What Characteristics Does Leśniewski's Formula 'A ε b' Have?: Some Materials. Part 1

Leśniewski の logic について興味を持っておられるかたは、ほとんど絶無と想像されます。しかし、はやっていてもいなくても、人気があってもなかっても、それでも一応今日も Leśniewski のお話です。Leśniewski の logic はすごいのかどうか、私にはよくわかりませんが、よくわからないがゆえに私は勉強しています。

さて、Leśniewski の論理体系の一つ Ontology で鍵を握っている無定義語 'ε' は、理解するのがなかなか難しいものであることを、前回の日記で記しました。今回は、この 'ε' の理解を促進してくれそうなその語の説明文を列挙してみます。列挙する順番に特にいみはありません。なお、以下に列挙する文は、今の私にとって 'ε' を理解するのに役立ちそうなものだけに限定しています。網羅的なものではありません。また、引用文中の下線はすべて引用者によるものです。特に注目したい文に下線を引いております。


まず一つ目の文献。

  • Boleslaw Sobocinski  ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' translated by Robert E. Clay, in Jan T. J. Srzednicki et al eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff Publications, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984.

 In order to facilitate the understanding of the proofs, it is also necessary to clarify the meaning ''individual proposition'' which we use here. It is important to note that we use the expression ''A is b'' (in symbols, ''A ε b'') in exactly the same way that one uses propositions such as ''Socrates is mortal''. This proposition says that a concrete, individual, really existing object is something or other. Thus it is necessary to distinguish individual propositions in this strict sense from the apparently individual propositions often employed in ordinary language, but which are really abbreviations of proposition of another type, e.g. universally affirmative propositions. This is the case when one says, for example, ''Man is mortal'' instead of saying ''Every man is mortal.'' Consequently, for a proposition of the type, ''A ε b '' to be correctly employed, one can only substitute names of individual for the subject, i.e. ''A''; that is only names like Socrates, Napoleon I, ''this table'', etc. can be substituted for ''A'', while for ''b'', that is to say, for the complement of an individual proposition, we also permit - and this conforms to ordinary language - the substitution of names of individuals; for example ''St. Peter, the Apostle, is the first pope'' is a correctly constructed proposition. In other words, we suppose that the subject and the complement of an individual proposition belong to the same logical type (according to recent terminology) or to the same semantical category (according to Leśniewski's terminology). Thus we employ the word ''is'' (''ε'') as it was used before the reform of G. Peano. We believe we are thus conforming not only with the intuitions associated with ordinary language, but also (and this does not seem to have been noted by historians of logic) with the Aristotelian and Scholastic tradition [...].*1

最初の下線により、'A ε b' が成り立つ時、この式の 'A' が指しているのは、一つの ('a'), 具体的で ('concrete'), 個物/個体であり ('individual'), 現実に ('really'), 存在する ('existing'), 対象/もの ('object') である、ということです。'A ε b' という式が成り立っている時、A とは、一つの具体的で、現実に存在している個物としての対象だ、ということです。

以上からもわかりますが、二つ目の下線により、'A ε b' が正しい時、'A' に入るのは単称名だ、ということです。

[Regarding the phrases ''the set of objects a'' or ''the class of objects a'' (in symbols, ''Kl(a)''),] ''A ε Kl(a)'' we mean ''A is the set of all the objects a'' or ''A is the set formed by all the objects a''.*2

この文からわかるのは、'A ε Kl(a)' のような式がある時、述語の部分にクラス名が来ている場合は、その式の 'ε' を要素関係 '∈' を表すものとして読んではいけない、ということです。その時、'ε' はまるで要素関係を表していません。ついつい思わず要素関係と思って読んでしまいますが、今の式において 'ε' は同一性を表しています。すなわち、'A = Kl(a)' です。'A ε Kl(a)' の A は a の一つなのではなく、まるまる Kl(a) そのもののことになっています。'ε' と '∈' は形がよく似ていますから、勘違いしそうですが、この場合は 'ε' は要素関係 ∈ を表していません。

We point out that the ''ε'' of ontology differs from the ''ε'' utilized in [Principia Mathematica of] Russell and Whitehead [...] and from the ''∈'' of set theory.*3

Leśniewski の Ontology における 'ε' は、Principia の 'ε' とも集合論の '∈' とも違うそうです。集合論の '∈' とは違う、というのは比較的わかりやすいと思いますが、Principia においては 'ε' は何を表しているのでしょうか? その語に関する Principia での説明を見てみましょう。

  • Alfred North Whitehead and Bertrand Russell  Principia Mathematica to *56, Cambridge University Press, Cambridge Mathematical Library, 1997, 1st ed. published in 1910, 2nd ed. published in 1927.

 Following Peano, we shall use the notation


x ε {\rm \hat{z}}(ψz)


to express ''x is a member of the class determined by ψ{\rm \hat{z}}.'' We therefore introduce the following definition:


*20・02.  x ε (φ ! {\rm \hat{z}}) .=. φ ! x  Df*4

 We shall use small Greek letters (other than ε, ι, π, φ, ψ, χ, θ) to represent classes, [...]*5

これらの引用文から、Whitehead and Russell たちにとって、'ε' は実質的に集合論の '∈' であることがわかります。


なお、少し話が逸れますが、Principia で使われている記法の説明文といえば、次がよく参照されているだろうと思います。

  • Bernard Linsky  ''The Notation in Principia Mathematica,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2016 Edition), <https://plato.stanford.edu/entries/pm-notation/>.

この文献の Section 9. Classes, <https://plato.stanford.edu/entries/pm-notation/#Clas> では、上記引用文中の式 *20・02. の 'ε' が '∈' と表記されており、誤解を招くものとなっています。B. Linsky 先生の説明文を読んで、Principia では '∈' が membership relation を表しているならば、それとは異なる 'ε' は membership relation とは別のいみを担っているのだろうと私は思ったのですが、Principia Mathematica to *56 を開いて確認を取ってみるとそうではなく、上記引用文のとおり 'ε' はれっきとした membership relation を表していることがわかりました。だから結局現代では *20・02. の 'ε' を '∈' と表しても結果としてはいいのですが、''The Notation in Principia Mathematica'' という Principia の original の表記法を解説する説明文では、やはり original は original なままで説明するか、original と異なっているならば、異なった表記にしていることを明記すべきだろうと思われます。その説明文では 'ε' を '∈' で代用しているとは、何も書かれていないように見えます。


本題に戻りましょう。次の文献の文章でも、'ε' と '∈' とが異なる役割を持っていることがわかります。。

  • Jerzy Slupecki  ''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in: Studia Logica, vol. 3, 1955, reprinted in Jan T. J. Srzednicki, V. F. Rickey, J. Czelakowski eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff / Ossolineum, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984. The citation is from the journal Studia Logica.

 I shall also point out that the meaning of the term ''ε'' as fixed in the theory of sets not based on the theory of types allows the following propositions to be simultaneously true.

 x ∈ z, y ∈ z, 〜(x ∈ y), z ∈ t.

On the other hand, in ontology the corresponding propositions are not allowed to be simultaneously true, for if the propositions ''x ε z'', ''y ε z'' and ''〜(x ε y)'' are all of them true, then ''z'' is a general name and hence the proposition ''z ε t'' is false for any ''t''. *6

この引用文の 'On the other hand' 以下の文言の証明。'z' が空でなく、かつ 'z' が単称名でないならば、それは一般名であることをまず前提としましょう。さて今、'z' が単称名だと仮定します。すると 'x ε z', 'y ε z' により、x = z = y. 故に x = y. よって x ε y. ところが 〜(x ε y). これは矛盾です。したがって仮定は否定されねばならず、'z' は単称名ではない、すなわち一般名です。


次は再び文献 ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox'' から引用します。'ε' を含む式の表現に関する規約です。式 'A ε b' について、

We employ capital letters as individual variables and lower case letters as universal variables. It is only a written convention which seems to render the theorems more intuitive; it is not an obligatory rule.*7

私たちは 'A' を単称名ではなく述語などとし、'b' を述語ではなく単称名として扱うのが普通ですが、Leśniewski においてはそうではない、ということです。これは要注意です。

 a) Expressions of ordinary language such as, for example, the propositions ''John loves'' and ''John is American'', symbolically rendered by ''φ{A}'' and ''A ε a'' are two different logical structures in ontology.
 b) The subject and the complement of the individual proposition ''A ε a'' always belong to the same semantical category. The copula ''ε'' is the sole primitive term of ontology.
 c) For the individual proposition ''A ε a'' to be true, it is necessary (and sufficient) to assert: 1) for any B, if B ε A then B ε a; 2) A is not an ''empty object'' (''contradictory object''); 3) A is unique.
 d) If the complement is an object, the subject of the individual proposition is identical with its complement [...].*8

c) は、'ε' を含む式の真理条件を記していると言っていいでしょう。興味深いものです。まず、c) の 2) によれば、'A ε a' が真である場合、'A' は空な名前であってはいけない、ということです。'A' が何も指さない、ということはない、ということです。何かを指している、ということです。そして c) の 3) によると、'A' が指しているものはただ一つだけだ、ということです。2) により 'A' はとりあえず何かを指しているのですが、3) によると、その指されているものは一つしかない、ということです。最後に c) の 1) によると、A であるものは何であれ a である、ということです。この 1) により 'A' によって指されているただ一つのものは、a である、と言うことができます。この真理条件の詳細は、また後ほど説明致します。
d) によると、'A ε a' が成り立っている時、その 'a' がただ一つのものを指しているのなら、'A ε a' は 'A = a' だ、ということです。


次の文献。

  • Stanislaw Leśniewski  ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b','' in his Collected Works, Volume I, Stanislaw J. Surma et al. eds., PWN- Polish Scientific Publishers / Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1992, first published in Polish in 1931, 抄訳、スタニスワフ・レシニェフスキー、「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、藁谷敏晴訳、『科学哲学』、第13巻、1980年。

この論文は、Leśniewski 本人が式 'A ε b' について主題的に語っているという点で、大変興味深いものですが、先の式を考えるに至った経緯と、Ontology において、この式を左辺に持つ公理の論理的な由来、先の式の日常語による具体例、そしてその式が多くの人に理解困難である様子が語られていはいるものの、私はこの論文を何度か今まで読んできて、'ε' を理解するのにとても役に立ったかと言われれば、「それほどでもない」と答えざるをえません。別に Leśniewski の説明が悪いと言いたいわけではなく、お互いの関心の方向が微妙にずれているせいだと思われます。そのため、この論文で今のところ 'ε' の理解にすぐに役に立ちそうな文言は、現在の私にとってはさしあたり次の文ぐらいです。

(2) if A is b, then A is an object.*9

(2) ある A が b であるならば、A は対象である。*10

念のため、ポーランド語原文に当たってみると、

  • Stanislaw Leśniewski  ''O podstawach matematyki XI,'' in: Przegląd Filozoficzny, vol. 34, nos 2-3, 1931, p. 157*11,

では (2) は次のようになっています。原註は省いて引きます。

(2) jeżeli A jest b, to A jest przedmiotem,

私はポーランド語は読めませんが、白水社の辞書を引き引き、このポーランド語を解読すると、

    • jeżeli (イェジェリ) = jeśli (イェシリ) = if (もしも 〜 ならば),
    • jest = być (ブィチ) = be (である),
    • to (ト) = then (それなら),
    • przedmiotem = przedmiot (プシェドミョト) = things, material things, object (物、物体、対象),

なので (英語訳は私が追加しました)、試訳/私訳を付せば、

(2) もしも A が b であるならば、それなら A は対象である、

となります。

私以外のかたが論文 ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b' '' を読まれれば裨益するところもあると思いますので、私は上の (2) しか引用しておりませんが、未読のかたは論文全体の一読をお勧め致します。

なお、論文 ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b' '' については、この論文から多数文章を (英訳しながら) 引用して書かれた解説論文もあります。次がそれです。

  • Vito F. Sinisi  ''The Development of Ontology,'' in: Topoi, vol. 2, no. 1, 1983.

この論文では直前の引用文の (2) は、p. 54 に出てきます。

邦訳者藁谷先生によると、(2) を記号化して表すならば、以下のようになります。

(2)* A ε b ⊃ οb(A)*12

'ob' とは対象を表す関手/関数のことのようであり、対象とは「アリストテレス的意味での第一実体」のことだそうです。*13

そして「アリストテレス的意味での第一実体」とは ousia のことであろうから、

で、ousia の簡潔な説明を見ると、次のとおりです*14。長くて読むのが面倒だというかたは、下線だけでも読んでみてください。

 ウーシア{\tiny^{(1)}} 〔実体〕 と言われるのは、

(一) 単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、およびこれらの諸部分のことである。これらすべてが実体 (ウーシア) と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる基体 〔主語〕 の述語 〔属性〕 でもなくてかえって他の物事がこれらの述語であるところの 〔基体的な〕 ものどもである{\tiny^{(2)}}からである。しかし他の意味では、

(二) このように他の基体の述語となることのない諸実体のうちに内在していてこれらの各々のそのように存在するゆえんの原因たるものを実体と言う、、たとえば生物では、それに内在する霊魂 〔生命原理〕 がそうである。さらにまた、

(三) あのような諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々をこのように限定して「これ」として指し示すところのものをも実体と呼ぶ、、そしてこれは、これがなくなればその全体もなくなるに至るような部分である。たとえば、或る人々の言っているように、面がなくなれば物体がなくなり、線がなくなれば面がなくなるがごときである。また一般に、かれらの考えでは、数もそのような実体である、というのは、数がなくなればなにものも存在しなくなり、数がすべてを限定しているというのだから。さらに、

(四) もののなにであるか (ト・テイ・エーン・エイナイ) 〔本質〕、− これを言い表わす説明方式 (ロゴス) がそのものの定義 (ホリズモス) であるが、− これがまたその各々のものの実体 (ウーシア) と言われる。

 これを要するに、実体というのには二つの意味があることになる、、すなわち、その一つは、

(一) もはや他のいかなる基体 〔主語〕 の述語ともなりえない窮極の基体 〔個物〕 であり、他の一つは、

(二、三、四) 「これ」と指し示されうる存在であり且つ離れて存しうるものである、− すなわち各々のものの型式 (モルフェー) または形相 (エイドス) がこのようなものである。*15


[訳者註]

(1) [...] この 'ousia' [は]、「物」「実物」 (実 (み) のある物) の意をもち、ことに日本語で、田地持ち・金持ちなどが「物を持っている」「物持ちである」と言われる場合の「物」の意に近く、それの持主の価値 (存在理由) がそれの有無・多少によって決定されるような「たいせつな物」、この意味でかれの「所有財産」「資産」を意味した。[...] しかし、これらの「物」が、我々のいう「物」とは含みがちがって、ギリシャ語ではこれらが同時に「存在する物」であり、存在しないもの・つかみえないものは、物でなく、物の数にはいらないのであった。ことに 'ousia' と呼ばれる「物」は存在する物どものうちで最も真に存在するもの・最も真に所有するに値するものを意味したであろう。それが具体的には、地主にとっては土地、資本家にとっては資本、貴族にとってはその家柄、すなわち要するに「資産」「資力」なのであった。しかし、果たしてこれら (土地・資本。家柄等々) が真に実在するものであろうか。なにが真に価値ある 'ousia' であり、なにが真に実在する 'ousia' か。これがソクラテスの問答活動 (哲学) の主題となり、これがプラトンイデア論を経て、ここにアリストテレスのこのウーシア研究となったのである。アリストテレスにおいて、そのウーシアが質料と離れて存するイデアのごときものではなくて質料と結ばれた具体的な個物であり、これこそ真に実在するウーシアであると主張されながら、しかもさらにこの個物において真に実在するウーシア (個物の本質) はなにかと問い求められざるをえなかったのは、一つにはこの語のかかる伝統によるものである。[...] *16

(2) 『範疇論』第五章二a一一以下では「実体というのは、その最も優れて第一のまた最も主要な意味では、〔他の〕 いかなる主語の述語ともならず、〔他の〕 いかなる主語 (または基体) のうちにもあらぬもの、すなわち個物、たとえばこの人、この馬」と定義されている。これがアリストテレスの「第一実体」と言われるものの有名な定義 (簡単には「常に自ら主語 (基体) であって他のなにものの述語 (属性) ともならぬもの」) である。[...] *17

藁谷先生によると、'A ε b' の 'A' は対象を指しており、この対象は Aristotle の ousia であって、すぐ上の引用文中、下線を引いた (一) によれば、ousia とは述語になれない主語の指しているもの、すなわち基体であって、上の訳註の (1), (2) に引いた下線により、ousia とは実際に存在する具体的な個物としてのこの人やこの馬のことであるとわかります。つまり対象とは、私たちの目の前にいるこの人やこの馬のことです。よって、Leśniewski の式 'A ε b' における 'A' の指す対象とは、この人やこの馬などのことだとわかります。


若干の寄り道。
藁谷先生はご自分の諸論文のあちらこちらで、式 'A ε b' の言わんとしているところを手を変え品を変え、説明されておられます*18。ただ、私はそれらを読んでもいつもピンときません。先生は特に難しいことをおっしゃっているのではないことは、私にもわかります。皆さんもお読みになられれば、わかるとおもいます。にもかかわらず、いつも何だかわからないまま終わってしまいます。どうやら、先生に自明で当然であると思われることが、私にはそうではないようで、そのため先生のご説明を読み終わっても、私の頭の中のもやもやは消えないまま残るようです。特に先生は式 'A ε b' の説明の際に「対象」という言葉をよくお使いになっていると思うのですが、私はその言葉が今までよくわかりませんでした。もちろんその言葉自身は私も知っておりましたし、自分で使ってもおりました。しかし、私の知っている「対象」という言葉のいみは、先生が先の式を説明する際にお使いになっておられる「対象」という言葉のいみとは、何か違っているような気がちょっぴりしていました。ですが今回、先生は先の式を説明する際に使っておられる「対象」という言葉のいみを Aristotle の ousia のこととして使っておられるようなことがわかりまして、ちょっとほっといたしました。「なんだ、そういうことか、あれのことなんですね」という感じで、先生の言う「対象」という言葉の落ち着き先が見つかって安心した気持ちです。すっかりわかったとは言いませんが、とりあえず近似値が見つかったという感じで、困惑から少しだけ解放された気がします。
寄り道終了。

次回に続く。

*1:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 14.

*2:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 15.

*3:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 14, footnote 5.

*4:Principia Mathematica to *56, p. 188.

*5:Ibid.

*6:''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, p. 18, or in Leśniewski's Systems, p. 70.

*7:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 15, footnote 6.

*8:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 42.

*9:''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b','' p. 368.

*10:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、94ページ。

*11:<http://www.wbc.poznan.pl/dlibra/applet?mimetype=image/x.djvu&sec=false&handler=djvu_html5&content_url=/Content/120444/index.djvu>, tab p. 69.

*12:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、100ページ、訳者註 (5)。

*13:同上。

*14:「(一)」、「(二)」などは、訳者の出先生が付けておられるものです。わかりやすくするため、(一)、(二) などの行を引用者により段落分けして引用します。 (つまり、(一)、(二) などの各行は訳文では段落分けされていません。) 出先生の註は (1), (2) のみ引用し、他は省きます。訳文中では白抜きの読点が使われている個所があるのですが、それらは二つの連続する読点「、、」で代用しています。引用文中の「(ウーシア)」、「(ト・テイ・エーン・エイナイ)」、「(ロゴス)」、「(ホリズモス)」、「(モルフェー)」、「(エイドス)」、「実 (み)」の「(み)」は、すべて訳文ではふりがなですが、引用者により丸カッコでくくって訳文中に入れています。「〔 ... 〕」、はすべて訳者出先生の補足です。最後に、「「これ」」と言って「これ」をカギ・カッコに括って「「これ」」としてある個所が二つありますが、引用者がどちらも傍点の代りにしたものです。

*15:形而上学 (上)』、175-176ページ。

*16:形而上学 (上)』、365-366ページ。

*17:形而上学 (上)』、366ページ。

*18:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」の説明文以外では、たとえば一部だけ上げると邦語論文では、「集合と命題の論理形式 (承前)」、『現代思想』、1991年1月号、197-198ページ、「レシニェフスキー存在論ラッセルの記述の理論」、『科学基礎論研究』、第21巻、第1号、1991年、50-51ページ、「存在論に於ける単称三段論法とライプニッツ則の等値性について」、『科学基礎論研究』、第24巻、第2号、1996年、8ページ、など。