最近、まったく日記を更新しておりませんでした。特に記すほどのことがなかったのです。今日も特にないのですが、あまり更新しないのもさびしいので、ほんのちょっとしたことを記します。
私は論理学の哲学や Frege の論理学について特に勉強しているのですが、これらの勉強は今足踏み状態で、この頃はまったく畑の違う、哲学者の戦争責任について考えていました。それで関連する文献を多数、あれやこれやと拾い読みしておりました。
そのような中で、次の文献を今回初めて拝読しました。
- H.D.ソロー 「市民の反抗*1」、『市民の反抗 他5篇』、飯田実訳、岩波文庫、岩波書店、1997年、
- H.D.ソロー 「ジョン・ブラウン大尉を弁護して*2」、『市民の反抗 他5篇』、飯田実訳、岩波文庫、岩波書店、1997年、
- H.D.ソロー 「原則のない生活*3」、『市民の反抗 他5篇』、飯田実訳、岩波文庫、岩波書店、1997年。
大変感心しました。実に立派な内容です*4。これらを次の文献と読み比べてみました。
- 西田幾多郎 「哲学論文集第四補遺 [原題 国体]」、『西田幾多郎全集 第11巻』、岩波書店、2005年、
- 田辺元 『歴史的現実』、黒田寛一編、こぶし文庫 28, こぶし書房、2001年 (初めと終わりの部分のみ拝読)、
- 田辺元 「種の論理の弁証法」、『田辺元全集 第七巻』、筑摩書房、1963年、「序」、
- 和辻哲郎 「日本の臣道」、『和辻哲郎全集 第十四巻』、岩波書店、1962年、
- ハンナ・アーレント 「実存哲学とは何か 存在および無としての自己 ハイデガー」、 『アーレント政治思想集成 1』、J. コーン編、齋藤純一、山田正行、矢野久美子訳、みすず書房、2002年。
大変がっかりしました。実に悲しい内容です。
上記の文献で、西田さんは国家が、そして王室が道徳を臣民に与えるのである、それ以外にはない、と考えておられるように見えます。法と道徳の基礎は王室にあると、西田さんは述べておられます。また、国家道徳と言われるものと道徳との二つのものがあるのではなく、道徳というのはただ一つ、国家道徳と呼ばれるものだけであると、西田さんは述べておられます。そして「国家即道徳」であると主張されています。(ここまで、西田さんの文献200-203ページ参照。) これは私にはとても恐ろしい考え方です。これでは個人の内面の自由を、物理的な力を著しく持った者に明け渡すことに等しいと思われます。(西田さんは、教育勅語の存在に強い影響を受けていたのではないかと推察されます。)
上記文献の『歴史的現実』で、田辺さんは、近代的な自然法は人間の頭の中だけでひねり出された抽象的思弁的観念であり、現実においては無効である、という主旨のことを述べておられます (15-16ページ)。これはいわゆる基本的人権の否定であると考えられます。こわいことです。また、『歴史的現実』の末尾では、国家のために死ぬことはよいことなので、そうするようにと学生に勧めておられます (71-73ページ)。これも大変こわいです。
田辺さんは、「種の論理の弁証法」の「序」で、戦後になって次のように述べておられます。昭和9年から15年に至る間に、田辺さんが試みた「種の論理」と呼ばれる哲学では、
飽くまで國家を道義に立脚せしめることにより、一方に於てその理性的根據を確保すると同時に、他方に於て當時の我國に顯著であった現實主義の非合理的政策を、できるなら少しでも規正したいと念願したわけである (253ページ)
ということだそうです。この引用文での田辺さんの話は、次のように言い換えられると思われます。
「当時の日本の国を倫理・道徳の観点から正当化し基礎づけ、そのことによって日本という国を理論的に正当化し、道徳的理論的正当化によって確立された論から論理的に帰結しないような政策を日本が提案し実行した場合には、それを非合理的政策として批判し是正、規制したいと考えていた」。
いずれにしましても、田辺さんは当時の日本の行いを道徳的に正当化しようとしていたとわけです。もしも正当化に成功していたならば、本当に恐ろしいことです。
上記和辻さんの文献は、太平洋戦争のさなかのものです。これは、全編に渡って、まったく人命軽視もはなはだしいものだと思います。ほとんど神がかりです。恐ろしいのを通り越しています。引用する気が起こりません。
上記文献の Arendt さんは、Heidegger さんの Sein und Zeit を解説しておられるようです。彼女の説明が正しいとするのならば、Heidegger さんは次のようなことを述べようとしているものと私は理解しました。
すなわち、私の死は私自身が経験しなければならないことであって、他の誰かに代わってもらうことのできないことである。この点で、私は他の誰とも違う (245ページ)。ここに私と他の人との決定的で乗り越えることのできない違いがある。私は私でしかなく、他の誰でもない。私は一人しかおらず、他の人間ではない。私の死という経験を他の人に一般化することはできない (245-246ページ)。だから私は他の人間一般ではなく、他の人間一般を代表する者でもない (同ページ)。私はどこまでも孤独であり、他の人間と連帯したり共感したりし合うことはできない。私は決定的に孤立していて、他の人間と手を取り合うことはできない。私は自分の死と向き合うことだけに専念しており、私は私の存在にどこまでも気遣うばかりで徹底的に自分の中に没入している (246ページ)。これは誰もがそうであり、人間はどこまでもただの一人の私でしかないのだ。よって、普遍的な人間なるものは、ありはしない。人類一般は、ありはしないものである。したがってフランス革命の際の人権宣言に見られる人間という概念は無効である (245-246ページ)。Kant の定言命法に見られる普遍的な人間という概念も無効である (246ページ)。
そうすると、人間一般を想定している基本的人権という考えも無効である、ということになると思われます。これはこわいです。(誤解しておりましたら、すみません。)
以上に対し、Thoreau の三編は、よりよい政府やよりよい社会を考えていくために大変参考になります。Thoreau の提示している考えですべてが解決されたというわけではもちろんありませんし、彼の主張にはいただけないものもありますが*5、西田さんたちの考えの上にではなく、Thoreau の考えの上にこそ、不完全なものとはいえ、未来があると私には感じられます。Thoreau の三編からは、勇気ももらいました。元気が出てきました。いただけない発言もありましたが、彼の三編には磨き上げていきたい考えがあるのは確かだと私には思われました。
今日はこれで終わります。無理解や勘違い、誤解や見当違いなど、不備が多数あるかと思います。真夜中に手早く書き上げたものですので、どうかご容赦いただければ幸いです。西田さん、田辺さん、和辻さん、Heidegger さんを誤解しておりましたら謝ります。すみません。また勉強致します。