2017年読書アンケート

2017年は散々な年でした。非常にきつい一年でした。これほどきついのは、私の人生ではほとんどなかったと思います。それぐらい stressful な一年でした。この状態はまだ続いています。今後もしばらく続きそうです。

また、最近祖母が亡くなり、非常に残念です。ここ何年も会っていなかったので、心残りなところがあります。時々思い出していました。祖母の笑顔を忘れません。会わずにごめんなさい。

このようなため、この一年はほとんど文献も入手しておりません。2017年の前半はまったく勉強が手につかず、後半は語学だけを細々とやっていただけです。

ひどい一年でしたが、そんな中で読んだ文献のうち、特に心に残ったものを以下に記してみます。


まず、哲学関係で非常に興味深く、重要だと感じたのは、

  • Lionel Shapiro and Jc Beall  ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2017 Edition*1,

です*2。これは読んでみて、とても勉強になりました。


Curry's Paradox というのは、次のようなものです。

今、'p' を任意の文とする時、以下の条件文を真と認めると、


   もしもこの文が真ならば、p.


この文の後件、


   p,


が証明できてしまうという論証です。この証明は非常に簡単です。その証明は当日記、2017年11月12日、日記項目名 'Curry's Paradox: An Intuitive Argument' にありますので、興味のある方はご覧ください。

2017年11月12日の日記以外でも、私は時々 Curry's Paradox に日記中で言及していますので、Curry's Paradox とは詳しくは何であり、どのように重要なのかについては、私の日記内を 'Curry's Paradox' という言葉で検索していただくか、あるいは「記事一覧」ページにある 'Carry's Paradox' という名の付いた category を click していただければ、その Paradox についての記事がまとめて出てきますので、そちらを参照してください。


ところで、上記 Shapiro and Beall 先生の文献 ''Curry's Paradox'' では、この Paradox を回避するため、従来の伝統的な方法 (Russell, Tarski) とは違って、substructural rules を制限する方法を採っています。その際に採られる option に何があるのか、その点をわかりやすく先生方は提示しておられます。その option を、先生方の文を読んで、私のほうで図にしてまとめてみました。以下がそれです。参考までにどうぞ。



これは小さい画像ですが、大きい画像を見るには、次のようにしてください。まずこの画像を click してください。すると新しいタブで写真が開きますので、開きましたらその写真の下にある「オリジナルサイズを表示」を click してください。そうしましたら、大きい画像を見ることができます。

この図に書き込まれていることについては、Shapiro and Beall 先生の文献 ''Curry's Paradox'' をご覧ください。この図だけを見ても、わけがわからないと思いますので。


そして哲学ではないのですが、2017年にとても興味を持ち、考えさせられた事柄がありました。それは次の疑問です。

先の大戦において、時局に流されないよう抵抗の根拠となった考え方があったとするならば、それはどのようなものだったのでしょうか。

このことに関し、次の文献を読んで、

教えられ、考えさせられました。ここでは当時を生きた丸山さんによって、抵抗のいくつかの考えが示唆されています。

そこで、その考えを Hardcover の2006年版からたくさん引用してみます。カッコ「[ ]」は引用者によるもの、「〔 〕」は原文にあるもので、編者の松沢先生、植手先生が挿入されたものです。そして思うところを若干だけ記してみます。

 松沢 […] そこでお尋ねしたいのですが、[尾崎] 咢堂の話をお聞きになって、[丸山] 先生はそれまでマルクス主義の影響下で、ブルジョワ自由主義というのを、ネガティブな評価をなさっていた。それがブルジョワ自由主義のポジティブな価値に開眼なさったというふうにうけとめたのですが。
 丸山 そうなんですけれども、そのとき [咢堂の講演を聞いたとき]、なぜショックだったかというか、ある意味では、目からウロコが落ちる思いがしたというのは、難しく言えば、[近代的] 自然権としての私有財産権、つまり国家以前の権利。そういうことがらはマルクス主義のなかには出てこないのです。すべて歴史主義的思考で、ブルジョワ自由主義も歴史のなかに生まれたものとして見る。自然権という考え方はない。[近代的] 自然法という考え方もないから。咢堂の講演から受けたショックはそこなのです。私有財産自然権だから、天皇陛下であろうと、だれであろうと、一指も触れられないという。
 歴史主義的に捉えますと、天皇陛下以前の権利みたいなものは、天皇陛下と言ったらおかしいけれど、そういうものは考えられないです。私有財産権のようなものは、国家の発達とともにできてきたものとして考えるので、自然権なんていう発想がないわけです。そこが日本の自由主義の弱さだと思うのです。自然法を持たなかったことが、したがって、自然権という考え方がずっとなかったことが。一種の日本的な歴史主義の上に、マルクス主義の歴史主義がそのまま続いてしまって、一切のものが歴史的だという見方。ぼく自身がそうでした。
 咢堂の講演については、そんなに学問的反省をしたわけではないのです。学問的に反省させられたのは南原 〔繁〕 先生です。これは自然権ではないけれども、新カント派でしょ。新カント派というのは非歴史的なのです。非歴史的なものの持っている強みというのかな。時代がどうだからというのではなくて、絶対的なある価値に照らして正しいかどうかということが、まず来るわけです。非常にはっきり、時代のほうが間違っているのだ、時代は間違った方向に歩みつつあるということを、当たり前のこととして言えるわけです。圧倒的に、時代がある方向に向いていますと、歴史主義だと、これが歴史の動向なんだという主張にかなわないのです。その意味では、南原先生を通してうけたのは、歴史主義に対する反省でしょうね。
 咢堂についても、ブルジョワ自由主義を価値として再認識したということでは必ずしもないのです。[私が影響を受けていた] マルクス主義の立場に立っても、限界はあるとするけれども、価値としては認識しているわけですから。*3

当時、丸山さんのもとで、時代に抗する考え方としてあったのは、(1) 近代的な自然法、近代的な自然権、そして (2) 南原繁先生の考え方、(3) 南原先生に影響を与えた新カント派でした。これらがそのとき、時代に抗し得る考え方であった、ということです。これらに対し、人間が依って立つ諸理念は、すべて歴史的な産物であり、時代に相対的であり、時代が進むにつれてそれらの諸理念も古びて価値を失って行くのであって、新しい時代には新しい理念が現れて、先の時代の理念を乗り越えて行くのであるというような、いわゆる歴史主義的な考え方は、時局に逆らえず飲み込まれてしまったようです。

 松沢 […] それでうかがいたいのですが、咢堂の講演のショック、南原先生との出会い。学問的に南原先生にぶつかり、あるいは先生の人格に触れたということもあるかもしれませんが、他にはそれと同じ意味をもつ経験をなさったことはありますか。
 丸山 積極的な意味では、ちょっといま思い当たりません。消極的な意味で言いますと、前にも言ったけれども、高等学校時代に捕まったときに、留置場というのは絶対な孤独の世界です。ぎっしり詰め込まれているんですけれども、精神的には全く孤独でしょ。国家権力と自分しかいないという。そういうときに、オーバーに言えば、絶体絶命の危機に臨んだときに、学問とか知識とかいうものが、自分を支えるのに足りないという経験です。消極的に言うと、高等学校のときに学んでいるわけです。
 河合 〔栄治郎〕 さんが自由主義の世界観ということをさかんに言っていたのです。そういうのをぼくらは馬鹿にしていました。河合さんの世界観というのは、明らかにマルクス主義コンプレックスです。清沢洌が、自由主義というのは心構えであって、特定の世界観ではないのだと言った、そっちのほうがぼくにはよくわかったわけです。ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです。その頃はそれ以上には出ませんでした。
 重臣自由主義というものに、親父も広く言えばぼく自身も含めて、深くコミットしていたことに対する反省が、戦後の一つの出発点になっています。反ファッショ一本槍で続いていたのではなくて、ぼく自身が重臣自由主義にコミットしていた。なぜそこが問題かというと、さらにつき詰めると、尾崎咢堂の演説に関連して触れた自然権の問題に行きつくと思うのです。重臣リベラリズムは、自由とか人権の原則に立ってはいない。立憲主義的配慮というのは、天皇に責任が及ばないようにするための配慮なのです。なるほど、彼らの考え方を徹底すれば、統帥権もぜんぶ内閣の管理事項にするというところまでは行くと思うのです。天皇主権は絶対であって動かさない。ただ内閣が明治憲法では憲法上の制度ではない。「国務各大臣」 〔第五十五条〕 以上のものではない。重臣リベラリズムは内閣という制度を認めて、いっさいを内閣の責任にして、天皇を無答責にするというところまでは行く。そうすれば、完全に天皇に責任が及ばない体制になるわけです。明治憲法だと、天皇に責任が行くようになっている。天皇に責任が行かないようにするというのが、一つの最大の動機になっていて、国民の自由なり、人権の保障というのが原則になっていない。だからこそ、天皇にどうしたら責任が行かないようにするかという配慮のために、現実には状況にずるずる引きずられていく状況追随主義になってしまうと思うのです。ぼくは、親父も含めて、重臣リベラリズムの本当の限界は、敗北とともに学んだのです。*4

圧倒的に迫ってくる国の力や時局の流れに対し逆らって泳ぐには、「学問とか知識とかいうもの」や「たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならない」ことを丸山さんは体験的に学んだそうです。また戦前では「国民の自由なり、人権の保障というのが原則になっていない」状況だったので、つまり近代的な自然権を死守するという信念を持ち合わせていなかったので、時局に「ずるずる引きずられていく」結果となってしまったみたいです。これに対し、逆らって泳ぐ際の抵抗の芯となるのに最も強力なのは、おそらく宗教だったと思われます。なかでもキリスト教、特に Protestant 系のキリスト教だとか無教会派、異端扱いされていた group (灯台社の方々) だったと思われます。もちろんキリスト教を信奉している人がみな時局に迎合せず抵抗していたかというと、必ずしもそうではありませんでしたが…。日本のキリスト教徒のうち、大戦中に時局に抗した人と迎合した人がいたことについては、たとえば次の本の後半部分を参照ください。宮田光雄、『国家と宗教 ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』、岩波書店、2010年。

 丸山 […] 咢堂のは文字通りオーソドックスな自由主義です。自由民権から直接きたような、社会主義的な内包を少しも持たない自由主義でしょう。ぼくはまさに、そこに感銘したわけです。
 南原先生から受けたものは多様ですから、いまから想像するのは、ある困難を伴うし、あまり大きすぎて、影響という言葉を使えば、影響が大きすぎて一言では言えないのです。 ウル・カント 〔原カント〕 というのか、新カント派ではなくて、カントそのもの。つまり人格の自立ということ。それは自由主義の一つの要素でもあるかもしれない。河合 〔栄治郎〕 さんなんかは、さかんにそれを言っていたわけです。だけど、南原先生は、もっと内面的な人格の自立ということで、レッセフェールとは関係ないのはもちろん、原子論的個人主義とも異なり、啓蒙的個人主義とも啓蒙的な理性とも異なる、ある意味では原プロテスタンティズムと言ってもいい。つまり、神と直結したような個人の良心の問題です。ぼくはもちろん信仰はないけれども、ぼくが圧倒的な影響を受けたものを、しいて概念化すれば、そういうものの持っている強さということです。強さというのは、周辺の状勢、自分の周りから、日本のあるいは世界の状勢や動向というものに左右されない内面的な確信です。それは、いろいろな表れ方をしたと思うのです。*5

この引用文からは、時局に抵抗し得る考えとして、南原先生が学んでいた (4) Kant が上げられるようです。

そして、ここには名前が上がっていませんが、南原先生のキリスト教と言えば、もちろん内村鑑三系統が上げられます。内村さんが日清戦争では義戦論、日露戦争とそのあとは非戦論を唱えていたことは、とても有名です。南原先生はその流れにあると言えるのだろうと思います。こうして当時時局に抵抗する根としてありえた考え方の一つに (5) 内村鑑三の考えを上げることができると思います。
(とはいえ、よく知られているように、内村さんの非戦論は理論と実践の間で齟齬を来たしているとも考えられ、彼の非戦論は不徹底だとも思われます。このような評は彼には酷かもしれませんが、感情を排して省察してみるに、やはり不徹底との判断を下さざるを得ないように思われます。次を参照ください。内村鑑三、「非戦主義者の戦死」、『内村鑑三選集 第二巻』、岩波書店、1990年。このように書いた後で、刊行されたばかりの次の本の該当ページを見ると、内村さんの非戦論は理論と実践の間で齟齬を来たしてはいないことが指摘されています。若松英輔、『内村鑑三 悲しみの使徒』、岩波新書 新赤版 1697, 岩波書店、2018年、141-142ページ。内村さんの非戦論が、この点に関し、齟齬を来たしているのか否かについては判断を保留し、後日可能ならば調べて検討し直してみたいと思います。)

 丸山 […] [戦後西ドイツで、ナチに対する抵抗の根として自然法に依拠する必要性が叫ばれるようになったことは] もちろん戦後になって知ったのですけれど、戦争中の直接見聞をもってしても、自然法が持っている超歴史性というものの強さをぼくは感じました。それは裏返しにすれば、マルクス主義者の雪崩を打った総転向です。マルクス主義によれば、自然法なんていう歴史的・時代的制約を超えたような規範はないのだ。すべての規範は社会的・歴史的に制約されている。しかも、歴史は一定の方向に、世界史的な必然に従って動いている。それを超越した理念というようなものはないと。そういう考え方を持っているマルクス主義者が、雪崩を打って自由主義から全体主義へという世界史の動向を肯定していった。
 これは、さきほど言われた新体制と関係するのですけれども、マルクス主義の教養を受けた最も良質な分子、たとえば尾崎秀実とか、そういう人も含めて、世界史の流れが滔々として自由主義から全体主義へという方向に向かっていると考える、それに抵抗する自分は何なんだということになって、それを肯定してしまう。*6

非転向を貫いた共産主義者は一部当時おられましたが、大局的に見て時局に抗する力はマルクス主義にはなく、ここでもその力があり得たのは (1) 自然法だと述べられています。
なお、この引用文ではマルクス主義者の話がなされていますが、このマルクス主義者の話は、京都学派に対しても言えるように感じます。京都学派の多くはマルクス主義共産主義に否定的だったと思いますが、京都学派の考え方は、ここでもマルクス主義者の考え方に似ていると思います。つまりどちらの人たちも大まかに言って「歴史的・時代的制約を超えたような規範はないのだ。すべての規範は社会的・歴史的に制約されている。しかも、歴史は一定の方向に、世界史的な必然に従って動いている。それを超越した理念というようなものはない」と考えていたように思います。

 丸山 […] 田中 [耕太郎] 先生に戻って言うならば、田中先生のカトリック自然法という考え方は、南原先生と非常に違いながらも、時代の状況というものに流されない強さを持っている。あらゆる時代を超えて普遍的に妥当する規範ですから、自然法の立場では、全体の世界史の動向がこっちへ行っているからこうでなければいかん、という考え方が出てこないのです。*7

 丸山 […] [戦争直後に近衛文麿に、田中耕太郎先生、高坂正顕さん、高橋禎二さん、そしてぼくの四人で会いに行ったことがありましたが*8] その帰り道に、田中先生が「日本人は自然法を知らないからだめだ。それで、みんな時局に流されてしまった」と言ったのです。英語でロー・オブ・ネイチャーと。そうしたら、高坂さんが「ロー・オブ・ヒストリーと言ってはいけませんか」と言った。高坂さんは「世界史の哲学」なんだな。そうしたら、田中先生は「いや、ロー・オブ・ネイチャーじゃなければだめだ」と言う。帰りの立ち話ですから、そんなに立ち入った議論ではないのですが、それがいまでもぼくの頭に残っているのです。*9

やはり、時局に抵抗する力があったのは (1) 自然法です。田中先生の自然法カトリック自然法で、近代的な自然法ではなかったようですが、どちらの自然法にしても自然法的な規範は歴史や現実を超えていると見なしていると思われますので、その点ではどちらの自然法も時局に抵抗する力を持っていたと言えるのかもしれません。

 丸山 尾崎咢堂の演説を聞いて愕然として考えたのは、自然権ということです。前国家的権利、実定法以前の権利としての私有財産権、個人の自由権というもの、いわゆる天賦人権論です。ホッブスから、ロック、スピノザ、ルソーにずっと伝わってくる自然法の考え方。カトリック自然法や中世スコラ的自然法と違った近代自然法ですが、咢堂は、そういうものの直接的な系譜として、非常に新鮮だった。自然権とか自然法というものはないのだというのが、エンゲルスが『アンティ・デューリング』に書いているようにマルクス主義の立場です。歴史的に形成されたものであって、したがって、現実の自由は階級的に制約されている。歴史的現実を超えた超歴史的な権利とか法とかいうものはないのだと。ぼくも、そういう考え方のなかで学生時代は育ってきたから、咢堂の演説は全く思いがけなかった。さりとてぼくは、南原先生なり田中先生なりから、自然権という言葉は一度も聞いていないのです。田中先生の場合にはカトリック自然法ですから、よけい自然権ということは言わない。個人の自然権という思想は全く近代の自然法で、カトリック自然法とは違う。まさにギールケが『ヨハネス・アルトジウスと自然法的国家理論の発展』のなかで書いているとおりで、アルトジウスからはじまっている個人の自然権という考え方です。これは近代の啓蒙自然法の特色です。
 咢堂の演説だけで、そんなにびっくりするというのはおかしいのですけれども、それが頭にあったということなしには、軍隊でポツダム宣言を読んだときの背筋を走った電撃というのは、理解できない。「基本的人権の尊重は、確立せらるべし」。ファンダメンタル・ヒューマン・ライツという言葉は英語では読んでいましたけれども、ほとんど日本語で言わなかった。自由主義の立場に立つ人も、個人の侵すべからざる権利とか言っていたけれども、基本的人権という言葉は言わなかった。ぼくにポツダム宣言基本的人権がすぐピンときたのは、咢堂の講演が背景にあったからではないかと思う。それが、ポツダム宣言では「言論、宗教及思想の自由」に続くのです。*10

ここでも (1) 近代的な自然法、近代的な自然権です。要するに、現代の私たちが言う個人の基本的人権を何よりも大切にするという姿勢が、大戦時の時流に抗する考え方であったと推測されます。


話は飛びますが、Quine 流の哲学的自然主義 (philosophical naturalism) が隆盛を極めている今日、このような自然主義を受け入れつつ自然権の存在を保証することは可能でしょうか。哲学的自然主義がかまびすしく唱えられていますが、あるいは大勢に暗に受け入れられていますが、おそらく、この自然主義支配下において、自然権の存在を確保することは、大げさに言えば焦眉の急であると思います。それは基本的人権を確保することだからです。もしも基本的人権を確保できないとすれば、私たちは力のある者たちの軍門に屈し、何ら抗することを得ず、わが命を差し出すことに至り着くでしょう。それは大変悲惨な結末です。(それをどのように確保すべきか、そもそも確保の仕方によっては、無意味な確保の仕方もあるかもしれません。次を参照。リチャード・ローティ、「人権、理性、感情」、 『人権について』、スティーヴン・シュート、スーザン・ハーリー編、みすず書房、1998年。)


個人の権利はとても大切だと思います。個人の権利を軽視する考えは、遅かれ早かれ、個人の権利を無いものとして、無視してしまうことになるでしょう。「政府が悪くて民衆がよいということを前提にしないあらゆる政治形態は不正である」*11というセリフに似て、個人の権利を最大限に確保しないようでは、不正義がまかり通ることを許すことになると私は思います。


本日の日記で間違いがありましたら謝ります。すみません。勉強に精進致します。

*1:<https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/curry-paradox/>

*2:2017年9月に公開されたこの文献ですが、3ヶ月かそこらで早くも改訂版が出ました。次がそれです。Lionel Shapiro and Jc Beall, ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Substantive Revision Jan. 19, 2018, <https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/>. ちょっと改訂版が出るのが早すぎますね。最新情報に接することができるのでありがたいですが、百科事典の項目としては少しせわしない感じがします。ただしこれは Shapiro and Beall 先生について悪く言っているわけではございません。Net の情報は、よかれあしかれ、このようなものでしょうし。なお、私はまだこの2018年版は読んでおりません。Net に up されたのは、昨日今日のことですから。また後日、全文を読んでみて2017年版とどのように違うのか、個人的に確認してみたいと思います。

*3:『回顧談』、199-201ページ、『定本』、208-210ページ。

*4:『回顧談』、201-203ページ、『定本』、210-212ページ。

*5:『回顧談』、246-247ページ、『定本』、257-258ページ。

*6:『回顧談』、250ページ、『定本』、261-262ページ。

*7:『回顧談』、249ページ、『定本』、260ページ。

*8:引用者の理解では、丸山さんが近衛に会いに行ったのは、今述べた四人だと解したため、その四人の名をここに上げました。

*9:『回顧談』、251ページ、『定本』、263ページ。

*10:『回顧談』、253-254ページ、『定本』、265-266ページ。

*11:Thomas Paine の言葉だそうです。丸山眞男、「民主主義の歴史的背景」、 『丸山眞男集』、第八巻、岩波書店、1996年 (初出1959年)、89ページ。追記2019年5月21日: この Thomas Paine のものだとされる言葉について、丸山さん自身が再び言及されていることに気が付きました。次がそうです。丸山眞男、「一九三〇年代、法学部学生時代の学問的雰囲気 一九八五年七月」、『丸山眞男 話文集 続1』、丸山眞男手帖の会編、みすず書房、2014年、211ページ。私はこの文章を今までに何度か読み直しているのですが、今日まで気付きませんでした。いずれにしても、この211ページでは、「民主主義の歴史的背景」において Thomas Paine のものだとされている言葉が、丸山さんによると、フランス人権宣言に入っていたと自分は思っていたが、実際には入っていなくて、出典がわからない、と述べておられます。一方で Thomas Paine だと述べられ、他方で出典はわからない、と述べておられて、どちらが本当なのか、私にはわかりません。Paine はフランス革命勃発の1年後ぐらいに Paris に入っており、この革命を擁護する本『人間の権利』も書いていますので、このあたりのことが丸山先生の頭の中で混ざってしまったのかもしれません。とりあえず、追記終り。