうするよう呼んでいるのならば、歴史がそうするよう呼んでいるのならば、民族がそうするよう呼んでいるのならば、総統がそうするよう呼んでいるのならば、人は喜んで死ぬべきだ。なぜなら、そのような死こそが、その人を完全なる、至高の人たらしめるからだ。


以上のようなことを引用文から、推測を含め、私は感じとりました。ここまで記して来たことに基づいて、もう一歩踏み込んで、Heidegger 哲学の内在的な問題点と私が感じることをもう少々書き留めてみたのですが、あまり根拠のない感想文のようなものですので、ここで今日の日記は終りにして、その感想文めいたものをここに掲示することはやめておきます。

上で私の書いたことは、Heidegger 哲学に対するありがちな誤解に立脚したものかもしれません。そうでしたらすみません。Löwith 先生の文章を私の方で遠慮せずに解釈してみましたら、上のような結果になってしまいました。

これまでの話に対して、Heidegger 自身、山ほど反論したい事柄があると思います。(あるいは「ばかばかしい」と一言反論があるだけかもしれません。) その詳しい反論を聞いた上でないと、以上の話をそのまま首肯するわけにはいかないでしょう。ですから、上で記したことは、Heidegger 哲学に対する私の最終判断なのではございません。最初にも申しましたように、今回の話は、推測を含んだ個人的仮説です。今後、Heidegger に対する私の評価は変るかもしれません。この点、ご理解いただけましたら幸いです。最後に改めて、誤解、無理解、勘違い、それに誤字、脱字等に関しまして、お詫び申し上げます。

*1:このことを裏付ける書誌情報は、今日の日記のこの項目後半に出てきますので、後ほど、そちらを参照してください。

*2:このことを裏付ける書誌情報も、この後で出てきますので、そちらを参照ください。

*3:昔から知られている文章ですので、目新しい発見でも何でもなく、専門家の先生方皆さんがご存じの文章です。私が遅ればせながら、先日ようやく気が付いた文章だということです。

*4:この論文は、形を変えて、次にも出てきます。K. レーヴィット、『ある反時代的考察 人間・世界・歴史を見つめて』、中村啓、永沼更始郎訳、叢書・ウニベルシタス 384, 法政大学出版局、1992年。この本の「ヨーロッパのニヒリズム」の章の、Heidegger の section に組み込まれています。読み比べてみると、私個人の感じでは、田中、原田訳の方が、中村、永沼訳よりも、はるかに読みやすく理解しやすいと感じました。一方的にどちらがよくてどちらが悪いとは言いませんが、前者は一読すれば大体文意を汲み取ることができるのに対し、後者の訳では理解するのに時間がかかるのは確かであろうと思います。

*5:引用者註: 「推進」とは何のことなのか、この文の前後を読んでも私にはよくわかりませんでした。この引用文を読まれた方も、ひょっとして同様に唐突な感じを抱かれるかもしれませんが、私にはこの語が何を意味しているのか、正確にはわかりませんので、特に説明を付けることは控えさせてもらいます。この後の論述を追う際には、この語の正確な意味がわからなくても、ある程度ならば、何とか理解できるのではないかと推測致します。

*6:引用者註: 『存在と時間』の邦訳 (岩波熊野訳) で63節を読んでみても、本当に「同じ意味を持つ」と述べられているのか、私個人には難しすぎて、よくわかりませんでした…。

*7:引用者註: これも53節を読んでみても、現存在が死への自由によって全一のものとなりうるにいたると書かれているのかどうか、確認してみたのですが、やはり難しすぎて、理解不能でした…。

*8:引用者註: ただし、シュラーゲターは、実際には無鉄砲で無軌道で自暴自棄なところのある若者だったようである。レヴィット、「カール・シュミット」、147-148ページ参照。

*9:レヴィット、「カール・シュミット」、145-147ページ。

*10:引用者註: これも、『存在と時間』の邦訳に、原書の該当ページが記入されているので、298ページあたりを読んでみたのですが、私にはやっぱりよくわかりませんでした。難しすぎます…。

*11:レヴィット、「カール・シュミット」、148-150ページ。

*12:個々の現存在の先駆的決意性による決断が、まずは形式的なものにすぎないことは、後藤嘉也、「ハイデガー」、野家啓一編、『哲学の歴史 第10巻 危機の時代の哲学 【20世紀I】』、中央公論新社、2008年、329-330, 342-343ページ。

*13: レヴィット、『ハイデッガー』、87-89ページ。

*14:ハイデガー、『存在と時間 (四)』、259-260ページ。

*15:レーヴィット、『ナチズムと私の生活』、93-94ページ。

*16:ドイツ語原文に当たっていないので、引用文中の「出動」という日本語に対応するドイツ語が何であるのか、現時点ではわかりません。そのため '?' を付しています。推測なのですが、もしかしてもしかすると 'Einsatz' という言葉は当時、Nazis が多用していた軍国主義的な、武断的な、暴力的なことを連想させる言葉だったのではないでしょうか? 普通の言葉としても使われていると思いますが、ひょっとして当時の文脈では、きな臭さを感じさせる言葉だったのではないでしょうか? 確認しておりませんので、違っていたらすみません。謝ります。

*17:レヴィット、「カール・シュミット」、153ページ。

*18:同上。