A Simple Argument Knocking Down Marxism at a Blow.

(まず最初に、本日の日記で間違ったことを書いておりましたらすみません。あらかじめお詫び申し上げます。以下では Marxism の話などが出てきますが、私は Marxism に無知であり、その主義を支持しているわけでもなく、それに反対しているわけでもありません。)


先日、本屋さんで次のような本を見かけ、

手に取って訳者である浅野幸治先生の「訳者解説」の部分を眺めていると、個人的に非常に驚くことが書いてありました。なんでも Marxism の理論を一撃のもとに倒す簡単な論証があるみたいです*1。不勉強な私はまったく知りませんでした。先生の解説の466ページに、以下のように出ています。'[ ]' は原文にあるものです。引用者によるものではございません。

社会主義マルクス主義と呼ばれる見方は、実践的にはソ連をはじめとする共産主義政権の崩壊によって、理論的にはロバート・ノージックによる自己所有権の主張によって打ちのめされたと言ってよい [ノージック: 284, 289〜290]*2自己所有権社会主義にとっていかに破壊的かは、眼球くじの例を通してコーエンによってよく示されている [コーエン: 99]*3


これは次のように簡潔に表現できると思われます。

社会主義マルクス主義共産主義


その実践面:

その理論面:

誰にも未来のことはわからないので、実践面で Marxism が現在破綻したとは言っても*4、今後とも未来永劫に破綻し続けるとは断言できないと思います。将来、実践面で簡単に成功するとも思いませんが…。


今は実践面のことは置いておくことにしましょう。問題は理論面のことです。浅野先生の解説によると、Marxism の理論面は既に破綻しているのですが、その根拠は Nozick による自己所有権擁護の主張が正しいことにあるみたいです。極めて興味深いのは、Nozick の主張した自己所有権擁護によると、そこでは大がかりな仕掛けを持ち出し、様々な合わせ技を駆使して、何とか Marxism の理論を寄り切って、その理論の破綻を立証しているのではなく、簡単かつ素早く一発で一本を取るように、それが破綻していることを立証しているように感じられる点です。そのような一撃必殺の技があるのならば、それは本当にすごいことだと思います。Marx も「一本取られた、お手上げだ」と悲鳴を上げるでしょう。

そんなすごい技があったなんて、Marxism に無知な私は調べてみました。上記引用文中の Nozick の邦訳該当ページを開いてみましたら、結構ムズカシイことが書かれていました。何やら配分的正義をめぐって税制の話が展開されているらしく、ちょっとわかりにくく感じました。


そこで代わりに上記引用文中に上っている Cohen の眼球くじの例を参照してみることにしました。これなら具体例が使われているだろうから、わかりやすいかもしれません。

以下に Cohen の本の中の

  • G. A. コーエン  「第3章 自己所有権・世界所有権・平等 第1節」、『自己所有権・自由・平等』、松井暁、中村宗之訳、青木書店、2005年

から関連する文を引用してみます。原文にあった傍点や註は省いて引きます。丸カッコ内のページ数は、上の Cohen の文献ページを表します。


まず、そもそも自己所有権とは何なのでしょうか。

それ [自己所有権命題] によれば、各人は自分の身体と能力の道徳的に正当な所有者であって、それがゆえに各人は他者に対してその能力を攻撃的に用いないならば、好きなように行使する自由を (道徳的に言えば) 有するとされる。(95ページ)

自己所有権とは、次のような権利のことを言うのだろうと思います。つまり、自分の身体と能力は他人のものではなく自分のものであり、自分だけがその身体と能力の運用を決定できるのであって、他人は当人の同意なしにそれらの運用を決定できないとする権利。これは、おおよそ、現代において、常識的な主張と考えられます。


さて、自己所有権を各自持つならば、自己所有権を根拠に、自分の身体と能力を駆使して正当に得たものは、同意なくその所有権を他の誰にも移転できない、同意なく移転することは収奪、強奪であり、それは基本的人権の侵害である、ということが言えそうです。次の二つの引用文ではそのことが述べられているみたいです。

 ノージックは、人々が自分自身を所有すると考えていたのみならず、同じくらい強い道徳的権利でもって、自分自身または他の自己所有者の個人的能力の適切な行使の結果として、自分の手元に集められるだけの限りなく不等な分量の外的な原生資源を所有する主権が得られると考えていたのである。さらに外的資源の私的所有権が正当に生み出されたのであれば、その道徳的特権の起源によって、所有権が没収ないし制限されることはありえないことになる。(97ページ)

ある人が正当に取得した私的所有権を奪うことは、彼の腕をもぎ取ることほど非道ではないように見えるかもしれないが、実際には同じ意味で非道なのである。いずれの場合も基本的権利が侵害されている。(98ページ)

これら二つの引用文で述べられていることも、競争社会では、ほぼ常識だと思われます。自分の身体は自分のもので、能力のあるものが自分の身体と知能を使って正当に得たものは、たとえ他の人よりも多くを得たとしても、そうして得たものを強制的に他人に譲らなければならないというものではなく、獲得したものは、その多少に関係なく、当人の正当な所有物である、と言えそうです。


しかし、現実には色々な状況的要因により、一部の人があまりに多くの富を占有し、大部分の人が貧困にあえぐ事態が常態化してしまっているならば、それもどうかという声も上がってくると思われます。つまり極端な不平等や格差が放置されているならば、それは不正義であり、平等を追求促進することが正義である、という意見も出てくるものと思われます。そのような意見を主張するのが、一般には左派/左翼になります。

 ノージックに対する通常の左翼の反応は、彼の見解が容認する不平等に反発して、何らかの条件の平等を基本的価値として肯定し、自己所有権が生み出すと思われる条件の不平等を理由に、(少なくとも無制限な) 自己所有権を拒絶するというものである。左翼の結論は、人々には自己所有権に伴う自分自身の諸力に対する排他的権利がないということ、ならびに、条件の平等 (または条件の不平等が過度にならないこと) が保障されるよう、天分に恵まれた人々に対して、彼らが他者に害を加えないだけでなく、他者を援助するよう仕向けるために、強制力が適用されてもよいということである。(98ページ)

左派/左翼である Marxists は私的所有権を否定します(『経哲草稿』疎外論: 私的財産は労働者の自己疎外の産物であり、労働者が疎外されることなく人間の本質を回復するには、私的所有権を否定し、私有財産制を廃止する必要がある)。そして私的所有権の一部を成すのが自己所有権であると思われます。よって、私的所有権を全面的に否定するならば、自己所有権も全面的に否定されねばなりません。Marxists は私的所有権を否定し、自己所有権を否定し、代わりに平等の実現を優先させるようです。ここで自己所有権を否定する Marxists に問題が持ち上がります。眼球くじの問題です。

 私の経験では、各人の自分自身に対する権利を本質的には論証ぬきに肯定しているノージックに対して左翼は軽蔑的であるが、例えば自分の両目に起こることを決定する権利は誰にあるのかと問われたときに、自己所有権命題を無条件に否定するほどの自信をもっているわけではない。眼球移植が容易に実現できるとすれば、国家が眼球を提供しうる人々を抽選くじの制度に登録し、このくじに負けた者は、さもなければ片目が見える状態ではなく盲目になってしまう移植者に眼球を一つ譲らねばならないといった事態を、左翼が簡単に容認することはない。くじに負けた者が自分の健康な眼球をもつのにふさわしくないという事実、彼らは盲目の人が一つの眼球を必要とするほどには健康な眼球を二つも必要としているわけではないという事実等々、− 言い換えれば、彼らが健康な両目をもっているのは幸運にすぎないという事実 − をもってしても、くじに負けた人々の自分の眼球に対する要求度は不運な盲目の人々の要求度と等しいという見解に、左翼は確信がもてない。しかし、諸資源の不平等、私的所有の不平等、そして最終的な条件の不平等に対する標準的左翼の反発が本当に字義通りに解されるなら、これらの (相対的に) 良好な眼球が自分のものであることはこの上もない好運であるという事実のゆえに、私は眼球に対する特権を失うはずである。(98-99ページ)

「私的所有権を否定し、自己所有権を否定するならば、あなたの眼球の所有権もあなたは否定し、あなたはあなたの眼球を放棄せねばならない。よろしいですね? 何と言ってもそれがあなたの唱える平等に他ならないのですから。えっ、それは困るって? そう言われてもこちらが困りますね、だって私的所有権、自己所有権を放棄したのはあなたでしょ? だったらあなたの眼球も放棄されているわけだ。他人に移植して何が悪いんですか? しかもその他人は目が見えずに困っているんですよ。不平等を是正すべきと言っていたのはあなたでしょう? まずは隗より始めよ、です。文句があるなら Marx に言ってください。さあ、手術台に横になって。さあ、さあ。」

これにより、Marxism は破綻した。以上。


ここまでの話を簡略化し、補足を入れて、流れ図のようなものでまとめれば、次のようにでもなるでしょう。

(1) 自分の身体は自分のものである。

    ↓

(2) 自分の身体を使って正当に得たものは自分のものである。

    ↓

(3) 本人の同意なくして当人が得たものを強制的に収奪することは、権利の侵害である。

    ↓

(4) 私有財産制を廃止することは、個人に対する権利の侵害である。

    ↓

(5) マルクス主義の必要不可欠な理論的支柱の一つは、私有財産制の廃止である。

    ↓

(6) 私有財産制の廃止は、(4) により理論的に間違っている。

    ↓

(7) 故にマルクス主義は理論的に破綻している。

ということになりますが、しかし本当にそうなのでしょうか?


そもそも Marxism が破綻したとされる理屈は次の通りだと思われます。眼球くじの例を思い出してください。

  • Marxism が正しいならば私的所有権は否定されねばならない。そうであるならば、あなたの眼球はあなたのものではなくみんなのものである。しかし、そんなことは受け入れられない。故に Marxism は間違っている。*5

これが Marxism 破綻の理屈ならば、まったく同じ道理で、平等を追求する Marxism が正しいことを立証できます。次の通りです。

  • 私的所有権の擁護が正しいならば不平等も許されねばならない。そうであるならば、あなたの目の前の、飢餓で死にかけている財産のない孤児が死ぬのも知ったことではない。しかし、そんなことは受け入れられない。故に私的所有権が擁護されることは間違っている。*6

眼球くじの例によって Marxism が決定的に論破されたと言うのなら、飢餓にある孤児の例によって Marxism は決定的にその妥当性を立証されたと言うことができると思われます。こうしておそらく眼球くじの例は Marxism 論駁の決定的論証とは言えないと考えられます。


私は眼球くじの例を読んで思ったことには二つあります。(この二つは思い付きですので、ただの感想にすぎません。間違っていたらすみません。)

まず第一に、眼球くじの話は、今も述べた通り、Marxism を論破しているのではなく、まさにこの話から Marxism が正しいかどうかの議論が始まるのだろうと思います。ここが議論の終点なのではなく、出発点なのだと思います。哲学では反例と考えられるものが示されることによって議論が終ってしまうことよりも、その反例なるものを踏まえた上で、どのように元の理論を修正、精緻化して行くか、という方向へ議論がしばしば進んで行くものと思われます。眼球くじの例でも、これで Marxism が理論的に終焉を迎えたのではなく、この例を踏まえてどのように Marxism の理論を磨き上げるべきかが今後問われることになるのであろうと思います。(政治哲学や社会思想の業界で、この眼球くじの例を捉えて、どうすべきと考えられているのかは、その業界をまったく知らない私にはわかりませんが…。)

そして第二に、なぜ Marxism が私的所有権を否定しようとするのか、その理由を詳しく吟味し、その根拠を明らかにする必要があります(もう行われているでしょうが…)。Marxism では、誰のどのようなものの所有が否定されているのか、否定されるべきなのか、それが問題になると思います。昔々においては、身の回りのものしかおそらく持っていなかった労働者の所有権が主として問題になったのではなく、生きるのに必要以上のものを多く持っていた資本家の生産手段の所有が主として大きな問題になっていたのだろうと思います。誰のどのようなものの所有が問題だったのかという文脈を無視して、私的所有権を否定しているという Marxism を単純、一面的に断罪してみても、的はずれになる可能性が高いと思います。つまり Marxism の理論を単純化しすぎており、その単純化した藁人形をたたいても、本物の Marxism をたたいたことにはならないだろう、ということです。


これで終ります。よく知らない事柄について書きましたから、絶対にそのまま正しいものと受け取らないでください。誤解、無理解、勘違いが多数含まれている可能性があります。そのようでしたら謝ります。浅野先生にも謝ります。すみません。また機会がありましたら考え直してみたいです。

*1:ただし、浅野先生は「一撃のもとに倒す簡単な論証がある」とは述べておられません。単に私が「そういう論証があるみたいだ」と解しただけです。

*2:引用者註: ロバート・ノージック、『アナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』、嶋津格訳、木鐸社、1992年。

*3:引用者註: G. A. コーエン、『自己所有権・自由・平等』、松井暁、中村宗之訳、青木書店、2005年。

*4:浅野先生は「破綻した」とは述べておられませんが…。

*5:[A] Marxism が正しいならば [B] 私的所有権は否定されねばならない。[B] そうであるならば、[C] あなたの眼球はあなたのものではなくみんなのものである。しかし、(対偶を取って) [¬C] そんなことは受け入れられない。故に ([¬B] であり、よって) [¬A] Marxism は間違っている。'¬' は否定の記号です。

*6:[A] 私的所有権の擁護が正しいならば [B] 不平等も許されねばならない。[B] そうであるならば、[C] あなたの目の前の、飢餓で死にかけている財産のない孤児が死ぬのも知ったことではない。しかし、(対偶を取って) [¬C] そんなことは受け入れられない。故に ([¬B] であり、よって) [¬A] 私的所有権が擁護されることは間違っている。