2015年読書アンケート

(毎年年末か、新年の初め頃に、過去1年間に読んだ文献で、興味深く思われたものの名前を、「読者アンケート」と称してこの日記に毎年記してきました。しかし、昨年2015年中に読んだ文献で、興味深かったものの名前をまだ当日記に記していませんでした。今年に入ってしばらくしてからその「読者アンケート」の下書きを書いたのですが、追加して書きたいことがあり、それを書いてから当日記に上げようと思いました。ですが、それが実現せず、このままだと日記に up できなくなりそうなので、追加を施さず up しようと思います。時機を失していますが、とりあえず以下に up します。ちょっと納得がいかず、不満が残りますが…。)


昨年2015年は夏以降、個人的に大きな変動に見舞われました。その余波はまだ収まっておりません。というか、何だか収束しそうもありません。少々くたびれますが、いかんともしがたいので、まぁ、何とかやっていきます。

その2015年に読んだ文献で、強く印象に残ったものを上げてみます。数は少ないですが、私としてはとても収穫がありました。

  • Julien Murzi and Massimiliano Carrara  ''Paradox and Logical Revision. A Short Introduction,'' in: Topoi, vol. 34, 2015

一番の収穫がこの survey 論文です。これには目が覚めたというか、「あっ、そうなんだ、そういうことか、そうだったんですね!」という感じで、蒙が啓かれました。

私は Tarski さん以降の真理論はいつも敬して遠ざけて来たのですが、この論文を読むことで、そんなに遠ざける必要はなかったかもしれないと今では感じます。なぜ遠ざけてきたのかというと、その分野は私にとってはあまりに難しすぎるからです。ご存じの通り、Tarski さん以降の真理論は、極めて technical な話になっていますので*1、とても私みたいな能力の足りない者には足を踏み入れることができない分野です。その真理論については今までに興味を覚えはしましたし、勉強の必要性も感じておりましたが、難しすぎて手も足も出ない状態でしたし、私にはわからないことばかりだろう、多少たしなんだところで何も得られないだろうと思っておりました。しかし、上記 Murzi and Carrara 論文を拝読しましたら、滅法面白いことに気が付きました。「これは少しぐらいはかじってみたいし、大してわからなくても、かじってみていいんじゃないかな」と思い、その論文の Reference に上っている文献をあれこれ集めて拾い読みしました。「この向こうには新しい世界が広がっているんだ」と、わくわくする気持ちを抱かせてもらうことができました。とても重要でとても興味深い世界を指し示してくれ、しかもその大地に軟着陸させてくれた Murzi and Carrara 先生に感謝申し上げます。とはいえ、軟着陸したこのあとが、また大変ですが…。

  • Jc Beall and Julien Murzi  ''Two Flavors of Curry's Paradox,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 110, no. 3, 2013

これは一番の収穫に限りなく近い、二番目の収穫です。これはかなり興味をそそります。Curry's Paradox に二種類あることが説明されていて、これら二種類を区別し、両種類をよくよく考えてみなければいけないことを教えられました。「一体これはどうしたらいいんだろう?」と考えさせられるものがあります。もう三回ぐらい読み返しましたが、まだまだわからないところもあり、細部を詰めて検討してみたいと思わせる論文です。また読み返したいです。

  • Jc Beall  ''Free of Detachment: Logic, Rationality, and Gluts,'' April 1, 2013, preprint version

これは一部を拾い読みしただけなのですが、この論文の 'Section 5: Antinomies and detachment' は、私には極めて興味深いものがありました。こんなに簡単に、こんなにあっさりと、こんなに簡潔に modus ponendo ponens の普遍妥当性を反証する説明には、うなってしましました。「我ながら、全然わかっていないというか、まったく勉強していないというか、いやはや教えられることが多いな」と感じました*2。Modus ponens の普遍妥当性を否定する学説の流れというのは、思いの外、頻繁に現れて来ていたのですね*3。私は全然知りませんでした。もちろん modus ponens の普遍妥当性が本当に成り立たないのかどうか、自分自身、考え抜いてみないと Beall 先生に同意してよいかどうか、まだ判断がつきません。

そもそも modus ponens の普遍的妥当性を否定する議論では、ある種の事柄が前提とされているようです。その事柄とは、任意の文/式 p に対し、結合子 ∧, ¬ の通常の理解のもと、p ∧ ¬p が成り立つ、とすることです。これが成り立つというのは、これが真だということなのか、それともこのようなことが成り立つとされる情報が私たちに与えられているとすることなのか、それともそのようなことが成り立つと想定できるとすることだけなのか、あるいはその他の何かなのか、いずれであるのかをよく考えた上でないと、「modus ponens の普遍妥当性は、本当は成り立たない」とは断言できません。しかも modus ponens の普遍妥当性を否定している際に否定されているのは、いわゆる material implication を、その大前提と小前提のうち、大前提の式に持った条件法除去則のことであり、material implication を持った modus ponens を拒否しながら、それでも detachable な conditional を持った modus ponens を実は求めるという動きが並行して採られており、modus ponens に類似した推論規則を確保しようと試みられているので、modus ponens とその類似物を一切拒絶しているというわけではないようです。

先生の説明にうなってしまったのは事実ですが、うなることと同意することとは同値ではありませんから、先生の説明について今後、より検討を加えて判断してみたいと思います。


以上です。Beall 先生の ''Free of Detachment'' について、ここで追加事項を書きたかったのですが、諸般の事情により、それもかなわない状況です。これに関連して、blog にしては長い文章を書いたのですが、私にはわからないことが出てきて、まとめることができず、最後の1割ぐらいを残して頓挫してしまいました。いつかそのわからないことを解決してまとめ直してみたいと思っております。必ず解決しなければならないと感じられます。今の私の力では無理ですが、そのうち何とかなるだろうとも思います。

今日はこれで終ります。何か見当違いなことを書いていたり、完全に間違ったことを書いていましたらすみません。

*1:この文章を書いた後で知ったのですが、飯田隆先生も次のように述べておられます。「古代からの「うそつきのパラドックス」は、一九三〇年代のタルスキの仕事によって解決されたという一九七〇年代頃までの考えが早まったものであったことは、クリプキの真理論論文 (一九七五) 以来、こうした問題に関心をもつひとのあいだではよく知られている。しかしながら、この四十年ほどのあいだになされた、さまざまなテクニカルな仕事が互いにどのような関係にあり、哲学的にどのような意味をもつかは、この分野の専門研究者でなければ容易には理解できなかった。」、『みすず』、2015年読書アンケート特集、第58巻、第1号、通巻645号、2016年1・2月合併号、44ページ。

*2:その後、調べてみると、同様に簡明な説明が他の文献にも色々あることに気が付きました。

*3:より正確には、modus ponendo ponens の普遍妥当性を単純に否定する流れがあったというよりも、modus ponendo ponens の前提を構成している文/式に含まれる条件法を、従来通りの標準的な material implication と解することなく、それでも modus ponendo ponens の結論を構成している文/式を引き出すことができるような、そのような modus ponendo ponens しか、妥当な modus ponendo ponens とは認めないような流れがあったということです。具体的には relevance/relevant logics のことを念頭に置いています。