What Are Meaning Marks? What Are Meaning Quotes?

前回は Quine さんの quasi-quotation, Quine's corners を記しましたので、今回は、ついでに類似の device を記します。'meaning marks', 'meaning quotes' と呼ばれるものです。

その説明を、次の文献該当個所から引用し、私訳/試訳を付します。

  • David Kaplan  ''Quantifying In,'' in: Synthese, vol. 19, 1969, pp. 185-186.

引用とその翻訳に際しては、原註を省きます。下記引用文中および訳文中の式 (12), (14) 内の '[ ]' は原文におけるものですが、それ以外は引用者、翻訳者によるものです。毎回述べていますが、私の訳文は他の人の check を受けておらず、誤訳が含まれていると思いますので、正確に訳されているとは早合点しないでください。どこか間違っているはずですので、英語本文を読んで、どうしてもわからないというときだけ、参考程度に参照してください。事前に、誤訳、悪訳に対し、お詫びを申し上げます。なお、訳文中の [0], [1], ..., は訳者による註です。

 Frege's view of quotation contexts would allow for quantification into such contexts, but of course we would have to quantify over expressions (since it is expressions that are denoted in such contexts), and we would have to make some provision to distinguish when a given symbol in such a context is being used as a variable and when it is being used as a constant, i.e. to denote itself. This might be done by taking some distinctive class of symbols to serve as variables.
 Let us symbolize Frege's understanding of quotation marks by using forward and backward capital F's. (Typographical limitations have forced elimination of the center horizontal bar of the capital F's.) Then, using Greek letters for variables ranging over expressions we can express such truths as:


 (12)   ∃α[{\tiny \lceil}α is greater than five{\tiny \rceil} is a truth of arithmetic].


 Such is Frege's treatment of quotation marks: […]


 The ontological status of meanings or senses is less well settled than that of expressions. But we can again illustrate the principle involved in searching for the intermediate entities, and perhaps even engender an illusion of understanding, by introducing some symbolic devices. First, in analogy to the conventional use of quotation marks, I introduce meaning marks. Their use is illustrated in the following:


 (13)   The meaning of 'brother' = ^{\rm {\tiny m}}male sibling^{\rm {\tiny m}}.


Now we can adapt the idea used in producing (12) to meaning marks, so as to produce a Fregean interpretation of them. The context produced by the meaning marks will then not be thought of as referentially opaque but rather such that each expression in such a context will denote its own meaning. Quantification in is permitted, but restricted of course to quantification over meanings. Following the earlier pattern, let us symbolize the new meaning marks with forward and backward capital M's. Using italic letters for variables ranging over meanings, we can express such truths as:


 (14)   ∃ab[ ^{\rm {\tiny M}}a kicked b^{\rm {\tiny M}} = ^{\rm {\tiny M}}b was kicked by a^{\rm {\tiny M}} ]


I leave to the reader the problem of making sense of (12)-(14).


 引用文脈に関するフレーゲの見解は、そのような文脈の内部へ量化されることを、あらかじめ予定しているであろうが、[その場合] もちろん私たちは表現の上への量化を行う必要があるだろうし(そのような文脈において指示されているのは表現だからである)、そのような文脈において、ある与えられた記号が変項として使われているのはいつで、定項として使われているのは、つまり自分自身を指すのはいつなのか、それを区別する用意が必要であろう。このことは、記号のある区別されたクラスを、変項として役立てるため、選び出すことによってなされるだろう。
 前向きと後ろ向きの大文字 F を使うことで、引用符に関するフレーゲの理解を記号化しよう。(印刷上の制約により、大文字 F の中央にある水平の線は削除せざるをえなかった。) そこで、表現の上に渡る変項に対しギリシア文字を使えば、私たちは次のような真理を表すことができる。


 (12)   ∃α[{\tiny \lceil}α は五より大きい{\tiny \rceil} は算術の真理である]。


引用符に関するフレーゲの扱い方は、このようなものである [0]。[…]


 意味または意義の存在論的身分は、表現の存在論的身分ほどには定まっていない [1]。しかし私たちは、ある記法を導入することで、中間的存在者を探すのにかかわる原理 [2] を再び説明することができ、かつおそらくはわかった気にさせることさえできるだろう [3]。最初に、引用符の慣習的な使用とのアナロジーから、私は意味符号を導入する。その使用法は以下のように例示される。


 (13)   「兄弟」の意味 = ^{\rm {\tiny m}}両親を同じくする男^{\rm {\tiny m}}。[4]


さて、意味符合のフレーゲ流解釈を作り出すため、(12) を作り出す際に使われた考えをその符合用に翻案することができる。意味符合により作り出される文脈は、そのとき、指示的に不透明であると見なされるのではなく、むしろ次のように見なされるようになるだろう。つまり、そのような文脈内の各表現はそれ自身の意味を指示するのである、と。[そうすると] 内部量化が許されるが、もちろん意味の上への量化に限定される。以前のパターンに従って、前向きと後ろ向きの大文字 M を使い [5]、新しい意味符号を記号化しよう [6]。意味の上に渡る変項に対しイタリック体の文字を使うなら、私たちは次のような真理を表すことができる。


 (14)   ∃ab[ ^{\rm {\tiny M}}ab を蹴った^{\rm {\tiny M}} = ^{\rm {\tiny M}}ba によって蹴られた^{\rm {\tiny M}} ] [7]


(12)-(14) をどのように理解したらよいのかという問題 [8] については、私は読者にゆだねることにする。

私個人の感覚からして、註を施しておいたほうがよいと思われるところに [0], [1], ..., などの番号を入れて注釈を付け、以下に記します。入れておいたほうがよいが、「このことは比較的知られているだろう」と感じられることについては、あれもこれも入れている時間がないので、註釈を省きました。これらの註については、はなはだ不十分ですが、もう一度言いますけれども、はなはだ不十分な註ですが、上記の Kaplan 先生の文章を理解する一助となれば幸いです。なお、註では私が理解したことを書いておりますので、当然間違っている可能性もあります。間違っているところがありましたらすみません。


[0] 「引用符に関するフレーゲの扱い方」、特に Frege によれば、引用文脈においては代入則が成り立つとされること

今回翻訳している文章のなかの Kaplan 先生のお考えによると、Frege にとって引用文脈は代入則が成り立つ文脈であるとのことです。そこで Frege において、引用文脈でも代入則が成り立つとされる理由を説明します。

代入則 (the principle of substitutivity) を簡単に言えば、


(i)*1 x = y ならば F(x) ⇔ F(y)


です*2。これを言葉で簡単に言えば「文を成すものの一方を、それに等しい他方で置き換えた結果は、元の文の真理値に影響を与えない」という感じになります。


ところで引用文脈においては、一見、代入則が成り立たないように見えます。


(ii) Plato is a philosopher.


であり、


(iii) Plato = the teacher of Aristotle


なので、


(iv) The teacher of Aristotle is a philosopher.


も成り立ちますが、


(v) 'Plato' has five letters.


であり、


(iii) Plato = the teacher of Aristotle


ですが、


(vi) 'The teacher of Aristotle' has five letters.


は明らかに成り立ちません。

今、


(vii) Our platoon retreated from the front.


とした場合、(iii) により、


(viii) Our the teacher of Aristotleon retreated from the front.


としても、grotesque なばかりで、文法にも適せず、いみもなしませんが、それと言うのも、(vii) の 'platoon' のなかの 'plato' がそれ自体では何らいみ*3をなさない、何も指さないからだと思われます。

同様に、(v) の引用符のなかの、人名のように見える一連の文字の並びは、引用符中ではいみをなさない、誰か人物を指さないと考えられます*4。'platoon' のなかの 'plato' がそれ自体では何らいみをなさない、何も指さないのと類比的にです。これゆえに (vi) は成り立たないのだと推測されます。

しかし、引用符のなかの表現はいみをなさないと考えるのではなく、引用文脈内部の表現が指しているのは、その表現が引用されていない時に指しているものではなくて、その表現自身であるとする*5ならば、引用文脈においても代入則は成立します。このことを少し具体例を交えて、ごく軽く説明してみます。


まず、(v) に現われている引用表現


(ix) 'Plato'


は、人名である


(x) Plato


を指します。そして今度はこの人名が生身の Plato 本人を指します*6 (ただし彼は既に滅び去ってはいますが…)。 (x) という人名は、ある実際の人物を指すわけですが、その人名が引用符のなかに現われている時、つまり (ix) における引用符中に現われている時には、それは生身の人間を指すのではなく、その表現自身を指すとするのです。引用符内に現われている表現は、そこに現われている時は、その表現自身を指すとするのです。

(vii) における 'platoon' のうちの 'plato' はそれ自身で何かを指しているわけではありませんでした。だからその 'plato' に 'the teacher of Aristotle' を代入すると、非文法的な、いみのない文ができあがりました。(v) における 'Plato' の引用符内に 'the teacher of Aristotle' を代入した結果、偽な文ができあがってしまったのも、'Plato' が引用符内に現われていて、引用符内に現われている表現は何かをいみしているわけではなく、何かを指しているわけでもないと解されたが故でした。

しかし、引用符内の表現は何もいみせず何も指さないと考えるのではなく、引用符内にある時はその表現はそれ自身を指すとすれば、代入則は回復されます。回復された代入則を記してみましょう*7

'/x/' を「言語表現 x の type」と読み、'a' をある人物を指すものとし、'S(p)' を「p と言った」と読み、'{\tiny \lceil} {\tiny \rceil}' を Quine's corners とすると*8


(xi) /x/ = /y/ ならば aS({\tiny \lceil}F(x){\tiny \rceil}) ⇔ aS({\tiny \lceil}F(y){\tiny \rceil})


と書いて、これは「言語表現 x の type と言語表現 y の type が同じならば (x と y の token が異なっていたとしても)、a が {\tiny \lceil}F(x){\tiny \rceil} と言ったならば、a は {\tiny \lceil}F(y){\tiny \rceil} と言ったのであり、逆もまた成り立つ」と読むことができます。具体例を上げると幾分 trivial な印象を与えるかもしれませんが、x を Aristotle の口にした 'Plato', y を私の口にした 'Plato' とし、a を Aristotle, F を 'is great' とすれば、


   /Plato/ = /Plato/ ならば Aristotle said, ''Plato is great.'' ⇔ Aristotle said, ''Plato is great.''


です。こうして (xi) は引用文脈に関する代入則と言えることになります。これにより、Frege にとっては、引用文脈でも代入則が成り立つと言えます。

ただし、本当に彼がこう考えていたのか、仮にこう考えていたとして、この考えから何か不都合なことが帰結しないかどうか、それにこの考えは彼の他の考えと整合的であるのか、などなどの疑問がわいてきます。これらの疑問にきちんとした答えを与えない限り、「Frege にとっては、引用文脈でも代入則が成り立つのだ」とは、まだ断言できないと思われます。


[1] 「意味または意義の存在論的身分は、表現の存在論的身分ほどには定まっていない」

難しそうなことを述べているように見えるかもしれませんが、そうでもないと思います。大体次のようなことが述べられていると思われます。すなわち、「言語表現とは何か? どこにあるのか? あるというのなら見せてほしい」と言われれば、「ほら、ここですよ」と言って、本を開いて ink のシミを見せればよいでしょう。あるいは目の見えない方には、点字の凸凹を触ってもらえばよいでしょう。言語表現のありさまは、これに尽きていて、他に何ら問題となる点はまったくないとは言いませんが、言語表現に対して、内包的な意味または意義は何であり、どこにあるのですか、と問われれば、いささか答えに窮します。少なくとも先の言語表現に対する返答ほどには、簡単に答えられないように見えます。以上のようなことが、ここでは述べられているように思われます。


[2] 「中間的存在者を探すのにかかわる原理」


中間的存在者とは何か?


(I) Nine is greater than five.


であり、(2006年8月時点までの太陽系の惑星の数に関しては)


(II) nine = the number of planets


だから、


(III) The number of planets is greater than five.


も成り立ちます。しかし、


(IV) It is necessary that nine is greater than five.


であり、かつ (II) ですが、


(V) It is necessary that the number of planets is greater than five.


とは言えません。

また、


(VI) Canines are larger than felines.


であり、(II) ですが、


(VII)  Cathe number of planetss are larger than felines.


と言えるのかというと、そのようなことはなく、(VII) は成り立ちません。第一、(VII) はまるで文法に適さず、意味不明です。

(I) の 'Nine' の現れを、「通常の現れ(vulgar occurrence)」と言い、(VI) の 'Canines' 中の 'nine' の現れを「偶然的現れ(accidental occurrence/orthographic accident)」と言います。通常の仕方で現われている表現は、いわば普通に使われ、通常のことを表しています。一方、偶然的に現れている表現は、そのつもりで使われているのでもなく、通常のことを表しているのでもなく、まさにたまたまそのようなところにそのような並びで現れているだけの文字列です。これらに対し、(IV) における 'nine' の現れを「中間的現れ(intermediate occurrence)」と言います。(IV) かつ (II) なのに (V) とは言えないので、(IV) における 'nine' の現れは、(I) おけるそれのようには、通常の現れ方はしていません。が、しかし、(VI) における 'Canines' 中の 'nine' ほどには、無関係に、偶然的に (IV) に 'nine' が現れているのでもありません。ここから、(IV) における 'nine' の現れを「中間的現れ」と言います。そしてこのように現れている表現が表しているのが、「中間的存在者(intermediate entity/object)」と呼ばれるものです。中間的存在者とは、典型的には reference に対する meaning や Frege の Sinn などです。あくまで、典型的には、ですが…。


中間的存在者を探すとは、いかなることか?

ある文脈に現われている表現が何を表しているのかが問題となることがあります。例えば、(I) の 'Nine' は 9 を指すでしょう。では、(IV) の 'nine' は何を指すのでしょうか。9 に尽きるとするならば、(V) が成り立つはずでしょうが、(V) は成り立たないので、(IV) の 'nine' が指すのは 9 ではないか、または 9 に尽きない何かと思われます。ではそれは何なのでしょうか。このように、'nine' という表現の現れが、どの文脈に現われているかによって、何を表すかが違ってくると思われます。つまり、ある表現の中間的現れにより、その表現がいかなる中間的存在者を表しているのか、それが問題となる場合があり、どんな存在者を表しているのかを突き止め、探し出す必要が生じてくるわけです。


中間的存在者を探すのにかかわる原理とは何か?

ある文脈に現われ、その文脈の部分を構成している言語表現が、どんな存在者を表しているのかは、場合によっては、すぐさまわかるというものではありません。文脈によって、何を表しているのかは、変わってきます。それを特定するための主導原理はないでしょうか。Kaplan はその原理として、Frege の文脈原理を、あるいはそれに類似のものを上げています(p. 185)。Kaplan 本人は「文脈原理 (the context principle)」という言葉そのものを使っていないし、Frege のドイツ語原文も引用してはいませんが、以下にその原文を引用し、既存の邦訳を付してみましょう。

Es genügt, wenn der Satz als Ganzes einen Sinn hat; dadurch erhalten auch seine Theile ihren Inhalt.*9

全体としての命題が意義を持つならば、それで十分である。そのことによってまた命題の部分もその内容を得るのである。*10

ある文脈に現われ、その部分を成している言語表現が、どのような存在者を表しているのかは、Kaplan によると、上に引用した Frege の述べる原理を援用すればよいとのことです。その原理を活用し、ある文脈全体が何を表しているのかがわかれば、その文脈の部分を構成している言語表現の表すものもわかるということです。例えば、問題になっている文脈全体が、Sinn を表していることがわかるならば、その文脈の部分表現が表しているものも、Sinn である、ということです。この原理を主導原理とするならば、問題の文脈に現われている部分表現が、いかなる (中間的) 存在者を表しているのかがわかる、ということです。


[3] わかった気にさせる/わかるという幻想を生み出す (engender an illusion of understanding)

英語で 'engender an illusion of understanding' という言い回しは、時々分析哲学の二次文献中で見られますが、おそらくもともとは次に由来します。W. V. Quine, ''Reply to Professor Marcus,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, revised and enlarged ed., Harvard University Press, 1976, p. 178, this review was presented in 1962. 私の理解した限りでは、Quine によると、言語表現の使用と言及の混同は、現代における様相論理の誕生時に生じたのみならず、その後もこの混同、またはその区別の無視が様相論理研究に引き継がれ、様相論理を、あるいは様相論理の式を、わかった気にさせる力を持ち続けている、と言います。Professor Marcus が記す次の式について、


(xii) If p is a tautology, and p eq q, then q is a tautology.


Quine は、以下に説明するように、論評しています。なお 'eq' は文結合子だと考えられています。例えば一つには、それは strict equivalence だと解されています(Ruth Barcan Marcus, ''Modalities and Intensional Languages,'' in her Modalities: Philosophical Essays, Oxford University Press, 1993, p.6. The paper was first published in 1961.)。

さて、私の理解した限りでは、私が理解できた限りではですが、Quine は上記の式を検討して、次のように言います(''Reply to Professor Marcus,'' pp. 178-179)。この式の 'p', 'q' の位置には何が入るであろうか。文が入るとしよう。すると 'p eq q' は well-formed/grammatical である。しかし 'p is a tautology' と 'q is a tautology' は ill-formed/ungrammatical である。例えば 'p' に 'Male sibling is male' を代入すれば、 'Male sibling is male is a tautology' となって、ill-formed である。だから 'p' と 'q' の位置には文がくるのではなく、文の名前がこなければいけない。つまり 'p' と 'q' では、文が使用されるのではなく、文が言及されていなければいけないわけである。ここでは言語表現の使用と言及の区別が守られていないのである。

では今度は逆に (xii) における 'p', 'q' の位置に、文が入るのではなくて、文の名前が入るとしてみよう。すると、'p is a tautology' と 'q is a tautology' は well-formed である。しかし、'eq' は文結合子ではなくなって、二つの名前に関する関係語/関係を表す述語となる。もしも 'eq' が文と文とをつなぐ strict equivalence だとするならば、それは strict equivalence なのだから、(xii) は少なくとも様相命題論理に関する式だということになる。しかし、'eq' がただの関係語だとするならば、(xii) をことさら様相論理の式だとする必要はない。ただの古典論理の式の一つだと解することが可能である。つまり、(xii) における 'p', 'q' の位置に、文が入るのではなく、文の名前が入るとするならば、(xii) は様相論理でも何でもなくなるということである。これは Professor Marcus の望むところではないだろう。

したがって、(xii) において、Professor Marcus が様相論理を展開したいとするならば、彼女は (xii) の 'p', 'q' の位置に文の名前ではなく、文が入るとしなければならない。だが、それだと先に述べた通り (xii) の 'p is a tautology' と 'q is a tautology' は ill-formed になり、言語表現の使用と言及の区別が守られず、無視されることになるのだが、実際この区別を彼女は無意識にかもしれないが無視し続けることで、(xii) において、あたかも様相論理が展開できるかのような、そしてそうすることで様相論理が「理解できるかのような幻想を生じせしめている」のが実態なのである。

おそらく以上のように Quine は Marcus さんを批判し、彼女は私たちに対し、様相論理をわかった気にさせているだけだ、と言いたいのだろうと思われます。

ここで Kaplan 論文に戻ると、「意味または意義の存在論的身分は、表現の存在論的身分ほどには定まっていない」が、「私たちは、ある記法を導入することで」、つまり「意味符合」を導入することで「意味または意義」などの「中間的存在者」が何であるのか、確かにそれらはあるのかについて、「わかった気にさせることさえできるだろう」と、Kaplan はこの註を施した原文中で述べているものと思われます。


[4] 「^{\rm {\tiny m}}両親を同じくする男^{\rm {\tiny m}}

(13) の右辺が表しているのは、大まかに言うと、外延としての指示対象ではなく、外延としてのクラスでもなく、内包としての概念、内包としての意味だと思われます。


[5] 「前向きと後ろ向きの大文字 M」

大文字の M を前向きにしようが後ろ向きにしようが、どちらにせよ、形は変わらず M のままです。たぶん Kaplan 先生は冗談を述べておられるのだと思われます。


[6] 「新しい意味符号を記号化しよう」

この新しい意味符号は、Quine さんの corners に対応しています。Quine's corners がくくる変項の、その値は言語表現であったのに対し、Kaplan's new meaning marks は、それがくくる変項の、その値としては内包的な意味を取ります。


[7] 意味に関する一般的真理の例化


(14)   ∃ab[ ^{\rm {\tiny M}}ab を蹴った^{\rm {\tiny M}} = ^{\rm {\tiny M}}ba によって蹴られた^{\rm {\tiny M}} ]


の a として Aristotle を、b として Plato を取って、(14) を例化すれば以下の通りです。


(14.1) ^{\rm {\tiny m}}Aristotle は Plato を蹴った^{\rm {\tiny m}} = ^{\rm {\tiny m}}Plato は Aristotle によって蹴られた^{\rm {\tiny m}}


今、仮にですが、Frege 流に文の内包を真理条件とするならば、(14.1) は、等号の両辺とも真理条件を同じくするでしょうから、全体としても正しいと言えるでしょう。ちなみに Aristotle が Plato を蹴ったというのは事実のようです。歴史的事実です。と言うと、これはまったく言いすぎですが、それでも実際に Plato は「Aristotle に蹴られちまったよ」と、ぼやいたことがあるらしい。いやこれも本当かどうかはわかりませんが…。Diogenes Laertius の残した逸話に以下のような伝承があります。「彼 [Aristotle] は、プラトンがまだ存命中に、その許を去った。そこで、プラトンは次のように言ったとのことである。「アリストテレスは、わたしを蹴飛ばして行ってしまった。まるで仔馬が生みの母親をそうするかのように。」」*11 というわけで、Plato は「Aristotle に蹴られたのは事実だ、事実だ!」と、断固主張するかもしれませんが…。そんなわけはないか、ただの噂話ですからね。


[8] 「(12)-(14) をどのように理解したらよいのかという問題」

Kaplan 先生は (12)-(14) で述べられていることが、はたして整合的に理解できるものなのか、疑念を持っておられるようです。実際 (12)-(14) については、以下に記すような疑念が持ち上がるかもしれません。

まず (12) をどのように理解したらよいのかという問題に対しては、次のような疑問点、問題点が生じると思われます*12

卑近な例で説明しましょう。次の文は真だと思われます。


   「名前のないものがある」は、この世の真理である。


確かにそうでしょうね。この世のありとあらゆるものに名前があるというわけではありませんので、上の文は正しいと言えそうです。この文を式に直してみましょう。すると


   ∃α[{\tiny \lceil}α has no name{\tiny \rceil} is a truth of the world].


という感じになると思われます。もしもこの式が正しいならば、この存在量化文は例化できるはずであり、そうして例化された文も正しいはずです。ところでこの式の変項 α の値には、言語表現が取られます。そこでこの式の 'α' の位置に適当な言語表現を代入してやると、正しい例化文ができるということになります。しかしその時、名前がないと言われているものには、そのものを指す言語表現、すなわち名前があることになります。これは不合理です。


今の話に対し、もう少し具体的な例を上げてみましょう。The Ganges River の真砂には名前はないでしょうから、次のような式を書くことができるでしょう。


   ∃α[{\tiny \lceil}α is a sand of the Ganges River, and α has no name{\tiny \rceil} is a truth of the world].


この式を真にするように例化した文を作れば、その時、the Ganges River の真砂であって、名前などなかったある砂粒に対し、何らかの名前があるということになります。これは不合理です。

以上が (12) をどのように理解したらよいのかという問題に対する疑問点です。


(13), (14) については、以下のような疑問、問題を感じます*13。二つ疑問点を上げます。

第一の疑問*14

以下に述べる第一の疑問点においては、Russell の命題観を、あるいは Russell の命題観に類似の主張を、命題に関する比較的有望な見解として支持、前提することに致します。

今、言語表現のいみには、Sinn と Bedeutung, sense と reference, meaning と denotation のような区別があると仮定しましょう。そして文 (sentence) にもそれらの区別があり、文の意味 (meaning) は命題 (proposition) だとしましょう。さらに確定記述句 (definite description) は記述 (description) を表し(express)、今度はこの記述が記述の対象を表示している (denote) としてみましょう。さてそこで次の文を考えてみます。


(a) The teacher of Plato is bald.


Plato の先生とは Socrates であり、彼の胸像を見る限り、実際 Socrates のおでこは結構後退していたようです。したがって上に display されている文 (a) は真でしょう。この文は 'The teacher of Plato' が、まずその意味として何らかの記述、または概念 (concept, 特に denoting concept) を表し、続いてこの記述/概念が Socrates を表示している、そのような文です。そしてこの文 (a) は、意味として次のような命題を表すとされます。


(b) <^{\rm {\tiny m}}the teacher of Plato^{\rm {\tiny m}}, Baldness>


'< >' は命題であることを示す記号です。'the teacher of Plato' が meaning marks でくくられているのは、 'the teacher of Plato' が意味として、ある概念を表していることを示しています。'the teacher of Plato' がいきなり直接 Socrates を指しているのではないことが言われています。また、上に display されている命題 (b) のなかでは Baldness が出てきていますが、なぜ bald ではなく Baldness なのかについては、気になさらないでください。現在の問題とは差し当たり無関係ですので、bald でも Baldness でもどちらでも構わないのですが、とりあえず Baldness にしておきます。

今度は以下の文を見てみましょう。


(c) ^{\rm {\tiny m}}The teacher of Plato^{\rm {\tiny m}} is bald.


この文は偽です。^{\rm {\tiny m}}The teacher of Plato^{\rm {\tiny m}} は概念のうちの一つですが、概念が薄毛であったり、毛髪ふさふさであったりすることはあり得ませんので、今の文 (c) は偽です。この文が表す命題を記してみましょう。


(d) <^{\rm {\tiny m}}the teacher of Plato^{\rm {\tiny m}}, Baldness>


ところでこの命題 (d) には見覚えがあるかと思います。振り返ってみますとこの (d) は上の (b) とまったく同じです。つまり (b) = (d) です。そして (b) は (a) が表す命題でした。(d) は (c) が表す命題でした。文 (a), (c) はというと、(a) は真で (c) は偽でした。しかし、このようにして (a), (c) は真偽を異にするのに、それぞれが表す命題はまったく一緒、すなわち (b) = (d) です。これは不合理ではないでしょうか。少なくとも Russell の抱いていただろうような命題観を前提すれば、今見たような厄介事に巻き込まれそうな予感がします。


第二の疑問

また、


   ^{\rm {\tiny m}}the referent of 'Mt. Fuji', not its meaning or sense, but its reference^{\rm {\tiny m}}


は何を表すのでしょうか。この直前の display line において、


   the referent of 'Mt. Fuji', not its meaning or sense, but its reference


は、意味 (meaning/sense) について言っているのではありませんよと、念押し、警告がなされているのにもかかわらず、meaning marks ではさむと、意味について言っていることになり、意味について言わされることになるというのは、Frege の the concept horse paradox みたいな感じが少ししますが、どうでしょうか。何か問題を引き起こさないでしょうか。しかし、言語表現を引用符で囲むと、囲む前に指していたものを指さなくなりますが、これは何も異常なところはありません。同様に、ある言語表現を meaning marks で囲むと、囲む前に表していたものとは異なるものを表すことがありますが、これも普通の引用符で囲む場合と同じように、何も異常なところはないのでしょうか。今の私には、にわかには判断が付きかねます。


さて、以上のような二つの疑問が持ち上がるかもしれませんが、そうとはいえ meaning marks には、一応、一定の有用性があります。Frege の言葉で言えば、ある言語表現について、その Bedeutung ではなく、Sinn について言いたい場合には、その言語表現を meaning marks で引けばいいからです。Meaning marks で引用してやれば、それで読者のほうとしては「この表現に関して、筆者は Sinn, meaning, description などについて言いたいのだな、Bedeutung, reference などについて言っているわけではないのだな」と、簡潔明瞭にわかります。特に確定記述句のいみについて考える時、その記述句の記述について語られているのか、記述が表示している対象について語られているのか、込み入ってくると判然としなくなってきますが、meaning marks があれば、書き手も読み手も負担が軽減され、正確さが増します。そこでこの meaning marks を使って、言葉のいみの細かい区別をなしつつ、言語分析、概念分析を行っている論文として、私の気が付いたところでは、次がありました。

  • Nathan Salmon  ''On Designating,'' in: Mind, vol. 114, no. 456, 2005,
  • 松阪陽一  「フレーゲの Gedanke とラッセルの Proposition ''On Denoting'' の意義について」、『科学哲学』、第38巻、第2号、2005年。以下に再録。日本科学哲学会編、野本和幸責任編集、『分析哲学の誕生 フレーゲラッセル』、科学哲学の展開 1、勁草書房、2008年。

Salmon 論文では本文中でも meaning marks が使われていますが、特に論文末尾の 'Appendix: Analytical translation of the obscure passage' では多数使用されています。この appendixでは、Russell の the Gray's Elegy argument の分析が行われています。私はこの Appendix をかつて解読しようと試みたことがありましたが、あまりに meticulous すぎてついて行けず、あっと言う間に解読を断念し、敗走したことがありました。またいずれ challenge してみたいです。松阪先生の論文は、先ほど上げたものです。これらの論文で、meaning marks の有用性をご確認ください。


以上で本日の日記を終ります。突込みの足りないところが多数あり、それを放置したまま本日の話を終えるのは非常に残念で気がかりであり、かなり不満が残るのですが、本来の勉強に戻りたいので、このあたりでやめにしておきます。間違いもたくさん含まれていると思います。見当違いや勘違い、不正確な説明もあると思います。今後勉強に励みますので、どうかお許しください。それにしても何だかかなり疲れました。後はゆっくりしたいです。おやすみなさい。

*1:以下では小文字の (i) や大文字の (I), 小文字の (a) などが混在して現れます。統一が取れておらず、若干見苦しいところがあるかもしれませんが、整合性は取れていると思いますので、そのまま統一せずに置いておきます。どうかお許しください。

*2:通常、この (i) は「同一者不可識別の原理 (the indiscernibility of identicals)」と呼ばれています。本当のことを言うと、代入則と同一者不可識別の原理は異なるものです。前者は言語表現の代入に関する原理であり、後者は直接には言語表現の代入には関係せず、言語表現であれ何であれ、何らかの対象の性質 (property) に関する原理となっています。このように、両者は混同されるべきものではないのですが、実際のところは広く混同されており、代入則と言えば同一者不可識別の原理とされてしまっています。ただ、この後の話に限っては、両者を厳密に区別する必要はないと考えられますので、ここでは慣例に従って両者を「混同」したまま話を進めます。See Ruth Barcan Marcus, ''Does the Principle of Substitutivity Rest on a Mistake?,'' in her Modalities: Philosophical Essays, Oxford University Press, 1993. The paper first appeared in 1975.

*3:ひらがなで「いみ」と書いている場合、その言葉は前理論的に、素朴に使っています。何かの術語として使っているのではございません。

*4:See Willard Van Orman Quine, ''Reference and Modality,'' in his From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays, Second Edition, Revised, Harvard University Press, 1980, pp. 139-140, especially p. 140. 邦訳、W. V. O. クワイン、「指示と様相」、『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』、飯田隆訳、双書プロブレーマタ II-7, 1992年、216-217ページ、特に217ページ。

*5:Gottlob Frege, ''Über Sinn und Bedeutung,'' in Günther Pazig hg., Funktion, Begriff, Bedeutung: Fünf logische Studien, Vandenhoeck & Ruprecht, 2008, SS. 25, 33. 邦訳、G. フレーゲ、「意義と意味について」、土屋俊訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、黒田亘、野本和幸編、勁草書房、1999年、74, 83ページ。

*6:念のために、ある文なり表現を、上下1行空けて display することが引用になることについては、次を参照。Benson Mates, Elementary Logic, 2nd ed., Oxford University Press, 1972, p. 21. あるいは、W. V. Quine, Methods of Logic, 4th ed., Harvard University Press, 1982, p. 50, n. 11. 岩波から出ていた邦訳『論理学の方法』では、旧訳の方では、43ページの註(1), 改訂訳の方では47ページ、註11.

*7:次の文献該当個所の記述を参考にして、一部 arrange しました。野本和幸、『フレーゲ言語哲学』、勁草書房、1986年、289-290ページ。

*8:Quine さんの corners については、当日記、2016年6月26日、項目 'What Is Quasi-Quotation? What Are Quine's Corners?' を参照ください。

*9:Gottlob Frege, Die Grundlagen der Arithmetik, Felix Meiner, Philosophische Bibliotek, Band 366, 1988, §60, S. 70.

*10:G. フレーゲ、「算術の基礎」、三平正明、土屋俊、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 2 算術の基礎』、野本和幸、土屋俊編、勁草書房、2001年、§60, 120ページ。

*11:ディオゲネス・ラエルティオス、『ギリシア哲学者列伝 (中)』、加来彰俊訳、岩波文庫岩波書店、1989年、13-14ページ。

*12:ここでは疑問を提示するだけで、簡単にその疑問を解決できるのかもしれませんが、解決を目指すことは致しません。

*13:ここでも疑問を提示するだけに致します。その疑問を容易に解決できるのかもしれませんが、ここでは解決を目指すことは致しません。

*14:この第一の疑問点については、次を参考にさせていただきました。松阪陽一、「フレーゲの Gedanke とラッセルの Proposition ''On Denoting'' の意義について」、『科学哲学』、第38巻、第2号、2005年、36-39ページ。以下にも再録。日本科学哲学会編、野本和幸責任編集、『分析哲学の誕生 フレーゲラッセル』、科学哲学の展開 1、勁草書房、2008年、258-262ページ。