Why Quine Takes Existential Quantification to be Existentially Committing. Additional Materials.

前回の日記では、なぜ Quine は存在量化子を存在に関与するものと見なしていたのか、という疑問について、その答えと思われるものを若干記しました。

彼によると存在量化子がなぜ存在に関与しているのかと言うと、論理学の存在量化子が、存在に関して語っている日常の言い回し「在る」、「存在する」を引き写す形で作られているからだ、ということだそうです。このことを、彼の ''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' (1939年) という論文で確認しました。これは、彼の論文 ''Designation and Existence'' (1939年) とともに、例の有名な 'To be is to be a value of a variable' というセリフが出てくる最初期の論文だと思われます。

論理学の存在量化子が存在に関与しているのは、それが普段の言い回し「在る」、「存在する」を引き写すように作られたからだ、という Quine の主張ですが、このことを裏付ける彼の論文がその他にも見られましたので、ここで追加して記しておきます。(前回の日記でもそうでしたが、Quine の論文 ''On What There Is'' など、彼の From a Logical Point of View に載っている論文は、今回も便宜上 pass します。)


まず次です。

  • W. V. Quine  ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969.

Quine によると、たとえば「犬」という表現は、名前として使われた場合、犬という種を指しているとされることがあります。他方、その表現は名前ではなく、述語の一部として使われた場合には、それは個々の動物に当てはまるだけで、何も指していないとされます。言い換えると、表現「犬」を名前として使った場合は、犬という種類の対象を指しており、それを述語の一部「〜は犬である」として使った場合は、何も対象を指していない、ということです。

さて、このような話のあとに、Quine は次のように言います。試訳も付けておきます。誤訳しておりましたらお許しください。下線は引用者によるものです。以下同様です。

 An expression ''a'' may occur in a theory, we saw, with or without purporting to name an object. What clinches matters is rather the quantification ''(∃x)( x = a ).'' It is the existential quantifier, not the ''a'' itself, that carries existential import. This is just what existential quantification is for, of course. It is a logically regimented rendering of the ''there is'' idiom.*1


 見たように、表現「a」が理論に現われることができる場合、その表現が対象を名指しているつもりの場合もあれば、そうでない場合もある。問題となっている事柄に対して決定的に重要なのは、むしろ量化「(∃x)( x = a )」である。存在の含意を担っているのは、存在量化子であって、「a」自身ではない。[存在の含意を担うという] このことのために存在量化はまさしくあるのだ、言うまでもない。それ [存在量化] は「ある (在る)」という言い回しを論理的に統制して表したものなのだ。

下線部をご覧ください。Quine によると、論理学の存在量化子は、(日本語では) 「ある (在る)」という普段の言い回しを言い直したものなのだ、ということです。


同じ論文の中で、次のような発言も見られます。

 Existence is what existential quantification expresses. There are things of kind F if and only if (∃x)Fx. This is as unhelpful as it is undebatable, since it is how one explains the symbolic notation of quantification to begin with.*2


 存在とは、存在量化が表しているもののことである。 F という種類のものがあるのは、(∃x)Fx という時、かつその時に限る。この説明には異論はないが、それと同様、その説明では役にも立たない。なぜなら私たちがどのように量化の記号法をまず最初に説明されるのかと言うと、今述べたように説明されるからである。

[T]he existential quantifier, in the objectual sense, is given precisely the existential interpretation and no other: there are things which are thus and so.*3


存在量化子は、対象に直接かかわる読み方では、まさしく存在を含んだ解釈によって与えられるのであって、それ以外ではない。その量化子は、かくかくしかじかのものがある、と読まれるのである。

[O]bjectual existential quantification was devised outright for ''there is.''*4


対象に直接かかわる読み方のもとでの存在量化は、まったくもって「ある (在る)」という言葉のために考え出されたのだ。

直前の引用文でも、論理学の存在量化子は、普段の「ある (在る)」という言い方のために案出されたのだ、と Quine は述べています。


次に、

  • Willard V. O. Quine  ''Existence,'' in W. Yourgrau, A. D. Breck eds., Physics, Logic, and History, Plenum Press, 1970,

です。

 We have the modern logic of quantification to thank for making evident the existential force of the variable. The existential quantifier ''(∃x)'' is the distilled essence of existential talk. All imputations of existence can be put as existential quantifications.*5


 我々には量化の現代的な論理学がある。そのおかげで変項に存在関与の力があることが、明らかにされている。存在量化子「(∃x)」は、存在についての語り口から抽出してきたエッセンスなのである。 存在に関して帰せられることのすべては、存在量化として言い表すことができるのだ。

下線部は、もうそのままですね。


以下も同じ論文からの引用です。

[T]he quantifier ''(∃x)'' is meant to mean precisely ''there is something x such that.''*6


量化子「(∃x)」は、まさに「〜というような、何らかの x がある」を意味するものとされているのである。

論理学の存在量化子は、日常の「しかじかというようなものがある」という言い方で意味していることを、同じように意味するよう意図されているということです。


なお Quine はここで、存在することを変項の値であることと同一視し (equating existence with the value of variables)*7、存在することに level や濃淡、種類を設けず、存在するということを一義的かつ最広義に取っているのですが *8、Quine は、私によるこのような存在の説明を本気で拒否する人がいるなんて、ほとんど想像できない、と言っており*9、反論があるならそれは誤解に依るのだ、とも述べ*10、自説をちゃんと読み、存在量化子が意味していることを振り返れば、自説の正しさは明らかであり、よほどのことでもなければ、それはあまりにも明らかすぎて、あらためて説明する価値もないだろう、という主旨のことを言っています*11


最後にもう一つ。

Quantification is an ontic idiom par excellence, [...]*12


量化は、存在に関与する言い回しのなかでも一段と優れて存在関与的な言い回しなのである。


普段の言い回し「在る」、「存在する」は、これらの語の主語となっているものについて、話者が本気でそれを「存在する」と言って主張するならば、それらの語は存在に関与していると言えるでしょう。ところで上で見たごとく、Quine によると論理学の存在量化子は、これらの普段の言い回し「在る」、「存在する」を、copy するようにして作られました。ゆえに論理学の存在量化子も存在に関与しているのだ、ということになります。これが Quine の考えだと思われます。このようなわけで、Quine にとっての存在量化子は、存在に関与しているのだろうと思われます。


前回の日記では、Quine の論文 ''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' (1939年) を通じ、なぜ彼が存在量化子を存在に関与するものと見なしていたのか、という疑問を調べてみました。その答えは、論理学の存在量化子は、存在に関して語っている日常の言い回し「在る」、「存在する」を copy するようにして作られたからだ、というものでした。今回取り上げた彼の論文は1960年代終わり頃から1970年にかけての論文ですが、彼の career の後半においても、初期の1939年頃と同様の見解を保持していたことがわかります。


以上の Quine の考えについて、可能ならば最低でもあと一回、この日記で私の感じているところを記したいと思います。可能であればであって、できるかどうかはわかりません。ここまで、至らない記述がありましたらお許しください。誤訳もお許しください。

*1:''Existence and Quantification,'' p. 94.

*2:''Existence and Quantification,'' p. 97.

*3:''Existence and Quantification,'' p. 106.

*4:''Existence and Quantification,'' p. 108.

*5:''Existence,'' p. 90.

*6:''Existence,'' pp. 91-92.

*7:''Existence,'' p. 91

*8:''Existence,'' p. 91.

*9:''It is hard to picture anyone deliberately rejecting this account,'' (''Existence,'' p. 91.)

*10:''Such objections as I have noticed turn on misunderstandings.'' (''Existence,'' p. 92.)

*11:''The doctrine must, I say, be obvious to anyone who reads it right and reflects how the existential quantifier is meant. It would seem too obvious to be worth propounding, were it not for the surprising and glaring cases of the need of it.'' (''Existence,'' p. 92.)

*12:''Existence,'' p. 92.