Why Everything Exists.

ちょっと意外に思ったことを一つ記します。

分析哲学を学んだかたなら、次の論文

  • W. V. Quine  ''On What There Is,'' in his From a Logical Point of View, 2nd ed. Revised., Harvard University Press, 1980, this paper was first published in 1948, 邦訳、W. V. O. クワイン、「なにがあるのかについて」、『論理的観点から』、飯田隆訳、勁草書房、1992年、

の冒頭部分を目にしたことがあると思います。引用してみましょう。

 A curious thing about the ontological problem is its simplicity. It can be put in three Anglo-Saxon monosyllables: 'What is there?' It can be answered, moreover, in a word - 'Everything' - and everyone will accept this answer as true.*1


 存在論的問題に関して不思議なことのひとつは、その単純さである。この問題は、「なにがあるのか」というごくありふれた言葉だけから成る問いの形で表現できる。それだけでなく、この問いにはただ一語 − 「すべて」 − で答えることができ、だれもがこの答えを正しいと認めるだろう。*2

「なにがあるのか」と問われて「すべてが、すべてのものが存在する (Everything exists) 」と答えれば、まったくそのとおりであり、当たり前のことであって、自明なことのように思われます。上記引用文を読んだかたの多くがそうだと思うのですが、私も今の質問の答えは自明すぎて「それはそうだ、当然だ」と感じました。

言いかえると、「すべてのものがある、すべてのものが存在する」という文の正しさはあまりに自明なので、この文のみでその正しさは言い尽くされており、この文とは別に、この文の正しさを立証する根拠が他にあるとは思ったことがありませんでした。多くのかたも同様ではないでしょうか? 実際、Quine は上記の引用文に続いて次のように言っています。

However, this is merely to say that there is what there is.*3


しかしながら、そう言うことはただ、あるものがあると言うだけのことである。*4

「すべてのものがある、すべてのものが存在する」と言うことは、「あるものがある」という同語反復のような自明の真理であると、Quine は見ていたように思われます。

ところが先日、次の論文を読み直していて、

  • Czeslaw Lejewski  ''Logic and Existence,'' in: The British Journal for the Philosophy of Science, vol. 5, no. 18, 1954, reprinted in Jan T. J. Srzednicki et al. eds., Lesniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff, 1984,

この論文の出だし、journal では p. 105, 再録されている本では p. 46 のところを読んでいましたら、意外なことを教えられました。「すべてのものが存在する」という Quine の有名なこの言葉は、この文だけで正しいものだと思っていたのですが、Quine 本人はこの文が別の文からの帰結であると考えていたようです。別の文が正しいがゆえに「すべてのものが存在する」という文も正しくなるのだ、と考えていたようなのです*5

このことを立証する文章を Quine はある自著で記しています。次がそうです。

  • W. V. Quine  Mathematical Logic, Revised ed., Harvard University Press, 1951, (1st ed. published in 1940.)

該当個所を引用してみましょう*6。試訳も付けます。誤訳しておりましたらお許しください。Italics は原文にあるものです。

 To say that something does not exist, or that there is something which is not, is clearly a contradiction in terms; hence '(x)( x exists )' must be true.*7


あるもの存在しないと言うことは、あるいは、ないものがあると言うことは、言葉の上で明らかに矛盾である。故に '(x)( x は存在する )' は真でなければならない。

'(x)( x は存在する )' は、「すべてのものが存在する」と読まれます。

念のために、どうして「ないものがある」から '(x)( x は存在する ),' すなわち「すべてのものが存在する」が出てくるのかを説明しておきます。

「ないものがある」、または「存在しないものが存在する」という文を、英語を交えて古典論理の記号で一部言いかえてみますと、まず

  • [1] (∃x)( x does not exist )


となります。これは、x は存在しないものであって (x does not exist)、そういう x が存在する ( (∃x) )、ということです。次に、上の英文交じりの式 [1] には否定語 (not) が含まれています。これも古典論理の否定記号 (¬) で書きかえることができますので、そのようにしてみますと、

  • [2] (∃x)¬( x exists )


です。これは、x は存在する (x exists) のではない (¬) という、そういう x が存在する ( (∃x) )、ということです。つまり、存在しないようなもの x が存在する、ということです。これについて Quine は言葉の上でそれは矛盾しており間違っていると考え、それを否定しています。ですから、すぐ上の式 [2] を否定したものが正しいということです。そのようにしますと、

  • [3] ¬(∃x)¬( x exists )


となります。

ところで、「⇔」を同値記号/必要十分条件の記号とし、F を任意の述語とすると、一般に

  • [4] (∀x)(Fx) ⇔ ¬(∃x)¬(Fx)


が成り立ちます。念のためにこの式の右辺を読んでみると、「x が F でないような、そういう x はない」ということであり、これはつまり「どんな x も F である」ということで、この後者は上の式 [4] の左辺になっています。

さてそうすると、先の [3] は [4] に従って、次のように書きかえられます。

  • [5] (∀x)( x exists ).


これは上記 Quine の引用文中の '(x) ( x exists )' の現代的表記に他なりません。つまり「すべてのものが存在する」です。

こうして「すべてのものが存在する」という文 [5] は、「存在しないものが存在する」という文 [1] が間違っている [3] ということを根拠に出てきました。「すべてのものが存在する」という、''On What There Is'' (「なにがあるのかについて」) の冒頭の有名な文は、「存在しないものが存在する」という文は間違っている、という別の文を元にして出てきているということです。「すべてのものが存在する」という文の正しさは、それ単独で自明である故に正しいとされているのではなく、別の文に依存するような形で主張されているのです。

さて、その別の文とは、[3] ¬(∃x)¬( x exists ) (存在しないものが存在する、ということはない) というものでした。これが正しいが故に「すべてのものが存在する」[5] と言われていると思われます。そうすると、文 [5] が正しいと言えるためには、[3] すなわち

  • [6] 存在しないものが存在する、ということはない


という文が正しいと言えなくてはなりません。少なくとも Quine の理路からすると、そうです。そして私たちもそれに同意すると思います。

しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたいのですが、[6] 「存在しないものが存在する、ということはない」という今の文の前半「存在しないものが存在する」という文と、ほとんど同じことを言っていると思われる次の文を見てください。

  • [7] 存在しないものがある。


「存在しないものが存在する」という文を見たとき、おそらく誰もが Quine とともにすぐさま「矛盾している」と言うのではないでしょうか? しかし上の文 [7] 「存在しないものがある」と言われたとき、すぐさま「矛盾している」と誰もが言うでしょうか? もちろんそう言うかたもいると思いますが、むしろ「そうだね、存在しないものと言えば、Sherlock Holmes はいないし、Pegasus も存在しないよね、存在しないものは案外いろいろあるものだ」などと言うことが多いのではないでしょうか? ですから [7] を [6] のように否定した文

  • [8] 存在しないものがある、ということはない


と言われれば、「ちょっと待ってほしい、それは間違っているのではないか? Holmes は存在しないし、Pegasus だって存在しない、存在しないものはあるよ、だから今の [8] は間違っている」と言う人も結構いるのではないでしょうか?

[3] ¬(∃x)¬( x exists ) の読みを [6] 「存在しないものが存在する、ということはない」とするのではなく、[8] とするならば、[8] は私たちの日常的な感覚から間違っているとも思われるので、その場合には [8] は否定されねばなりません。そのとき [3] も否定されることになりますので、そのようにすると、

  • [9] ¬¬(∃x)¬( x exists )


であり、この式の二重否定を肯定として除去すると、

  • [10] (∃x)¬( x exists )


となります。つまり「存在しないものがある」ということです。これは私たちの日常的な感覚に合った主張と思われます。

ところで一般に次が成り立ちます。

  • [11] (∃x)¬(Fx) ⇔ ¬(∀x)(Fx).


この [11] に従って [10] を書きかえてやると、

  • [12] ¬(∀x)( x exists )


であり、「すべてのものが存在するというわけではない」となります。これも私たちの日常の感覚に合っていると思われます。そしてこの式をよく見ると、それは問題の Quine の論文冒頭の主張「すべてのものが存在する」([5] (∀x)( x exists ) ) の否定に他ならないことがわかります。


私たちは Quine の主張「すべてのものが存在する」([5] (∀x)( x exists ) ) を自明の真理で当然成り立つものと考えました。そしてこの主張は、実はある別の式 [3] ¬(∃x)¬( x exists ) から帰結することによって、正しいとされていることがわかりました。確かに [3] を [6]「存在しないものが存在する、ということはない」と読めば、「すべてのものが存在する」という Quine の主張は帰結します。しかし [3] を [8]「存在しないものがある、ということはない」と読めば Quine の「すべてのものが存在する」という主張は帰結しないように思われます*8

こうして問題は、式 [3] ¬(∃x)¬( x exists ) をどう読むか、そしてその読みのどれが成り立つと考えるかにかかっていることがわかります。つまり Quine の主張「すべてのものが存在する」は、実はそれほど自明ではなく、この主張が因って立つ根拠をどう考えるかによって、Quine の主張は正しいとも言えるし、正しくないとも言える、ということです。

「すべてのものが存在する」という、一見自明に見えながら意外にもそうとは言えないと思われるこの主張については、その因って立つ根拠をどう読み取るか、そしてその読みを正しいと考えるかどうかが重要だと思われます。ではどの読みが正しいのでしょうか? これはとても難しい問題です。私には現時点で何とも言えません。この疑問は開かれたまま、置いておきたいと思います。


以上で終わります。至らないところがありましたら、お許しください。

*1:Quine, ''On What There Is,'' p. 1.

*2:クワイン、「なにがあるのかについて」、1ページ。

*3:Quine, loc. cit.

*4:クワイン、同上。

*5:2017年5月28日追記: 既に類似の指摘があるのを見かけたので記しておきます。Toshiharu Waragai, ''Ontological Burden of Grammatical Gategories,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 5, no. 4, 1979, p.37.

*6:ここでは名前を記述句に書き換える利点が述べられています。名前を記述句に書き換えるならば、指示対象を持たない名前を使って、その名前の指しているものはないと、自家撞着に陥ることなく語ることができる、という話なのですが、そこで出てくるのが以下の文章です。

*7:Quine, Mathematical Logic, p. 150.

*8:あるいは、偽からは何でも導き出せる (ex falso quodlibert) とすれば、trivial に Quine の主張は帰結しますが…。