Curry's Paradox: An Intuitive Argument.

Curry's Paradox の informal な論証を理解しようとすると、そこでは自分自身を指す表現が出てくるので、頭がこんがらがることがあります。そこであまり頭がこんがらがらない informal な論証を以下に示してみます。たぶんあまりこんがらがらないと思うのですが ... 。こんがらがるようでしたらすみません。(ふと思って、この memo を書いています。)


次の文を見てください。


   この文が日本語で書かれているならば、この世には少なくとも一つは日本語で書かれた文がある。


これは正しいと思われます。「この文」とは上の文そのものを指しています。自分自身について述べている点が少しめずらしいですが、間違っているようには思われません。同様に、これとよく似た次の文も正しいと思われます。


   この文が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある。


これも自分自身について述べている点がいくらかめずらしいですが、特に間違っているようには感じられません。

今、上の文「この文が真であるならば、... 」のなかの表現「この文」に、具体的な固有名として、'(#)' という名前を付けると、上の文は次のようになります。


   (#): (#) が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある。


さらにこの文の後件である「この世には」以下を 'q' で省略して書けば、今の文は次のようになります。


   (#): (#) が真であるならば、q.


今後、(#) と言えば、この文を考えることにしましょう。


さて (#) を真と仮定しましょう。つまり、


   1. (#) は真である。


この 1. の (#) は「(#) が真であるならば、q」のことなので、1. の (#) にこの鍵カッコの文を代入すれば、


   2. 「(#) が真であるならば、q」は真である。


となります。

ところで一般に、'p' が真ならば、p です。例えば、「2+2=4」が真ならば、2+2=4 です。よって、2. により、


   3. (#) が真であるならば、q.


です。

さて今 1. でしたから、1. と 3. とで、


   4. q


が出ます。こうして 1. という仮定から 4. が出ましたので、仮定の 1. を落として無条件に


   5. (#) が真であるならば、q.


です。つまり 5. が証明できました。

ところで、5. とは (#) のことだから ( (#) = 5. )、5. が証明できたということは、次が証明できたということです。


   6. (#).


そして、証明できたものは一般に真だから、6. により、


   7. (#) は真である。


こうして、5. と 7. により、


   8. q


が出ます。つまり、'q' が証明されました。よって 'q' は真です。'q' は無条件に真です。


ところで以上を振り返ってみると、上記の論証中では、'q' が表している内容または意味にはまったく触れていません。これは 'q' の内容とは無関係に 'q' が証明されているということです。よって 'q' の元々の表現「この世には少なくとも一つは真理がある」とは別の任意の文を 'q' として採っても、その 'q' が証明できるということです。だから 'q' として「2+2=5」を採っても構いません。そのとき、「2+2=5」は証明できて真です。すなわち以上により、真であろうが偽であろうが、どんな文でも証明できて、それは真である、ということになります。

(ちなみに、矛盾も証明できます。どんな文でも証明できるのだから、「2+2=4」と「2+2=4 ではない」がともに証明できて、そのとき、「2+2=4 かつ 2+2=4 ではない」が証明できるからです。もっと単刀直入に 'q' として「2+2=4 かつ 2+2=4 ではない」を採ってしまえばよいとも言えますが。)


こんなことが証明できてしまう Curry's Paradox とは一体何なのでしょうか。Curry's Paradox は単なる puzzle や quiz ではなく、もしかすると人間のものの考え方の根本に関わる事柄に触れており、筋道立ててものを考えるということに潜んでいる難点、盲点、人間の理性や合理性に関する欠陥、欠点を表わしているのかもしれません。私たちはこの Paradox をどのように評価したらよいのでしょうか。私たちは、かつての数学基礎論で騒がれたような、何らかの破局を目の前にしているのでしょうか。それとも単に空転している遊び車のようなものを目にしていて、ここには恐れることは何もなく、困ったことも実は生じていないということなのでしょうか。しかしひょっとすると、私たちはこの Paradox を克服しなければならないのかもしれません。もしもそうであるならば、もしもそうであればですが、どのようにして克服すればよいのでしょうか。とはいえ、そもそもどうした時にそれを克服できたと言えるのでしょうか。克服した時、何が変わるのでしょうか。あるいは克服したとしても、その時、日常の風景は何も変わらず、普段通りの生活が続いているのでしょうか。

どうすればいいのか、今の私にはわかりません。今述べたことを考えることこそが、Curry's Paradox の教訓になるのかもしれません。今述べたことを考えることこそが、Curry's Paradox そのものを考えることよりも、もっとずっと大切なことなのかもしれません。


上の Curry's Paradox の論証に関する参考文献としては、

  • Lionel Shapiro and Jc Beall ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2017 Edition, <https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/curry-paradox/>,

''1. Introduction: Two Guises of the Paradox,''

''1.1 An Informal Argument,'' <https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#InfoArgu>,

をご覧ください。ただし私の説明は、Shapiro and Beall 先生方の説明とは結構違っているかもしれません。先生方の説明を読んだ後に本日の日記を書きましたが、特に先生方の説明に私の説明を似せようとはせず、先生方の説明もよく思い返すことができない状態で、自分なりの説明を書きましたので、先生方の説明とはいろいろと違っていると思います。

また、以上の文章を書いた後に読んで気がついたのですが、私による Curry's Paradox の informal な論証とよく似た論証が、次の文献でも提示されていました。

  • Allen Hazen  ''A Variation on a Paradox,'' in: Analysis, vol. 50, no. 1, 1990, pp. 7-8.

参考までにお伝えしておきます。


PS

最後に、2点補足しておきたいことがあります。少しだけ長くなるので、項目を立て直し、以下に記すことに致します。