What Opinion Did Hannah Arendt Have of Heidegger's Commitment to Nazism?

2015年8月2日の当日記、項目名 'Why Heidegger Has Never Admitted his Political Commitment to be Wrong.' の末尾で、私は次のように述べました。「Arendt は Heidegger が Nazism に commit したことを、どのように考えていたのだろう? Eichmann に対する批判と比べた場合、どうなのだろう? また時間ができれば、考えてみたり調べてみたりしたいと思います。」 このようなことを思っていたところ、Arendt が Heidegger の Nazism への commitment を、どのように考えていたのか、そのことについて参考になる以下の文献がありましたので、先日拝読させていただきました。


この文献では、Heidegger の Nazism への Commitment に対する Arendt の考えがわかります。彼女のこの考えのうち、今日は私の印象に残った文章を引用し、拙い感想をとりとめもなく付してみたいと思います。それは、彼女に対するかなり批判的な感想です。ただし、私は Arendt の著作を読んだことがなく、まったく不勉強な人間です。誤解や無理解にあふれた感想を書き付けてしまうかもしれません。もしも読まれる方がいらっしゃいましたなら、決して私の感想を鵜呑みにしないようによろしくお願い致します。以下に引用する Arendt の文章は、彼女の書いた文章の一部でしかありません。彼女の全貌を表すものではありません。私の感想も、彼女の考えをよくよく知った上で、書いているのではありません。距離を取りつつお読みいただき、最終的な結論は、お読みになられた方ご自身で、お下しください。あらかじめ、私のなしている誤解や無理解や、勘違いなどに、お詫びを申し上げます。何よりも Arendt 先生にお詫び致します。この後は、しばしば敬称を略するかもしれません。


さて、Arendt さんは思考することや、哲学することを、大体ながら、次のように考えていたようです*1

すなわち、哲学者は、日常の自明で単純な事柄に対し、自明でも単純でもないことを見出して驚く。そして哲学者は、非日常的で単純ではない哲学的思索的世界へと入って行き、日常世界を住みかとしている私たちとは違って、この非日常的な思索の世界を終の住みかと定める。

このような感じのことを述べた後、Arendt さんは以下のように言います。続く引用文のすべてにおいて、註と傍点を省いて引用します。

我々のように、たとえその住み家は世界のただ中にあっても、思考の人々 [哲学者] に敬意を表したいと望む者には、プラトンハイデガーが、彼らが人間事象 [政治] に自ら関わったとき、僭主やフューラーを頼りにしたということは、目につくことであり、おそらく腹立たしく思わないでいることは難しい。このことは、単に当時の時代状況のせいや、ましてやあらかじめ形成された性格のせいにされるべきではなく、むしろ、フランス人が「職業上の習癖」(déformation professionelle) と呼ぶもののせいである。というのも、僭主的なものを好む傾向は、ほとんどすべての偉大な思想家たち (カントは偉大な例外である) のうちに理論的に証明されうるからである。そして、もしこうした傾向が、彼らの行ったことのうちに証明されないとしても、それはただ、彼らのうちのごくわずかの者だけしか「単純なものに対する驚きの能力」を越え出て、「この驚きを自分の住み家として定め、受けいれる」用意がなかったからにすぎないのである。*2

この引用文からは、Arendt さんが大よそ次のように考えているだろうことがわかります。

「Heidegger が Hitler を支持したことは、当時の時代状況のせいではない。Heidegger の元々の個人的性格のせいでもない。それは、職業柄、後から身に付いた考え方の癖によるのである。仕事柄、そういう政治的傾向を持つようになったのだ。時代が悪いのでもない。個人が悪いのでもない。職業上、そうならざるをえなかったのだ。もともと、そういう性格が身に付いてしまうのが哲学者の宿命なのだから、仕方がないのである。ましてや、優れた哲学者ならば、なおさらである。」

なるほど、ではここで哲学者とは別の例で考えてみましょう。たとえば、軍人について考えてみます。軍人は、職業柄、力に訴えるものです。強い軍人であればなおさらです。そのような軍人が、力任せに虐殺を働いたとしたならば、「仕事柄、そういうものだから仕方がない」と言って、済まされるでしょうか? 優れた軍人であればあるほど、力に訴えがちであり、「その虐殺を働いた軍人も、きっと優れた軍人だったのだろう」と言われたとしても、「はい、そうですね」と言って済むのでしょうか? もちろん、そんなことでは済みません。

Arendt さんの言うように、職業上、Heidegger は独裁者を支持するようになったのであり、これは偉大な哲学者の特徴であって、これ自体は別に悪いことではない、としてみましょう。そうすると、これと parallel に次のことが言えるように思われます。すなわち、Eichmann も、職業上、上司の指示に従って、忠実に仕事をこなしていたのであり、これは優れた官僚の特徴であって、よってそのこと自体は別に悪いことではない、ということです*3。しかし Eichmann は邪悪だとされ、Heidegger はそうではないとされているようです。なぜなのでしょう?

Eichmann は、自分が悪に奉仕していることに無自覚であって、そのことがいけないと言われているようです。職務に忠実であっても、自分のしていることの結果に無自覚であることは、時に悪になってしまう、ということだと思われます。だとすると、職業柄、そうなってしまっているだけだと Arendt さんによって言われている Heidegger も、自分が悪に奉仕していることに無自覚だったのであって、だとすると、そのことはいけないことではないでしょうか? 直接手を下していたわけではないという違いはありますが…。

Arendt さんは次のように言っていました。

「僭主的なものを好む傾向は、ほとんどすべての偉大な思想家たち (カントは偉大な例外である) のうちに理論的に証明されうるからである。そして、もしこうした傾向が、彼らの行ったことのうちに証明されないとしても、それはただ、彼らのうちのごくわずかの者だけしか」偉大な哲学者としての資質を十分具えていなかったのだ。

これはどうなんでしょうか? ほとんどすべての偉大な哲学者は、独裁者を欲する。独裁者を欲しない偉大な哲学者がいたとすれば、その者は実は十分偉大ではないのだ。別の例を出してみましょう。カラスはみな黒い。黒くないカラスが見つかれば、実はそれはカラスではないのだ。先の独裁者の話はこのカラスの話のように聞こえます。私の勝手な空耳かもしれませんが…。

それにしても「理論的に証明されうる」とは、どういうことでしょう? 理論的にとは、いかなるいみなのでしょうか?経験的にではない、ということでしょうか? どのようにすれば、Kant 以外の偉大な哲学者がすべて独裁者を欲していたことを証明できるのでしょう? 何かやり方があるのでしょうか? ぜひ知りたいところです。

Arendt さんによると、すべての偉大な哲学者は、独裁者を求めるそうですが、Kant は例外のようです。しかし、Kant ほどの例外がありながら、それでも「(ほぼ) すべての偉大な哲学者は、独裁者を求める」と主張するのでしょうか?

安全をうたわれている食品に、ある日、猛毒が混入していたとします。生産段階で混入していたとします。この時、私たちはこの食品を一般的に全般的に安全だと見なすでしょうか? 猛毒が混入していた食品が一つだとしても、他にもそのような食品が流通しているのではないかと疑うのではないでしょうか?

この食品の話を踏まえると、Kant ほどの例外がありながら、偉大な哲学者というものはみな、独裁者を求めるものなのだ、と言い切ってしまうことには、疑念が残ります。Kant ほどの飛び抜けた存在という例外があるのならば、偉大な哲学者というものはみな、独裁者を求めるものだと主張することに、「何か問題があるのではないか、Kant だけが例外ではなく、偉大な哲学者というものは、そもそも必ずしも独裁者を求めるものではないかもしれない」と感じるようになるだろうと思います。Kant ほどの例外は、たとえ一つだけだとしても、先の主張の重大な反例とするに十分ではないでしょうか?

ここではむしろ、Arendt さんによる、偉大な哲学者の特徴付けが間違っているのではないかと推測できます。先ほどの軍人の例においても、優れた軍人の特徴付けが間違っているのではないかと推測できるのと同様にです。優れた軍人は、実は力に訴えることの危うさを自覚している人間ではなかろうかと推測されます。同様に、優れた哲学者、偉大な哲学者とは、独裁者に執心するような哲学者ではなく、独裁者の危険性を自覚している人間こそが、本当の偉大な哲学者ではなかろうか、ということです。


さて、もうこのあたりで先に進みましょう。再び Arendt さんは言います。

ハイデガーその人は、彼自身の「誤り」を、後年彼を審判する席につく者のうちの多くよりも、より速やかにより根源的に正したのであった。彼は、当時のドイツの著作家や大学の生活の通例よりも、かなり大きなリスクをおかしていたのである。*4

これもちょっと信じがたい発言だと思います。川崎先生は、この引用文に関し、次のように述べておられます。

[この] 一節については、いささか勇み足の感を禁じえない。もちろん、フライブルク大学総長就任にともなうナチズムとの露骨な関係は、彼自身の手で約一〇ヶ月の短い期間で終止符が打たれたので、その限りでは、[…] 速やかな対応だと言ってよかろう。しかし、周知のように、彼本人は、公には、自分のナチズムへの加担に対して明確な自己批判を行ったことはない。そして、他でもないまさにこの一点が、彼とヤスパースとの和解を決定的に妨げていたということを、アレントは誰よりもよく知っていたはずである*5。そうした事態を考えるとき、アレントのこの一節は、ここに書かれたことだけからは、少なくとも事実のレベルでは、理解が困難であると言わざるをえまい。*6

私も川崎先生に同感です。Arendt さんの考えは、私も理解に苦しみます。そもそも、役職を辞任すれば、それで O.K. なのでしょうか? それだけで嫌疑は晴れたと言えるのでしょうか? わが国でも政治家が不祥事を起こした際に、しばしば、その時に就いていた役職を辞し、それで責任を取ったことにして「みそぎ」を済ませたつもりになっていることがありますが、誰もそれで問題が片付いたなどと思ってはいないでしょう。Arendt さんは本気でそれで O.K. だと思っておられるのでしょうか? そうだとすると、ちょっと信じられません。人のことは言えませんが、それにしても政治に対してあまりに naïve すぎるのではないかと思われます。本当に政治哲学、政治思想の専門家なのだろうかと思ってしまいます。疑い深くてすみません。

現代の私たちは、Heidegger と Nazism の問題を、単に Heidegger が Nazis に所属していたかどうか、というような、彼の哲学からは外在的と見える社会的側面に、もはや注目する時期を過ぎています。今ではむしろ、彼の哲学の内部に、いかなる形で Nazism が本質的に食い付いているのかを確認すべき時期だと思います。既に戦後半世紀も過ぎて、遅きに失した感は否めませんが、いずれにしても、彼の哲学に内在的に巣食う Nazism を、あるいは Nazism を許し、為政者に精神面で隷従的に崩れていく側面を、見極める必要があるように思われます。それを思うと、大学の総長を一年とたたないうちに辞めたのだから、Heidegger は Nazism と切れているのだ、だからもう問題はない、と考えることは、ひどくあまいように感じられます。

ただし、Arendt さんからすると、Heidegger の哲学と Nazism とはまったく別物であって、一方を他方から、あるいは他方を一方から説明することは、元々できない相談なのかもしれません。全然別々のものが、ある時、「誤解」から一緒になったのだが、一年もたたないうちに離縁したのだ、と彼女は見ているようです*7。それに、Arendt さんの考えによると、Heidegger はドイツ・ロマン派の流れを汲んでいるのであり、そのため、ドイツ・ロマン派と同様の政治的誤りに陥っていたとし、Heidegger の Nazism への commitment は、Heidegger 哲学特有のものではなく、政治に対して naïve であるというドイツ・ロマン派と同じ轍に彼ははまっていただけなのだから、Heidegger 個人が特に問題を含んでいるのではない、それはドイツ・ロマン派に特有の欠陥に由来するのだ、ということのようです*8

しかし、今では Heidegger は20世紀最大の哲学者と見なされ、ドイツ哲学はもとより、世界の哲学史上、まれな巨人として、並び立つ者のいない哲人として、評価されるようになって来ました。そうであるからには、彼の空前絶後の哲学が、その一側面を、単なる従来のドイツ・ロマン派の亜流として見なされることによって、彼の Nazism への commitment も、そのロマン派の特徴に由来するものにすぎないと判断することは、ずいぶん平衡感覚を欠くように感じられます。彼ほどの類いまれなる哲人の哲学が、その卓越性、唯一性を失って、その一部がドイツ・ロマン派の一変種にすぎないものとされ、Nazism への commitment を、彼の哲学の卓越性、唯一性から説明せずに、従来のドイツ・ロマン派の凡庸な誤りに問題の原因を帰するというのは、ひどく balance が悪く思われます。Heidegger 哲学が唯一無比の偉大な哲学であると言われれば言われるほど、彼の Nazism への commitment を、彼の偉大な哲学には基づかない、ロマン派特有の平凡な欠陥でもって説明することは、ますます balance を欠くように感じられて来るのです。


さて、以上のような感想を持ちましたが、どうなのでしょう? 私は Arendt さんのことも、Heidegger 教授のこともよく知りませんし、ここまでの話は、川崎先生の切り口を通して見た姿ですから、真実の一コマを正確に切り取ることができているとは、自分自身としても思われません。勉強途上ですので、以上の見解が私の最終結論だ、というわけでもございません。真実はまた別のところにあるかもしれません。Arendt さん、Heidegger 教授双方に批判的な感想を記しましたが、双方からの反論ももちろんあるでしょうし、その反論を十分吟味してからでないと、ここまでの話は、鵜呑みにすることはできません。最後までお読みになられた方も、絶対に鵜呑みにしないでください。絶対どこか間違いが含まれているはずです。すっかり正しいというはずはありません。各自が各自なりの評価を持たれることを望みます。間違ったことを書いておりましたらすみません。ここにお詫び申し上げます。また勉強に励みます。

*1:「ハンナ・アレントは…」、28-32ページ。

*2:「ハンナ・アレントは…」、32-33ページ。

*3:Eichmann は、奴隷のように上司の指示に従っていただけで、殺人に加担している意識はなかったということには、近年、異論が出ているようです。実は本人はユダヤ人に対し、強い差別感情を持っていて、意識的に殺人に加担していたらしいことが主張されているようです。次を参照ください。当日記、2015年3月1日、入手文献事項の部分と、その部分で言及されている日付の日記です。なお、今は Eichmann を通例に従って、無知で無関心な官僚主義的小役人として、描いておくことにします。

*4:「ハンナ・アレントは…」、35ページ。

*5:引用者註: Heidegger は Arendt を通じ、Jaspers に、自分が Nazism に加担したことを謝罪するつもりはないと、伝えていたそうです。このことから、Arendt は Heidegger が Nazism への加担を自己批判するつもりがないことを、身近に知っていたことになるわけです。「ハンナ・アレントは…」、40ページ、註(6) 参照。

*6:「ハンナ・アレントは…」、36-37ページ。

*7:「ハンナ・アレントは…」、36, 72ページ。

*8:Heidegger とドイツ・ロマン派との関係に関する Arendt さんの見解については、「ハンナ・アレントは…」、18, 21-22, 68-71, 74ページ。