What Book Contains the Proof of the Irrationality of √2?

1週間ほど前に、Euclid の『原論』にかかわるある短い雑文を書きました。そして3〜4日前のお昼に、学食で熱々のたまごかけうどんをすすりながら、ある PR 誌の中の次の文を読んでいました。

  • 斎藤憲  「エウクレイデスの ''Wrong Text''」、『UP』、東京大学出版会、第45巻、第1号、通巻519号、2016年1月号。

1週間ほど前に私が書いた話と、いくらか関連することが斎藤先生の文章には書いてあったので、すごく面白かったです。何だかタイミングがよすぎて、ちょっとおかしみを感じました。

そこでその1週間ほど前に書いた文章をここに掲載してみます(その後、若干の修正と補足を加えています)。ただし、単なる思い付きを書き留めただけのものですから、あまり真に受けないようにしてください。繰り返しますが、真剣に考え抜いて、「これで絶対に間違いはない!」と最終結論に達したことを書いているのではありません。専門的に勉強している話題でもないので、本当にふと思っただけの取り留めもない話です。お読みになられる場合は、ただ読み流していただくだけで構いません。間違ったことを書いていましたらすみません。Euclid の『原論』における、いわゆる√2 が無理数であることの証明と、いわゆる素数が無限にあることの証明と、背理法などについて記しています。


目次

1. √2 が無理数であることの証明が書かれている本には、あるいみで、実はその証明が書かれていない!?
2. その証明の idea は誰に由来する?
3. その証明方法は背理法?
4. 『原論』における、素数は無限にあるという証明
5. 最後に


1. √2 が無理数であることの証明が書かれている本には、あるいみで、実はその証明が書かれていない!?

最近、背理法について、少しばかり考えていました。考えてみた結果、何か誰にも思い付かないようなことを思い付いたのかというと、もちろんそんなこともないのですが、背理法を使った簡単で典型的な証明を思い起こしてみましたら、大抵の方が思い付くように、√2 が無理数であることの証明を思い出しました。

さてここで質問です。√2 が無理数であることの証明が書かれている本と言えば何でしょう? 私はすぐに思いました。「それって『原論』でしょ。Euclid が証明してたと思うけど。『原論』に書いてなかったかな?」 私は早速調べました。共立版の『原論』を持っているので、

まずこの本を開いてみました。私は『原論』を通して読んでみたことがありません。目次などを参考に調べてみたのですが、いわゆる√2 が無理数であることの証明は、どうやら本文に出てこない雰囲気です。「おかしいなぁ、どこかに書いてあるはずなんだけど ...」といぶかしく思いながら、共立版の巻末にある中村幸四郎先生の「『原論』の解説」を見ていると、そこに出てきました(495ページ)。その解説によると、問題の証明は Heiberg 版の付録に出てくるそうです(同左)。権威ある校訂版では本文ではなく、付録になっているんですね。なぜだか本文じゃないんだ*1


さらに、現在継続して刊行中の東大版の『原論』も先日購入していましたので、その本を見てみました。

  • エウクレイデス  『原論 VII-X』、斎藤憲訳、解説、エウクレイデス全集 第2巻、東京大学出版会、2015年、

そこでは『原論』第X巻の終わり辺りに問題の証明が出てきます(命題117, 505-507ページ)。そしてそこに添えられている斎藤先生の解説を読んでちょっと驚きました。問題のこの証明について先生は、解説文冒頭で次のように記しておられます。

 正方形の辺と対角線が非共測であることの、広く知られた証明であるが、[…] この命題が本来は『原論』に含まれていなかったことは確実である。*2

「えっ!? もともと『原論』になかったの? 後から Euclid 以外の誰かが付け加えたということですか? もとからあったものじゃないんだ。『原論』固有の、オリジナルのものじゃないんだ。それは知らなかったな。」

私はてっきり問題の証明がもとから『原論』本文そのものにあるものと思い込んでおりました。ちょっと意外です。例の証明は、『原論』に書いてあると言えば書いてあるし、書いてないと言えば書いてないと言えそうですね。


2. その証明の idea は誰に由来する?

しかも斎藤先生の解説文を読んでみると(507ページ)、いわゆる√2 が無理数であることの証明の idea は、どうやら Aristotle に由来するのだそうです。私たちがよく知っているあの証明は、そのままでは Aristotle が行った証明ではないそうですが、それでもどうも基本的な idea は Aristotle から来ているみたいです。これもちょっとびっくりです。そうだとは知らなかった。Aristotle が絡んでいるんだ。あの有名な証明の起源は Aristotle というわけだろうか? 彼の『分析論前書』の 41a26-27 前後*3が起源みたいです(507ページ)*4

ちなみに少し調べてみると、

には、件の証明の起源が Aristotle の『形而上学』にあるとして、いわゆる√2を有理数とすると、ある数が偶数でもあり、かつ奇数でもあるという、問題の証明の詳細が掲げられています(村田先生は『形而上学』のどこにその証明が出てくるのかは、記しておられないようです)。そこで今度は

の索引で、「非通約性」とか「通約性」、「対角線の非通約性」などの語を調べると、確かにいわゆる√2が無理数である話がちらほら出てきます*5。しかし「ある数が偶数でもあり、かつ奇数でもあるから云々」という証明の詳細は『形而上学』中には見受けられないように感じます。徹底的に調べたわけではないので、私の方で見落としているのかもしれません。いずれにせよ、Aristotle がところどころ、いわゆる√2が無理数である話をしているのは確かみたいです。

また、村田先生の次の本を見ると、

  • 村田全  『数学史の世界』、人と研究シリーズ 玉川選書45, 1977年、59ページ、

では、

プラトンの『パルメニデス』の後半には、帰謬法を中核とするエレア的論法の典型的な例も見られ、さらにプラトンの対話篇全体におけるこの論法の明らかな影響についても、しばしば論じられている。

ことが、Á. Szabó さんの研究に依拠しつつ、触れられています。現在、Szabó さんの説が古代ギリシア数学史家の間にどれほど支持を得ているのかは、私は知りませんが、Szabó さんの説は別にしても、少なくとも背理法が有効であるという認識は、Aristotle からさかのぼって Plato, Socrates までは最低でも至り着くことができると言えるのかもしれません*6。逆に言うと、Aristotle によるいわゆる√2の無理数性の証明方法は、Plato, Socrates の影響を受けているのかもしれないと、推測されます。


3. その証明方法は背理法?

ところで、『原論』、第X巻、命題117に見られるいわゆる√2 が無理数であることの証明は、典型的な背理法であると考えられていると思いますが、東大版でよく見ると、ちょっと意外な事実に気が付きます。

背理法とは、証明したい命題 A を証明するのに、まずその否定命題 ¬A を仮定して、そこから矛盾が出れば、ただちに A を結論してよいとする論法であると、通常説明されると思います*7。図で書けば、


   [¬A]

     ・
     ・
     ・

     人

    ∴A


です。'[ ]' は、このカッコに挟まれた式が仮定であることを表わし、かつその仮定が結論を述べる段階で、仮定としての身分を取り消される/解除される (discharge) ことを示しており、また '人' は矛盾であることを表わします。このような背理法を Classical Reductio と呼びます*8

さらに、次も背理法であると、たまに言われることがあります*9。すなわち、A と仮定して、矛盾が出てくれば、A でない (¬A) を結論してよい、とするものです。図で書けば、


    [A]

     ・
     ・
     ・

     人

   ∴¬A


です。これも背理法であるとするならば、そのとき、この背理法を Intuitionistic Reductio と呼びます*10

古典論理の立場からすれば、どちらの Reductio も結局同じ効果を持ちますので、特に区別はされません。しかし直観主義の立場からすると、Classical Reductio は正当な論法とは認められませんから、直観主義で仮に背理法が認められるとすれば、その際に認められるのは Intuitionistic Reductio であって、Classical Reductio ではありません。これはよく知られた事実です。したがって、直観主義の立場からすれば、上の二つの Reductio は同じものとして扱うことはできず、まったく別のものであると見なされます。

数学の教科書の類いを調べていただければわかると思いますが、背理法とは、証明したい命題 A があれば、最初にその否定命題 ¬A を仮定し、そこから矛盾が引き出されれば、ただちに A を結論してよいとする論法であると、おおむね説明されていると思います。これは Classical Reductio の説明です。そしてこのような背理法を使った典型的な証明の例として『原論』におけるいわゆる√2が無理数であることの証明が上げられていると思います。

さて、改めて『原論』でその証明を読んでみると、少し意外で興味深い事柄に気が付きます。たとえば、東大版でその証明を見ると(505-507ページ)、その冒頭で Euclid は何を証明するつもりなのかを、まず明らかにしています。彼が証明したいのは、(いくらか言い直して書けば) 正方形の対角線はその正方形の一辺に対して非共測である、ということです。そこでまず、共測であると仮定しようと述べてから証明を始め、論証を進めて行くと、ある数は奇数でもありかつ偶数でもあるという不可能事が出てくるので、最初の「共測である」という仮定は間違っていて、正方形の対角線はその一辺に対して共測ではない、と結論し、証明を終えています。

このような証明の運び方からして、これは先に上げた Reductio のうち、どちらの Reductio を使っているでしょうか? もうおわかりの通り、Intuitionistic Reductio です。Classical Reductio ではないんですね。これはちょっと意外です。

背理法の典型的な説明では、通常、Classical Reductio のような説明が行われます。すなわち、先にも述べた通り「背理法とは、証明したい命題 A を証明するのに、まずその否定命題 ¬A を仮定して、そこから矛盾が出れば、ただちに A を結論してよいとする論法である」と言われます。そしてしばしば√2が無理数であることの証明を提示して、実際どのようにその背理法が使われているのかを確認します。しかし、『原論』にあるその証明は Classical Reductio ではなく、Intuitionistic Reductio です。つまり「A と仮定して、矛盾が出てくれば、A でない (¬A) を結論してよい」とする論法です。通常、背理法と言えば Classical Reductio のことが言われ、その実例として√2が無理数であることの証明が言及されますが、もともとの Euclid による√2の無理数性の証明は、Intuitionistic Reductio なんですね。これは少し意外な感じがします。

しかし、それほど意外でもないかもしれません。と言うのは、実は現代の数学の入門書でも、背理法が説明される時、説明文では Classical Reductio の解説が行われても、実例として示されている√2の無理数性の証明では Intuitionistic Reductio が使われている事例があるからです*11

説明文と実例とのこのような齟齬は、知っている人は知っているようです。√2が無理数であることの証明の際に、その証明の中では Intuitionistic Reductio を使っていながら、その Reductio を Classical Reductio であるかのように扱うことがよくあるようで、それはよろしくない、二つの Reductio を無差別に取り扱うべきではないと指摘している本も実際にあります*12

もちろん、古典論理ではどちらの Reductio でも別に構わないですし、私たちの多くはたぶん素朴に古典論理の立場に立っているでしょうから、どちらの Reductio でもいいのですが、古くから有名で権威を持った『原論』における√2の無理数性の証明が、Classical Reductio ではなく Intuitionistic Reductio を使っている点が、意外でかつ興味深く思われます。『原論』の証明では、確か「やり方」、「求め方」を示すことで証明に代えているような、そのような証明があったかと思いますが*13、そのような証明もれっきとした証明であると Euclid が見なしていたとするならば、彼はいわゆる超越的な、非構成的な証明ではなく、構成的な証明を好むことがあったと言えるのかもしれません(構成的証明と非構成的証明の違いなど、彼は知らなかったでしょうし、しばしば構成的な証明しか思い付かなかったから、その場合、構成的な証明しか記していなかったのかもしれませんが)。そうすると、√2が無理数であることの証明で使われている背理法が、非構成的なところのある Classical Reductio ではなく、直観主義的な Intuitionistic Reductio であったとしても驚くには当たらないのかもしれません。そもそも古代ギリシアの数学では無限への言及は回避されたとしばしば言われますが、無限を超越的に取り扱うことの得意な classical logic ではなく、無限に対し構成的に、可能的 (potential) に対処する intuitionistic logic に合った Intuitionistic Reductio を駆使する方が、ひょっとすると『原論』にはしっくりくるのかもしれません。(この段落は、本当に思い付きで書いていますので、文字通りに取らない方がいいと思います…。)


4. 『原論』における、素数は無限にあるという証明

ここまで、背理法の有名で典型的な使用例を√2が無理数であることの証明に見てきましたが、さらに背理法を使った簡単な典型的証明といえば、いわゆる素数が無限にあるという、例の証明がありますが、これについても東大版『原論』をひも解いてみると、第IX巻の中に出てくるのですが(命題20)、そこに付された斎藤先生の解説を読むと、この証明には特異な点がかなり多く含まれているそうで、そのため、これもちょっと意外なことに、

本命題が当初は『原論』に含まれておらず、後から追加された可能性も真剣に考慮せねばならない。もし『原論』が「基本命題集」として編纂されたのであれば、本命題のように、重要な結果ではあるが、基本的な命題とは言い難い命題が、当初は含まれていなかったとしても不思議ではないだろう。*14

と記されています。確実とまでは言えないかもしれませんが、もともとは『原論』に含まれていなかった可能性があるとは、これも知らなかったです。有名な証明なのに後からの付け足しの可能性があるとは、意外ですね。当然初めから『原論』に入っていた、『原論』ならではの証明とばかり思っておりました。

そしていわゆる素数が無限にあるというこの証明本文を東大版で読んでみると(261-262ページ)、これも意外なことに、この証明全体の構造は背理法を主としているものではなく、証明の一部分に背理法が使われているだけである、という点です*15。「証明全体の構造は背理法を主としているものではなく」、というのは、証明の初めで A なり ¬A なりを仮定として立てて証明を開始し、矛盾が出てきたところで、¬A なり A なりを結論することで証明を完了するというものではない、ということです。背理法は証明の半ば過ぎで出てくるという感じです。なお、解説文で斎藤先生はこの証明は「形式上は帰謬法でない」とおっしゃっておられます(263ページ)。いわゆる素数が無限に存在することの証明は、背理法をメインに使った証明とばかり思っておりましたが、形式上は背理法ではない、もしくは背理法を使っているとしても、その証明の一部に使われている、というのは、何だか意外な感じを受けます。


5. 最後に

以上を振り返ってみると、典型的で非常に簡単な、背理法の有名な事例二つがともに、もともとは『原論』固有のものではなく、後代の付け足しの可能性があるとは、「えっ、ほんと?」という感じです。

『原論』で使われている背理法の証明は、これら二つだけではないようですが*16、しかしそれにしても、これら二つのように簡単で非常に有名な証明が、『原論』にもともとなかったとすると、『原論』にとって背理法とは何だったんでしょうか? あるいは背理法という証明法にとって、『原論』とは何なのでしょうか?

しかも√2の無理数性の証明で使われている背理法が、典型的なものではない (Classical Reductio ではない) というところも意外であり、この点も『原論』という数学書での証明法の特徴を探る上で、さらには Euclid という数学者の特徴、ひいては古代ギリシア数学の特徴を探る上でも、とても興味深いものがあると感じます。

なお、以上のことを調べ、記した後で知ったのですが、『原論』において、いわゆる√2の無理数性の証明の際に使われている背理法が、Classical Reductio ではなく、Intuitionistic Reductio であることは、ずいぶん前に、既に指摘されています。次の本をご覧ください。


PS

上記が一週間ほど前に書いた文章ですが、その後、斎藤先生の「エウクレイデスの ''Wrong Text''」を読みました。そこで気が付いたのですが、『原論』での斎藤先生の解説によると、いわゆる√2の無理数性の証明と素数が無限にあることの証明は、後代に『原論』に付け加えられた可能性が高いとの話ですが、「エウクレイデスの ''Wrong Text''」を読むと、次のような言葉が出てきます。

この [『原論』] の第2巻では、「エウクレイデスには素因数分解という概念がなく、そもそも3つ以上の数の積という概念が希薄である」などの新解釈を提示した。数学 (数学教育) 分野の読者はこの主張に驚かれるかもしれない。*17

確かに驚きますが、それはさておき、次のような文章も出てきます。

この [『原論』の翻訳] 全集では他にも多くの点で、従来とは違う『原論』解釈を提示してきた。*18

これら二つの引用文からわかることは、『原論』の翻訳における斎藤先生の解説には、先生ご自身による「新解釈」や「従来とは違う『原論』解釈」が提示されているようだ、ということです。つまり、必ずしも現在の学界での通説でもなければ定説でもない学説が、今回の『原論』の翻訳では提示されているらしい、ということです。いわゆる√2の無理数性の証明と素数が無限にあることの証明は、後になってから『原論』に付加されたらしいという先生のお話は、たぶん「新解釈」なのではないかと思うのですが、そうだとすると、これらの解釈はまだ学界で大半の研究者から同意、追認を得ているものではないかもしれません。そのため、今後、研究者による検討に付され、その結果、撤回されるという事態もあり得るかもしれません。もちろん、斎藤先生は自信があるから新解釈を提示されているのでしょうし、私は門外漢なので別に先生に反対する意図もないのですが、一般論として言えば、同業者からの検討をまだ経ていないならば、反駁の憂き目にあって先生の説が否定されるという可能性もゼロではないと推測されます。あるいはもしかすると、既に先生の「新解釈」は同業者に諮られて、多くの人の承認を得ているのでしょうか。だとすれば、私ども門外漢には「新解釈」でも、研究者間ではもう定説になりつつあるということでしょうか。そのあたりのことはちょっとよくわかりませんが、いずれにせよ、先生の「エウクレイデスの ''Wrong Text''」を読むと、先生の説「√2の無理数性の証明と素数が無限にあることの証明は後代における付加である」は、先生独自の解釈なのかな、と感じた次第です。その場合は、少し割り引いて考えなければならないかな、と思った次第です。別に他意はございません。


これで終わります。感じたことを書いただけですので、どこか間違っているでしょうから、あまり真に受けないようにお願い致します。斎藤先生にも、間違ったことを書いていましたらお詫び致します。大変すみません。また勉強致します。

*1:2016年1月24日追記: 付録になっていることについては、手短な記述ですが、次を参照ください。伊東俊太郎、『ギリシア人の数学』、講談社学術文庫 942, 講談社、1990年、初出1975年、170ページ。

*2:エウクレイデス、507ページ。

*3:岩波書店の旧アリストテレス全集、第1巻、1971年版、266ページ、新アリストテレス全集、第2巻、2014年版、126-128ページ参照。

*4:2016年1月24日追記: 問題の証明に Aristotle が既に言及しているということについては、次の本でも触れられており、伊東俊太郎、『ギリシア人の数学』、171ページ、その後の177ページで『分析論前書』の 41a から該当する文言の引用がなされています。

*5:念のために言い添えておきますと、ここまで何度か「√2が ... 」と言ってきましたが、もちろん当時はまだ '√2' のような表現はありませんでしたし、「有理数」、「無理数」にそっくりそのまま対応するギリシア語が当時あったわけではないようです。

*6:2016年1月24日追記: 伊東俊太郎、『ギリシア人の数学』、171ページによると、いわゆる√2の無理数性の証明を背理法によって成し遂げることが Pythagoreans の目標であったという O. Becker の説が紹介されており、伊東先生はこの説を支持しておられるようです。この説が本当に正しいのかどうか、私は判断を保留させてください。また、伊東先生の同書の187-188ページにおいて、背理法が「プラトン弁証法の一つの重要な方法であった」 (187ページ) ことが述べられており、Theaetetus にその実例がある様子を解説されておられます。

*7:例えば、戸田山和久、『論理学をつくる』、名古屋大学出版会、2000年、296ページ、小野寛晰、『情報科学における論理』、情報数学セミナー・シリーズ、日本評論社、1994年、259ページなど。

*8:Stephen Read, Thinking About Logic: An Introduction to the Philosophy of Logic, Oxford University Press, OPUS Series, 1995, p. 224.

*9:例えば、E. J. レモン、『論理学初歩』、竹尾治一郎、浅野楢英訳、世界思想社、初版1973年、新装版1996年、33ページ、N. W. テニント、『自然演繹の論理学』、藤村龍雄訳、八千代出版、1981年、56ページ。

*10:S. Read, Thinking About Logic, p. 225.

*11:松坂和夫、『数学読本 1 数・式の計算 方程式 不等式』、岩波書店、1989年、8-10ページ。

*12:Sara Negri and Jan von Plato, Proof Analysis: A Contribution to Hilbert's Last Problem, Cambridge University Press, 2011, p. 22, Jan von Plato, Elements of Logical Reasoning, Cambridge University Press, 2013, p. 81. 2016年2月3日追記: 次も参照ください。高崎金久、『学んでみよう! 記号論理』、日本評論社、2014年、79-81ページ、特に80ページ。

*13:書いたはなから記しますが、もしかしたらなかったかもしれません。なかったようでしたらすみません。勝手なことを書いているかもしれません。

*14:エウクレイデス、263ページ。

*15:先ほど section 3 の終わり辺りで「『原論』の証明では、確か「やり方」、「求め方」を示すことで証明に代えているような、そのような証明があったかと思いますが」と述べていましたが、ここの素数の無限性の証明は、もしかするとその「やり方」、「求め方」でもって証明に代えているような、そんな証明に見えます。違っていたらすみません。謝ります。

*16:2016年1月24日追記: 伊東俊太郎、『ギリシア人の数学』、187ページには、次のようにあります。「この間接証明はギリシアの当時の論証数学において「帰謬法(きびゅうほう)」 […] の名の下に、さかんに使われたものであることは周知の通りである。実際ユークリッドの『原論』のきわめて古い層に属する第七巻でさえも三十六の命題のうち十五が間接証明によっているほどである。」

*17:斎藤、「エウクレイデスの ''Wrong Text''」、7ページ。

*18:斎藤、「エウクレイデスの ''Wrong Text''」、13ページ。