Either Agnosticism or Idealism is Valid Because We Have a Proof of it.

本日は、ある証明を載せます。あるいは、証明なるものを載せます。以下の話については、半ば真剣に取っていただき、半ば真剣には取らないでください。なお、本日の日記も original な主張は何もございません。それではさっそく本論に入ります。


不可知論は正しい。なぜならそれが正しいことを証明できるから。あるいは観念論は正しい。なぜならそれが正しいことを証明できるから。

不可知論とは大抵の場合「神の存在を知ることは原理的にできない」とする考えですが、これを一般化して、「原理的に知ることのできないようなことがある」と主張する立場をも、不可知論の一種とするならば、このような不可知論が正しいことを簡単に証明できます。

あるいは、「私たちの知らないことは、そのことを私たちが単に知らないのではなく、そもそも知らないとされているそのこと自身、存在していない、成立していないのである」という考えを支持するのが観念論の一種だとするならば、このような観念論が正しいことを簡単に証明できます。


証明

何かが生じていれば、様々な障害に阻まれることはあっても、原理的にはその生じていることを私たちは知ることができると考えられます。大洋の海溝の最深部で何が起こっているのか、円周率 π の小数点以下の桁で、無限の彼方の数はどのように並んでいるのか、これらのことは私たちの能力に限界があるため、直ちにはわからないとしても、何か事実が現に成立していれば、その事実が成立している現場に access しさえすれば、それを私たちは原理的には知ることができると思われます。そこで今述べた考えを手短に表せば、

  • 何であれ事実が成立していれば、私たちはそれを知ることは可能である、


というようにでもなるでしょう。これは正しいと思われます。そしてこの考えは、次のように記号化できるでしょう*1


(KP)  ∀p( p → ◇Kp ).


これは Knowability Principle と呼ばれているので、(KP) という略称が与えられています。式中の ∀ は普遍量化子、p は事実を表す変項、→ は material conditional, ◇ は可能性を表す operator, K は認識を表す operator です。


上のことに加えて、この世に起こっていることで、まだ私たちには知られていないことがあると思われます。つまり、ある事実が成立しているのですが、その事実について私たちは知らないという、そのような事実があるように思われます。この考えを手短に述べれば、

  • 私たちの知らない、ある事実が存在する。


これも正しいでしょう。これを記号化すれば、


(NonO)  ∃p( p ∧ ¬Kp )


とできるでしょう。これは私たちが全知ではない (non-omniscient) ことを言っていますので、(NonO) という略称が与えられています。式中の ∃ は存在量化子、∧ は連言記号、¬ は否定記号です。


さて、(NonO) が正しいなら、それを例化した次の式も正しいはずです。


(1)  p ∧ ¬Kp.


(KP) の p には任意の式が入りますから、その p に (1) の式を入れて例化してやってもよく、そのようにすると、


(2)  ( p ∧ ¬Kp ) → ◇K( p ∧ ¬Kp )


です。(1) と (2) とで、Modus Ponens により、


(3)  ◇K( p ∧ ¬Kp )


です。正しいと考えられる (KP), (NonO) から、正しい推論を通って (3) が導かれましたので、(3) は正しいと考えられます。

ここで一旦、話を変えます。(3) の式については、またあとで登場してもらいます。


私たちは、富士山が日本一高い山で、なおかつ休火山でもあることを知っています。すると、富士山は日本一高い山であることを私たちは知っており、なおかつ富士山は休火山でもあることを私たちは知っていると言えます。つまり一般的に、二つの文を合わせた連言文を知っていれば、各連言肢も知っている、ということです。これを記号化すると、


(A)  K( p ∧ q ) ⊢ Kp ∧ Kq


です。⊢ は導出の記号で、「したがって」と読まれます。


次に、たとえば「富士山は日本一高い山である」というのは一つの知識を述べており、事実を表しています。一般的に言って、知識というものは事実に適ったものです。事実に反する知識、事実にそぐわない知識というのは、そもそも知識ではありません。間違った正解というものが、そもそも正解ではないのと同様に。(なお、ここで言っている知識とは、いわゆる命題知のことであって、技能知のことではありません。) 何かが知識であれば、それは事実を表していること、あるいは何かを知っていれば、事実、知っているとおりであるということ、このことを記号化すれば、次のようになります。


(B)  Kp ⊢ p.


「p を知っている。故に p である」、「p という知識を持っている。故に p である」と読まれます。


続いて、数学や論理学で、定理を証明したならば、確かに間違いなくその定理の言っているとおりのことが成立しています。つまり、定理として証明されたことは、必然的に成り立つ、ということです。初等幾何学で、三角形の内角の和は二直角である、ということを定理として証明し得たならば、これはその幾何学で必ず成り立ちます。その幾何学でこの定理を証明しておきながら、「でも、この幾何学においては、三角形の内角の和は二直角ではない、ということもあり得る」などとは言えません。こうして、定理として証明されたことは、必然的に成り立つ、ということを、


(C)  ⊢ p ⇒ ⊢ □p


と記号化します。ここでの ⊢ は、その右の式が定理であることを表しています。⇒ は「ならば」と読まれます。□ は必然性の operator です。


最後に、何かが成り立たないことが必然的ならば、その何かが成り立つことは不可能です。何かが丸い形をしており、かつ四角い形でもある、ということは成り立ちません。このことが必然的であるならば、そのことが成立することは不可能です。これを記号化すると、


(D)  □¬p ⊢ ¬◇p


となります。これは「p でないことは必然的である。したがって、p が可能であることはない」と読まれます。


(A), (B), (C), (D) はすべて正しいと思われます。これらを用意して、ある定理を証明します。


(4)     K( p ∧ ¬Kp )   (背理法の) 仮定

(5)     Kp ∧ K¬Kp     (A) による。

(5.1)    Kp         (5) による。

(5.2)    K¬Kp        (5) による。

(5.3)    ¬Kp        (5.2) に (B).

(6)     Kp ∧ ¬Kp     (5.1) と (5.3).

(7)     ¬K( p ∧ ¬Kp )  (6) は矛盾なので、仮定の (4) を否定。

(8)     □¬K( p ∧ ¬Kp )  (7) は定理なので、(C) により。

(9)    ¬◇K( p ∧ ¬Kp )  (8) に (D).


こうして (9) ¬◇K( p ∧ ¬Kp ) が証明できました。これは証明されましたから (9) は定理です。

ところで私たちはしばらく前に (3) ◇K( p ∧ ¬Kp ) を導き出していました。しかし (3) と、今証明したばかりの (9) は矛盾しています。したがって、どちらかが間違っているはずです。(3) に対して、(9) は、れっきとした定理です。よって (9) が間違っているはずはありません。間違っているのは (3) の方です。そうすると、間違った (3) が出てきたということは、(3) が引き出された前提のうち、どれかが間違っているということです。そこで (3) からその前提へとさかのぼると、突き当るのは (KP) と (NonO) です。故に、(KP), (NonO) のどちらかが、あるいはどちらともが、間違っているはずです。どちらかを、あるいは両方ともを、否定せねばなりません。


もしも (KP) の方が間違っているとするならば、これを否定することです。そうしてみましょう。


(N-KP)  ¬∀p( p → ◇Kp ).


これを同値変形すると、


  ∃p ¬( p → ◇Kp )


となり、さらに


(AG)  ∃p ( p ∧ ¬◇Kp )


となります。これは「知ることが不可能なことがある」、「原理的に知ることのできないようなことがある」と言っています。つまり不可知論 (agnosticism) の宣言です。ここに不可知論が正しいことが証明されました。


あるいは、もしも (NonO) の方が間違っているとするならば、こちらの方を否定することです。やはりそうしてみましょう。


(N-NonO)  ¬∃p( p ∧ ¬Kp ).


これを同値変形すると、


  ∀p ¬( p ∧ ¬Kp )


となり、さらに


  ∀p ( ¬p ∨ ¬¬Kp )


となります。∨ は選言記号です。さらに変形すると、


  ∀p ( ¬p ∨ Kp )


です。この丸カッコ内は条件法記号に書き換えられますので、そうすると、


(OP)  ∀p ( p → Kp )


となります。これは全知原理 (Omniscience Principle) と呼ばれていますので*2、(OP) という名が与えられています。これが述べているのは「何であれ事実はすべて知られている」、「この世に起っていることであれば、何でも知っている」ということです。つまり、ある種の観念論の宣言です。(OP) の対偶を取れば、それが観念論的な原理だと一層よくわかります。


(Cont-OP)  ∀p ( ¬Kp → ¬p ).


これは「知られていないことは、成立していない」と読むことができます。もっとあからさまには「知られていないならば、それはないことなのだ」、「私たちの知らないことは、そのことを私たちが単に知らないのではなく、そもそもそのこと自身、存在していない、成立していないのである」と解することができるかもしれません。私たちの知らないことは、単に知らないのではなく、そもそも存在しないのである。ここに観念論が正しいことが証明されました。


以上により、不可知論、または観念論の正しさが証明されましたので、どちらかは、あるいはどちらとも、絶対に正しいです。絶対に。なぜなら証明されたのだから。


種明かし

本日の話は次の文献

  • Berit Brogaard and Joe Salerno  ''Fitch's Paradox of Knowability,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2013 Edition*3,

の、Section 2: The Paradox of Knowability をそのままなぞりながら、当方で色々補足を加えたものに過ぎません。その箇所で Brogaard and Salerno 先生は、不可知論や観念論の話はしておられません。先生方がこの種の話に軽く触れておられるのは、たとえば、註に上げた Salerno 先生の ''Introduction to Knowability and Beyond,'' pp. 1-3 と、同先生の ''Knowability Noir: 1945-1963,'' June 8, 2007, pp. 1-2 です*4


さらに言うと、そもそも the Paradox of Knowability を、観念論などに対する反駁として取り上げた最初の論文は、次の論文でした。

  • W. D. Hart and Colin McGinn  ''Knowledge and Necessity,'' in: Journal of Philosophical Logic, vol. 5, 1976,
  • W. D. Hart  ''The Epistemology of Abstract Objects: Access and Inference,'' in: Proceedings of the Arstotelian Society, Supplementary Volume, vol. 53, 1979, revised edition in W. D. Hart ed., The Philosophy of Mathematics, Oxford University Press, Oxford Readings in Philosophy Series, 1996.

1963年の有名な Fitch 論文そのものを除けば、これら二つの論文が、the Paradox of Knowability への注意を多くの研究者に喚起し、なおかつ同時に、これら論文では、この paradox が観念論などに対する反証となっていると主張されていました。とりわけ二つの論文の著者 Hart 先生が、そのように主張されました。これらの論文で先生は、何らかの検証主義 (verficationism) または観念論 (idealism) の反証として、the Paradox of Knowability を紹介されておられます*5。また、上掲前者の論文では、反証される (はずの) 観念論の担い手として Kant の名を上げておられます*6。今回の日記では the Paradox of Knowability を、不可知論または観念論の証明として上げているわけですが、この paradox が耳目を集めた最初は、検証主義あるいは観念論の反駁として、提示されていたわけです。その後、おそらくは、the Paradox of Knowability が (Dummett-Prawitz 的な) 検証主義の反駁になっているのか否かをめぐり反論を引き起こし*7、たぶんですが、今に至るもこの論点を論じ合うということが研究者間で続いているものと推測されます。(一言、注意を差し上げますと、私は the Paradox of Knowability に詳しいわけではございませんので、念のため。)

なお、一般に Fitch's Paradox of Knowability で「真理 (truth)」と呼んでいるものを、この日記では「事実」と呼んで来ました。わかりやすさを優先するとともに、私たちの素朴な実在感覚に合わせるためにです。

また、この日記で「不可知論」と呼んできたものは、the Paradox of Knowability を論ずる専門家の間で「実在論 (realism)」と呼ばれています。上記の式 (AG) ∃p ( p ∧ ¬◇Kp ) を露骨に解釈すれば、それは不可知論の一種を述べているものと解釈できるかもしれないと思い、わざと「不可知論」という剣呑な表現を選びました。どうかお許しください。


最後に。言うまでもないですが、私は特に不可知論を支持しているわけでも、観念論を支持しているわけでもありません。The Paradox of Knowability が不可知論、観念論を立証していると素朴に考える人はいないと思います。私も、上に私が提示したような証明なるもので、不可知論または観念論の正しさが証明されたとは思っていません。(ですから、今回の日記冒頭で、本日の話を半ば真剣に取っていただき、半ば真剣には取らないでください、と述べました。) 本気で上の証明なるものを本物の証明にしようとすれば、相当細かな詰めが必要となります。加えて山のような反論にも答えなければならないでしょう。

しかしながら、まだまだ極度に粗い論証とはいえ*8、上のような手短で比較的わかりやすい論証を提示し、その細部を腑分けしていくことで、哲学上の様々な主義、理論の信憑性をかなりな精度で算定できることは、種々の論理学に依拠し、各種論理を駆使する哲学にとっては、大変有利、有望、有力な試みだと言えると思います。深遠、深刻で、難解な哲学も時には必要だと思いますが、(特に私のような) 誤りやすく、理解の遅い人間には、つかみどころのない長大で高遠で茫漠とした、秘教的な哲学よりも、簡潔で旗幟鮮明な論証の方が、着実に遠くまで進んで行くことのできる vehicle だと思います。


本日の記述に間違いが含まれていましたらすみません。誤解や勘違いや無理解がありましたら、お詫び申し上げます。

*1:蛇足を一つ。今 indent して上げた簡単な日本語文を、下の (KP) のような簡単な論理式に書き直していますが、平易な日本語文を平易な論理式に書き直すことに対し、立腹される方がおられるかもしれません。「簡単な日本語文を簡単な論理式にわざわざ直すことなど余計だ、衒学的であって要らないことだ」というようにです。そこで、わざわざ簡単な日本語文を簡単な論理式に直している理由を、極々手短に述べておきます。その理由としては、論理記号に慣れている人にとっては、日本語だけの記述よりも、論理式のほうがわかりやすく、誤解が少ない、という点が上げられます。特に、込み入った内容を正確に記述し、正確に理解し、正確に式を変形して証明の結論を導くことは、すべてを日本語だけで記述した場合よりも、論理式を交えたほうが圧倒的にわかりやすく正確です。数学の複雑な計算問題を、アラビア数字もプラス記号もマイナス記号も根号の記号も、その種の記号を一切使わずに理解し計算しようとすると、極めてややこしく難しく、容易に誤りに陥ってしまうことは、想像しやすいと思います。「二足す二は四である」を「2 + 2 = 4」と書き直す程度では、このような書き換えのありがたみは感じられませんが、高校2~3年生以上で学ぶ数学の複雑な問題を、一切数学の記号を使用せずに理解し計算しようとすると、相当な苦痛であることは予想できると思います。というわけで、わざわざ数式や論理式に書き直すことの有用性は、扱う問題が複雑、精妙になってくればくるほど、実感できるものであり、今回の日記の内容に見られるような、平易な問題では書き換えのありがたみは感じにくいですが、簡単に「2 + 2 = 4」と書けるところを、それこそわざわざ「二足す二は四である」と書いて押し通すことは得策ではないと考え、一読すればわかる論理式を本文中で提示しています。普段「2 + 2 = 4」と書いても、たぶん誰からも文句は出ないと思いますが、それはほとんどの人がこの数式に慣れているからだろうと思います。今回の日記本文中の論理式も、慣れれば反感は湧いてこないと思います。そのようなわけで、論理式に直すことに対しては、どうかご了承ください。

*2:Joe Salerno, ''Introduction to Knowability and Beyond,'' in: Synthese, vol.173, no. 1, 2010, p. 2.

*3:<https://plato.stanford.edu/archives/win2013/entries/fitch-paradox/>.

*4:<https://sites.google.com/site/knowability/KnowNoir.pdf>.

*5:Hart and McGinn, p. 206, Hart [1979], p. 156, Hart [1996], pp. 154-156.

*6:Hart and McGinn, p. 206.

*7:たとえば、Hart [1979] 刊行直後に出た J. L. Mackie, ''Truth and Knowability,'' in: Analysis, vol. 40, no. 2, 1980, p. 91 を参照。

*8:念のため、上の論証の、どのような点が極度に粗いのか、そのわかりやすい例を一つだけ記してみます。上記論証中では、たびたび「知っている」とか「知識を持っている」というような言葉使いが見られます。そのような言葉を使っている際、誰が知るのかは、その論証中では記していません。しかし知るということは、もちろん誰かが知るのであって、誰でもない者が知るということはありません。知る者が誰なのかを論証中で本当は明示しなければなりません。さもないと矛盾に陥ります。たとえば、富士山が日本一高い山であることは「おおかたの日本人に」知られています。しかし富士山が日本一高い山であることは「おおかたの日本人以外の人に」知られていません。ここで左記のカッコ「 」内の表現を二つとも省いてしまうと、矛盾になります。このように、何かを知っていたり知らなかったりすることを述べる際には、正確を期すため、誰が知るのか、誰が知らないのか、そのことを特定し、かつ記しておかなければなりません。しかし、本文中の上の論証では、これらのことをまったく特定せず、記してもいません。以上の他にも、上の論証の粗い点や疑問点が考えられます。それらの点を追究して行くならば、本格的に哲学することを求められることになります。余裕のあるかたは、どうぞそのままお進みください。私は他に勉強をしなければならないので、何気なく寄り道した the Paradox of Knowability については、また気になったら戻ってきます。実際、この paradox に関しては、さらに考えてみたいことがあるのです。