Curry's Paradox: An Intuitive Argument. Appendices.

本日の日記の続きです。


補足項目 (1)*1


この補足項目 (1) で述べようとすることを、あらかじめ手短に記しておきます。

「Curry's Paradox により、不合理に陥る原因は、そこで自分自身に言及している表現を使用しているからだ。だから、そのような表現の使用を禁止すれば不合理に陥らずにすむ」。Curry's Paradox に対しては、このような反論があるかもしれません。しかし、Gödel は彼の第一不完全性定理の証明の際に、鍵となる式で自分自身に言及するような表現を使っており、本人自身もこのことに問題はないと発言しているようです。よって、もしも自分自身について言及しているような表現がいけないというのなら、Gödel は間違っていて、第一不完全性定理は成立しない、と言わねばなりません。しかし、これは私たちには受け入れられない極論です。故に Curry's Paradox により不合理に陥る原因を、自分に言及している表現に求めることはできません*2


さて、この補足項目 (1) の前で説明した Curry's Paradox について、問題の原因は自己言及表現にある、という反論が出るかもしれません。つまり、文「この文が日本語で書かれているならば、この世には少なくとも一つは日本語で書かれた文がある」だとか、文「この文が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある」だとか、文「(#) が真であるならば、q」のような言語表現に自己言及が見られることが、不合理を引き起こし、果ては矛盾した文までも証明可能としてしまっているのではないか、という反論です。

しかし、自己言及的な言語表現があるから矛盾が生じるのだ、と言うのなら、その場合、私たちは現代の論理学史上、最も重要であると考えられている定理の一つが無効であるとの判断をしなければならなくなるものと思われます。つまり、自己言及的な文があれば必ず矛盾が出るのだとすると、Gödel の第一不完全性定理の証明は無効であり、よってその定理は証明できていないので定理ではない、と言わざるを得なくなると思われます。と言うのも、この定理の証明で鍵となっている式では、一般に自己への言及が生じていると見なされているからです。すなわち、私はその式としていわゆる Gödel Sentence のことを述べています。

こうして、自己言及がいけないのだ、と言うのなら、そのように言う方は、Gödel の第一不完全性定理という重要な成果を否定し、拒否し、認めない、という態度を取らなければなりません。これはおそらく極度に大胆不敵な態度であると思われます。ある種の「歴史修正主義」に加担しているとも言えるでしょう。「Gödel の第一不完全性定理なんてなかった」ということになります。このような態度に対しては、ほとんどの人が「それはいくらなんでも ... 」と困惑してしまうと思います。


ところで、この点について、Gödel 自身はどう考えていたのかというと、本人は自己言及的な式の存在を容認しているようです。まずは、不完全性定理の解説としてよく読まれてきた次の文献をご覧ください。

  • 前原昭二  『数学基礎論入門』、基礎数学シリーズ 26, 朝倉書店、1977年。

上の話に関連してくる文章を、ここから二つ引用します。

決定不能命題 Uk とは


(1)  Uk ⇔ ¬Bewk({\tiny \lceil}Uk{\tiny \rceil})


が証明できるような論理式であった。この同値式 (1) の両辺の論理式は同一の内容を意味すると考えてよいから、論理式 Uk の内容とは (1) の右辺の内容と思ってよい。[…] 要するに、Uk とは ''それ自身が K から証明できない'' ということを意味する論理式である。*3

 ゲーデルの作った決定不能命題 Uk は ''UkK からは証明できない'' という内容的な意味をもつ論理式であった。外見上これに類似した命題は、古代より有名な嘘つきのパラドックス (liar paradox) に現われる。たとえば、ある人が ''いま自分は嘘を言っている'' と言ったとする。その命題を A とすれば、A の内容は ''A は偽である'' ということである。そうすると、命題 A が真であるとしても、また偽であるとしても、いずれにしても矛盾を生じる。

[…]

 このパラドックスの解決策として、しばしば有力視されているものの1つに、次のようなものがある:


命題は、それ自身について語ることはできない。


ゲーデルは、''ホワイトヘッド (A. N. Whitehead) とラッセル (B. Russell) によって示唆されたこの解決法は、あまりにも徹底し過ぎている'' と、これを批評している。たとえば決定不能命題 Uk は、''それ自身が K から証明できない'' という形で、Uk 自身について語っている。すなわち、それ自身について語っている命題は現実に存在し、われわれの形式的体系の中の論理式で表わされ、しかもそれは、矛盾を導く原因にならない、というのである。*4

この決定不能命題 Uk が、引用文の前で触れた Gödel Sentence です*5

上記引用文、最後の辺りをご覧ください。前原先生によると、Gödel にとって決定不能命題は自己言及的な式であり、現にそれは存在し、しかも矛盾の原因とはなっていないので、Russell たちの主張するように、言語表現が自分自身について語ることを禁止することは paradoxes に対する正しい対策ではない、と Gödel は考えていたとのことです。ではいったいどこで Gödel はこの種のことを述べているのでしょうか。


前原先生は Gödel のこの発言の出典情報を何も記しておられませんが、Gödel が Russell について詳しく論じた文献としてよく知られているのは、次の論文でしょう。

  • Kurt Gödel  ''Russell's Mathematical Logic,'' in Paul Benacerraf and Hilary Putnam eds., Philosophy of Mathematics: Selected Readings, 2nd Edition, Cambridge Univetsity Press, 1983, also in Solomon Feferman et al. eds., Kurt Gödel, Collected Works, Volume II, Publications 1938-1974, Oxford University Press, 1990.

そこでこれを眺めてみました。すると私の気が付いた限りで、次のようなくだりがありました。英語原文と邦訳を引用してみます。まず英語原文です。

以下の引用は一応 Philosophy of Mathematics からのものです。ただし、引用文の個所を、Philosophy of MathematicsCollected Works とで読み比べてみると、註を付ける方式が異なる以外、本文に違いはありませんでしたので、Philosophy of Mathematics からでも Collected Works からでも、どちらから引用してもいいのですが、前者を見ながらパソコンに打ち込みましたことを念のためお伝えしておきます。

In addition there exist, even within the domain of constructivistic logic, certain approximations to this self-reflexivity of impredicative properties, namely propositions which contain as parts of their meaning not themselves but their own formal demonstrability (cf. Gödel 1931: 173 or Carnap 1937, §35). Now formal demonstrability of a proposition (in case the axioms and rules of inference are correct) implies this proposition and in many cases is equivalent to it. Furthermore, there doubtlessly exist sentences referring to a totality of sentences to which they themselves belong as, e.g., the sentence: ''Every sentence (of a given language) contains at least one relation word.''*6

引用文中の丸カッコ内の 'Gödel 1931' とは、Philosophy of Mathematics の参考文献表によると有名な ''Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I,'' Monatshefte für Mathematik und Physik, vol. 38 のことであり、同じく丸カッコ内の 'Carnap 1937' とは、The Logical Syntax of Language, A translation of Carnap's Logische Syntax der Sprache, 1934 のことです。


次にこの邦訳を引きます。

リーディングス』版の訳文と『現代思想』版の訳文とは、若干異なるところがあります。前者の方が訳が改善されているようですので、前者の『リーディングス』版から引用します。ただし、註は『現代思想』版を踏襲し、引用文本文内に組み込みます。

さらに付け加えるならば、構成主義的論理*7の範囲内にすら、非可述的性質の持つこうした自己反射性に近いものが存在する。それはすなわち、自分自身ではないにせよ、自分自身の形式的証明可能性をその意味の一部として含んでいるような命題である (Gödel 1931: 173 または Carnap 1937, §35 参照)。さて、(公理と推論規則が正しい場合) 命題の形式的証明可能性は、その命題を含意しており、多くの場合はそれに同値である。さらに、たとえば「(ある特定の言語の) すべての文は関係を表わす語を少なくともひとつ含んでいる」といった文のように、自分自身が属する文の集まり全体に言及している文も確かに存在している。*8

さて、ここで Gödel が言っているのは Gödel Sentence のことではないでしょうか。この引用文のあたりで Gödel は、Gödel Sentence は特に問題はないとの趣旨で話をしています。この引用文が Gödel Sentence に関するものであると思われる部分を邦訳引用文から抜き出すと、以下のとおりです。「自己反射性に近いもの」、「それはすなわち、自分自身ではないにせよ、自分自身の形式的証明可能性をその意味の一部として含んでいるような命題」であり、「(公理と推論規則が正しい場合) 命題の形式的証明可能性は、その命題を含意しており、多くの場合はそれに同値である。」

私の拙い理解によると、たぶんこれは Gödel Sentence のことだと思うのですが ... *9

上で引用しました Gödel の文章は、おそらく Gödel Sentence のことだと思いますので、そうだとしますと、前原先生の二つ目の引用文で言われているように、Gödel は自分自身に言及している文を当人の論文で使っていて、そのことには特に問題はなく、故にそれが矛盾を引き起こすなどとは考えていないようです*10

上記の Gödel の文章とともに、彼の最も有名な1931年の不完全性定理論文の註14と15も参照し、参考にする必要があると思われます*11

以上から、「もしも Curry's Paradox が生じる原因は、自分自身に言及する文を認めてしまうことにあるのだから、そのような文をすべて禁止すればよい*12」と主張する方がおられるとしますと、その方は Gödel 先生と対決しなければなりません。「私は勝てる」と断言できる方は刀の柄に手を置き、どうぞ Gödel 先生の前へ一歩お進みください。私は死にたくないので遠慮しておきます。*13


これで補足項目 (1) を終わりますが、正直に一言申しておきますと、私は不完全性定理を理解していません。そして、しばしば言われるように、不完全性定理は誤解にまみれているそうですから、この定理を哲学的に解釈したり、哲学的な教訓を引き出そうとすると、決まって誤読をさらけ出すことになるみたいですので、私もひどい間違いを犯しているかもしれません。ですので、この補足項目で述べられていることを真に受けないようにしてください。いろいろと文献名を上げましたので、大変お手数ですが、この日記項目をお読みになられた方のほうで、それらの文献で裏を取ってみてください。その上で、私の述べたことが正しいかどうか、ご自分で判断をお願い致します。お手間おかけ致します。


補足項目 (2)

Paradox 一般、ならびに特に Curry's Paradox を探究することの意義とは何かについて、ごくごく簡単に一言しておきます。


おそらく人は、問題や難題に出会ったとき、関係している事柄の再考を促され、その事柄の理解を深めます。

私たちが出会う問題で、抜き差しならない典型例の一つは paradox です。Paradox に見られる矛盾に逢着したとき、そこから抜け出すには、人はしばしば革新的な考えをひねり出さなければならず、善きにつけ悪しきにつけ、後に渡って影響力の大きい考えを採用しなければならないと思われます。

そもそも哲学はその初期において、paradox または矛盾を追究することで大幅な前進を成し遂げたのでした。具体的には Elea 派がそうであり、Socrates の問答法 (elenchus) がそうでした*14。Plato の Socrates 対話篇で、ある概念から矛盾を引き出し、その概念の再考を迫る構成を見せている典型的な著作の一つは、おそらく Laches だったと思われます*15

哲学においては、一見自明な事柄に paradox または矛盾を見出すことで、概念の理解を促し深めて来たと言えると思われます。Paradox を考えることは、物事の理解を深めることになるでしょう。そして Curry's Paradox もその例に漏れません。この Paradox を検討することは、真理や言語、論理や数学について、問い直すことを促されます。Curry's Paradox について考察している現在進行中の研究論文をいくつか垣間見れば、その technical な論述の影に、今述べた真理や言語、論理や数学などの一般的な概念について、再考が行われていることがわかります。

(個人的には、Frege が Russell Paradox に足をすくわれてしまった原因に興味があり、この Russell Paradox と Curry's Paradox は密接に関係しているので、私は Curry's Paradox にも関心があります。一言付け加えておくと、Russell Paradox と Curry's Paradox は同じ一般的な構造 (the same general structure)、または共通した特徴を持っており、その特徴が、ある時には Russell Paradox として発現し、またある時には Curry's Paradox として発現することが知られています。この共通の特徴については、先ほどの Shapiro and Beall 先生方による ''Curry's Paradox'' の section ''5.2 Pointing to a General Paradox Structure''*16 をご覧ください。)

しかも Curry's Paradox は Russell Paradox と同様、わずかな道具立てで発生してしまう Paradox であり、また非常に簡単に理解できるものであるため、多くの人が興味を持ちやすく、かつその簡単でわずかな道具立てしか必要ないところから一般性を有しており、よって多くの分野に影響してくる問題だと考えられます。それにわずかな道具立てしかいらず、簡単に理解できるということは、扱いやすく、見通しやすいものであるということであり、しかもその Paradox を明確に記述することができるので、難解で神秘的で秘教的な思弁に拘泥せずにすみ、これらの Paradox をもとに哲学をするならば、かなりの程度、明晰に哲学をすることが可能となるという利点があります。

また、特に Curry's Paradox やうそつきの Paradox の解決を目指すことは、これらの Paradox が真理に関し困難を引き起こしていると見えることから、この困難を克服し、真理の概念に対する満足のいく理論を打ち立てようとする試みになっています。Tarski の真理論には飽き足らず、特に真理に対する公理的な理論を打ち立てようとしている側面が強いようです*17。つまり一言で言うと、Curry's Paradox やうそつきの Paradox の解決を多くの研究者が目指している理由の一つは、満足のいく真理論を作りたいがためだ、というこのとようです。


いずれにしましても、Curry's Paradox のような論理学に関する paradox はとても興味深く、かつ扱いやすく、かつ明確、正確に記述できて、多くの人々にとって接近しやすく、場合によっては重要な問題の核心を占めていると思われます。このような paradox は一般に、その paradox の前提となっているものが何であり、どこをどう修正すればどんな帰結が生じるのかを捉えやすく、その結果として、どのような哲学的立場が考えられるのかを見通すことが比較的容易であって、結局、思弁の泥沼に陥らずにすみそうですから、堅実な哲学を展開する上で、大変有望な鉄床 (かなとこ) だろうと思われます。


以上で終わります。誤解や無理解を示している点もあるかもしれません。無知や見当違いもあると思います。誤字、脱字もあるはずです。それらすべてに関し、ここでお詫び申し上げます。勉強を続けて少しでも克服して行こうと思っています。

*1:この補足項目 (1) に関しては、次の文献該当ページを参考にしています。Roy T. Cook, Paradoxes, Polity Press, Key Concepts in Philosophy Series, 2013, pp. 34-41. 加えて、次も参照ください。飯田隆、「偽テアイテトス あるいは知識のパラドックス」、『新哲学対話 ソクラテスならどう考える?』、筑摩書房、2017年、250-256ページ、初出、『現代思想』、1989年12月号、109-112ページ。

*2:これは一種の、よい意味での権威論証 (Argumentum ad verecundiam) です。権威論証、特によい意味での権威論証については、次をご覧ください。John Nolt and Dennis Rohatyn, 『現代論理学 (II)』、加地大介、斎藤浩文訳、マグロウヒル大学演習シリーズ、オーム社、1996年、8-11ページ。したがってそれは、ある事柄を主張する、決定的な論証とはなっておりません。権威の信頼性に依存した論証です。

*3:前原、134ページ。式 (1) の表記は、簡便のため、引用者により一部変更しています。ここで一言。上の (1) のような同値式についてなのですが、前原先生は (1) の両辺が「同一の内容を意味する」ものとお考えですけれども、同値式であれば何であれ、その両辺は「同一の内容を意味する」かというと、必ずしもそうとは言えないと思います。「同一の内容を意味する」とは、正確に言って、いかなることなのか、ここで前原先生はそのことについて詳しい話をされていないので何とも言えませんが、一般には同値式の両辺は、互いに同値だからという理由で同じことを意味するというのは、本当のところは言いすぎだと思われます。Quine の有名な例を出しますと、おそらくですが、現在の動物学の知見から言って、心臓を持つ動物は腎臓も持ち、腎臓を持つ動物は心臓も持っているようなので、その場合、現代の動物学によると次の同値式が成り立ちます。「いかなる動物 x についても、x は心臓を持つ ⇔ x は腎臓を持つ」。これにより、任意の同値式の両辺が同じ意味を持つとするならば、この同値式の両辺も同じ意味のことを述べているということになります。すると、心臓とは腎臓のことであり、腎臓とは心臓のことになりますね。これでは医師国家試験に絶対通らないでしょうね。ここまでの心臓と腎臓の例は、次に依りました。W. V. Quine, Philosophy of Logic, Second Edition, Harvard University Press, 1986, pp. 8-9, 邦訳、初版より、ウイラード V. クワイン、『論理学の哲学』、山下正男訳、哲学の世界シリーズ 13, 培風館、1972年、12-14ページ。というわけで、同値式の両辺は必ずまったく同じことを意味している、とは言えないと思われます。上記引用文中の同値式 (1) についても、その両辺が同じことを言っているのかどうかについては即断はできないと思われます。このことに関しては、次を参考にしました。飯田隆、「ゲーデル不完全性定理とタルスキの定理」、『哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』、中央公論新社、2008年、283ページ、註3。ただし、飯田先生はこの註で Quine の話はされておられません。Quine の話が飯田先生の論述に対し、不適当な例でしたらすみません。

*4:前原、137-138ページ。

*5:See Roy T. Cook, A Dictionary of Philosophical Logic, Edinburgh University Press, 2009, Entry ''GÖDEL SENTENCE,'' pp. 131-132.

*6:Philosophy of Mathematics, pp. 458-459, Collected Works, p. 130.

*7:引用者註: 訳者の戸田山先生によると、この論理は、Brouwer, Heyting らに代表されるような intuitionistic logic の類いではなく、Russell の唯名論的な no classes theory のようなものを指すとのことです。『リーディングス』版、85ページ、『現代思想』版、103ページにある、戸田山先生による、Gödel の追記を元にした注記 (2) を参照ください。特に『リーディングス』版の方をご覧ください。

*8:ゲーデル、『リーディングス』、71ページ、『現代思想』、93ページ。

*9:間違っていたらすみません。ところで、上の Gödel の文章の中で 'Gödel 1931' の173 ページと 'Carnap 1937' の §35 を参照するようにとの指示がありますので、そこを見てみれば Gödel の文章が Gödel Sentence に関するものであるかどうかがはっきりすると思いますので、まず前者の173ページを見てみました。すると何だか奇妙なことに、このページは、くだんの論文の第1ページ目です。論文の冒頭ページ、導入部分です。この部分では数学の基礎に関する研究の当時の状況が概観されているとともに、この論文のねらいが語られている所であり、本格的な話の始まる前の部分です。なぜまた論文の出だしを参照するようにという指示を Gödel は与えているのでしょうか。確かに173ページには 'entscheiden' (決定する) という語が見られます。しかしいわゆる Gödel Sentence を読者に参照してもらうことを Gödel が意図していたのならば、たとえば175ページの式 (1) か、同ページの式 '[R(q); q]' あたりを参照するよう促すべきだと思うのですが。Philosophy of Mathematics, Collected Works, 『リーディングス』、『現代思想』のいずれの文献でも、173ページへの Gödel による参照指示に対し、誰も何も疑義を提示しておられません。どうも解せないのですが、私が何か誤解しているのかもしれません。とりあえず Gödel 論文はこれぐらいで脇に置いておいて、Carnap の The Logical Syntax of Language, 1937年版、§35を見てみると、こちらは節の題名が 'Syntactical Sentences which Refer to Themselves' となっていて、本文を読んでみても Gödel Sentence に関する話になっているみたいです。「みたいです」と言って、断定せず距離を取った言い方をしているのは、その節を読んでみたものの、この本を最初から通して読んだわけではなく、Carnap の主著の類いを覗いてみたことのある方はおわかりだと思いますが、ここでも technical な専門用語が頻出しており、それらの語の正確な意味を私は知りませんので、§35が確かに間違いなく Gödel Sentence の話であると請け合うことができないためです。ただ、Gödel Sentence と思われる式は、そこに確かに出てきているのですけれども (Carnap, pp. 130-131)。

*10:前原先生は、上で挙げた先生の引用文末尾で「ゲーデルは、''ホワイトヘッド (A. N. Whitehead) とラッセル (B. Russell) によって示唆されたこの解決法は、あまりにも徹底し過ぎている'' と、これを批評している」と述べておられましたが、先生が言っているのは、今上げた Gödel の文章ではなく、別の個所の別の文章でしたらすみません。

*11:原論文では、''Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I,'' S. 175. 英訳論文では、いくつもの文献で見ることができますが、たとえば、Solomon Feferman et al. eds., Kurt Gödel, Collected Works, Volume I, Publications 1929-1936, Oxford University Press, 1986, pp. 149, 151, (also pp. 148, 150), Jean van Heijenoort ed., From Frege to Gödel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931, Harvard University Press, 1967, 3rd printing, p. 598 などを、和訳では、ゲーデル、『不完全性定理』、林晋、八杉満利子訳、岩波文庫岩波書店、2006年、(2008年第5刷), 20ページ、廣瀬健、横田一正、『ゲーデルの世界 完全性定理と不完全性定理』、海鳴社、1985年、196-197ページ。『ゲーデルの世界』では、註の13と14です。

*12:そのような文をすべて禁止してしまう必要はなく、一部だけ禁止すればよいとか、Curry's Paradox が生じてしまう場合だけ禁止すればよいという意見もあるかもしれませんが、それは ad hoc だと思われます。今述べた後者の、Curry's Paradox が生じてしまう場合だけ禁止にするというのは、完全にその場しのぎでしょう。前者の、禁止する場合をもう少し広く取った、いずれにせよ一部分だけにすると考えも、禁止する場合としない場合の線引きが難しくなってくると思います。

*13:追記 2017年11月19日: まったくの余談ですが、あの Wittgenstein さんなら助太刀してくれるかもしれません。あの方は Tractutus で、次のように述べておられます。''3.332 Kein Satz kann etwas über sich selbst aussagen, weil das Satzzeichen nicht in sich selbst enthalten sein kann, (das ist die ganze „Theory of types‟).'' 英訳では、''3.332 No proposition can say anything about itself, because the propositional sign cannot be contained in itself (that is the ''whole theory of types''). 和訳では、「3.332 いかなる命題も自分自身について語ることはできない。なぜなら、ある命題記号が当の命題記号自身のうちに含まれることはありえないからである。(これが「タイプ理論」のすべてである。)」。独語原文は、次から引用しました。L. Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, translated by C. K. Ogden, Routledge, 1981, S. 56, 英訳は、その本の隣の 57 page からのものです。和訳は、ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫岩波書店、2003年、34ページです。Wittgenstein さんは Gödel の不完全性定理に疑惑の目を向けていたとも言われているので、結構助けてくれるかもしれません。とはいえ、今の 3.332 で Wittgenstein さんが言っていることは、何か深遠で、私たちが普通想像するのとはまったく異なった、高尚かつ高遠なことなのかもしれませんので、「3.332 を読みました。あなたは同志です。どうか助けてください」とすがっても、「君たちは私を誤解している!」と言って、Wittgenstein さんに拒絶されるかもしれませんが。3.332 に何か深くて複雑な内容が含まれていると感じさせてくれる論文に、次があります。石黒ひで、「ウィトゲンシュタインとタイプ理論」、中川大訳、『現代思想』、1997年8月号。この論文は、Tractutus の 3.333 を主題としているので、3.332 についてはわずかしか述べられていませんが、3.333 と 3.332 は内容上、結び付いているため、参考なるところがあると思います。ただし、私はまだこの論文をよく理解できていませんが。追記終わり。

*14:ただし、Elea 派の哲学の方法と Socrates の問答法は、哲学する際に、ともに矛盾を利用するという点で似てはいるものの、同じ方法を取っているとは言えないと考えられています。次を参照ください。G. ヴラストス、「ソクラテスの論駁法 (エレンコス)」、田中享英訳、『ギリシア哲学の最前線 I』、井上忠、山本巍編訳、東京大学出版会、1986年、38-39ページ。なお、Socrates の elenchus がそもそも何であるのか、特にそのねらいが何であるのかについては、この Vlastos の論文が出て以降、多数の論議を巻き起こしたようであり、その方面を専門的に勉強していない私には、現在、elenchus の本性に関し、専門家の間で consensus が取れているのかどうか、知りません。少なくとも elenchus が見かけほどには単純な方法でないことは確かのようです。以上の点については、今の Vlastos 論文を参照ください。

*15:とはいえ、Laches をいわゆるアポリア的対話篇と単純に見なすことは必ずしもできない可能性もあります。Laches がいかなる対話編なのかについて、いくつかの考えがあるそうです。この点については、プラトン、『ラケス 勇気について』、三嶋輝夫訳、講談社学術文庫 1276, 講談社、1997年所収の訳者三嶋先生による解題、136-138ページをご覧ください。

*16:<https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#PoinGeneParaStru>.

*17:See Nik Weaver, ''The Liar Paradox is a Real Problem,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 25, 2017.